すべては桜のせいにして

 入学式の日、僕は走っていた。

 第一志望の桜西高校へ合格し、今日から晴れて高校生だ。
 学校の最寄り駅を通る電車は一時間に三本で駅から徒歩二十分。長い坂を上った先に位置する少々難のある立地だった。
 その道のりを走って進むなんて正気の沙汰ではないと思う。一応、中学時代はテニス部所属で運動はしていた。ただ、引退して半年以上経った身体はスムーズに動かない。でも仕方がないんだ。
 僕が寝坊してしまったのだから。
 父さんは外せない仕事があるそうで、入学式には来られない。朝の弱い僕を起こしていってくれたというのに。
 僕は、僕は……。
 朝食のトーストを食べ歯磨きをし、さぁ準備万端だと油断してはいけなかった。二度寝してしまったのだ。
 だって仕方ないじゃん! 
 春の柔らかな日差しが降り注ぐリビング。太陽の光は、室内をほどよい暖かさに保ってくれる。出発までは三十分以上あった。余裕があれば、少しだけ休憩しようと思うのは自然なことだ。

「いい天気。入学式日和って感じだなぁ」

 一人きりの静かな空間でソファに座ると、少しずつ瞼が落ちてきた。
 父さんは休めなくてとても残念がっていたな。忙しいもんね。ああ、あったかいなぁ。ちょっとだけなら目を閉じてもいいかな。ほんと……ちょっとだけ。
 そんなことを考えている間に、少しだけ眠ってしまった。
 あれ? 今、何時だっけ?
 そう思いセンターテーブルのスマホを手に取った。視界がぼやけている。目を細めると八時五十分の表示が見えた。入学式は十時だから今から行けば大丈夫か。

『入学式は十時からだけど生徒の集合は九時半だ。直はいつもぎりぎりだから早めに行ったほうがいい。遅刻だけはするなよ』
『嫌だなぁ父さん。大事な日なんだから早く行くに決まってるじゃん』

 父さんと交わした会話が脳内をよぎった。
 九時半って……あと四十分?
 
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 いつの間にか寝転がっていたソファから飛び起きた。急いでリュックを抱え外に出る。たぶん、これまでの人生で一番速いスピードだった。
 入学式に遅刻だなんて!
 僕は涙を流しながら駅まで走り、運よくちょうどきた電車に乗り、学校までの道をひたすら走っているのだ。
 それにしても遠い。受験の時は友達と一緒だったからかまったく感じなかったのに。
 さっきから坂を上っているけれど一向に終わらない。微妙に勾配があり、じわじわと足にダメージを与えてくる。
 もう、ずっと息が上がりっぱなしだ。
 苦しくて、ついに謎の幻聴が始まった。さっきから気の抜けた電子音が聞こえるのだ。

 テンテンテン。
 はぁはぁ。
 テンテンテン。
 はぁはぁ。

 いや待て。これはスマホ鳴ってない?
 僕は一旦足を止め、リュックのポケットを探る。スマホを見ると、案の定父さんからの着信だった。
 息を整えるため数秒待ってから通話ボタンを押した。

「もしもし」
『もしもし直? LINEの返事がないから父さん心配したぞ」
「ごめん父さん。スマホ見てなくて……それに、まだ学校に着いてないんだ」
『着いてない!?』
「その、二度寝しちゃって」
『二度寝!? 心配が的中するとは……いつもののんびりをこんな日に発揮しちゃったか』

 電話の向こうからは呆れたような、僕に対する諦めの様子が伺えた。
 父さんは少し無言になったあと、『今日は帰ってからじっくり話そうか。とにかく到着したら父さんに連絡しなさい。心配だから』と落ち着いた声で言った。そして僕が返事をする前に電話は切れてしまった。
 ああ、やってしまった。こういう時の父さんは相当怒っている。
 うな垂れながらスマホをリュックに戻し、僕はまた走りだした。
 昔からよく「マイペース」だと言われた。小学一年生の運動会でパン食い競争に出たときのことだ。頑張って食らいついたパンの中身は、なんと大好きなクリームパン。夢中になって食べていたら、先生にゴールまで連れて行かれる始末。
 高校生になるのだから、さすがにこの性格を直したいとは思っている。思ってはいるけど、なぜか上手くいかない。自分の興味を優先してしまう。果たして改善できる日はくるのだろうか。
 必死に走ってようやく校門の前に辿り着いた。大きく息を吸ったり吐いたりして、少しずつ苦しさから解放される。
 呼吸が落ち着き顔を上げたとき、僕の目に美しい光景が飛び込んできた。学校を囲うように、たくさんの桜の木が並んでいたのだ。薄いピンク色が青空によく映えている。
 僕は桜が好きだ。小さな花びらが可愛らしいなと思うし、すぐに散ってしまうところに儚さを感じる。でも、この魅力を友達はわかってくれない。近所のおばちゃんのほうがよっぽど理解してくれる。
 周囲の桜を見ていてあることに気がついた。奥にある木の下に誰かが立っている。
 僕以外にも遅刻した人が? そうだったら心強い。
 期待を抱いて少し近づいてみるが、ぼんやりしていて人相がはっきりしない。不思議に思いもう少し近づいてみる。あ、なんとなくはっきりしてきた。男の人が立っているけど……なんだ?
 見間違いかと目を擦り、改めて視線を向ける。もう一度見ても、その人の周りはきらきらと光り輝いているのだ。
 すらりとした長い手足に色素の薄い髪、どこか遠くをみているような気だるげな目元と形の良い唇。周囲の桜のが風に揺られ、僕と彼の間にはらりと舞う。
 まるで絵画を見ているようで、僕は目が離せなくなった。
  
「綺麗……」

 ぽつりと漏れた言葉は風にのって、絵の中へ吸い込まれた。遠くを見ていた瞳が僕の全身を射抜く。
 視線が、絡まった。

「あ」

 どくん。心臓が大きな音を立てる。
 
「電話、鳴ってない?」
「え?」

 止まっていた思考が「電話」という単語で回転を再開した。

 テンテンテンテン。

 本当だ。電話が鳴っている。
 静寂の中で響く着信音は場違いな気がしたけど、お陰で意識が現実に戻ってきた。
 着信は父さんからだった。
 
『直? もうすぐ十時だけど着いたか? まだか? まだならあとどれくらい? 間に合うか?』

 通話ボタンを押した途端、父さんの声が濁流のように流れてきた。

「学校には着いたよ」
『着いたら連絡してくれよぉ。そう言った気がするんだけどなぁ』
「そうだっけ。ごめん、走っててよく聞こえなかった。それよりさっき電話したばかりだよ。心配性だなぁ」
『心配するよ! ……まったく。まずは職員室に来てってことだったから、きちんと行くんだぞ』
「うん。わかった。うん、うん、はい」

 切る前にいろいろと小言を言われた。今日の夜は長い説教になるんだろうな。
 小さく息を吐き、スマホをリュックに戻してふと気がつく。
 誰もいない。

 地面には花びらが落ちていた。