幼馴染の前世が俺に飼われていた犬らしい

 瞼を開けると、紅色の重厚な布が視界に映った。
 ぼんやりとする意識の中、視線を巡らせると同じ布が、俺が横たわるベッドを囲うように垂れている。漫画やドラマで見かける、天蓋というやつか、と思い至る。
 しかし、俺の部屋のベッドには、たまに一緒に寝ることがある来夏の部屋のベッドにだって、天蓋なんて豪奢なものはついていない。
 更に周囲を見回せば、瑞々しい花が活けられた花瓶や明らかに高級そうな調度品、カーペットなども設えられている。
 西洋めいた、貴族邸の一室のような空間。
 それは覚えのない空間なのに、どこか懐かしさがあった。
 身体を起こそうとすると、突然に胸のあたりが具合悪くなる。堪らず咳を零すと、喉が焼けるように痛くなった。
 と、とたとたと足音が迫ってくる。
 目を向けると、ベッドに傍に、一匹の、大きな犬がいた。
 ブロンドのふんわりとした毛に身を覆っていて、和やかな雰囲気があった。なのに、つぶらな瞳でこちらを見つめてくる犬は、どこか切なげにも見えて、俺はそれを少しでも慰めるように――自然と、その名前を象っていた。
「ライカ」


***


「――おれたちの前世について知りたい?」
 体育祭も終わり、残暑も薄れ秋めいてきた、昼休み。
 俺と来夏は葉々が赤く色づきつつある中庭の隅にいた。
 普段は教室や踊り場で昼を取ることが多いが、前世にまつわる話を聞きたいと思い、そのためには人気のないところに行くべきだろうと俺が連れ出した。
 そうして、弁当と食べ終えるなり尋ねると、来夏は目を丸くした。
「どうしたの、突然。今まで聞いてこなかったのに」
「それは……正直、これまで、お前が前世思い出した云々を信じてなかったっていうか……信じたくなかったところがあって」
「信じたくない?」
 来夏がこてんと首を傾げる。
「……なんていうか、俺がそれを信じて認めちゃうと。前世を思い出すまでの、今までのお前がいなくなっちゃうみたいで、怖かったっていうか」
 でも、と俺は続ける。
「体育祭を経て、来夏は来夏だって思った。前世を思い出して、猫っぽかったのが犬っぽくなって、面倒くさがりでもなくなったけど。それでも、根っこは変わらない。来夏だって思ったら、大丈夫な気がした」
「修ちゃん……!」
 どこかで感極まったらしい、来夏がぎゅうっと俺を抱きしめてくる。
「それから、俺もそれっぽい夢見たっていうか」
「えっ」
 身体を離した来夏が、ぎょっと目を見開く。
「あんまちゃんとは覚えてないんだけど。なんか、貴族みたいな部屋のベッドにいて……近くに犬が来て。その犬のことを「ライカ」って呼んだことは覚えてる」
「そう……そっかぁ……」
 来夏の瞳は切なく煌めきながら伏せられ、声もやや湿り気を帯びる。
「夢を見ても思い出せなかったから。話を聞いても、思い出せるかはわからないし。思い出したいかもわからないけど……。でも、どんな前世だったか気になりはしたから。お前から聞けたらと思ったんだけど……」
 来夏のどこか陰りと含みのある態度は、解けない。
「もちろん、お前が話したくないなら、無理強いはしない……けど」
 前世の記憶を思い出してからの、来夏の俺に対する献身欲は凄まじかった。だから、よほど良くしてもらっていたのだろうと思っていた。だが、案外そうでもなかったのだろうか。
――もしかして、逆だったりするのか?
