すべては桜のせいにして

 アラームが鳴り、枕元に手を伸ばす。スマホ画面の停止を押すと、暗い部屋は無音になった。
 いつもなら時間のかかるこの作業が、今日は音がして数秒で終わった。
 それもそのはずだ。ほとんど眠れなかったのだから。
 ベッドを出て洗面所で顔を洗う。目は覚めているのに、頭がぼーっとするような、不思議な気分だ。
 そのままキッチンに向かう。水切りかごに置きっぱなしの卵焼き用フライパンをコンロに置いた。
 火を点け、お椀に卵を割り入れる。そこへ調味料を入れ、かき混ぜた後ツナを投入した。
 ここまでは、もう流れ作業のように動ける。
 温まったフライパンに卵を流し入れた。じゅうう、と香ばしい音を耳にすると、「おいしく作るぞ」と朝から気合いが入る。昨日まではそうだった。

『樹里先輩』

 そんな気分にならない理由はわかっている。桜田さんのことだ。
 僕は笑われているのかも、という事実を受け入れたくない。好きだからみないふりをしていた。一緒にいたくて。
 「ご奉仕」が必要と言い、喫茶店へ行きたいと言ったりお弁当を作れと言ったり。
 からかわれていると気づいていても、僕は。
 ただ、あの優しさが嘘だったなんて思いたくない。胸に温かさを感じさせてくれたのは、桜田さんだったのに。

「おはよう。直は今日も早いね……って、焦げてる焦げてる!」
「えっ、うわぁぁぁぁ!」

 慌てて火を止めたが遅かった。
 フライパンの上には、薄く黒い物体ができあがった。お椀の中には、卵がたくさん残っている。上達し、少しずつ流し入れられるようになったからだ。食材の被害が最小限で済んだことは、不幸中の幸いかもしれない。

「ここ数日は上手くいってたのになぁ。やっぱり慣れた頃が一番危険だな。仕事と同じだ」

 父さんは一人で納得しているけど、寝ぐせでとんでもないことになっている姿では、なにを言っても説得力がない気がする。

「どうしたんだ、直。今までなら失敗すると大騒ぎしてたのに」
「それこそ慣れってやつなんじゃないの。残りの卵を焼けばいいことだし」
「そうだけど……なんか、急に冷静になっちゃったな。彼女と喧嘩でもしたのか?」

 僕は一瞬言葉に詰まったが、すぐに「喧嘩なんてしてないよ」と返した。

「そもそも彼女じゃないし」
「でも好きなんでしょ? その子のこと」

 父さんの問いに返事はしなかった。
 昨日から疑問が消えない。桜田さんのことは好きだ。かっこいいし、優しいし、どきどきする。でもそれは、桜の精霊だと嘘をついていた桜田さんであって、本当の桜田さんではないんじゃないか?
 だとしたら、僕の気持ちは一体なんだ。綺麗な人を目の前にして、舞い上がっていたのか。
 ああ、そうか。ただの憧れだったのか。
 だから春見さんと桜田さんのやりとりを見て、嫌だ、なんて思ってしまったのか。僕たちだけの世界じゃなかったんだって、現実をみせられた気がして。ほら、よく芸能人に恋人ができたらショックだ、みたいな話をSNSで見る。それと同じ。
 好きって、もっと綺麗で、純粋なもののはずだろう。だから、これはそういうファン心理かも……。

 本当に?
 わからない。誰か教えてよ。



 曇り空の中、登校し、門から少し離れた場所にある桜の木を見た。
 他の木はとうに花が散ったというのに、「噂の桜」には今日も綺麗な花が咲いている。
 初めは「桜田さんの桜」だと思っていたけど、ただの桜だ。精霊なんていない。

「あれ? 今日はトイレ行かねぇの?」

 昼休みになり、中田が無遠慮に訊いてきた。

「トイレじゃなくて、知り合いの先輩と会ってくる」
「来栖にそんな知り合いがいたのか。もしかして部活の? てかお前部活入ってた?」
「入ってないけどいるんだよ」
「ふぅん? よくわからんけど俺は購買に行くぞ。じゃあな」

