レイトブルーマー


 校庭の桜が満開を迎えていた。
 四月の柔らかな日差しを受けた花々は、風が吹くたびに枝先を離れ、校舎の間をひらひらと舞っていく。その一部は開け放たれた体育館の扉から中へ入り込み、コートの隅にまで淡い花びらを運んでいた。

 星華(せいか)高校バスケットボール部にも新入部員が加わった。
 九名の新入部員が一列に並び、その正面には部員たちが横一列に並んでいる。
 普段ならボールの弾む音やバッシュが床を擦る音で満たされている体育館も、今日だけは緊張の空気に包まれていた。
 真新しい練習着に身を包んだ新入部員たちは、背筋を伸ばして立っている。不安や自信、その表情は十人十色だ。

 列の中央から、キャプテンの松下(まつした)が前へ出る。
 練習着の上からでも、広い肩幅と厚い胸板がはっきりと分かる。三年生の中に混じっていても目を引く体格で、正面に並んだ新入部員の視線が自然と集まった。
 松下は新入生たちを一度見渡してから、口を開いた。
「キャプテンの松下だ。星華高校のモットーは文武両道。バスケが上手くても勉学を疎かにしてると試合に出られないからな。どっちも頑張れよ」
 簡潔な挨拶だった。
 松下はそれだけを告げると、一歩後ろへ下がった。

 新入部員は一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しを松下へ向けている。
 その一方で、後ろにいた三年生の何人かが顔を見合わせ、堪えきれないようにくすくすと笑い始めた。
「なんだよ」
 松下が怪訝そうに振り返る。
「いや、その内容なら、わざわざメモする必要なかっただろ」
 松下はわずかに顔を強張らせ、即座に自分の手のひらを背中側へ回す。
 そこには挨拶のために用意したカンペが書かれていた。
 見られてしまった以上、隠しても仕方がない。だが松下は顔を赤くしながら、手のひらを後ろ手に組んだまま離そうとしない。
 その様子がまた可笑しかったのか、周囲から笑い声が起こった。
 新入生たちの緊張も、いつの間にか薄れている。
「練習するぞ! まずはランニング!」
 松下が声を張り上げる。
 キャプテンらしく仕切ろうとしたのだろうが、少しばかり声が上ずった。
 それを聞いた部員たちから、また笑いが起こる。
 松下は照れを振り払うように先頭へ向かい、部員たちもそれに続いて走り出した。
 シューズが床を蹴るたび、体育館に乾いた音が連続して響く。真新しい床のワックスと、シューズのゴムが混ざった体育館特有の匂いが漂う。

 そんな和気あいあいとした雰囲気の中、三年生の大宮怜太(おおみやれいた)も苦笑しながらランニングの輪に加わった。
 仲間と並んで走りながら、楽しそうに笑みを浮かべている。
 しかし、視線の先に先頭を走る松下の背中を捉えると、その表情がほんの少しだけ揺らぐ。
 笑顔の奥に隠していた牙が、わずかに見え隠れする。
 怜太にとって松下はただのキャプテンではなかった。

 松下は身長174センチのポイントガード。チームの司令塔として広い視野を持ち、ボールを扱うスキルにも長けている。
 同じポジションの怜太の身長は164センチ。シュートやドリブルのスキルなら劣らない。それでもコートに立つと自然と松下のほうが目立った。
 10センチという身長差は、バスケにおいて無視できない。ミスマッチが生まれやすくなり、上から簡単にパスを通される。

 松下は長い脚で、怜太よりも大きなストライドを刻んでいく。肩幅も、腕の太さも違う。走る姿だけを見ても、同じ学年の選手には見えないほどだった。
 怜太だって、ただ指をくわえて見ているわけではない。
 プロテインを飲み、ウェイトトレーニングにも取り組んできた。少しでも体を大きくしようと努力は続けているが、松下との差は縮まらない。
 身長と体格というハンデは、怜太にとって何よりも厄介なものだった。

 ランニングからのストレッチを終えると、本格的なメニューが始まる。
 フットワーク、パス、続いてシュート練習。ボールが床を叩く乾いた音が一定のリズムで響き、部員たちが鼓舞するように声を出す。
 新入部員は見様見真似でメニューをこなす。幸い全員が経験者だったため、不格好ながらも何とか食らいついている。

