翌日は晴れて、気持ちの良い天気になった。
精霊の桜田さんとの待ち合わせ場所へ到着すると、壮観な桜のトンネルに圧倒された。それもそのはず。川沿い四キロにわたり、約千五百本の桜が植えられているらしい。犬の散歩をしている人や、桜を見ている親子連れの姿があった。桜祭りは土日のみ開催しているらしく、並木の入口には目立つ看板が立っている。今年もまた、テレビの取材が来るのかもしれないな。
学校が終わり、この川にすぐ向かったけれど、桜田さんはまだ来ていないようだ。今日は中田に声をかけられる前に教室を出たから、少し早く来てしまったのかもしれない。
それにしても、桜田さんへのご奉仕が一緒に喫茶店へ行くことだなんて。学校帰りに寄り道をするだけのような気がする。けれど、そういう普通のことをしてみたいという希望だったからな。
「来栖君」
「桜田さん! こんにちは」
「すまない。待たせてしまったかな」
「いえ、僕もさっき来たばかりです」
少し申し訳なさそうな桜田さんに、僕は笑顔で応える。
「じゃあ、早速店に行こうか。ここから近い所にあるんだ」
「はい!」
川から五分ほど歩くと、さくら商店街という小さな商店街に着いた。アーケードを進み、一歩小道に入った先に、その喫茶店は存在していた。人通りが少なく、とても静かな場所だ。
レンガ造りの外壁は少しくすんでおり、古さはありつつも雰囲気があった。頭上には、レトロなフォントで「チェリー」と書かれた看板がある。年季の入った木目の扉の横には、メニューの食品サンプルがたくさん並んでいた。
ぱっと見、僕一人なら入ろうとは思わないお店だ。
「来栖君、この食品サンプルを見てみなよ」
桜田さんに促され、食品サンプルのガラスケースを覗いてみた。サンドウィッチ、ナポリタン、カレー、コーヒー、アイスがのったメロンソーダなどが並んでいる。SNSでこういうお店の写真を見たことはあったけど、実際に来るのは初めてだ。新鮮な光景に、思わず見入ってしまう。
「これ、すごいですね」
「そうだろう? そこのミックスサンドは具だくさんでうまそう。それに下の段にあるプリンを見てくれよ。美しいだろう? 見ているだけで飛びそう」
桜田さんは少し頬を赤らめ、うっとりした顔でプリンのサンプルを眺めた。若干怪しい発言があったような。気のせいかな。うん、たぶん気のせいだ。
プリンは昔ながらの山型で、てっぺんにクリームと真っ赤なさくらんぼがのっている。なんとなく「女子が好きそう」な見た目だと思った。精霊って、こういうものが好きなのか。
「さて、では早速入ろう!」
「はい!」
どんなお店なんだろう。こんな喫茶店に入ったことがないから緊張するな。でも、桜田さんが一緒だし大丈夫だろう。
ところが、桜田さんはその場を動かず、一向に入ろうとしない。
「桜田さん? 入らないんですか?」
「何を言っているんだ。そのために一緒に来たんだろう? さ、来栖君が先に入ってくれ」
柔らかく背中を押され、僕は扉の前に立たされた。
初めてのお店。入口の窓から中の様子が見えなくもないが、僕らのような高校生がいる気配はない。
場違いじゃないの?
てっきり、桜田さんがウキウキで入っていくものだと思っていた。振り返ると、桜田さんは「ほら、早く」とにこやかに笑った。僕はその笑顔を見て気づいてしまった。これは、桜田さんからのメッセージなのでは。
「私をエスコートしなさい」ということなのかもしれない。
よく考えれば、「桜の精霊」が自ら人間のお店に行くなんておかしいのだ。自然界の尊い存在なのだから、誰かが場を整えなければ。
つまりこれは、桜田さんへのご奉仕。なるほど。それなら納得だ。
「では桜田さん、扉を開けますよ」
僕は覚悟を決めた。
ぐっと扉を押すと、カランカランとドアベルが鳴った。音に反応して、カウンターから店員さんが「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」と声をかけてくれた。
席、席。
じっくり店内を見る余裕がなく、ぱっと目に入った真ん中の席へ向かった。
スマート、スマートに、だ。まずは桜田さんにくつろいでもらわなきゃ。
「こちらへどうぞ」
スマートに着席を促す。桜田さんは「あ、ああ。ありがとう」と、なぜか戸惑いながら座った。
「ちょっと、来栖君」
向かい合うように座った途端、桜田さんが急に顔を近づけてきた。不意打ちすぎる行動に、僕の心臓は止まりそうになった。
「なんでど真ん中に来たんだい。混んでいないんだから、もう少し端でもよかったと思うが」
うわ、睫毛長い。この薄い色の瞳、やっぱり綺麗だなぁ。
「ちょっと、聞いてる?」
桜田さんが僕の後頭部をぐいっと掴み、さらに距離が近くなった。息がかかりそうだ。大きくなった鼓動が耳の奥まで響く。
「こんにちは。失礼いたします」
頭上から女性の声がし、僕は咄嗟に身体を反らした。
先ほどカウンターにいた店員さんが、二人分のおしぼりと水をテーブルに置いてくれたのだ。
よかった……! このままだったら、心臓が壊れて破裂していたかもしれない。命の恩人だ。ありがとう店員さん。
至近距離で桜田さんを見たせいで、さらに緊張してしまったのだろうか。他人の顔がこんなに近くなることなんて、普通に生きていたらあり得ない。だから、そのせいかもしれない。絶対にそうだ。
慣れない場所で、慣れないことをしているんだ。これは不可抗力だ。
心臓は、まだ落ち着きなく動いている。
「来栖君さっきからボーっとしてるけど大丈夫か?」
「は、はい。すみません大丈夫です!」
桜田さんはといえば、特に変わりない様子だった。
僕だけがあたふたしてしまってとても恥ずかしい。エスコートするつもりが、まったくダメじゃないか。
おしぼりを手に取り、手のひらの汗を拭った。
「私はもう決まっているけれど、来栖君は何を注文する?」
桜田さんの声は弾んでいた。
「えっと、そうですね。まずはメニューを……」
机に置いてあったメニューをすっと差し出された。わっ。スマート。きゅん。
って、僕がエスコートしなくてはいけないのに! 桜田さんの優雅さと余裕にときめいている場合じゃない!