 前世の俺にさんざん虐められたから、今度は虐められないように必死に身を献げている、とか。
「……前世の俺ってもしかしてめちゃくちゃ最低なやつだったりした?」
「修ちゃん」
 頑なな声とともに、来夏は俺の肩をがっしりと掴んだ。
 青みがかった瞳が、真剣に、俺を見つめる。
「それは、それだけはない。修ちゃん本人だとしても、修ちゃんを貶めることを言うのは、おれ、許せないよ」
「ご、ごめん」
「ううん」
 来夏はふるふると、天然のブロンドヘアとともに首を小さく横に振り、俺の肩から手を離す。
「おれも、肩、強く掴んじゃって、ごめん。おれが、変な態度を取ったせいで、そう思ったんだよね。前世の修ちゃんは、とても、とーってもいい飼い主だったよ……ただ、おれが。不甲斐ない気持ちになるから」
 不甲斐ない気持ち。一体なんで。
 首を傾げる俺に、来夏は眉尻を下げて、瞳を伏せて。
 けれど、やがて意を決したように、ゆっくりと唇を動かした。
「……前世の修ちゃんはね、身体が弱くて、お邸からあんまり出られない子だったんだ。それでも、幼い頃は時折だけ外に出られて。そのタイミングで、捨て犬だったおれを拾ってくれたの。最初は、修ちゃんのお父さんもお母さんも最初はあんまりいい顔してなかったけど。修ちゃんがいっぱい説得してくれたから、修ちゃんがおれと友だちになりたいって言ってくれたから、飼ってもらえることになったの。修ちゃんは毎日おれと遊んでくれて、可愛がってくれて、大切にしてくれた……今世のおれに対する修ちゃんみたいにね?」
 来夏は悪戯っぽく笑んだが、またすぐに表情は陰る。
「でも、修ちゃんの身体はずっとよくならなくって。むしろ、どんどん、悪くなっていって。今の修ちゃんの歳になる頃には、ベッドから身体を起こすのも辛い状態になってて……おれは、それを見ていることしかできなかったんだ。修ちゃんの傍にいたのに……」
「そんなの仕方がないことだろ。お前は犬だったんだし」
「でもっ」
 来夏は再び俺の肩を力強く掴んでから、はっとしたようにその力を緩める。
「……でも、おれは、修ちゃんの力になりたかった。なれないまま、修ちゃんは……」
 俯いた来夏から、すん、と切ない音が鳴る。
 その頬を両手で包むと、そっと顔を上げた来夏が困ったように笑む。
「修ちゃんは、もし来世っていうものがあったら健康に生まれたい、って言ってた。それを聞くたびにおれは、来世は人になりたい、って思ってた。修ちゃんの傍で、修ちゃんと言葉を交わして、修ちゃんの力になれる人に」
『修ちゃんのためになら何だってする。そうして、修ちゃんを幸せにするのが、俺の人生の一番の目標なんだ!』
 かつて来夏はそう高らかに宣言していた。
 その胸には、計り知れない悔いと悲哀があって。
 けれど、俺はやっぱり、その記憶を思い出すことは出来なくて。
「……来夏の気持ちも、決意もわかった。お前が、俺に尽くそうとしてくる理由も。それでも、前にも言ったけど。そのことで、俺への気持ちを我慢したり、無理をしたりしないでほしい。俺だって、お前に痛かったり苦しい思いをしてほしくない。お前はただでさえ、俺を守ろうとしすぎるところがあるから。俺の代わりに、自転車に撥ねられたときだって……本当に、心臓が止まるかと思った」
「心配をかけたのは、ごめんだけど。先におれの手を放して、自転車の前に飛び出て、おれの心臓をきゅってさせたのは、修ちゃんの方だからね」
 半目になった来夏が俺を睥睨する。
「そ、それは……子どもが轢かれそうだったから」
「おれも修ちゃんが轢かれそうだったから」
 互いに主張を譲らず見つめ合い、やがて俺の方が息を吐いて来夏の頭を撫でた。
「ああいう場面は、身体が勝手に動いちゃうけど。出来るだけ気をつけるようにはするから。お前も無茶しないこと。いいな」
 小指を差し出せば、来夏は「はーい」とあっさり自身の小指を絡めてくる。
「まぁ、おれも早死にはしたくないからね」
 二人でしたかった話はひと段落、次は移動教室だからと、早めに中庭を後にする。
 その途中で、俺はトイレに寄った。
 来夏は「修ちゃんの分もテキスト持ってくるね」と相変わらず幻覚の犬耳を垂れさせ、尻尾をぶんぶん振りながら、先に教室に戻ったはずなのだが。
 用を足してハンカチで手を拭いながら廊下に出ると、来夏の姿はまだ近くにあった。
 来夏の周囲には女子が数人いた。
 来夏は昔から人混みが苦手で、ああいう風に囲まれるのも好きじゃなかった。
 だから、駆け寄って助け出そうと思ったのだが――。
「山蕗くんのクラス、文化祭何やるの」
「アニマル喫茶だよ」
「へぇ~、楽しそう。遊びに行ってもいい?」
「売り上げに貢献していただけるのならぜひ」
「ふふ、なにそれ」
「ねぇ、もし時間あったら、文化祭一緒に見て回らない?」
