恋とはきゅんとときめいたり、好きな人の言葉で嬉しくなったり。毎日がきらきらして夢みたいな心地なのだと思っていた。
僕は今とても苦しい。好きな人に、会えなくて。
いや、今はそれだけじゃない。そんな、乙女みたいな理由じゃない。
走っているからだ。
入学式の日も思ったけど、やっぱり身体が鈍っているらしい。
足が重く、呼吸は苦しくなっている。歩いたほうが早いのではないかと思うけど、止まることはできなかった。
商店街を抜け、車の走る大通りへ出た。桜田さんに腕を引っ張られた、あの大通り。助けてもらった時のことが蘇る。
不可抗力とはいえ、あの一件で僕は桜田さんを強く意識するようになった。強引で、けっこう意地悪。かと思えば子どもみたいな顔でお弁当を食べる。優しい言葉をくれる。そんな人を嫌いになれるわけがない。
少し前に帰ったってどれくらいだ。どこに行けばいいんだ。
先にある横断歩道の信号が点滅し、赤になった。だけど、そのまま進んで行く人がいた。信号を見ていないのか? 右からは車が来ている。
僕はもう少しだけ踏ん張り、力いっぱい地面を蹴った。
「危ない!」
横断歩道を歩く彼の腕を掴み、思いきり後ろに引っ張った。
僕の視界がすっぽりとふさがれる。同時に、胸やお腹に彼の背中とお尻が激しくぶつかった。
「ぐぇっ」
容赦ない質量に押し潰されるように、そのまま背中から地面に落下し激痛が走った。い、痛い!
「え……来栖君?」
僕の上から起き上がった桜田さんが、呆然とした顔をしている。
口が開きっぱなしの桜田さんを初めて見たかも。レアだ。そんな顔していてもかっこいいなんて反則だ。
「なにしてるの」
「なにって……変なことしてたのは桜田さんじゃないですか」
なんとか上半身を起こした。背中はまだ痛い。
「赤信号で車が来てるのに進むなんて。どういうつもりですか」
「ごめん。ぼんやりして気づいてなかった」
桜田さんは本当に気づいていなかったらしく、後ろの信号を見て唖然としていた。
「珍しいですね。桜田さんがぼんやりするなんて」
「……来栖君のことを考えていた」
「僕のこと?」
「君を傷つけるようなことをして……後悔してた。だから謝りたかったんだ。本当にごめん」
桜田さんが僕に頭を下げた。
「どうして桜の精霊だ、なんて言ったんですか? 僕が面白くてからかってたんですか?」
「それは……最初はそのつもりだった」
ああ、やっぱり。わかっていたことだけど、胸がずきりと痛んだ。
このまま続きを訊くのは辛い。僕は立ち上がった。
「そうだと思ってました。じゃあ、僕はこれで」
「待って。話を聞いてほしい」
今度は僕が桜田さんに腕を掴まれた。その表情は苦しそうで、どうしてあなたがそんな顔をするのか、と疑問が浮かぶ。
僕は桜田さんに向き直った。
「ありがとう」
桜田さんはほっとした顔になり、「ふー」と小さく息を吐いた。
「私……ってもう喋り方を戻してもいいね。俺は目立つことが嫌いなんだけど、去年の文化祭でなんか目立っちゃってさ。それからたくさん告白されるようになった」
春見さんに教えてもらった話だ。
「吹奏楽部の演奏で、ですよね?」
「知ってたの? 告白されて、最初のうちは付き合ってた。だけど俺がけっこう地味というか、静かに過ごすのが好きなせいで『思ってたのと違った』って振られたんだ」
「桜田さんを振るなんて」
信じられない。
「振られてるよ。その後も何度も告白されたけど、みんなは俺のなにがいいのか疑問でさ。部活の練習も人がたくさん来て落ち着かないし、迷惑になるし……そこまで真剣じゃなかったから行かなくなった。結局、中身を見てくれる人っていないんだなぁってうんざりして」
桜田さんと一緒に過ごしたからわかる。見た目とは裏腹に、日常の些細な時間や、ゆったりと過ごすことを好む人だ。他人から注目され騒がれることは、さぞ辛い状況だったのだろう。