ともあれ、なにか注文をしなくてはとメニューの冊子をぱらぱらとめくる。薄い本のようでおしゃれだ。紙が色褪せているページや文字のかすれを見つけ、お店の歴史を感じた。まずはサンドウィッチなどの軽食が並んでいて、そのあとにパスタなどの食事、スイーツ、ドリンクとページが続く。途中、大きく書かれた「おすすめ」の文字に目が留まった。外のサンプルにあったプリンだ。一押しメニューなのかも。
「桜田さんはプリンですよね?」
「もちろん。それを目的に来たからな」
「じゃあ僕もプリンにします」
「いいね。じゃあ注文するか」
「あ! 僕が呼びます!」
今度こそ桜田さんの役に立たなければ。
張り切って店内を見回すも、近くに店員さんがいない。お客さんはまばらで静かだ。おしゃれなジャズのBGMがよく聴こえる。
ここで呼びかけるのは勇気がいるな。どうにか店員さんが通らないかと待ってみたけど……だめだ。
僕は意を決し、「すみません!」と声を張り上げた。
「はーい」
カウンターのほうから反応があった。良かった。気づいてくれたみたいだ。
「注文お願いします。プリン二つ!」
「プリンがお二つですね。お飲み物はよろしいですか?」
「あ、えっと」
「アイスティーで」
桜田さんがさらりと注文する。僕は食べ物のことしか考えていなかった。
「僕は……オレンジジュースで!」
よし。なんとか注文できた。だけど事前に飲み物も確認しておけばよかった。失態だ。
一人で反省会をしていると、桜田さんが「ふっ」と小さく笑った。
「なんか元気いいね」
「え?」
くしゃりと笑うその顔が、さっきよりも幼く見えた。桜田さんの発したフランクな言葉も合わさり、まるで自分と同じ高校生と話しているような。
「あ、いや……元気がよくて好ましいと思ったのだ」
「嬉しいです。ありがとうございます」
思わぬところで褒めてもらえた。勇気を出して店員さんを呼んでよかった。
「ところで、店の雰囲気がすごくいいと思わないか? こういう落ち着いた所に来てみたかったんだ」
桜田さんの視線の先を追いかける。注文のプレッシャーから解放されたからか、やっと周りの様子を観察できた。
外からだと薄暗く感じた店内は、窓から入る光で意外と明るく、縦に長い作りでけっこうな広さがある。カウンターの中では、白髪頭のマスターがコーヒーを淹れているようだ。あのビーカーみたいな道具は見たことがある。おしゃれでかっこいい。
「あれはサイフォンって言うんだよ」
「なんか聞いたことあります。あれがサイフォンかぁ。桜田さんよく知ってますね」
「あ、ああ……興味があったからね」
いろいろなことを知っているんだな。僕より物知りかも。ていうか詳しすぎない? 会話もスムーズだし……精霊ってそういうもの?