 よく見れば、周囲の女子は皆、頬を染めて、熱っぽい眼差しで来夏を見ていた。
 幼い頃はさして気にも留めなかったが、思春期に突入する頃には、来夏が人好きのする容姿であるらしいことを理解した。
 その頃から来夏は周囲と比べて背が高かったし、クォーターだとかで海外の血が入っていることによる天然のブロンドヘアはとても目立っていた。その時点で華やかな容姿なうえに、整った面立ちをした来夏を、男子たちは羨むように、女子たちは頬を染めるようになった。
 告白されることもあったが、来夏は他人と関わることに消極的で誰に対しても「面倒くさいから嫌だ」という振り方をしては、小中高いずれでも噂され「山蕗くんって顔だけはいいんだけどね」とその手の感情を向けられなくなっていった。
 だが、夏休みが明けてからの雰囲気の柔らかさに加えて、体育祭でも大活躍した来夏は女子からかなり好評らしく、また声を掛けられることが増えた。
 ああやって囲まれているのを見るのはさすがにはじめてだったが。
 それに対して、来夏は今、つっけんどんに突き放すことなく、緩い笑みを浮かべながら、円滑に交流出来ている。
 消極的じゃなくなった、俺以外ともまともに関われるようになった来夏の世界は、これからどんどん広がっていくかもしれない。
 友だちも増えていくかもしれない。
 それでも、来夏の隣は、一番の幼馴染で友だちは、俺であってほしい。
 けれど、もし。来夏に特別な人が……恋人ができたら。
 そうなったら、さすがに、来夏の隣を明け渡さなくてはいけないだろう。
 来夏と、来夏の恋人が並んで、楽しそうに笑い合う姿。
 その光景を思い描くと、微笑ましさを覚える一方で、胸のあたりに細い針で刺されたかのような、ちくりとした痛みが走る。
 この感覚は何だ――と思ってから、俺はふと気づいた。
――このまま来夏を誰かの元に送り出すのが心配だからか。
 体育祭の帰り道、俺は来夏にキスされた。
 来夏と手を繋いだりハグをしたことはあったが、キスをしたのはあれがはじめてだった。
 さすがに動揺して、キスの意味とか、キスした後の俺の反応に対して来夏は何を思っているのだろうかとか、考えてしまった。
 だが、冷静になった今改めて考えると、あれこそ犬の前世を思い出した延長の行為だったのではないかと思う。先に来夏から聞いた前世での俺への慕いっぷりを聞けばなおさらに。飼い犬が、飼い主への愛情表現の一環としてキスをする動画を見たこともある。
 だから来夏にとってあれは、きっと、手を繋いだり、ハグをしたりと大して変わらないこと。つまり、幼馴染への親愛以外特に何も考えていないも同然のこと。
 だけど、さすがにキスは、世間的には恋人以外にするべきではないことだ。
 もし来夏に恋人が出来た後にも平然と俺にキスをかましてくるようなら大問題。大問題だが、正直来夏ならやりかねない気がする。
 その心配が、教育しなくてはいけないという使命感が、俺の胸をちくちくと痛めているのだろう。
「あ、修ちゃん!」
 ぼうっとしている間に、女子たちの輪から、来夏がこちらに駆け寄ってくる。
「ごめんね、先に教室に戻って修ちゃんの分のテキストも持ってくる予定だったのに……女子に捕まっちゃって」
 来夏は胸に詰まっていたものを放つように、大きく息を吐いた。
 円滑に交流は出来ていたが、人に囲まれるのは相変わらず得意じゃないままのようだった。
「……大丈夫か?」
 尋ねれば、ようやく来夏はいつもの笑顔を浮かべる。
「うん、心配してくれてありがと、修ちゃん」
――ぼうっとしていて助けに行くことが出来なかったのに、礼を言われても。
 俺は密やかに、複雑な気持ちを抱く。
――もし、来夏が女子に囲まれていなかったら。
 囲まれるのではなく、あの場にいた女子が一人、二人程度だったら。
 来夏は、俺の元に逃げ出してこなかったかもしれない。
 俺も、助け出そうと思わなかったかもしれない。
 もしかしたら、今もまだ、話していて、そうして。
 来夏が交流を、世界を広げるきっかけになっていたかもしれない。
 なんてぐるぐると考えているうちに、予鈴が鳴った。
「わ、まずい。修ちゃん、急いで教室戻ろ」
 来夏が俺の手を取ろうとする。
 さすがに学校ではいつもそうするように、俺はそれから逃れるように、少しだけ来夏から距離を取ってから、ふと思う。
――キスだけじゃない、手を繋ぐのも、きっとよくない。
 俺たちの間に恋情がなかったとしても、いつかの来夏の恋人を悲しませることになってしまうかもしれない。そしてそれは、巡り巡って来夏を悲しませることになるかもしれないから。
――またどこか二人きりになれるタイミングで話そう。
 俺たちの適切な距離について。
 ……適切な距離?


