すべては桜のせいにして

 五月下旬、教室から見える外の景色はすっかり変わっていた。四月に花が満開だった桜は、みずみずしい緑に着替えている。
 「桜の精霊」が宿っていると噂の木。一番開花が遅かったこの木も、しっかり衣替えを完了していた。
 
「あー、腹減った。今日は本気で減ってる」

 昼休み前。顔を歪めた中田が、僕の席までやって来た。

「そんなに減ってるの? さっきなにか食べてなかった?」
「コンビニのパンな。急遽買った非常食だ。寝坊して朝飯が食えなくて……くそっ、今日は弁当がないし全然足りねぇ」

 昼休みまであと一つ授業が残っている。実は僕もお腹が減っていた。成長途中の高校生なんだ。どれだけ食べても足りることはない。気持ちはよくわかる。

「くるすくぅん」

 中田にちょっと高めの、子犬のような甲高い声で呼ばれた。

「なに。そんな声初めて聞いたんだけど。怖いよ」
「慈悲深い来栖君にお願いです。弁当を少し分けてください」
「ええ? 無理だよ」
「そこをなんとか!」
「今日は無理」
「頼む! 最近弁当二個持ってきてるじゃん。ちょっとでいいから」

 必死に懇願されても困る。

「ごめん、無理だよ。あとちょっと我慢して」
「なんだよ、ケチ。来栖が同じ目に遭っても助けてやんねぇからな」
「大丈夫。頼まないから」

 口を尖らせている中田を見て苦笑した。僕がお弁当を持っていたら分けられただろうけど、本当に難しいんだ。

「今日はお弁当持ってきてないからさ」
「そうなのか? 珍しいな。てか、それなら早く言えよ!」

 中田が僕の肩めがけてツッコミを入れようとしてくるので、華麗にかわす。

「ちっ。いいのか? そんな態度で」
「なにが?」

 中田の芝居がかったセリフに笑いそうになる。

「来栖の秘密……知ってるんだぜ?」
「秘密? なんのことだか」

 僕の反応に中田はフッと不気味な笑みを浮かべ、「愛しの先輩との昼休み」と囁いた。

「な、なんでそのことを!」
「はるみんから聞いた。『来栖君が樹里先輩のこと気になってるみたい』って」
「春見さんから!?」
「面白そうだから昨日、来栖を尾行してさ」
「昨日!? 嘘だろ、全然気づかなかった……」
「そしたら」

 中田はそこで言葉を切った。なんだ。どうして続きを言わないんだ。じっと待っていると視線をそらされた。

「まぁ、うん。そういうこともあるよな」
「中田! なにを見た!」

 僕は中田の両肩を掴み、激しく揺らした。

「頼むからこっちを見てよ!」
「いやぁ……友達のあんな顔……びっくりするわぁ」

 中田ーーーーーーーーーーーーー!



「それで今日は落ち込んでたんだ?」
「笑いごとじゃないですよ。一体、僕はなにを見られていたんでしょうか」

 桜田さんはけたけたと笑った。
 昼休みに秘密の場所へ集合したものの、僕があまりに落ち込んでいたため、桜田さんから理由を訊かれた。事の顛末を説明すると、ご覧のような反応だった。

「うーん。来栖君の可愛い顔でも見ちゃったのかな」
「最悪だ……穴があったら入りたい」

 中田にはそれ以上深く追及できなかった。好きな人の前での顔なんて……想像しただけでも恥ずかしくて死にそうだ。

「しっかり口止めはしておきましたから」

 その代わり、来週は中田のお弁当も用意する羽目になった。

「口止めって、なんの?」
「見たことは誰にも言うな、って言っておきました」
「そっか」

 桜田さんは少し考える素振りを見せた。

「よく考えたら、別に口止めなんてしなくていいんじゃない?」
「どうしてですか」

 恥ずかしいところを見られちゃったかもしれないんですよ!?

「俺たちって弁当食べてただけでしょ? それ以上のことってしてないし……来栖君はどうしてそう思ったの?」
「どういう、意味ですか」

 なぜか桜田さんが少しずつ迫ってくる。

「俺たちの関係がバレちゃまずいって思ったんでしょ? なんで? 俺たちってどういう関係なの?」

 どんどん壁際に追いやられ、ついに逃げ場がなくなった。

「ねぇ、来栖君」
「桜田さん! まずはお弁当食べましょう!」

 僕の大声に桜田さんは目を丸くしたけど、「それもそうか。うん、まずは食べよう」と何事もなかったかのように引いた。なんだったんだ。心臓に悪い。
 桜田さんは茶色の紙袋から、少し大きめのタッパーを取り出した。そしてなぜか、持ったままじっと見ている。

「桜田さん?」
「あー、うん。一応作ってきたんだけど」

 桜田さんがお弁当を作ると言ってくれたのは、先週のことだった。仲直り……というか、そもそも喧嘩をしていたわけではないけど。あれから僕たちは、また一緒にお昼を食べている。

「来栖君へ日頃の感謝を込めてと思ったんだけどさ」
「ありがとうございます……桜田さん、タッパーから手を離してください」

 僕はタッパーを受け取ろうとしたが、びくともしない。ちょっと、力入れすぎですよ桜田さん。

「来栖君みたいに上手にできなかった」
「僕だって上手ではないですよ。大丈夫です桜田さん。絶対おいしいですから」
「そんなのわかんないじゃん」
「わかりますよ」
「なにを根拠に」
「桜田さんが作ってくれたからです」
「でも俺、料理上手じゃない」
「それは関係ないです」
「関係あるでしょ」
「ないです」
「絶対ある」

 今日の桜田さんは頑固だ。僕はあなたがお弁当を作ると言ってくれただけで、飛び上がるほど嬉しかったのに。
 事態は平行線。このままだと、食べられないまま昼休みが終わってしまう。そんなの嫌だ。

「す……好きな人に作ってもらったものはおいしいに決まってます」

 僕はいつも、桜田さんにおいしいお弁当を食べてほしいと思っている。なにを作れば喜んでくれるかな、あのおかずが好きだと言っていたな、これは反応がいまいちだったな、次は新しいレシピにチャレンジしようかな。
 毎日そんなことを考えながら作る。とても幸せな時間だ。桜田さんが同じように僕のことを考え、時間をかけてくれた。そのことが嬉しくて、食べる前から心は満たされている。
 普段料理をしないあなたが、僕のために。そのお弁当が、おいしくないわけがない。
 もう一度タッパーをこちらに引っ張ると、今度は簡単に手を離してくれた。

「来栖君。今、なんて」
「ありがとうございます。さぁ早く食べましょう! 中身はなにかなぁ」
「待って。食べる前にちょっと話を」
「昼休みなくなっちゃいますよ。わぁ、すごい。肉巻きおにぎりですか?」
「親に頼んで作り方教えてもらった……って、話をそらさないで」
「いただきまーす」

 タッパーにぎゅうぎゅうに詰められた肉巻きおにぎり。少し焦げてしまった豚肉はご愛嬌。甘辛い醤油味で、もりもり進む。がっつり食べられるお弁当だ。

「おいしいです!」
「本当? よかった……」

 桜田さんは大きく息を吐き、ほっとした表情をした。

「だから言ったじゃないですか。おいしいに決まってる……って!?」

 突然、桜田さんの顔が目の前に現れた。そしてあろうことか、僕の唇の横を舐めたのだ。
 僕は声にならない声を上げた。

「ご飯粒ついてたから」
「だだだ、だからってこんな」
「しかえし」

 桜田さんは意地悪な顔で笑った。