すべては桜のせいにして

 小さいころ使っていたプラスチックのお椀に、卵を二つ割り入れた。
 そこへ砂糖、醤油、酒、みりんを小さじ一ずつ入れ卵を溶く。
 最後にツナ缶をオイルごと投入し、軽くかき混ぜたら準備完了。
 卵焼き用フライパンに油を引いて火をつける。フライパンが温まったら、卵液を少し流し込み全体へ広げる。
 ああっ、ちょっと入れすぎちゃった。焦がさないために火を弱くしてっと。
 卵のふちが固まってきたら、フライ返しで手前に巻いていく。
 よし、焦げていない。ここまでいい感じだ。残りの卵液をまた入れて……あああ、また多めに入れちゃった。

「最近は毎日卵焼きを作ってるな」
「父さんおかえり! 今日は早いんだね!」
「さすがの父さんも疲れてきたから……早めに切り上げてきた」

 料理に集中していたらしく気づかなかった。
 時計を見ると十九時前。最近は残業続きで、帰宅は必ず二十時を超えていた。定時は十八時のはずなんだけど。

「おっ、まったく焦げてないじゃん。形も綺麗だ。最初に比べて上手になってきたなぁ」
「まぁね。ご覧の通り、毎日の練習の成果です」

 父さんはネクタイを外しながら、フライパンの中を確認した。
 あの日から毎日卵焼きを作っている。箸で卵を巻けるほどの域までは達していないけど、綺麗な長方形にはできるようになってきた。今度は見た目もよくして、桜田さんにびっくりしてもらうんだ。

「またツナの卵焼きでいいのか? 今度は違う具か、普通の卵焼きでもいいと思うぞ。いろいろ食べられる方が彼女も喜ぶんじゃない?」

 フライパンから、じゅうじゅうと卵の焼ける音がしている。

「……彼女? なんの話?」
「なんのって、お弁当だよ。まさか入学してすぐ彼女ができるなんてね。父さん驚いちゃったよ。直もそういう年頃になったんだなぁ。感慨深い」
「違うから! ていうか父さん、なんでちょっと泣いてるの」
「最近涙もろくて。歳かなぁ。直がどんどん大人になっていくと思ったら涙が……ここまで無事に育ってくれて本当にありがとう……父さん嬉しいよ……」

 父さんは、なにかがこみ上げてきたらしい。両目を手で覆った。

「盛り上がってるところ悪いけど、そういうのじゃないから」
「直、照れなくていいんだよ。一生懸命な直はかっこいいよ」
「だから、違う」
「彼女じゃないなら誰のために作ってるんだ? こんなに直が頑張れるんだから、特別な相手なんだと思ってた」
「それ、は」

 言葉に詰まった。誰のため。
 綺麗で、かっこよくて、食べっぷりが気持ちよくて、プリンが好き。
 最初は精霊だと思っていたから、静かで神聖なものだと思っていたけど。本人はけっこう親しみがあって、笑顔が可愛くて。
 知れば知るほど、あなたのことをもっと知りたいと思ってしまう。
 また、あのおいしそうに食べる顔が見たい。喜んでほしい。桜田さんが嬉しそうだと、僕の心は花が咲いたように鮮やかになる。それが無性に心地いい。
 だから作るんだ。桜田さんのために。
 そして、その気持ちは。

「直、なんか焦げ臭くないか?」

 父さんの声で我に返った。
 確かに、焦げたような匂いが漂ってきた。
 僕はフライ返しで素早く卵を一巻きした。
 
「うわぁぁぁ! せっかく上手くいってたのに!」
 
 見事に黒くなったツナ卵焼き。今日は順調で、ここまでは最高の出来栄えだった。

「ごめん。父さんが話しかけたのがまずかった」
「うう。失敗した……」

 火を止め、フライパンの卵焼きを皿に移した。途中までは綺麗な色だったのに、外側はぼろぼろだ。
 これでは桜田さんに笑われてしまう――いや、違う。そんなことない。きっと、「一生懸命作ってくれたんだね」と、優しい言葉をかけてくれるはずだ。
 桜田さんは、そういう人だ。

「父さん、もう一個卵を使ってもいい? 残りの液と合わせて、もう一回だけ作らせてほしい」
「直……うん、もちろんだよ。何個でも使いなさい。冷蔵庫にあるだけ使っていいからな!」

 父さんの勢いに、僕は思わず吹き出す。
 たまに極端なことを言うんだよな。

「それはさすがに多いよ。でも、ありがとう父さん」
 
 桜田さんが喜んでくれると、僕は嬉しい。
 身体の内側からじわじわ熱が上がって、堪らない気持ちになる。
 僕は、桜田さんが好きなんだ。