月曜日。
移動教室からの帰り道、クラスメイトたちに混じって渡り廊下を歩いていた。
「ねぇ。あの桜じゃない?」
「そうかも。本当にあんまり咲いてないね」
前を歩いていた女子たちが外の桜を見始めた。
つられてそちらに目をやると、桜田さんの桜の木が見えた。この前より少しだけ花が咲いているように思う。
一緒に喫茶店へ行った日の出来事が頭に浮かんだ。
腕を引かれ、僕より少し大きな身体がしっかりと衝撃を受け止めていた。温かい体温と桜田さんの呼吸、感じた鼓動。それは確かに生身の人間のものだった。
思い出した途端、全身がカッと熱くなる。身体がおかしい。
あれは事故みたいなものだ。もしかして、命の危機を感じたからこんな反応をしてしまうのか?
ああ、きっとそうだ。この現象には、それ以外に説明がつけられない。
「私も桜の精霊にお願いしたいなぁ」
「ほう。どんな願い事?」
「それはもちろん、先輩とお近づきになれますように!」
「先輩って好きな先輩?」
「そう! 群れない孤高の存在って感じで、本当にかっこいいんだから」
「まずは桜の精霊を見つけないとだねぇ」
「なぁにその顔。絶対信じてないでしょ」
彼女たちには悪いけど、すでに僕が見つけてしまった。毎日探し続けた努力の結果だ。自分が誇らしい。
それなのに少し複雑だった。桜田さんが桜の精霊だと嘘をついているからだ。僕が精霊だと信じているほうが都合がいいのか? どうして? 実は精霊になりたい人の説が濃厚?
疑問は残っているが、今日はもう一度「ご奉仕」をする約束をしている。
あの日、学校近くで桜田さんと別れた。本当は中まで送りたかったけど、桜田さんに「ここでいい」と断られてしまった。
「そんな寂しそうな顔をされると困るな」
「すみません。でも、どうしてだめなんですか?」
「だめというわけじゃないが、君がこの時間から学校に戻るのは変だろう」
それは、そうかもしれないけど。
「部活の人もいますし、僕一人が学校に戻ったところで誰も気にしないと思います」
「う。それは」
桜田さんは困った顔をした。なにを気にしているのだろう。やっぱり、本当は人間なのでは。
「仕方がないな。来栖君、月曜日の昼休みは一緒に昼飯を食べよう」
「え!? 一緒にお昼を?」
突然のお誘い。疑いが頭から吹っ飛び、驚きと嬉しさが同時にきた。
「嫌かな?」
「とんでもないです! 一緒に食べましょう!」
「よかった。じゃあ弁当の用意はよろしく頼む」
「はい! って、え? 弁当?」
「私は人間が作った食事を食べてみたいんだ。だから、来栖君が作ってくれ」
ま、まさかの弁当作り。
僕が戸惑っていると、桜田さんは満面の笑みを浮かべた。いい笑顔だ。
期待してくれている。それを裏切るようなことはできない。
「わかりました……次のご奉仕ですね。お弁当は任せて下さい!」
というわけで、今日は僕の手作り弁当を桜田さんに食べてもらう日なのだ。
精霊の嘘については、とりあえず脇に置いておく。彼がなにを考えているのかわからないけど、今はただ、一緒に過ごせることが嬉しいから。
喫茶店に行ったのが三日前の金曜日。準備期間は土日の二日間しかなかった。
必死に練習したけど、果たして気に入ってもらえるのかどうか。
自信を持てないまま、その時間はやってきてしまった。
「腹減ったなぁ。来栖、カレーパン買いに行こうぜ。今日こそ手に入れてやる」
昼休みを告げるチャイムとともに、パン争奪戦常連選手の中田が僕の席へやって来た。
「ごめん中田。今日は無理なんだ」
「無理ってなにが」
「とても大切な用事がある」
「奇遇だな。俺も大切な用事がある。今、この瞬間。なんたって、ものすごく腹が減っているからな。とりあえず買いにいこうぜ……話はそれからだ」中田が僕に立ちふさがった。
「僕だって人生を賭けてもいい。それくらい頑張ったんだ」僕は怯まない。「中田、悪いけど今日のカレーパンは諦めて!」
僕はお弁当が入ったトートバッグを持ち、中田をおいて教室を出た。
「来栖! 嘘だろー! なんでだよー!」
すまない中田。限定十個のカレーパン、今日も食べられそうにないね。いつかきっと一緒に買いに行くから……!