 体育館は練習の熱気で満たされていく。
 その中でも松下はひと際目立っていた。
 体の当て方やクイックネスは日々の努力の賜物で、新入部員たちはそんな松下のプレーを食い入るように見ていた。
 松下は練習中、必要以上に声を荒げることがない。誰かを怒鳴りつける言葉よりも、プレーでチームを引っ張っていく。

 背中で語ることを美学としている松下の姿は、怜太とは対照的だった。
 怜太はとにかく声を出す。
「中空いてる! 自分から声出せって! そうそう!」
 ボールを持った相手には練習とは思えないほど激しく食らいつく。少しでも隙を見つければプレッシャーをかけ、味方の動きに気づいたことがあれば、個々にアドバイスをする。
 同じコートに立ちながら、二人の姿勢はまるで違っていた。
 怜太はレギュラーの座を勝ち取るためがむしゃらに、松下は質の高い練習を目指して丁寧に、それぞれ体を動かし続ける。

 練習の最後は部員たちが中央サークルに集合し、松下と顧問から簡単な締めの言葉を聞く。
 それが終わると片付けへと散っていく。
 新入部員は二年生にやり方を教わりながら、モップがけやタイマーの片付けを行う。それまで激しく動いていた体育館が、少しずつ静けさを取り戻していった。

 怜太は体育館の端に腰を下ろし、バッシュの紐をゆるめていた。
 足を伸ばすと、張り詰めていた筋肉がじわりと重くなる。汗を吸った練習着は肌にまとわりつき、着ていることさえ億劫に感じるほどだった。
 タオルを首にかけ、首筋の汗を拭う。
 このまま床に大の字になって、しばらく眠っていたい。そんな疲労感が全身に残っていた。

 そのとき、不意に怒鳴り声が響いた。
「お前さあ、なんで俺がフリーなのにパス出さないの?」
 怜太が顔を上げる。
 少し離れた場所で、三年生と二年生の部員が睨み合っていた。
「先輩、今日全然当たってなかったじゃないですか」
「は?」
「不調よりも好調の選手を優先するのは当然のことですよ」
 二人のやり取りに耳を傾けながら、スクイズボトルの水を飲む。
 忖度なしで判断するなら、怜太は二年生の肩を持つ。ポイントガードの観点からすると、言っていることは至極真っ当だ。
「お前がボール持ちすぎるからリズムが崩れるんだよ!」
「先輩が走ってないから数的優位が生まれないんですよ」
「なんだと?」
 言葉の応酬が続くにつれて、声は次第に大きくなっていった。
 周囲にいた部員たちも何事かと片付けの手を止める。
 ついさっきまで和やかだった体育館に、少しずつ居心地の悪い緊張が広がっていく。
 新入部員たちも変化を敏感に感じ取っていたが、入部したばかりの彼らに割って入る度胸はない。互いに顔を見合わせながら、ただ立ち尽くしている。

 怜太もすぐには立ち上がらなかった。
 疲れているというのもあったが、意見をぶつけ合うことは必ずしも悪ではないというのが本音だった。コートの上で判断が食い違えば、選手同士で言い合いになることもある。
 何も言わずに抱え込むより、互いの主張をぶつけたほうが建設的だというのが怜太の考えだ。

 ただ、それも口論までならの話だ。
 一人が相手の胸ぐらを掴んだ。シャツが伸びて割れた腹筋が覗く。
 さすがにこれ以上は放っておけない。
 そう思って腰を浮かせかけた、そのときだった。

 怜太は隣から手を掴まれた。
「待て」
 三年生のフォワード、大蔵(おおくら)が小声で制する。
「止めないとヤバいだろ。暴力沙汰はバスケ部全体の問題になるぞ」
「いやいや、違うって」
 大蔵の意図が分からず、怜太は眉をひそめる。
 何を言っているのか問い返そうとしたその間に、松下が喧嘩の仲裁に入った。

「キャプテンなら分かってくれますよね」
「生意気な後輩に言ってやれよ」
 松下は二人の顔を順番に見る。それから胸ぐらを掴んでいる手へ視線を落とした。
「話は聞くから。だから手を離せ」
 落ち着いた声で諭し、相手の手を引きはがそうとする。
 そのとき──。