 いつものようにお弁当の入ったトートバッグを持ち、実習棟へ向かった。
 
「来栖君。よかった、来てくれたんだ」

 階段から見上げた桜田さんは、今日も綺麗な顔をしていた。初対面で感じた煌めきはないけど、「イケメン」という言葉が似合うかっこよさがある。
 
「ええ? なんですかそれ。もちろん来ますよ。桜田さんに食べてほしいですからね」

 いつも通りトートバッグからお弁当を取り出す。

「座らないんですか?」
「あ、ああ。座るよ」

 桜田さんが正面に座った。お弁当を渡すと桜田さんは、「ありがとう」と静かに言った。
 いつも大袈裟なくらい喜んでくれるから、反応のなさに拍子抜けした。ああ、僕に興味がなくなったのか。桜の精霊ではないとバレて、面白い嘘がつけなくなったから。
 トートバッグから自分のお弁当を出し、蓋を開けた。卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、唐揚げ、コロッケ、白米にはおかかがのっている。

「唐揚げうまいよ」
「あ……よかったです。それ、冷食なんですよ。家でもたまに食べるんですけど、おいしいですよね」

 僕はにこやかに返す。
 卵焼きはなんとか焼き直したものの、他に作る気にもなれず空間が空いてしまった。仕方がないので、初めて冷食に手を出した。今までお弁当は手作りで頑張っていたけど、時間がなくなり苦肉の策をとったのだ。

「そ、そうか。あ、こっちのコロッケもうまい」
「それも冷食で……お弁当用っていうミニサイズの。冷食って本当すごいですよね。もう手作りする必要ないですよね」

 僕は唐揚げを口に入れた。肉は冷めても柔らかく、衣はちょうどよく生姜が効いている。次にコロッケを食べる。クリーミーなホワイトソースが口の中でとろけた。二つともおいしい。自分では作れない献立だ。

「そんなことはないよ。来栖君が作ってきてくれて嬉しい」

 桜田さんは落ち着いた声で言った。
 僕の知らない桜田さんのような気がした。

「またまたぁ。僕が作ってくればお昼を持ってこなくていいからじゃないですか? そのほうが楽ですもんね」

 僕は笑いながら答えた。だめだ。こんなことを言いたいわけじゃない。桜田さんは黙ってしまった。
 無言の時間が続き、僕は耐えられなくなり卵焼きを口に放り込んだ。なんだか味が薄い気がする。胡麻和えを食べる。これも味が薄い。
 普段は気にもしない自分の咀嚼音が、やたらと耳に響く。

「楽だからなんて思ったことはないよ」
「本当ですか? 怪しいなぁ」
「本当だよ」
「じゃあなんのために、僕にお弁当を作ってこいって言ったんですか」
「それは」

 桜田さんは口を噤んだ。
 ああ、やっぱり。気まぐれに楽しんでいただけなんだ。
 言葉の続きを聞きたくない。聞きたくないよ。

「桜田さん。どうして桜の精霊だなんて言ったんですか。僕のことをからかうのが好きって言ってましたよね。僕の反応を見て楽しんでいたんですか。面白かったですか」
「来栖君、違うよ。違うんだ」
「違うってなんですか。僕がバカでした。桜田さんに出会わなければ、僕は」

 あなたを好きになることなど、なかったのに。
 食べかけの弁当箱に、乱暴に蓋をした。

「来栖君!」

 僕は立ち上がり、急いで階段を下りた。
 静かな実習棟に、うるさい足音が響き渡る。
 苦しい。桜田さんの心の内が知りたいのに、訊くのが怖い。本当のあなたは、なにを思っているのか。
 渡り廊下で一度足を止め、窓の外を見た。雨が降り始めている。
 あの桜はもう、散ってしまうだろう。