叫ぶ中田の声を背中に浴びながら、僕は早足で廊下を歩く。
昼休みの賑やかな雰囲気が僕の気持ちを駆りたてた。
待ち合わせは、音楽室や化学室のある実習棟の四階だった。
授業で来る以外、縁のない場所だ。普段からあまり人はいないが、昼休みになるともっと静かだった。
階段を駆け上がる。静かな空間に、僕の足音が響く。
一番上まで上り終えると、廊下の窓から外を見ている桜田さんがいた。
「やぁ来栖君。すごい早さで上ってきたね」
桜田さんが笑う。
「そんなに急がなくても昼休みは始まったばかりだろう?」
そう言われて顔が熱くなった。自分の作ったお弁当を食べてもらうという緊張と、昼休みに桜田さんに会えるという嬉しさで、つい全力疾走してしまった。子どもっぽかったかな。
「そうですよね。すみません」
「別に謝らなくてもいいのに。それだけ楽しみにしてくれたってことかな?」
「そ、そうです! また会えるのが……嬉しくて」
初めて見たときから、何日も姿を追っていた存在。嬉しくないわけがない。
「やっぱり来栖君は素直だな」
「よく言われます」
「ふふ。そうだったね。そんな素直な君に、私の秘密の場所を教えてあげよう」
桜田さんは「ついておいで」と、廊下の奥の方へ歩いていく。僕もあとに続いた。
「あれ? 奥にも階段があるんですか」
四階には音楽室がある。その奥にも教室があるけど、吹奏楽部が使っているくらいで、一般の生徒は足を踏み入れること自体稀だろう。だから音楽室より奥の場所に行ったことがなく、こんな所に階段があるなんて知らなかった。
「そう。ここから上に行けるようになっているんだ」
「上?」
桜田さんはなにも言わず、唇の端を上げた。
そのまま階段を上ると扉があり、頑丈そうな鍵が掛かっている。
「この扉から屋上に行けるらしいが、そのことを知っている者は少ない。だからたまにこの空きスペースで休憩しているんだ」
「こんな所があったんですね」
「二人っきりでゆっくりできるだろう?」
「そ、そうですね!」
二人っきり。その言葉に、僕の顔はまた熱くなった。どうしてだ。
「来栖君。なんか顔が赤いような」
「き、気のせいですよ! さっき走って来たからちょっと暑くて……それより、桜田さんはよくこんな場所知ってましたね」
「ああ。人が多いと疲れるから、ときどきここに避難している」
「そうなんですか。でも桜のある場所ってあんまり人がいないような」
「あー、ほら、音も気になるんだ。放課後に部活動の生徒たちの声が響くから。静寂を好む私には大きすぎる。繊細なんだよ」
「なるほど。運動部がけっこう声出してますもんね」
桜田さん、いつまで精霊として過ごすんだろうか。
理由はどうあれ、この前の喫茶店のように静かな場所が好きなのかもしれない。それなら、なるべくゆっくり過ごさせてあげたい。
「さ、気を取り直してとりあえず座ろう!」
踊り場のような空きスペースに桜田さんが腰を下ろした。僕も同じように座る。
「来栖君、遠くないか? もう少し近くに座ったほうが」
「えっ」
ただでさえあの日のことを思い出してしまうのに。変な反応をしないためにも、少しは距離をとっておきたい。
「ほら」
桜田さんは自分の隣をぽんぽん、と叩いた。
どうしようと動けずにいると、しびれを切らした桜田さんが立ち上がり、肩を掴まれ強制的に隣へ座るかたちになった。
両肩に桜田さんの手の温もりが残っているような気がして、落ち着かない。
「これでよし」
桜田さんは満足そうだけど、僕はまったくよくないです。
「じゃあ来栖君」
ん、と促すような視線を向けられた。
僕はトートバッグから、黒い弁当箱を二つ取り出した。
「おお。本当に作ってきてくれたのか」
「は、はい。それはもちろん。父さんに教えてもらったので、味は大丈夫だと思うんですけど」
「お父さんに?」
桜田さんは驚いた顔をした。