「幼馴染って、どれくらいの距離感で接するのが普通なんだ?」
 その日の放課後、部活動の休憩時間に猪口(いぐち)に尋ねてみた。
 猪口は、チームメイトであり同級生であり、身近な知り合いの中で幼馴染がいる唯一だった。
 ぱちりと瞬いてから、猪口は言う。
「まぁ、常盤と山蕗はだいぶバグってるよな」
「昔から言われているから、一応、自覚はあるけど。でも、それなら普通の距離感……猪口のとこは、どんなもんなんだ?」
「隣の家に住んではいるけど、顔を合わせるのは一カ月に数回とかかな」
「え、一カ月に数回? 同じ高校だろ?」
「同じ高校ではあるけど、クラスも部活も違うし。まぁ、それでも、顔を合わせたら世間話をしたり、たまに家族ぐるみで食事をすることはあるけどね。小学生の頃とかは、一緒に遊んだり、登下校したりしてたけど。それも六年生になったあたりからは、しなくなっていったな」
 そう語る猪口は、昨日の夕食を話すくらい感慨もなさそうに、さらりとした調子だった。
「もしかしたら、異性だからってのもあるかもしれないけど。同性だったら、兄弟みたいな感じで、もっとつるんでたかも」
 一カ月に数回しか顔を合わせない、なんて俺と来夏の間では想像し得ないことだった。
 今はクラスメイトだけど、これまでにクラスが分かれたことは何度もある。
 それでも、登下校をともにしたり、互いの家を行き来したりでほぼ毎日顔を合わせていた。
 長期休み期間だって、俺が部活がある日は帰宅すると来夏が俺の部屋で勝手にだらだらしていたりするし、部活が休みの日は一緒に遊びに行ったり、俺が来夏の家に押しかけて宿題をさせたりするから、やっぱりほとんど毎日顔を合わせた。
 キスをさせないようにしたり手を繋いだりの接触をやめることは出来ても、一カ月に数回しか会わないような、そこまでの距離ができてしまうのは、なんというか。
「それにしても、常盤がそんなこと聞いてくるなんて。山蕗に幼馴染離れをさせるよう、先生から相談でもされたの?」
「幼馴染離れ……した方がいいのかな」
「した方がいいっていうか、どれだけ仲が良くても、いつかはするもんな気はするけどな。だって、いつまでも一緒にいられるわけじゃないしさ?」
 ……いつまでも、一緒にいられるわけではないのだろうか。
――ない、よな。高校まではなんだかんだ一緒だったけど。
 俺は、バレー部のある高校ならどこでもいいと思っていた。
 来夏は、家から楽に通える高校ならどこでもいいと思っていた。
 そして今の高校がそのどちらも満たしていたから、二人で話して一緒に進学すると決めたけれど。
――大学まで一緒になるとは限らないし。
 家の近くに大学はないし、どの大学に進むか何を学ぶかは将来就く仕事にも大きく関わってくる、かもしれない。幼馴染と一緒にいたいというだけで選ぶことは出来ないもの、かもしれない。
――それに、来夏に恋人ができるじゃなくて……それが、更に進んだら。
 来夏の行く道を決める際の指針は、その人になるかもしれない。
 俺がどれだけ、来夏の傍にいたくても。
 傍にいてほしいと思っても。
 それは、来夏にあまり影響の与えないものになるかもしれない。
 今すぐにそうなるというわけでもないのに、すでにとても寂しい気持ちになる。
 けれど、人との関わりというのは、そういうものなのかもしれない。
 小中学生の頃、親しくしていた相手はそれなりにいたけれど、来夏や、たまたま進学先が一緒になった同級生以外とは、すっかり会わなくってしまったように。
 どれだけ親しくしていても、大切でも、いつかは、離れ離れになってしまうものなのかもしれない。そのための準備をはじめるときが、来たのかもしれない。


 それから俺は、学校以外でも来夏と手を繋がないようにした。