「ハッピーバースデートゥーユー!」

 突然、歌声が体育館いっぱいに響き渡った。
 全員の視線が一斉にそちらへ向く。
 小さなホールケーキを手にした部員が、ろうそくの火を消さないよう慎重に歩いてくる。
 張り詰めていた空気が、一瞬で別のものへと塗り替えられていく。

「えっ、今日? 俺の誕生日?」
 松下は目を丸くした。
 目の前に差し出されたケーキと、周囲に集まる部員たちを交互に見ながら、自分の誕生日だという事実に追いつこうとしている。
「とぼけんなって。本当は気づいてたんだろ」
 さっきまで胸ぐらを掴んでいた三年生が、今度は打って変わって楽しそうな顔をして松下を小突いた。
「マジで騙された。心臓に悪いって」
「よかったーサプライズ成功ですね!」
「お前泣きそうになったな」
「打ち合わせにないことやるからじゃないっすか」
 次々と飛んでくる言葉に、部員たちの間から笑い声が起こる。
 さっきまで険悪な雰囲気だった二人も、もう互いを睨み合ってはいない。
 突然の喧嘩にどうすればいいのか分からず固まっていた新入部員も、ようやく肩の力を抜いた。何事もなかったように広がっていく笑顔を見て、安堵したように表情を緩めていく。

「おめでとー!」
 怜太を止めていた大蔵も、松下のもとへ駆け寄った。
「やられたわー全員グルかよ……」
 松下は顔を赤くしながら笑い、一息でろうそくの火を吹き消した。
 ケーキを囲む部員たちから「おめでとう」「ケーキ食おうぜ」と声が飛び交い、体育館は再び明るい空気に包まれていく。

 怜太も、その様子を見ながら笑顔で拍手を送った。
 ふと、新入部員たちへ目を向ける。
 さっきまで何をしていいのか分からず立ち尽くしていた彼らは、今度は今度でこの輪に入っていいものか迷っているようだった。
「一年は先に帰っていいよ」
「はい、お疲れさまでした!」
 誕生日パーティーが続く中、新入部員たちはぞろぞろと体育館を出ていった。

 その背中を見送りながら、怜太はふと足を止めた。
 何かが引っかかる。
 松下の誕生日を祝う部員たち。あらかじめ準備されたケーキ。さっきの大蔵の態度。
 怜太はそこで、ようやく自分の置かれている状況に気づいた。
「サプライズするなら俺にも教えといてくれよ」

 誰もいない部室で、怜太はタオルで体を拭いていた。
 新入生が部室を使えるようになるのは、夏のインターハイで三年生が引退してからだ。今の部室では、広さもロッカーの数も、部員全員を受け入れるには足りない。
 早々にカッターシャツへ着替えると、部室に制汗剤の匂いが充満する前に帰る。
 それが、怜太の毎日のルーティンだった。

 部室棟から自転車置き場に続く道を歩きながら、スマホを取り出す。
 画面には大量の未読通知が溜まっていた。
 怜太は特に気にすることもなく、そのまま通知を開いた。
 そこに並んでいたのは、松下の誕生日サプライズについてのやり取りだった。
『適当に喧嘩するから、松下が止めに入ってきたらケーキ持ってきて』
『家庭科室の冷蔵庫借りていいって』
『松下チョコ苦手だからショートケーキな』
『任せろ』
『金は後日集金するから』

 画面をスクロールする指が止まる。
 怜太はしばらくスマホを見つめたまま、何も言わなかった。
 そこでようやく、自分が部活のグループメッセージを確認していなかったことを知った。
 今日の出来事を思い返せば納得できた。
 自分だけが何も知らないまま、周囲では着々と準備が進められていたのだ。
 小さく息を吐き、呆れたように笑った。
 生活のほとんどすべてをバスケットボールに捧げている怜太は、現代の高校生にしては珍しく、ほとんどスマホを見ない。
 練習が終われば疲れ切っていて、スマホを確認すること自体を忘れてしまう。既読スルー以前に既読を付けることが稀だ。

 知らないところで準備が進み、知らないところでサプライズの出番が来て、知らない間に終わった。
 その流れを今になってスマホの画面から知った。
 スマホをポケットへしまうと、自転車のカゴに鞄を投げる。
 寂しさを荷台に乗せて、怜太は夜の街へとペダルを漕いだ。