今回、桜田さんは僕が作ったお弁当を希望してくれた。せっかく食べてもらうのだから、おいしいものを準備したかった。
だけど、まず何をどうしたらいいかわからず、父さんに泣きついたというわけだ。
小学生のころはよく手伝いをしていたけど、中学生以降、料理に関して「教えてほしい」なんて言ったことがなかったから、父さんは驚いていた。
「はい。僕は父さんと二人で暮らしています。中学は給食だったけど高校はお昼持参になったから、ときどき父さんがお弁当を作ってくれるんですよ。毎日作るよって言ってはくれるんですけど……申し訳ないから購買のパンの日もあります」
僕だって、ご飯を炊くのと豆腐のみそ汁は作れる。でもお弁当なんて作ったことがないし、そもそも自分で作るという発想がなかった。
「そうか。なんだか悪かったな」
桜田さんは申し訳なさそうに呟いた。
「そんなことないです。ちょっとびっくりしましたけど、桜田さんの期待に応えたかったし、桜田さんに食べてもらえるなら本望です。それに桜田さんが」
「もうわかった! わかったよ来栖君」
桜田さんにしょんぼりした顔をさせたくない。僕は嫌だなんて思っていないことを伝えたくて、必死に話していたら「君の気持ちは伝わったから」と止められた。
「それだけ大切に作ってくれたんだな。嬉しいよ」
桜田さんはそう言い、弁当箱の蓋を開けた。
「わ……うまそう」
「見た目がほぼ茶色でちっとも綺麗じゃないですけど」
「なに言ってるんだ。こういうのがいいんだろう」
綺麗に巻けず、何度も作り直した卵焼き、焼いただけのソーセージ、俵型のおにぎり二つ、洗っただけのプチトマト。
ソーセージとプチトマトの準備は簡単だった。問題は卵焼きとおにぎりだ。
卵焼きは途中で破れてしまい、卵を何個も使ってしまった。おかげで土日の食事は卵焼きばかりになった。その甲斐あってか、一応それなりの形にはなった。
おにぎりは三角に握るのが難しく、それなら俵型にしてしまおうと父さんから提案された。真ん中に海苔を巻いたらちゃんとおにぎりに見えて、これなら桜田さんにも食べてもらえると思った。
この二日間の練習の成果はいかに!
「いただきます」
桜田さんは、まず卵焼きを口に運ぶ。何度か咀嚼し飲み込んだあと、「うん、うまい!」と言ってくれた。
「なにこれ。すごくうまい。普通の卵焼きじゃない」
「ツナが入ってるんです。卵だけの卵焼きよりちょっと味が濃くておいしいですよね。父さんがときどき作るんですけど、僕の大好きなやつで」
「へぇ。すぐ白米がほしくなるな。おにぎりを食べよう」
そのままの勢いで俵おにぎりを頬張る桜田さん。「米と卵焼きが合う」ともりもり食べている。
よかった。味は問題ないみたいだ。やっぱり父さんに相談してよかった。ありがとう、父さん。
僕の作ったお弁当を、桜田さんはどんどん食べ進めていく。見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。なんというか、会うたびにたくましい印象に変わっている。それはそれで魅力的なんだけど。
「ん、おにぎりの中に鮭が」
「さすがに中身は鮭フレークですけどね。もうひとつは梅干しです」
「梅干しか。渋いな」
「嫌いでしたか!?」
「いや、好き」
好き。
その言葉が耳の奥まで響いた。また、あの感覚だ。お腹の底から全身に血が巡って、頭のてっぺんから足の先までふわふわしているような。
桜田さんは「梅干しが好き」という意味で言っただけなのに。
あなたがなにか言うたび、僕はおかしくなってしまう。この前から、変だ。
「ぼーっとしてどうしたんだ。来栖君は食べないのか?」
「た、食べます」
うう。変なことを考えてしまった。
僕は慌てて自分のお弁当を食べ始めた。大好きなツナ卵焼きを食べる。だけどおかしい。味がよくわからない。
父さん、僕はなにかの病気なんだろうか。もしくは成長期の症状?