 来夏が手を伸ばしてきてもそれとなく躱し、ハグをしようとしてきてもやっぱり躱した。
 幼馴染相手にはキスはしないように、という話はまだ出来ていない。
 なんとなく、切り出すタイミングが掴めずにいる。
 そうして数日過ごしたが、来夏の調子は存外変わらなかった。
 てっきり、避けてることに気づかれそのうち問い詰められるかもしれないと思っていたのに。
 今日も今日とて、俺は、俺の部活終わりを待っていた来夏を教室に迎えに行き、他愛ないことを話ながら、帰路に就いた。
 来夏はいつも通りに駄弁り、いつも通りの微笑んで、いつも通りにぶんぶんと尻尾を振ってくれる。
 幼馴染に依存しているのは俺の方で、来夏は俺がどの距離にいてもあまり気にならないのかもしれない。
 その日は俺の家で一緒に夕食を食べて、そのまま来夏は俺の部屋に来た。
 ローテーブルを挟んで一緒に数学の宿題をやって、それが終わると。
「ねぇ、修ちゃん。聞きたいことがあるんだけど」
「何? 宿題でわからないところあった?」
「修ちゃん、おれのこと避けてるよね。気のせいかと思いたかったけど、気のせいじゃないみたいだからさ」
 笑顔で、それでいて地を這うような低い声で、来夏は言う。
「なんで?」
 前言撤回。来夏は、俺のここ数日の行いをものすごく気にしているようだった。
 俺は一瞬どきりとしてから、そろりと目を逸らし。
「……なんのことだ」
 つい誤魔化してしまう。
「学校以外では、手を繋いでくれたのに。ハグもしてくれたのに。すっかり、してくれなくなった。今日に限っては、お昼休みも俺と一緒に過ごしてくれなかったよね」
「それは、部活のやつとミーティングがてら食べることになってたから……」
 嘘だった。俺が来夏離れをするために、前日のうちに猪口らと昼食を食べる約束を取りつけたのだった。
「部活動絡みは仕方ないだろ」
「……ふぅん。じゃあ、それは、仕方ないとしても。避けてはいるよね。おれ、何かした?」
 来夏の眉が尻が、くんと下がる。
「修ちゃんに距離を置かれるようなこと……修ちゃんに、嫌われるようなこと」
 悲しげなその表情に、俺の胸は、きゅっと締めつけられる。
「そうじゃない。来夏は、何も悪くないから」
「そういう風に言うってことは、やっぱり、避けてはいるんだ」
「あ」
 見事鎌に掛かった俺を、来夏は今度は怪訝な表情をして見つめてくる。
「なんで」
「……俺たち、距離が近すぎると思ったんだよ」
「そんなことないよ」
「いや、あるだろ。それはさすがに」
 周囲から幼馴染との距離感がバグってるだのべったりだの言われてきたのは、当然に、俺だけじゃないのだから。
 だが、来夏はちっとも動じた様子を見せない。
「仮にそうだとしても、何か問題ある?」
「それは、ほら……」
 その言葉は、来夏を前に紡ごうとすると、キスと同じくらい喉に引っ掛かって上手く出てこない。
「……お前、最近、女子からさ。一緒に、文化祭回ろうとか、誘われてるじゃん」
「全部断ってるよ」
「え、なんで」
「修ちゃんと回るからに決まってるじゃん……あっ。それで、もしかして、女子から呼び出されて「来夏くんと距離置いてくれる~?」とか言われたりする少女漫画的展開に巻き込まれでもしたの? 誰、誰が修ちゃんにそんなこと言ったの。きっちり、お話合いしてくるから、教えて」
「誰にもそんなこと言われてないけど……てか、俺たち一緒に回るのか」
 きょとりと来夏が瞬く。
「毎年一緒に回ってるじゃん」
「それは、そう、だけど……たまには、別々でもいいんじゃないか」
「……ほら、避けてる。ねぇ、どうして、そんな悲しいこと言うの」
 口腔に苦いものが滲むのを感じながらも、俺はどうにか、それを紡ぐ。