「ところで来栖君、君にはいろいろと訊きたいことがあるのだが」
「はい、なんでしょうか」
「君は一年生?」
「はい、そうです」
「君は……男が好きなのか?」
「ごほっ!」
飲みかけていた水を口から解き放ちそうになった。
「げほ! んぐ」
「違うのか?」
必死に水を飲み込む。桜田さんはきょとんとした顔をした。
危ない。目の前の美しい顔が水浸しになるところだった。
「普通に女の子が好きだとは思いますけど……人を好きになったことがないのでよくわかりません」
「それは本当か?」
「本当です」
恋愛に縁のないままこの歳になってしまった。桜田さんはそのことに驚いているようだ。僕の顔をじっと見ている。うう。そんなに見られても困ります。恥ずかしい。
「お待たせいたしました」
軽やかな声とともに、注文したメニューが運ばれてきた。ああ、天の助け。
ガラス皿の上に硬めのプリンがのっている。濃厚なクリーム色と、上からたっぷりかけられたカラメルソース。確かに、これはおいしそうだ。
テーブルが急に華やかになり、僕の気分は幾分か上昇した。
ひとまず、この居心地の悪さからは解放されるかも。
「おいしそうですね! 桜田さん」
視線を上げた先には、目を輝かせている桜田さんがいた。
嬉しそうに口角が上がって、幼い子どものように全身から喜びがあふれている。
初めて会ったときのような儚い美しさはなかった。
ただ、その姿を見た僕は胸がぎゅっと何かに掴まれたような感覚がした。
可愛い。
ごく自然にその言葉が浮かんだ。
「なんだい来栖君。ぼーっとして」
「いえ! なんでもないです」
口をつけていなかったオレンジジュースを飲む。舌はオレンジの爽やかな酸味を感じているはずなのに、どんな味かわからない。
桜田さんを見ていたことに気づかれてしまった。変に思われていないだろうか。しかも、「可愛い」と思ってしまった。本人に知られたら、「何を言っているんだ。来栖君は失礼だな」とか言われるに違いない。
だって、おかしいじゃないか。
桜田さんを初めて見たときは「美しい」だった。
でも「可愛い」というのは、小さな子どもや動物に対しての感想だと思う。
「うまそう! いただきます」
桜田さんはスプーンで豪快にプリンをすくい、口へ運んだ。すぐに「んー!」と目を細めて幸せそうな顔になった。
「カラメルのほろ苦さとプリンの甘さが絶妙!」
よほど気に入ったのか、ひと口が大きいせいか、桜田さんのプリンはあっという間になくなっていく。
「来栖君、このプリンすごくうまいぞ! 早く食べたほうがいい」
「はい! いただきます!」
テンションの高い桜田さんもいいなぁ。ずっと見ていたい。けれど相手からの視線が、期待に満ちた眼差しが刺さる。早くプリンの感想を知りたいんですね。わかりました。いただきましょう。
ぱくり。
見た目はしっかりしていて弾力があるけれど、すぐに口の中でとろけた。バニラビーンズの甘い香りとカラメルのほろ苦さがちょうどいい。
「すごくおいしいです!」
「そうだろう? たまらないよなぁ。やっぱりここに来て正解だったよ」
僕の前には、にこにこしながら食べる桜田さん。初めての大人っぽい喫茶店で、妄想だと思っていた精霊がいて、一緒にプリンを食べている。それが現実の出来事だなんて、いまだに信じられない。正直、これだけでお腹がいっぱいだ。
夢心地のまま時間は過ぎ、そのあと何を話したのかあまり覚えていない。
「はぁ、うまかった。さて、プリンも食べたことだしそろそろ帰ろうか」
桜田さんはテーブルに置かれた伝票を持って立ち上がった。
「え、あ、自分の分は払います!」
慌てて言うと桜田さんは、「付き合ってもらったんだからごちそうさせてくれ」と颯爽とレジへ向かった。
しまったー! お会計まで自然にいかなくちゃいけなかった。さっきから桜田さんのほうがスマートな動きをしている。これじゃあご奉仕にならないじゃないか。
ていうか、精霊ってお金持っているんだ。バイトでもしているのだろうか。
ぼんやり考えていると、レジ近くのミニテーブルにピンク色のノートが置かれているのを見つけた。表紙には「ご自由にどうぞ」の文字。ボールペンもある。お客さんが自由に書けるようになっているらしく、中にはお店へのメッセージが書かれていた。「おいしかった」「雰囲気最高」「渋いマスターが素敵」などなど。
「なにを見ているんだい?」
支払いを終えた桜田さんがひょこっと覗き込んできた。
「ここにノートがあるんですけど、お店への感想が書けるみたいです。桜田さんもなにか書きますか?」
「へぇ。一言書いておこうかな」
桜田さんは迷いなくペンを走らせた。