おいしそうに食べる桜田さんの隣で、僕はひたすら味のしないおかずを食べた。
「はぁ、うまかった。あれ? 来栖君、まだそんなに残っているのか?」
味はしないし、お腹が空いているのかもよくわからず、あまり箸は進まなかった。
「そんなにお腹空いてなかったので」
「ふぅん。じゃあちょっと貰ってもいい?」
「は、はい! もちろんです! むしろ残りの分全部どうぞ!」
「え? いいの?」
僕は勢いよく頷き、手をつけていないおにぎりとおかずを、お弁当の蓋に取り分けて渡した。
「それじゃあ遠慮なく」
受け取った桜田さんは、半分ほど残っていたおかずを綺麗さっぱり平らげた。
「ごちそうさまでした」
空になった弁当箱を受け取る。胸にじんわりと温かいものが広がった。
自分の作ったものを誰かに食べてもらうのって、こんなにも嬉しいものなんだ。
「ありがとうございました」
「どうして私がお礼を言われるんだ」
「おいしそうに全部食べてくれたので。ものすごいご褒美です」
「また君は……恥ずかしげもなく変なことを言うんだな」
桜田さんは少し怪訝な顔をし、視線を逸らした。
「そうですか? でも本当のことですよ。お弁当なんて作ったことがなかったから心配でした。でも桜田さんがいっぱい食べてくれて、すごく嬉しいです。だからありがとうございます」
この気持ちを知れたのは、桜田さんのお陰だ。
いろいろな初めての気持ちを教えてくれる。桜田さんはやっぱりすごい。
「素直すぎるのも問題だね」
「え? うわっ」
桜田さんは僕の頭にぽん、と優しく触れ、「今日はありがとう」と柔らかく微笑んだ。
「来栖君。来週の月曜日の昼休み、またこの場所に来てくれ。それじゃあ」
そう言い残し、立ち上がった桜田さんは階段を降りて行った。
僕はなにが起きたのかわからず、誰もいない空間をみつめた。
来週の月曜。昼休みにこの場所。
また、一緒にお昼を食べる?
また、お弁当を作ってこいということ?
あと、桜田さんが僕の頭を触った……よね?
なんだこれ。またどきどきする!
そんなことを考えていたら、午後の授業に遅刻してしまった。
移動教室からの帰り道、クラスメイトたちに混じって渡り廊下を歩いていた。
「ねぇ。あの桜じゃない?」
「そうかも。本当にあんまり咲いてないね」
前を歩いていた女子たちが外の桜を見始めた。
つられてそちらに目をやると、桜田さんの桜の木が見えた。この前より少しだけ花が咲いているように思う。
一緒に喫茶店へ行った日の出来事が頭に浮かんだ。
腕を引かれ、僕より少し大きな身体がしっかりと衝撃を受け止めていた。温かい体温と桜田さんの呼吸、感じた鼓動。それは確かに生身の人間のものだった。
思い出した途端、全身がカッと熱くなる。身体がおかしい。
あれは事故みたいなものだ。もしかして、命の危機を感じたからこんな反応をしてしまうのか?
ああ、きっとそうだ。この現象には、それ以外に説明がつけられない。
「私も桜の精霊にお願いしたいなぁ」
「ほう。どんな願い事?」
「それはもちろん、先輩とお近づきになれますように!」
「先輩って好きな先輩?」
「そう! 群れない孤高の存在って感じで、本当にかっこいいんだから」
「まずは桜の精霊を見つけないとだねぇ」
「なぁにその顔。絶対信じてないでしょ」
彼女たちには悪いけど、すでに僕が見つけてしまった。毎日探し続けた努力の結果だ。自分が誇らしい。
それなのに少し複雑だった。桜田さんが桜の精霊だと嘘をついているからだ。僕が精霊だと信じているほうが都合がいいのか? どうして? 実は精霊になりたい人の説が濃厚?