「で、来栖君の登場だ。入学式の日に会った新入生だってすぐ気づいたけど、まさか『桜の精霊ですか?』って言われるとは思わなかったよ」
「だって本当にそうみえたから」
「今なら君が純粋だってことはわかるけど、その時は『新しいパターンだな』って思ったわけ。しかも男子に言われたのは初めてだったから……ボロを出すまでちょっと遊んでやろうと考えたんだ。だから入りづらい喫茶店に行って、弁当作れって無茶を言った」
「やっぱり遊ばれてた」
「待って待って。君と一緒に過ごすうちに、俺のために一生懸命だってことがわかった。必死にエスコートしようとしたり、弁当を練習して作ってくれたり。純粋に俺のためにそこまでしてくれるなんて、その気持ちがとても嬉しかったんだ。桜の精霊だって信じているのかいないのか、それはどっちでもいい。来栖君と仲良くなりたいって心から思ったよ」
桜田さんが僕の右手に触れ、「怪我してる」と言った。少し擦りむいて、赤くなっている。
ちょっと痛いけど、走ったあとの身体には、この手が少し冷たくて気持ちよかった。でも。
「離してください」
「俺のことは嫌いになった?」
「嫌いとかじゃなくて」
桜田さんは眉を下げじっとみつめてきた。ずるい。そんな悲しそうな顔をするなんて。僕は悪いことをしている気分になる。
「手が、汗でべたべたしてるんで離してください」
「そんなことないよ。ほら、俺の手も熱くなってきた。どっちの汗かわからないでしょ」
指が絡まってきた。僕より大きくて筋張った手のひらから、桜田さんの熱が伝わる。熱は腕へと上がって胸まで届き、血液が流れるように、頭のてっぺんからつま先まで回っていく。
全身が溶けてしまいそうだ。
「ごめん。まだ許してもらってないのに。でも、来栖君のそんな顔見たら我慢できなくて」
「どんな顔してますか」
少しの沈黙のあと、「真っ赤になってる。可愛い顔」と耳元で囁かれた。
「わっ。もっと赤くなった」
「からかわないでください」
「ごめん。可愛いから、つい」
「桜田さんだって赤いですよ」
「やっぱり? 顔あっついもん。お揃いだね」
真っ赤になった桜田さんが笑うから、僕も笑ってしまった。
繋がっている手はお互い熱くて、べたべたして。どちらが緊張しているのかなんてわからない。僕らは今、同じことを考えているらしい。
「来栖君に会えないから、どうしようと思ってた。昼休みに実習棟のあの場所に来ないし連絡先もわからないし」
「それは……すみません。それで喫茶店に行ったんですか?」
「知ってたんだ?」
「いえ。実はさっき行ってきたんです。そしたら店員さんが『お友達も来てましたよ』って教えてくれて」
「ノートを見てくれたんだね」
「はい」
「何日か連続で行っても会えなかったし、なにも書くつもりはなかったんだ。けど、前に俺が書いたところの下に……君のメッセージがあったから」
そう。僕は桜田さんのあとにひとこと残した。本人には読まれないだろうと書いたものだから、改めて触れられると恥ずかしい。
「思い出したんだ。ああ、俺も楽しかったなって。それで来栖君に伝える方法を思いついたんだ。喫茶店に来るかわからないし、読まれるのか、気づいてくれるのかわからなかったけど。賭けだったね。でも届いてくれた。ちゃんと運命の糸は繋がってた」
「運命って……よくそんなことをさらっと言えますね」
「本当だね。そういうこと言うのは来栖君だったのに」
陽が落ち始め、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
ちょうど夕日が桜田さんと重なり、まばゆい光を発しているかのように見える。
その眩しさに僕は目がくらんだ。