横から覗くと、『プリンおいしかったです。また来ます』と書いていた。
「はい。来栖君」
「僕はいいですよ」
「そう? せっかくだから書けばいいのに」
字が汚いからと断ると、そんなの誰も気にしないよ、と桜田さんは笑った。
「すみません。僕ちょっとトイレに」
「じゃあ外で待っているよ」
ドアベルの音とともに、桜田さんが出て行ったのを見届け、こっそりノートに『楽しかったです。また二人で来ましょう』と書いておいた。こんなことを本人に見られたら恥ずかしい。僕だけの秘密だ。
「桜田さん! ごちそうさまでした。精霊ってお金を持ってるんですね」
喫茶店の外で改めてお礼を言った。だけど桜田さんは、「あ、ああ、うん。持ってるんだよ、お金。あはは」と挙動不審だ。
「いいんだよ。来栖君は年下なんだから」
「ありがとうございます! そういえば桜田さんはいくつなんですか? 長生きしてそうですね」
本当に精霊なら桜の木と同じくらいの年数を生きているのだろうな。学校の木はそれなりの大きさがある。確実に僕より何十年も上、何百歳という可能性もある。
「ま、まぁ。それに近い感じではあるかな。うん」
そんな人にごちそうしてもらったのか。なんか、すごいことになってきた。
これは……それに見合うご奉仕をしないとだめだろう。そういえば、まず桜田さんは無事に家(?)まで帰らないといけないよな。一人だと事故や事件に巻き込まれる可能性があるんじゃないか? よし。桜田さんを学校まで送り届けよう。
「桜田さん、帰りは桜の木までお送りしますね」
「え? なんで?」
「最近物騒なニュースが多いんですよ。何かあってからじゃ遅い。僕がしっかりお守りしていきます」
「あ、いや、えーと。来栖君、そこまでしなくていいよ」
「いえ、気にしないでください」
桜田さんは優しいな。僕を気遣ってくれている。遠慮しなくていいんですよ。学校と違い外は危険がいっぱいですから。
「では行きましょう!」
危険が及ばないよう桜田さんを背後にかばうようにして、帰り道を歩き出した。
夕方になっても、来たときと変わらず人通りは少ない。これなら不審者がいてもすぐに気づくことができるな。
そんなことを考えながらしばらく歩き、ふと気づく。意気揚々と歩きだしたのはいいものの、静かな時間が続いていた。
なにか話すべき? でも、なにを話せばいいんだ? 来るときは、喫茶店では、どんな会話をしたんだっけ。後ろの桜田さんは退屈そうにしているだろうか。そうだったらまずい。
なにか話さなきゃ。なにか話題を。
「そういえば今日はいい天気ですね!」
「ああ、そうだな」
「この辺りは静かですね!」
「そうだな」
「見て下さい、地面の止まれの文字が消えかかってます!」
「消えかかってるな……」
よし、なんとか会話を繋げたぞ。桜田さんのテンションがどんどん下がっている気がするけど、話はできているから大丈夫だよな。
「来栖君はいつもこう、一生懸命な感じなのか?」
「僕がですか?」
思わず振り返る。
一生懸命。そんなふうに言われたことがない。
「のんびりしてるとか素直だとはよく言われますけど……桜田さんに喜んでほしいから、ですかね。いろいろやりたくなっちゃうのは。上手くいっているのかはわかんないですけど」
僕の言葉を聞き、桜田さんは小さく笑った。
「確かに、君は喫茶店でもあわあわしてちょっと空回ってたかも。でも一生懸命なのは伝わったよ」
「そ、それは褒められているのでしょうか」
桜田さんは「褒めてるよ」と軽やかに目を細めた。
まただ。ふとした瞬間にみせる自然な笑顔が、僕をきゅっと掴んで離さない。なぜだろう。あなたといると、知らない感覚が次から次へとやってくる。
「桜田さんってかなり人間に馴染んでますよね。お金を持っててコーヒーに詳しくて」
「それは、まぁ。私は桜の精霊だからな。世の中のことは知っているさ」
前方に横断歩道が見えた。学校近くの大通りまで戻って来たようだ。桜田さんと一緒にいられる時間もあと少し、か。
なんだか名残惜しいな。一応褒められはしたけど、たいしたことはしていない。また会えるのだろうか。学校に着いたらもう会えないのかな。そんなの悲しすぎる。
いつの間にか並んで歩いていた桜田さんをちらりと見た。
あ。
目が合ってしまった。
「そそそそういえば桜田さん! さっきのお店ってどうやって知ったんですか?」
不意打ちだ。思いっきり顔を逸らしてしまったじゃないか。やばいやばいやばい。絶対に変な奴だと思われた。しかも、また見たことがバレた。もう桜田さんのほうを向けない……って、なんで桜田さんも僕を見たんだ?