疑問は残っているが、今日はもう一度「ご奉仕」をする約束をしている。
あの日、学校近くで桜田さんと別れた。本当は中まで送りたかったけど、桜田さんに「ここでいい」と断られてしまった。
「そんな寂しそうな顔をされると困るな」
「すみません。でも、どうしてだめなんですか?」
「だめというわけじゃないが、君がこの時間から学校に戻るのは変だろう」
それは、そうかもしれないけど。
「部活の人もいますし、僕一人が学校に戻ったところで誰も気にしないと思います」
「う。それは」
桜田さんは困った顔をした。なにを気にしているのだろう。やっぱり、本当は人間なのでは。
「仕方がないな。来栖君、月曜日の昼休みは一緒に昼飯を食べよう」
「え!? 一緒にお昼を?」
突然のお誘い。疑いが頭から吹っ飛び、驚きと嬉しさが同時にきた。
「嫌かな?」
「とんでもないです! 一緒に食べましょう!」
「よかった。じゃあ弁当の用意はよろしく頼む」
「はい! って、え? 弁当?」
「私は人間が作った食事を食べてみたいんだ。だから、来栖君が作ってくれ」
ま、まさかの弁当作り。
僕が戸惑っていると、桜田さんは満面の笑みを浮かべた。いい笑顔だ。
期待してくれている。それを裏切るようなことはできない。
「わかりました……次のご奉仕ですね。お弁当は任せて下さい!」
というわけで、今日は僕の手作り弁当を桜田さんに食べてもらう日なのだ。
精霊の嘘については、とりあえず脇に置いておく。彼がなにを考えているのかわからないけど、今はただ、一緒に過ごせることが嬉しいから。
喫茶店に行ったのが三日前の金曜日。準備期間は土日の二日間しかなかった。
必死に練習したけど、果たして気に入ってもらえるのかどうか。
自信を持てないまま、その時間はやってきてしまった。
「腹減ったなぁ。来栖、カレーパン買いに行こうぜ。今日こそ手に入れてやる」
昼休みを告げるチャイムとともに、パン争奪戦常連選手の中田が僕の席へやって来た。
「ごめん中田。今日は無理なんだ」
「無理ってなにが」
「とても大切な用事がある」
「奇遇だな。俺も大切な用事がある。今、この瞬間。なんたって、ものすごく腹が減っているからな。とりあえず買いにいこうぜ……話はそれからだ」中田が僕に立ちふさがった。
「僕だって人生を賭けてもいい。それくらい頑張ったんだ」僕は怯まない。「中田、悪いけど今日のカレーパンは諦めて!」
僕はお弁当が入ったトートバッグを持ち、中田をおいて教室を出た。
「来栖! 嘘だろー! なんでだよー!」
すまない中田。限定十個のカレーパン、今日も食べられそうにないね。いつかきっと一緒に買いに行くから……!
叫ぶ中田の声を背中に浴びながら、僕は早足で廊下を歩く。
昼休みの賑やかな雰囲気が僕の気持ちを駆りたてた。
待ち合わせは、音楽室や化学室のある実習棟の四階だった。
授業で来る以外、縁のない場所だ。普段からあまり人はいないが、昼休みになるともっと静かだった。
階段を駆け上がる。静かな空間に、僕の足音が響く。
一番上まで上り終えると、廊下の窓から外を見ている桜田さんがいた。
「やぁ来栖君。すごい早さで上ってきたね」
桜田さんが笑う。
「そんなに急がなくても昼休みは始まったばかりだろう?」
そう言われて顔が熱くなった。自分の作ったお弁当を食べてもらうという緊張と、昼休みに桜田さんに会えるという嬉しさで、つい全力疾走してしまった。子どもっぽかったかな。
「そうですよね。すみません」
「別に謝らなくてもいいのに。それだけ楽しみにしてくれたってことかな?」
「そ、そうです! また会えるのが……嬉しくて」
初めて見たときから、何日も姿を追っていた存在。嬉しくないわけがない。
「やっぱり来栖君は素直だな」
「よく言われます」
「ふふ。そうだったね。そんな素直な君に、私の秘密の場所を教えてあげよう」
桜田さんは「ついておいで」と、廊下の奥の方へ歩いていく。僕もあとに続いた。
「あれ? 奥にも階段があるんですか」
四階には音楽室がある。その奥にも教室があるけど、吹奏楽部が使っているくらいで、一般の生徒は足を踏み入れること自体稀だろう。だから音楽室より奥の場所に行ったことがなく、こんな所に階段があるなんて知らなかった。
「そう。ここから上に行けるようになっているんだ」
「上?」