この世にもし精霊がいるとしたら、こんな姿をしているのかもしれない。
僕は今とても苦しい。好きな人に、会えなくて。
いや、今はそれだけじゃない。そんな、乙女みたいな理由じゃない。
走っているからだ。
入学式の日も思ったけど、やっぱり身体が鈍っているらしい。
足が重く、呼吸は苦しくなっている。歩いたほうが早いのではないかと思うけど、止まることはできなかった。
商店街を抜け、車の走る大通りへ出た。桜田さんに腕を引っ張られた、あの大通り。助けてもらった時のことが蘇る。
不可抗力とはいえ、あの一件で僕は桜田さんを強く意識するようになった。強引で、けっこう意地悪。かと思えば子どもみたいな顔でお弁当を食べる。優しい言葉をくれる。そんな人を嫌いになれるわけがない。
少し前に帰ったってどれくらいだ。どこに行けばいいんだ。
先にある横断歩道の信号が点滅し、赤になった。だけど、そのまま進んで行く人がいた。信号を見ていないのか? 右からは車が来ている。
僕はもう少しだけ踏ん張り、力いっぱい地面を蹴った。
「危ない!」
横断歩道を歩く彼の腕を掴み、思いきり後ろに引っ張った。
僕の視界がすっぽりとふさがれる。同時に、胸やお腹に彼の背中とお尻が激しくぶつかった。
「ぐぇっ」
容赦ない質量に押し潰されるように、そのまま背中から地面に落下し激痛が走った。い、痛い!
「え……来栖君?」
僕の上から起き上がった桜田さんが、呆然とした顔をしている。
口が開きっぱなしの桜田さんを初めて見たかも。レアだ。そんな顔していてもかっこいいなんて反則だ。
「なにしてるの」
「なにって……変なことしてたのは桜田さんじゃないですか」
なんとか上半身を起こした。背中はまだ痛い。
「赤信号で車が来てるのに進むなんて。どういうつもりですか」
「ごめん。ぼんやりして気づいてなかった」
桜田さんは本当に気づいていなかったらしく、後ろの信号を見て唖然としていた。
「珍しいですね。桜田さんがぼんやりするなんて」
「……来栖君のことを考えていた」
「僕のこと?」
「君を傷つけるようなことをして……後悔してた。だから謝りたかったんだ。本当にごめん」
桜田さんが僕に頭を下げた。
「どうして桜の精霊だ、なんて言ったんですか? 僕が面白くてからかってたんですか?」
「それは……最初はそのつもりだった」
ああ、やっぱり。わかっていたことだけど、胸がずきりと痛んだ。
このまま続きを訊くのは辛い。僕は立ち上がった。
「そうだと思ってました。じゃあ、僕はこれで」
「待って。話を聞いてほしい」
今度は僕が桜田さんに腕を掴まれた。その表情は苦しそうで、どうしてあなたがそんな顔をするのか、と疑問が浮かぶ。
僕は桜田さんに向き直った。
「ありがとう」
桜田さんはほっとした顔になり、「ふー」と小さく息を吐いた。
「私……ってもう喋り方を戻してもいいね。俺は目立つことが嫌いなんだけど、去年の文化祭でなんか目立っちゃってさ。それからたくさん告白されるようになった」
春見さんに教えてもらった話だ。
「吹奏楽部の演奏で、ですよね?」
「知ってたの? 告白されて、最初のうちは付き合ってた。だけど俺がけっこう地味というか、静かに過ごすのが好きなせいで『思ってたのと違った』って振られたんだ」
「桜田さんを振るなんて」
信じられない。
「振られてるよ。その後も何度も告白されたけど、みんなは俺のなにがいいのか疑問でさ。部活の練習も人がたくさん来て落ち着かないし、迷惑になるし……そこまで真剣じゃなかったから行かなくなった。結局、中身を見てくれる人っていないんだなぁってうんざりして」
桜田さんと一緒に過ごしたからわかる。見た目とは裏腹に、日常の些細な時間や、ゆったりと過ごすことを好む人だ。他人から注目され騒がれることは、さぞ辛い状況だったのだろう。
