すべては桜のせいにして

 あれから毎日桜の木を眺めているけど、「桜の精霊」が現れる気配は一向にない。
 実は勘違いだったのかも。中田と桜を見に行って以来、そんなふうに考えるようになっていた。

「来栖まだ帰らねぇの……って、またため息ついてるけど」
「ああ、中田。桜の精霊は僕の妄想だったのかなって」
「嘘だろ? まだそのこと考えていたのかよ!」

 中田はノリなのか、本気でそう思っているのか、ずいぶんと大袈裟に驚いた。

「実は入学式の日、全力疾走した後に精霊を見たんだ」
「遅刻してきたもんな。で、それがなんだよ?」
「そういえば桜の精霊を見たとき、疲れていたせいか周りがけっこうぼやけていたよなぁと」
「でもさ、顔とかはっきり見たわけだろ?」
「まぁちょっと聞いてよ。ある動画配信者がフルマラソンに出たんだけど」
「え? 急になんの話?」
「初めてのマラソンだったんだ。もちろん事前に練習もしていた。走り始めは順調だったけど、やっぱりペース配分とか難しかったらしい。中盤を過ぎた辺りで急にふらふらになってきたんだ」
「フルマラソンだもんな。初めてだったら尚更だろうな」

 中田は真剣に耳を傾けてくれている。

「苦しい、もうリタイアしたい。そんなふうに思ったとき、目の前に人間の顔が現れたらしい。胴体がなくて、首から上だけ」
「なにそれ怖っ。急に怪談?」
「違う。幽霊でもなんでもなくて、身体に充分な酸素がない状態で、マラソンによってものすごい疲労とストレスにさらされた、極限状態になっていたんだ。その配信者いわく、『幻覚を見たんだと思う』ってことだった」
「なるほどな。それはあり得るかもしれない」
「きっと僕も同じような状態だったんだ」

 駅からずっと走っていたせいで脳に酸素が届いていなかった。入学式に遅刻できないというプレッシャー。おまけに、父さんの説教が待っているという高ストレス状態。
 偶然にも、幻覚を見る条件が揃っていたのだ。

「来栖が見た精霊は幻覚だったってことか?」
「残念だけどその可能性が高い」

 生まれて初めて美しいと思った人が、まさか自分で生み出した幻だったなんて。

「来栖って、なんか乙女だな」
「へ? どういう意味?」
「だってさ、桜の精霊なんて女子が好きそうな話だろ? 俺は本当にいるなんて思ってないし、願い事を叶えてほしいなんて考えたこともないぞ。噂話を聞いて、ふぅんって思った程度だ」
「僕も普段ならそう思うよ。だけど実際に自分の目で見たと思ったから」
「でもさ、それからずっと精霊のことを考えているだろ? 幻覚なのかもしれないとか。なんつーか、俺からすればそこまで真剣に考えることなのかよって思うわけ」
「考えるよ! だって」

 言いかけて口を噤んだ。その先を言ってしまえば、よけいに乙女と言われそうだ。

「どうしたんだよ黙っちゃって。最近悩まし気に桜を見てるだろ。素直に認めろよ。妄想に恋する乙女ですって」
「ちょっと中田。さっきよりも酷い感じになってる」
「それは仕方ない。そういうふうに見えるから」

 元々桜が好きだった。だから、毎日桜を見るのは不自然じゃない。というか、学校に来れば嫌でも目に入る。
 僕にとっては普通の、ごく当たり前のことだ。でも、中田のいうことは一理ある。どうでもいいなら、毎日のように「あの人は幻だったのかも」なんて考えないのかもしれない。桜のように儚さを感じる佇まいを何度も思い出すことなんて、普通はないのかもしれない。

「それより来栖、いい加減帰ろうぜ。今から駅に行けば電車に間に合う」

 教室の時計に目をやった。電車が来るまであと三十分ある。充分間に合う時間だ。

「……そうだね。今日は帰ろうかな」

 なんとなく、もやもやしたものが心を覆っているけど、すぐに解決できるわけじゃない。自分の妄想力に恥ずかしさを覚えていた。僕が無意識に考えていた人物を桜の精霊と勘違いし、頭から離れないなんて。中田に指摘されるほど、入れ込んでいたことにも気がついていなかった。
 ああ、穴があったら入りたい。

「あ~腹減った。なぁ来栖、駅に着いたらマックでも行かねぇ?」
「そうだなぁ。たまにはいいかも」

 二人で校舎を出て、校門の方へと向かった。その瞬間は、自然と開花が遅い桜に目を向けてしまう。どうせいないとわかっている。だけど、今日はもしかしたら。そんな諦めと期待を抱え、僕は毎日を過ごしていた。
 ほら、誰かいるみたいだ。やっぱりね。もはやこれは儀式みたいなもので、見て帰らないと気が済まないというか……ん?
 誰か、いる?

「来栖? どうしたんだよ立ち止まって」

 いないことが日常になっていて、さらっと流すところだった。
 遠目だったけど、例の木の下に誰か立っていた。しかも、あのときの人と背格好が似ていた気がする。
 ばく、ばく、と、心臓が大きく鳴った。

「忘れ物した。ごめん中田、先に行ってて!」

 僕は中田の返事を待たず、すぐに学校へ引き返した。