すべては桜のせいにして

 また勘違いかもしれないけど、じっとしていられないんだ。もう一度会いたい。
 あの桜の木の下に、まだ蕾の多い枝を見上げる人がいた。すっと伸びた鼻筋が綺麗な横顔は、僕の意識を釘付けにする。
 目の前にいるこの人は、現実に存在しているのだろうか。また、幻を見ているのだろうか。
 近づいて確かめたい。あなたは、そこにいるのですか。

「あっ」

 もう一歩近づこうとしたとき、足元にあった石を蹴飛ばしてしまった。石はそのまま真っ直ぐ飛んでいく。澄んだ瞳が僕のことを見た。

「あれ? 君は」

 想像よりも少し低い声が耳に届いた。
 あのとき見たのと同じ、どこか遠くを見ているような眼差し。首筋からのぞく肌は、透き通るように白い。夢にまでみた相手がすぐそばにいる。
 やっぱりここにいたんだ。

「あ……あなたは、桜の精霊ですか?」

 思わず訊いてしまった。
 妄想かもしれない。そう思って抑えていた気持ちが、とめどなく溢れてくる。
 相手はなにを思ったのか、こちらに近づいてきた。僕よりも背が高く、少し視線を上げる格好になった。下から見ても綺麗だ。間近で見る彼はあのときのように輝いて……あれ? 輝いてはいないな。
 そうだ、僕が目を奪われた儚げな瞳は……うーん? 至近距離で見るとぱっちり二重なんだな。
 なんだろう。少しイメージが違う気がする。僕が記憶を捏造しているのか?

「君は桜の精霊に会いに来たの?」

 柔らかく微笑まれた。胸の奥がきゅんと疼く。
 記憶違いだとしても、美しい人にみつめられたことのない僕は、初めての感覚に戸惑った。

「おーい?」
「は、はい! そうです! あなたに会いに来ました!」
「……そっか。会いに、ね」

 すごい。動いて喋っている。妄想なんかじゃなく、現実に存在している。それが事実というだけでこんなに胸がいっぱいになるなんて。もっと話をしたいのに、どう言葉にすればいいのかわからない。とにかく伝えるだけで精いっぱいだ。

「その通り。私はこの学校の桜の精霊だ。会いに来てくれて嬉しいよ」
「やっぱりそうだったんですね!」

 本当に桜の精霊だった。学校の都市伝説が本物だったとは!
 会えた嬉しさとは別の意味でも興奮する。図らずも世紀の大発見をしてしまった。
 でもなんで学校の制服を着ているんだ? ここに住んでいるから? もしかして精霊になりたいだけの変わった人という可能性も……いや、本人が言っているんだ。一旦、精霊という説でいこう。

「君は私に願い事を叶えてほしいんだな」
「え? いえ、僕は別に」
「だが、私も簡単に叶えてはやれない。こちらにもメリットがないとね。相応の条件をだす」
「条件……ですか? 一体どんな」
「その条件とは」

 桜の精霊は咳払いし、僕を正面から見据えた。

「あれだ。えーと」
「もしかして貢物(みつぎもの)的なものですか?」

 こういう神様みたいな存在に願いを叶えてもらうのは、だいたい生贄や供物が必要じゃないか? そんな映画を観たことがある気がする。テレビのオカルト番組だったかな。 

「そう、その通り! 春が終わるまでに、私が満足するような奉仕をすれば願いを叶えてあげよう」

 ご奉仕。おお、なんかすごくソレっぽい。

「あ、でも僕は特に願い事は」
「まずはそうだな。私は行ってみたい喫茶店がある」
「へ? 喫茶店ですか?」
「早速、明日の放課後行ってみようじゃないか」
「あああ明日ですか?」

 僕に願い事なんてないのに、桜の精霊はどんどん話を進めていってしまう。しかも、喫茶店に行ってみたい、と。

「昼間は学校があるだろう」
「それはそうですけど。って、そういうことじゃなくて」
「私はときどき、このように学校の生徒に擬態している。だからこう、普通の高校生の生活を体験してみたいのだ」

 それで制服を着ていたのか。確かに神的な存在って気楽に遊んだりできなさそうだ。人間みたいな生活をおくってみたいと思うこともあるのかもしれない。
 それに、僕だけ桜の精霊と特別な体験ができるのは正直嬉しい。中田が言っていた都市伝説によると、「気に入った人間の願いを叶える」。
 つまり、気に入られるかはご奉仕の出来次第、ということか。願い事は今のところ思いつかないけど、喜んでもらえるよう頑張りたい。
 
「わかりました。僕でよければお供します!」
「おお。頼もしい返事だ。元気がよくていいな」
「ありがとうございます」
「よし。じゃあ明日……と、その前に君の名前はなんていうんだ?」
「はい! 僕は来栖直といいます。あなたの名前は?」
「私の名前は桜田だ」
「桜田、さん。それはもしかして人間用の名前ですか?」
「あ、ああ。もちろんそうだ。擬態するにもそれらしい名前にしないと怪しまれるからな」

 なるほど。桜の精霊が人間に擬態するのは、けっこう大変そうだ。

「では来栖君。明日の放課後、桜並木のある川に来てくれ」

 桜祭りの川か。桜が多い所だと行動しやすいのかな。そこの桜は見に行ったことがないから、いい機会かも。

「わかりました」
「ありがとう。では、明日はよろしく頼む!」
「はい。あっ……桜田さん!」

 桜の精霊こと桜田さんは、校庭の方へと走っていってしまった。
 ついに出会えた幻の存在は、想像していたような繊細さはなかった。やっと会えた嬉しさなのか、予想外すぎる展開のせいかなのか、僕の頭はずっとふわふわしていた。

 明日はお供え物を持っていったほうがいいのかな。