「で、来栖君の登場だ。入学式の日に会った新入生だってすぐ気づいたけど、まさか『桜の精霊ですか?』って言われるとは思わなかったよ」
「だって本当にそうみえたから」
「今なら君が純粋だってことはわかるけど、その時は『新しいパターンだな』って思ったわけ。しかも男子に言われたのは初めてだったから……ボロを出すまでちょっと遊んでやろうと考えたんだ。だから入りづらい喫茶店に行って、弁当作れって無茶を言った」
「やっぱり遊ばれてた」
「待って待って。君と一緒に過ごすうちに、俺のために一生懸命だってことがわかった。必死にエスコートしようとしたり、弁当を練習して作ってくれたり。純粋に俺のためにそこまでしてくれるなんて、その気持ちがとても嬉しかったんだ。桜の精霊だって信じているのかいないのか、それはどっちでもいい。来栖君と仲良くなりたいって心から思ったよ」
桜田さんが僕の右手に触れ、「怪我してる」と言った。少し擦りむいて、赤くなっている。
ちょっと痛いけど、走ったあとの身体には、この手が少し冷たくて気持ちよかった。でも。
「離してください」
「俺のことは嫌いになった?」
「嫌いとかじゃなくて」
桜田さんは眉を下げじっとみつめてきた。ずるい。そんな悲しそうな顔をするなんて。僕は悪いことをしている気分になる。
「手が、汗でべたべたしてるんで離してください」
「そんなことないよ。ほら、俺の手も熱くなってきた。どっちの汗かわからないでしょ」
指が絡まってきた。僕より大きくて筋張った手のひらから、桜田さんの熱が伝わる。熱は腕へと上がって胸まで届き、血液が流れるように、頭のてっぺんからつま先まで回っていく。
全身が溶けてしまいそうだ。
「ごめん。まだ許してもらってないのに。でも、来栖君のそんな顔見たら我慢できなくて」
「どんな顔してますか」
少しの沈黙のあと、「真っ赤になってる。可愛い顔」と耳元で囁かれた。
「わっ。もっと赤くなった」
「からかわないでください」
「ごめん。可愛いから、つい」
「桜田さんだって赤いですよ」
「やっぱり? 顔あっついもん。お揃いだね」
真っ赤になった桜田さんが笑うから、僕も笑ってしまった。
繋がっている手はお互い熱くて、べたべたして。どちらが緊張しているのかなんてわからない。僕らは今、同じことを考えているらしい。
「来栖君に会えないから、どうしようと思ってた。昼休みに実習棟のあの場所に来ないし連絡先もわからないし」
「それは……すみません。それで喫茶店に行ったんですか?」
「知ってたんだ?」
「いえ。実はさっき行ってきたんです。そしたら店員さんが『お友達も来てましたよ』って教えてくれて」
「ノートを見てくれたんだね」
「はい」
「何日か連続で行っても会えなかったし、なにも書くつもりはなかったんだ。けど、前に俺が書いたところの下に……君のメッセージがあったから」
そう。僕は桜田さんのあとにひとこと残した。本人には読まれないだろうと書いたものだから、改めて触れられると恥ずかしい。
「思い出したんだ。ああ、俺も楽しかったなって。それで来栖君に伝える方法を思いついたんだ。喫茶店に来るかわからないし、読まれるのか、気づいてくれるのかわからなかったけど。賭けだったね。でも届いてくれた。ちゃんと運命の糸は繋がってた」
「運命って……よくそんなことをさらっと言えますね」
「本当だね。そういうこと言うのは来栖君だったのに」
陽が落ち始め、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
ちょうど夕日が桜田さんと重なり、まばゆい光を発しているかのように見える。
その眩しさに僕は目がくらんだ。
この世にもし精霊がいるとしたら、こんな姿をしているのかもしれない。