「来栖君!」
急に左腕を引っ張られ、僕の身体はバランスを崩す。そのまま地面へと倒れそうになり、思わず目をつむった。
……あれ? 痛く、ない。
恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に桜田さんの顔があった。
「痛……尻が」
「さ、さくらださ」
僕は、地面に横たわる桜田さんに、抱きかかえられるような格好になっていた。
思ったよりがっしりして、骨ばった身体の感触が伝わり、密着している部分が熱を帯びていく。
心臓が大きな音を立てた。
なんだ、これ。
「やばい。尻もちついた。尻の骨が痛い」
顔をしかめた桜田さんは、腰のあたりをさすった。
「だいじょうぶ、ですか」
「なんとか……来栖君は?」
「平気、です」
「そっか。あー、よかった」
桜田さんは大きく息を吐いた。
「自転車が来てたんだよ。来栖君よそ見してたでしょ。けっこうスピード出てたから、向こうも悪いんだけどさ」
「すみません……」
「一生懸命なのはいいけど、もっと周りも見ること。いいね?」
「は、はい」
桜田さんは不思議だ。
友達みたいな無邪気な顔をしたり、年上のお兄さんみたいなかっこいい顔をしたりする。
そして、この熱い体温は。
「ところで来栖君。そろそろどいてくれるかな?」
「わぁ! すみません!」
慌てて桜田さんから離れた。だけど、僕の身体はどきどきして熱い。これは一体なんなんだ。
だけどわかってしまった。きっと彼は、精霊なんかじゃない。
精霊の桜田さんとの待ち合わせ場所へ到着すると、壮観な桜のトンネルに圧倒された。それもそのはず。川沿い四キロにわたり、約千五百本の桜が植えられているらしい。犬の散歩をしている人や、桜を見ている親子連れの姿があった。桜祭りは土日のみ開催しているらしく、並木の入口には目立つ看板が立っている。今年もまた、テレビの取材が来るのかもしれないな。
学校が終わり、この川にすぐ向かったけれど、桜田さんはまだ来ていないようだ。今日は中田に声をかけられる前に教室を出たから、少し早く来てしまったのかもしれない。
それにしても、桜田さんへのご奉仕が一緒に喫茶店へ行くことだなんて。学校帰りに寄り道をするだけのような気がする。けれど、そういう普通のことをしてみたいという希望だったからな。
「来栖君」
「桜田さん! こんにちは」
「すまない。待たせてしまったかな」
「いえ、僕もさっき来たばかりです」
少し申し訳なさそうな桜田さんに、僕は笑顔で応える。
「じゃあ、早速店に行こうか。ここから近い所にあるんだ」
「はい!」
川から五分ほど歩くと、さくら商店街という小さな商店街に着いた。アーケードを進み、一歩小道に入った先に、その喫茶店は存在していた。人通りが少なく、とても静かな場所だ。
レンガ造りの外壁は少しくすんでおり、古さはありつつも雰囲気があった。頭上には、レトロなフォントで「チェリー」と書かれた看板がある。年季の入った木目の扉の横には、メニューの食品サンプルがたくさん並んでいた。
ぱっと見、僕一人なら入ろうとは思わないお店だ。
「来栖君、この食品サンプルを見てみなよ」
桜田さんに促され、食品サンプルのガラスケースを覗いてみた。サンドウィッチ、ナポリタン、カレー、コーヒー、アイスがのったメロンソーダなどが並んでいる。SNSでこういうお店の写真を見たことはあったけど、実際に来るのは初めてだ。新鮮な光景に、思わず見入ってしまう。
「これ、すごいですね」
「そうだろう? そこのミックスサンドは具だくさんでうまそう。それに下の段にあるプリンを見てくれよ。美しいだろう? 見ているだけで飛びそう」
桜田さんは少し頬を赤らめ、うっとりした顔でプリンのサンプルを眺めた。若干怪しい発言があったような。気のせいかな。うん、たぶん気のせいだ。
プリンは昔ながらの山型で、てっぺんにクリームと真っ赤なさくらんぼがのっている。なんとなく「女子が好きそう」な見た目だと思った。精霊って、こういうものが好きなのか。
「さて、では早速入ろう!」
「はい!」
どんなお店なんだろう。こんな喫茶店に入ったことがないから緊張するな。でも、桜田さんが一緒だし大丈夫だろう。
ところが、桜田さんはその場を動かず、一向に入ろうとしない。
「桜田さん? 入らないんですか?」
「何を言っているんだ。そのために一緒に来たんだろう? さ、来栖君が先に入ってくれ」
柔らかく背中を押され、僕は扉の前に立たされた。
初めてのお店。入口の窓から中の様子が見えなくもないが、僕らのような高校生がいる気配はない。
場違いじゃないの?
てっきり、桜田さんがウキウキで入っていくものだと思っていた。振り返ると、桜田さんは「ほら、早く」とにこやかに笑った。僕はその笑顔を見て気づいてしまった。これは、桜田さんからのメッセージなのでは。
「私をエスコートしなさい」ということなのかもしれない。
よく考えれば、「桜の精霊」が自ら人間のお店に行くなんておかしいのだ。自然界の尊い存在なのだから、誰かが場を整えなければ。
つまりこれは、桜田さんへのご奉仕。なるほど。それなら納得だ。
「では桜田さん、扉を開けますよ」
僕は覚悟を決めた。
ぐっと扉を押すと、カランカランとドアベルが鳴った。音に反応して、カウンターから店員さんが「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」と声をかけてくれた。
席、席。
じっくり店内を見る余裕がなく、ぱっと目に入った真ん中の席へ向かった。
スマート、スマートに、だ。まずは桜田さんにくつろいでもらわなきゃ。
「こちらへどうぞ」
スマートに着席を促す。桜田さんは「あ、ああ。ありがとう」と、なぜか戸惑いながら座った。
「ちょっと、来栖君」
向かい合うように座った途端、桜田さんが急に顔を近づけてきた。不意打ちすぎる行動に、僕の心臓は止まりそうになった。
「なんでど真ん中に来たんだい。混んでいないんだから、もう少し端でもよかったと思うが」
うわ、睫毛長い。この薄い色の瞳、やっぱり綺麗だなぁ。
「ちょっと、聞いてる?」
桜田さんが僕の後頭部をぐいっと掴み、さらに距離が近くなった。息がかかりそうだ。大きくなった鼓動が耳の奥まで響く。
「こんにちは。失礼いたします」
頭上から女性の声がし、僕は咄嗟に身体を反らした。
先ほどカウンターにいた店員さんが、二人分のおしぼりと水をテーブルに置いてくれたのだ。
よかった……! このままだったら、心臓が壊れて破裂していたかもしれない。命の恩人だ。ありがとう店員さん。
至近距離で桜田さんを見たせいで、さらに緊張してしまったのだろうか。他人の顔がこんなに近くなることなんて、普通に生きていたらあり得ない。だから、そのせいかもしれない。絶対にそうだ。
慣れない場所で、慣れないことをしているんだ。これは不可抗力だ。
心臓は、まだ落ち着きなく動いている。
「来栖君さっきからボーっとしてるけど大丈夫か?」
「は、はい。すみません大丈夫です!」
桜田さんはといえば、特に変わりない様子だった。
僕だけがあたふたしてしまってとても恥ずかしい。エスコートするつもりが、まったくダメじゃないか。
おしぼりを手に取り、手のひらの汗を拭った。
「私はもう決まっているけれど、来栖君は何を注文する?」
桜田さんの声は弾んでいた。
「えっと、そうですね。まずはメニューを……」
机に置いてあったメニューをすっと差し出された。わっ。スマート。きゅん。
って、僕がエスコートしなくてはいけないのに! 桜田さんの優雅さと余裕にときめいている場合じゃない!