桜田さんはなにも言わず、唇の端を上げた。
そのまま階段を上ると扉があり、頑丈そうな鍵が掛かっている。
「この扉から屋上に行けるらしいが、そのことを知っている者は少ない。だからたまにこの空きスペースで休憩しているんだ」
「こんな所があったんですね」
「二人っきりでゆっくりできるだろう?」
「そ、そうですね!」
二人っきり。その言葉に、僕の顔はまた熱くなった。どうしてだ。
「来栖君。なんか顔が赤いような」
「き、気のせいですよ! さっき走って来たからちょっと暑くて……それより、桜田さんはよくこんな場所知ってましたね」
「ああ。人が多いと疲れるから、ときどきここに避難している」
「そうなんですか。でも桜のある場所ってあんまり人がいないような」
「あー、ほら、音も気になるんだ。放課後に部活動の生徒たちの声が響くから。静寂を好む私には大きすぎる。繊細なんだよ」
「なるほど。運動部がけっこう声出してますもんね」
桜田さん、いつまで精霊として過ごすんだろうか。
理由はどうあれ、この前の喫茶店のように静かな場所が好きなのかもしれない。それなら、なるべくゆっくり過ごさせてあげたい。
「さ、気を取り直してとりあえず座ろう!」
踊り場のような空きスペースに桜田さんが腰を下ろした。僕も同じように座る。
「来栖君、遠くないか? もう少し近くに座ったほうが」
「えっ」
ただでさえあの日のことを思い出してしまうのに。変な反応をしないためにも、少しは距離をとっておきたい。
「ほら」
桜田さんは自分の隣をぽんぽん、と叩いた。
どうしようと動けずにいると、しびれを切らした桜田さんが立ち上がり、肩を掴まれ強制的に隣へ座るかたちになった。
両肩に桜田さんの手の温もりが残っているような気がして、落ち着かない。
「これでよし」
桜田さんは満足そうだけど、僕はまったくよくないです。
「じゃあ来栖君」
ん、と促すような視線を向けられた。
僕はトートバッグから、黒い弁当箱を二つ取り出した。
「おお。本当に作ってきてくれたのか」
「は、はい。それはもちろん。父さんに教えてもらったので、味は大丈夫だと思うんですけど」
「お父さんに?」
桜田さんは驚いた顔をした。
今回、桜田さんは僕が作ったお弁当を希望してくれた。せっかく食べてもらうのだから、おいしいものを準備したかった。
だけど、まず何をどうしたらいいかわからず、父さんに泣きついたというわけだ。
小学生のころはよく手伝いをしていたけど、中学生以降、料理に関して「教えてほしい」なんて言ったことがなかったから、父さんは驚いていた。
「はい。僕は父さんと二人で暮らしています。中学は給食だったけど高校はお昼持参になったから、ときどき父さんがお弁当を作ってくれるんですよ。毎日作るよって言ってはくれるんですけど……申し訳ないから購買のパンの日もあります」
僕だって、ご飯を炊くのと豆腐のみそ汁は作れる。でもお弁当なんて作ったことがないし、そもそも自分で作るという発想がなかった。
「そうか。なんだか悪かったな」
桜田さんは申し訳なさそうに呟いた。
「そんなことないです。ちょっとびっくりしましたけど、桜田さんの期待に応えたかったし、桜田さんに食べてもらえるなら本望です。それに桜田さんが」
「もうわかった! わかったよ来栖君」
桜田さんにしょんぼりした顔をさせたくない。僕は嫌だなんて思っていないことを伝えたくて、必死に話していたら「君の気持ちは伝わったから」と止められた。
「それだけ大切に作ってくれたんだな。嬉しいよ」
桜田さんはそう言い、弁当箱の蓋を開けた。
「わ……うまそう」
「見た目がほぼ茶色でちっとも綺麗じゃないですけど」
「なに言ってるんだ。こういうのがいいんだろう」
綺麗に巻けず、何度も作り直した卵焼き、焼いただけのソーセージ、俵型のおにぎり二つ、洗っただけのプチトマト。
ソーセージとプチトマトの準備は簡単だった。問題は卵焼きとおにぎりだ。
卵焼きは途中で破れてしまい、卵を何個も使ってしまった。おかげで土日の食事は卵焼きばかりになった。その甲斐あってか、一応それなりの形にはなった。
おにぎりは三角に握るのが難しく、それなら俵型にしてしまおうと父さんから提案された。真ん中に海苔を巻いたらちゃんとおにぎりに見えて、これなら桜田さんにも食べてもらえると思った。
この二日間の練習の成果はいかに!