「だって……俺たち、いつまでも一緒にいられるわけじゃないだろ。そのうち、どっちかに……その、恋人、とかできるかもしれないし。そのときに、今の距離感でいたら、よくないだろ。だから、少しは……幼馴染離れした方がいいって」
「修ちゃん、好きな人、いるの」
 来夏が問うてくる。
 俺をじっと見据える青みがかった瞳は深く澄んでいて、俺の隅々までも暴かんとしているように感じて、少しだけ、ぞわりとした。
「俺は、いない、けど」
 来夏はわずかに表情を緩め、ゆっくりと呼吸をした。
「修ちゃんに好きな人ができない限り、おれたちはずっと一緒だよ」
「お前に好きな人ができるかもしれないだろ」
「おれの好きな人は、修ちゃんだよ。昔から、ずっと、何度も言ってるじゃん」
「それは幼馴染としてだろ。恋愛として好きな人ができたら――」
「恋愛として、好きな人が、修ちゃんだよ」
 たん、とローテーブルに手をついて、来夏が身を乗り出してくる。
 そしてもう片方の手で、指先で、来夏は俺の唇にそっと触れた。
「おれ、キス、したよね」
「あれは……犬的スキンシップじゃないの」
「修ちゃんのことを愛してるのキスだよ」
 来夏が親指で、俺の下唇をゆっくりとなぞる。
「本当はもっとすごいのがしたいけど、まだ愛の告白をしていないから必死に我慢して、それでも漏れ出ちゃった、修ちゃん愛してるのキス。下心たーっぷりのキスだよ」
「下心」
「性欲って言った方が、伝わる?」
「せい、よく」
 来夏の口から聞いたことがなさすぎるワードに、頭が一瞬、真っ白になる。
「それが恋心を計る定規じゃないけど。それでも、おれが修ちゃんに抱いているのは、親愛だけじゃないんだよ」
 来夏がさらに、俺に顔を寄せる。
 親指だけでなく、生暖かい吐息が、俺の唇に触れる。
「修ちゃんと、これからも、ずっと、ずっと、一緒にいて。それで、いつか、そういうこともしたいって思ってるよ」
 知らなかった。
 来夏が、俺のことをそんなふうに思っているなんて。
 そんな目で見ているなんて。
 さっきから心臓がひどく煩かった。
 ともすれば、そのまま胸を突き破って出てきてしまいそうだった。
「いつ、から」
「小学生のときにはもう、おれは修ちゃんに恋してるなーって気づいてたよ」
「そんな早くから!?」
「うん。本当は、社会的に責任が取れる年齢になってから、ロマンチックな愛の告白をしようと思ってたんだけどね。いつもだらけているおれがそんなことしたら、修ちゃん、びっくりするでしょ?」
「しただろうけど……」
「それで一生思い出に残るかなーって思ってさ。でも、修ちゃんが、冷たいこと言うから、こんな色気のない形になっちゃった。プロポーズは張り切るから許してね」
 来夏は俺の唇からそっと手を離すと、今度は俺の左手を取り、薬指に、ちゅ、と音を立てて口づけをする。きざったらしいと思うのに、俺の心臓は一際大きな音を立てた。
 俺も来夏のことは好きだ。だが、それはあくまで、幼馴染としてで。
「俺は……来夏のこと、そういう風に、考えたこと、ない」
 恋愛対象として……性愛対象として来夏を見たり、考えたことは、生まれてこの方、一度もなかった。
「知ってるよ。でも、これからは、考えて。おれの告白が、嫌じゃないか。おれと、恋愛ができそうか。おれと、幼馴染じゃしないことが、できそうか」
 来夏からの告白は、嫌じゃない。
 恋愛はと、その、もうひとつは、わからない。けど、
 それも、嫌ではない、とは思う。
 思う、けれど。
「……女子からの誘い……文化祭、一緒に回ろうってやつ、受けてみたら」
「……え?」
「お前、昔から、俺以外の人と、あんまりまともに交流してこなかっただろ。だから……他の人ともちゃんと話して関わってみたら、意外と、気が合って。好きに、なったりするかもしれない」
