君が見たかった景色

 23時半。俺は静かに家を出て、ひとつ隣のマンションに向かった。マコ兄の家の合鍵を貰った時は嬉しくて、色違いのキーカバーを付けてもらった。もうみんなのマコ兄、じゃなくて、俺だけのマコ兄になってくれた喜びを実感した。

 鍵を使って勝手に上がり込み、電気を付けた。ベッドから体を起こしたマコ兄は、「なになに、どったの?」と言いながら、寝ぼけ声をあげながら目をこすっていた。
 ボサボサの髪に、だらしないTシャツ姿。会社員やってる時のピシッとしたスーツ姿もいいけれど、俺はこの無防備なマコ兄を独占できている時間がたまらなく好きだ。

「マコ兄、起きて。今すぐ車出して」
「んー? 今何時だと思って……」
「そうだよ。何時だと思ってるの。ペルセウス流星群、今夜がピークなんだよ。小樽の海に行って、見ようよ」

 急な提案に目を白黒させるマコ兄を半ば強引に引っ張り出そうとすると、マコ兄は「顔洗わせて」と寝ぼけた声で洗面所に向かった。俺は待っている間にベッドに転がって、マコ兄の温もりを自分の体中に塗りつけた。
 すると「出るんでしょー?」と、マコ兄が俺を呼んだ。パッチリ開いた瞳に眼鏡をして、髪はボサっとしたままだったけど、俺以外に誰もいないし、気にしてないみたいだった。俺たちは地下駐車場に向かって車に乗り込んだ。マコ兄はひとつ大きな欠伸をして、エンジンを付けた。

 車は静かに夜の街を走り始める。街灯の光が規則的に車内を照らしては過ぎ去っていく。ハンドルを握るマコ兄の横顔は精悍で、だけど少しだけ困惑しているように見えた。そして遠慮がちに口を開いた。
「リオ、こんな時間に出て来ていいのか? 明日だって補習あるんだろ? あまりお母さん心配させんなよ」
「別にいいよ、親にはマコ兄と遊んでくるって言ってきたし。眠くなったら授業中寝るし。とにかく、マコ兄と星が見たかったの」

 そっけなく答えると、マコ兄は苦笑いしながら「このワガママ坊主」と言って俺の頭を撫でようとしたけど、途中でその手をピタリと止めた。そして、少し気まずそうにハンドルへと手を戻す。
 ……触ってくれてもいいんだよ?
 喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、俺はマコ兄の迷いに気づかないフリをした。

 俺たちは幼馴染だ。七歳も年上のマコ兄は、俺にとってずっと憧れの「近所のお兄ちゃん」だった。けれど先月、俺が17歳の誕生日に思いをぶつけ、俺たちは付き合うことになったはずだった。
 なのに、マコ兄は俺に触れようとしない。

 今この時だって、どこか一定の距離を保とうとしているのがわかる。世間の目。未成年と社会人。彼が何を気にしているのかは痛いほど分かっていた。俺を傷つけないため、大事にするための優しさなんだろう。
 でも、そんなの全然嬉しくなかった。
 本当は俺のことなんて、ただの弟の延長線上でしか見ていないんじゃないか。罪悪感から断れずに、付き合っているフリをしてくれているだけじゃないか。そんな黒い不安が、暗い車内でじわじわと胸を締め付ける。

 自分の冷めた部分が嫌になる。素直に甘えられたら楽なのに。だから俺は、わざと子供みたいに我儘を言うことにした。マコ兄が、本当は俺をどう思ってるのか知りたいから。俺は窓の外を見たまま言った。
「マコ兄、手、繋いでよ」
「今運転中だからダメ」
 案の定、断られる。今度はミラー越しに言った。
「じゃあ、赤信号になったら」
「……」
 信号が赤に変わる。車はゆっくり速度を落としていく。完全に止まると、マコ兄は溜息をつきながら、シフトレバーから手を離して俺を見た。そして俺が差し出した手をそっと包み込んでくれた。大きな、温かい手。でも、そこには恋人を抱き寄せるような情熱はなくて、どこか遠慮がちだ。