ともあれ、なにか注文をしなくてはとメニューの冊子をぱらぱらとめくる。薄い本のようでおしゃれだ。紙が色褪せているページや文字のかすれを見つけ、お店の歴史を感じた。まずはサンドウィッチなどの軽食が並んでいて、そのあとにパスタなどの食事、スイーツ、ドリンクとページが続く。途中、大きく書かれた「おすすめ」の文字に目が留まった。外のサンプルにあったプリンだ。一押しメニューなのかも。
「桜田さんはプリンですよね?」
「もちろん。それを目的に来たからな」
「じゃあ僕もプリンにします」
「いいね。じゃあ注文するか」
「あ! 僕が呼びます!」
今度こそ桜田さんの役に立たなければ。
張り切って店内を見回すも、近くに店員さんがいない。お客さんはまばらで静かだ。おしゃれなジャズのBGMがよく聴こえる。
ここで呼びかけるのは勇気がいるな。どうにか店員さんが通らないかと待ってみたけど……だめだ。
僕は意を決し、「すみません!」と声を張り上げた。
「はーい」
カウンターのほうから反応があった。良かった。気づいてくれたみたいだ。
「注文お願いします。プリン二つ!」
「プリンがお二つですね。お飲み物はよろしいですか?」
「あ、えっと」
「アイスティーで」
桜田さんがさらりと注文する。僕は食べ物のことしか考えていなかった。
「僕は……オレンジジュースで!」
よし。なんとか注文できた。だけど事前に飲み物も確認しておけばよかった。失態だ。
一人で反省会をしていると、桜田さんが「ふっ」と小さく笑った。
「なんか元気いいね」
「え?」
くしゃりと笑うその顔が、さっきよりも幼く見えた。桜田さんの発したフランクな言葉も合わさり、まるで自分と同じ高校生と話しているような。
「あ、いや……元気がよくて好ましいと思ったのだ」
「嬉しいです。ありがとうございます」
思わぬところで褒めてもらえた。勇気を出して店員さんを呼んでよかった。
「ところで、店の雰囲気がすごくいいと思わないか? こういう落ち着いた所に来てみたかったんだ」
桜田さんの視線の先を追いかける。注文のプレッシャーから解放されたからか、やっと周りの様子を観察できた。
外からだと薄暗く感じた店内は、窓から入る光で意外と明るく、縦に長い作りでけっこうな広さがある。カウンターの中では、白髪頭のマスターがコーヒーを淹れているようだ。あのビーカーみたいな道具は見たことがある。おしゃれでかっこいい。
「あれはサイフォンって言うんだよ」
「なんか聞いたことあります。あれがサイフォンかぁ。桜田さんよく知ってますね」
「あ、ああ……興味があったからね」
いろいろなことを知っているんだな。僕より物知りかも。ていうか詳しすぎない? 会話もスムーズだし……精霊ってそういうもの?