「いただきます」
桜田さんは、まず卵焼きを口に運ぶ。何度か咀嚼し飲み込んだあと、「うん、うまい!」と言ってくれた。
「なにこれ。すごくうまい。普通の卵焼きじゃない」
「ツナが入ってるんです。卵だけの卵焼きよりちょっと味が濃くておいしいですよね。父さんがときどき作るんですけど、僕の大好きなやつで」
「へぇ。すぐ白米がほしくなるな。おにぎりを食べよう」
そのままの勢いで俵おにぎりを頬張る桜田さん。「米と卵焼きが合う」ともりもり食べている。
よかった。味は問題ないみたいだ。やっぱり父さんに相談してよかった。ありがとう、父さん。
僕の作ったお弁当を、桜田さんはどんどん食べ進めていく。見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。なんというか、会うたびにたくましい印象に変わっている。それはそれで魅力的なんだけど。
「ん、おにぎりの中に鮭が」
「さすがに中身は鮭フレークですけどね。もうひとつは梅干しです」
「梅干しか。渋いな」
「嫌いでしたか!?」
「いや、好き」
好き。
その言葉が耳の奥まで響いた。また、あの感覚だ。お腹の底から全身に血が巡って、頭のてっぺんから足の先までふわふわしているような。
桜田さんは「梅干しが好き」という意味で言っただけなのに。
あなたがなにか言うたび、僕はおかしくなってしまう。この前から、変だ。
「ぼーっとしてどうしたんだ。来栖君は食べないのか?」
「た、食べます」
うう。変なことを考えてしまった。
僕は慌てて自分のお弁当を食べ始めた。大好きなツナ卵焼きを食べる。だけどおかしい。味がよくわからない。
父さん、僕はなにかの病気なんだろうか。もしくは成長期の症状?
おいしそうに食べる桜田さんの隣で、僕はひたすら味のしないおかずを食べた。
「はぁ、うまかった。あれ? 来栖君、まだそんなに残っているのか?」
味はしないし、お腹が空いているのかもよくわからず、あまり箸は進まなかった。
「そんなにお腹空いてなかったので」
「ふぅん。じゃあちょっと貰ってもいい?」
「は、はい! もちろんです! むしろ残りの分全部どうぞ!」
「え? いいの?」
僕は勢いよく頷き、手をつけていないおにぎりとおかずを、お弁当の蓋に取り分けて渡した。
「それじゃあ遠慮なく」
受け取った桜田さんは、半分ほど残っていたおかずを綺麗さっぱり平らげた。
「ごちそうさまでした」
空になった弁当箱を受け取る。胸にじんわりと温かいものが広がった。
自分の作ったものを誰かに食べてもらうのって、こんなにも嬉しいものなんだ。
「ありがとうございました」
「どうして私がお礼を言われるんだ」
「おいしそうに全部食べてくれたので。ものすごいご褒美です」
「また君は……恥ずかしげもなく変なことを言うんだな」
桜田さんは少し怪訝な顔をし、視線を逸らした。
「そうですか? でも本当のことですよ。お弁当なんて作ったことがなかったから心配でした。でも桜田さんがいっぱい食べてくれて、すごく嬉しいです。だからありがとうございます」
この気持ちを知れたのは、桜田さんのお陰だ。
いろいろな初めての気持ちを教えてくれる。桜田さんはやっぱりすごい。
「素直すぎるのも問題だね」
「え? うわっ」
桜田さんは僕の頭にぽん、と優しく触れ、「今日はありがとう」と柔らかく微笑んだ。
「来栖君。来週の月曜日の昼休み、またこの場所に来てくれ。それじゃあ」
そう言い残し、立ち上がった桜田さんは階段を降りて行った。
僕はなにが起きたのかわからず、誰もいない空間をみつめた。
来週の月曜。昼休みにこの場所。
また、一緒にお昼を食べる?
また、お弁当を作ってこいということ?
あと、桜田さんが僕の頭を触った……よね?
なんだこれ。またどきどきする!
そんなことを考えていたら、午後の授業に遅刻してしまった。