「ねえ、マコ兄。俺と付き合うの、迷惑だった?」俺はふいに聞いた。
「え? なんで?」
「だって、全然触ってくれないじゃん。好きとも言ってくれない。周りにバレたらマコ兄が困るから……、俺がガキだから、無理してんの?」
 歩行者用の信号が、俺の心臓と同じ速度で点滅している。

「それは違う」
 マコ兄はそう言って、一度俺の手を解いて再びハンドルを握った。
 流れる景色を眺めたまま、俺はマコ兄の言葉の続きを待っていた。でも、マコ兄は黙って正面を見つめているだけだった。遅い時間に起こされて、ガキんちょの俺に我儘放題されてるんだ。ひょっとしたら怒ってるのかもしれない。俺は窓の外から上空を見上げた。雲も月明かりもない。良い。

 すると車が静かに停車した。いつのまにか小樽の海岸沿いに到着していた。車から外に出て浜辺へ降りる。地元の人たちも星を見に来ているのか、いくつかのグループができていた。皆、ひそやかに、その時を待っているみたいだった。波の音だけが響いている。

 俺たちは適当な場所で砂浜に座り込んだ。俺はスニーカーを脱いで、入り込んだ砂を払い落とした。腕時計を見る。

「そろそろかなぁ。ピークは今夜って言ってたから、見れるはずなんだけど」
 真っ暗な夜空を見上げていると、唐突に声を掛けられる。
「リオ」
 俺はマコ兄を見上げた。マコ兄は言いにくそうな顔で俺を見ていた。なんだろ、これ。やっぱ別れよう。とか言われるのかな。
「ねー。マコ兄、さっきの話さー。気にしないでほしいっていうか忘れてほしいっていうか」
 すると、マコ兄は首を左右に振って俺の言葉を遮った。

「それなんだけどさ。勘違いしてほしくない。俺は、めちゃくちゃ我慢してる」
「……え?」
 意味が分からなくて、俺はマコ兄の顔を覗き込んでしまった。おかげで星が流れたことに気づかなかった。マコ兄は俯いたまま、砂浜を見つめて続けた。

「ちゃんと言ったことなかったから、不安にさせてたんなら謝る。本当は、会うたび抱きしめたいくらい好きだ」
「え、うっそ」
「嘘じゃない」
 マコ兄が俺を見て言った。

「でも、リオはまだ高校生だろ。俺は大人。お前の将来も大事だし、周りからの反応も心配だ。お前があることないこと言われるのは困る。でも本当は、そんなのどうでもよくなるくらい、リオともっと一緒にいたいと思っている」

 マコ兄の真っ直ぐな瞳が、俺を射抜いた。そこには俺が恐れていたような「弟を見る目」なんて欠片もなかった。マコ兄が理性と欲望の板挟みになっていたことを知って、俺は嬉しくなってしまった。困惑している顔が、とても愛おしかった。大人の男でもなんでもない、ただのマコ兄だった。マコ兄は照れ笑いを向けて、頬を掻きながら言った。

「大事にしたいから、これでも我慢してんの。伝わんねぇかな。伝わんねぇよなあ。これじゃあ口だけ野郎だし」
「口だけ野郎になりたくないなら、口にしてよ」
 俺はそう言いながら、マコ兄にすり寄った。顔に手を伸ばして、求める。

「えぇ? まわり、人いるから……」
「みんな流星見てるから、気づかないよ」
 俺はマコ兄の反論を聞かず、いや、反論させないために口を封じた。
 たった数秒間の触れ合いが、数週間の距離を一瞬で埋めたような気がして、ふいに涙がじわりと滲んできた。

「泣くなよ」
 どこか恥ずかしそうに、マコ兄が言った。そのまま続ける。
「リオもさ、俺のことマコトって呼んでよ」
 俺はハっとした。マコ兄の方も、俺に「マコ兄」って呼ばれることに、距離を感じていたのかもしれない。俺は急に照れくさくなって、すぐに名前を呼べなかった。

「マ、……、まこと…」
「なんだ。リオのくせに、照れてんの?」
 マコトが肘で俺を軽く突いた。俺たちはケラケラ笑って、今度はしっかり手を繋いで、ぎゅっと握った。
 夜空を見上げる。
「別に照れてないし。星がきれいで、感動してるだけ。ほら見てよ」
 そう言って、星空を指さした。そこには、俺がマコトと一緒に見たかった景色が広がっていた。