「ところで来栖君、君にはいろいろと訊きたいことがあるのだが」
「はい、なんでしょうか」
「君は一年生?」
「はい、そうです」
「君は……男が好きなのか?」
「ごほっ!」
飲みかけていた水を口から解き放ちそうになった。
「げほ! んぐ」
「違うのか?」
必死に水を飲み込む。桜田さんはきょとんとした顔をした。
危ない。目の前の美しい顔が水浸しになるところだった。
「普通に女の子が好きだとは思いますけど……人を好きになったことがないのでよくわかりません」
「それは本当か?」
「本当です」
恋愛に縁のないままこの歳になってしまった。桜田さんはそのことに驚いているようだ。僕の顔をじっと見ている。うう。そんなに見られても困ります。恥ずかしい。
「お待たせいたしました」
軽やかな声とともに、注文したメニューが運ばれてきた。ああ、天の助け。
ガラス皿の上に硬めのプリンがのっている。濃厚なクリーム色と、上からたっぷりかけられたカラメルソース。確かに、これはおいしそうだ。
テーブルが急に華やかになり、僕の気分は幾分か上昇した。
ひとまず、この居心地の悪さからは解放されるかも。
「おいしそうですね! 桜田さん」
視線を上げた先には、目を輝かせている桜田さんがいた。
嬉しそうに口角が上がって、幼い子どものように全身から喜びがあふれている。
初めて会ったときのような儚い美しさはなかった。
ただ、その姿を見た僕は胸がぎゅっと何かに掴まれたような感覚がした。
可愛い。
ごく自然にその言葉が浮かんだ。
「なんだい来栖君。ぼーっとして」
「いえ! なんでもないです」
口をつけていなかったオレンジジュースを飲む。舌はオレンジの爽やかな酸味を感じているはずなのに、どんな味かわからない。
桜田さんを見ていたことに気づかれてしまった。変に思われていないだろうか。しかも、「可愛い」と思ってしまった。本人に知られたら、「何を言っているんだ。来栖君は失礼だな」とか言われるに違いない。
だって、おかしいじゃないか。
桜田さんを初めて見たときは「美しい」だった。
でも「可愛い」というのは、小さな子どもや動物に対しての感想だと思う。
「うまそう! いただきます」
桜田さんはスプーンで豪快にプリンをすくい、口へ運んだ。すぐに「んー!」と目を細めて幸せそうな顔になった。
「カラメルのほろ苦さとプリンの甘さが絶妙!」
よほど気に入ったのか、ひと口が大きいせいか、桜田さんのプリンはあっという間になくなっていく。
「来栖君、このプリンすごくうまいぞ! 早く食べたほうがいい」
「はい! いただきます!」
テンションの高い桜田さんもいいなぁ。ずっと見ていたい。けれど相手からの視線が、期待に満ちた眼差しが刺さる。早くプリンの感想を知りたいんですね。わかりました。いただきましょう。
ぱくり。
見た目はしっかりしていて弾力があるけれど、すぐに口の中でとろけた。バニラビーンズの甘い香りとカラメルのほろ苦さがちょうどいい。
「すごくおいしいです!」
「そうだろう? たまらないよなぁ。やっぱりここに来て正解だったよ」
僕の前には、にこにこしながら食べる桜田さん。初めての大人っぽい喫茶店で、妄想だと思っていた精霊がいて、一緒にプリンを食べている。それが現実の出来事だなんて、いまだに信じられない。正直、これだけでお腹がいっぱいだ。
夢心地のまま時間は過ぎ、そのあと何を話したのかあまり覚えていない。
「はぁ、うまかった。さて、プリンも食べたことだしそろそろ帰ろうか」
桜田さんはテーブルに置かれた伝票を持って立ち上がった。
「え、あ、自分の分は払います!」
慌てて言うと桜田さんは、「付き合ってもらったんだからごちそうさせてくれ」と颯爽とレジへ向かった。
しまったー! お会計まで自然にいかなくちゃいけなかった。さっきから桜田さんのほうがスマートな動きをしている。これじゃあご奉仕にならないじゃないか。
ていうか、精霊ってお金持っているんだ。バイトでもしているのだろうか。
ぼんやり考えていると、レジ近くのミニテーブルにピンク色のノートが置かれているのを見つけた。表紙には「ご自由にどうぞ」の文字。ボールペンもある。お客さんが自由に書けるようになっているらしく、中にはお店へのメッセージが書かれていた。「おいしかった」「雰囲気最高」「渋いマスターが素敵」などなど。
「なにを見ているんだい?」
支払いを終えた桜田さんがひょこっと覗き込んできた。
「ここにノートがあるんですけど、お店への感想が書けるみたいです。桜田さんもなにか書きますか?」
「へぇ。一言書いておこうかな」
桜田さんは迷いなくペンを走らせた。
横から覗くと、『プリンおいしかったです。また来ます』と書いていた。
「はい。来栖君」
「僕はいいですよ」
「そう? せっかくだから書けばいいのに」
字が汚いからと断ると、そんなの誰も気にしないよ、と桜田さんは笑った。
「すみません。僕ちょっとトイレに」
「じゃあ外で待っているよ」
ドアベルの音とともに、桜田さんが出て行ったのを見届け、こっそりノートに『楽しかったです。また二人で来ましょう』と書いておいた。こんなことを本人に見られたら恥ずかしい。僕だけの秘密だ。
「桜田さん! ごちそうさまでした。精霊ってお金を持ってるんですね」
喫茶店の外で改めてお礼を言った。だけど桜田さんは、「あ、ああ、うん。持ってるんだよ、お金。あはは」と挙動不審だ。
「いいんだよ。来栖君は年下なんだから」
「ありがとうございます! そういえば桜田さんはいくつなんですか? 長生きしてそうですね」
本当に精霊なら桜の木と同じくらいの年数を生きているのだろうな。学校の木はそれなりの大きさがある。確実に僕より何十年も上、何百歳という可能性もある。
「ま、まぁ。それに近い感じではあるかな。うん」
そんな人にごちそうしてもらったのか。なんか、すごいことになってきた。
これは……それに見合うご奉仕をしないとだめだろう。そういえば、まず桜田さんは無事に家(?)まで帰らないといけないよな。一人だと事故や事件に巻き込まれる可能性があるんじゃないか? よし。桜田さんを学校まで送り届けよう。
「桜田さん、帰りは桜の木までお送りしますね」
「え? なんで?」
「最近物騒なニュースが多いんですよ。何かあってからじゃ遅い。僕がしっかりお守りしていきます」
「あ、いや、えーと。来栖君、そこまでしなくていいよ」
「いえ、気にしないでください」
桜田さんは優しいな。僕を気遣ってくれている。遠慮しなくていいんですよ。学校と違い外は危険がいっぱいですから。
「では行きましょう!」
危険が及ばないよう桜田さんを背後にかばうようにして、帰り道を歩き出した。
夕方になっても、来たときと変わらず人通りは少ない。これなら不審者がいてもすぐに気づくことができるな。
そんなことを考えながらしばらく歩き、ふと気づく。意気揚々と歩きだしたのはいいものの、静かな時間が続いていた。
なにか話すべき? でも、なにを話せばいいんだ? 来るときは、喫茶店では、どんな会話をしたんだっけ。後ろの桜田さんは退屈そうにしているだろうか。そうだったらまずい。
なにか話さなきゃ。なにか話題を。
「そういえば今日はいい天気ですね!」
「ああ、そうだな」
「この辺りは静かですね!」
「そうだな」
「見て下さい、地面の止まれの文字が消えかかってます!」
「消えかかってるな……」
よし、なんとか会話を繋げたぞ。桜田さんのテンションがどんどん下がっている気がするけど、話はできているから大丈夫だよな。
「来栖君はいつもこう、一生懸命な感じなのか?」
「僕がですか?」
思わず振り返る。
一生懸命。そんなふうに言われたことがない。
「のんびりしてるとか素直だとはよく言われますけど……桜田さんに喜んでほしいから、ですかね。いろいろやりたくなっちゃうのは。上手くいっているのかはわかんないですけど」
僕の言葉を聞き、桜田さんは小さく笑った。
「確かに、君は喫茶店でもあわあわしてちょっと空回ってたかも。でも一生懸命なのは伝わったよ」
「そ、それは褒められているのでしょうか」
桜田さんは「褒めてるよ」と軽やかに目を細めた。
まただ。ふとした瞬間にみせる自然な笑顔が、僕をきゅっと掴んで離さない。なぜだろう。あなたといると、知らない感覚が次から次へとやってくる。
「桜田さんってかなり人間に馴染んでますよね。お金を持っててコーヒーに詳しくて」
「それは、まぁ。私は桜の精霊だからな。世の中のことは知っているさ」
前方に横断歩道が見えた。学校近くの大通りまで戻って来たようだ。桜田さんと一緒にいられる時間もあと少し、か。
なんだか名残惜しいな。一応褒められはしたけど、たいしたことはしていない。また会えるのだろうか。学校に着いたらもう会えないのかな。そんなの悲しすぎる。
いつの間にか並んで歩いていた桜田さんをちらりと見た。
あ。
目が合ってしまった。
「そそそそういえば桜田さん! さっきのお店ってどうやって知ったんですか?」
不意打ちだ。思いっきり顔を逸らしてしまったじゃないか。やばいやばいやばい。絶対に変な奴だと思われた。しかも、また見たことがバレた。もう桜田さんのほうを向けない……って、なんで桜田さんも僕を見たんだ?
「来栖君!」
急に左腕を引っ張られ、僕の身体はバランスを崩す。そのまま地面へと倒れそうになり、思わず目をつむった。
……あれ? 痛く、ない。
恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に桜田さんの顔があった。
「痛……尻が」
「さ、さくらださ」
僕は、地面に横たわる桜田さんに、抱きかかえられるような格好になっていた。
思ったよりがっしりして、骨ばった身体の感触が伝わり、密着している部分が熱を帯びていく。
心臓が大きな音を立てた。
なんだ、これ。
「やばい。尻もちついた。尻の骨が痛い」
顔をしかめた桜田さんは、腰のあたりをさすった。
「だいじょうぶ、ですか」
「なんとか……来栖君は?」
「平気、です」
「そっか。あー、よかった」
桜田さんは大きく息を吐いた。
「自転車が来てたんだよ。来栖君よそ見してたでしょ。けっこうスピード出てたから、向こうも悪いんだけどさ」
「すみません……」
「一生懸命なのはいいけど、もっと周りも見ること。いいね?」
「は、はい」
桜田さんは不思議だ。
友達みたいな無邪気な顔をしたり、年上のお兄さんみたいなかっこいい顔をしたりする。
そして、この熱い体温は。
「ところで来栖君。そろそろどいてくれるかな?」
「わぁ! すみません!」
慌てて桜田さんから離れた。だけど、僕の身体はどきどきして熱い。これは一体なんなんだ。
だけどわかってしまった。きっと彼は、精霊なんかじゃない。