「え、え、何それ。なんで今の話でそうなるの? おれが、修ちゃん以外を好きになるんて、そんなの、ありえない――」
「わかんねえだろ」
「……修ちゃん、おれの告白、嫌だったの? おれに他の人と付き合ってほしいって、思ってるみたいに聞こえる」
 付き合ってほしい、とは、思っていないけれど。
 俺だって、出来る限り、来夏と一緒にいたいと、一番隣にいたいとは思っているけれど。だからこそ。
「昔から一番近くにいたから。そのうえ、前世でも一緒で……お前には、そのときの情とか、後悔もあるから。俺のことを、すごく、特別に感じちゃってるだけかもしれないだろ。今、お前の世界にいるのが、俺だけだから……勘違いしてるだけかもしれないだろ」
「勘違いって……なんで、そんなこと」
 来夏の顔から、みるみる色が失われていく。
「おれが、勘違いで。修ちゃんのこと好きだと思ってると思ってるの。キスしたいと思ってると思ってるの。修ちゃんのこと抱きたいと思ってると思ってるの」
「……その可能性も、ないとは言い切れないだろ」
「言い切れるよ」
 来夏の瞳がつるりと煌めく。
「言い切れるのに」
 それは膨らんで、大きな雫となって、ぽろりと落下する。
「……おれが、前世の記憶を思い出さなかったら。思い出さないで、告白したら。もう少しは信じてくれたの」
 前世の記憶を思い出す前の、雰囲気が柔らかくなる前の、気怠げな来夏なら。
 そもそも、女子からあれほど熱心に声を掛けられる姿を見ることはなかったかもしれない。俺以外と円滑に交流する可能性を感じなかったかもしれない。幼馴染離れを考えることもなかったかもしれない。
 だから、その状態なら、あるいは。
「……おれ、前世のこと、思い出さない方が、よかったのかな」
 黙り込んだ俺に、来夏は眉尻を下げて、笑んだ。
「でも……おれにとっては、どっちの修ちゃんとの思い出もすごく……すごく、大事なんだよ。大事だけど、この思いは、勘違いなんかじゃ……ないんだよ」
 すん、と鼻をすすった来夏が立ち上がる。
「あ、来夏……」
「今日はもう、おれ、帰る」
 来夏はテーブルに置いたままのテキストも持たずに、足早に、俺の部屋を出ていく。その背を俺は何も出来ずに見送る。
 今の来夏は、俺以外の人からもちゃんと愛されるから。俺以外の人ともちゃんと話されるから。
 もし、恋人になって、キスやそれ以上のことをしてから、来夏が他の誰かと上手くコミュニケーションを取り、親しくなって、好きになったら。別れることになったら。
 幼馴染離れどころではない、決定的な溝が出来るかもしれない。
 それは、絶対に嫌だなと思ってしまったから。
 泣かせたかったわけじゃないけれど。
 告白されたのが嫌だったわけじゃないけれど、恋人になれないと思ったわけじゃないけれど……来夏となら、どんな触れ合いも出来る、とも思うけれど。
 それでも、来夏の想いに答える勇気を、俺は持つことが出来なかった。


 翌朝、来夏は俺を起こしに来なかった。
 身が入りきらない朝練を終えて教室に行くと、窓際の席にその姿はあったから。
「来夏、これ。昨日、家に忘れてた」
 テキストを差し出せば、来夏は頬杖を突いたまま、視線だけで俺を見て、ぶっきらぼうにテキストを受け取った。
「え、なに、山蕗、反抗期?」
「面倒くさボーイから改心したかと思えば、今度は反抗ボーイになったのか」
 それを見ていた周囲の男子が面白おかしく囁き合う。
 来夏は反応せず、俺も何も言えず、その日は何も言葉を交わさないまま、昼休みも一緒に過ごさないまま、ロングホームルームを迎えた。
 今日のロングホームルームは、文化祭の出し物における係の割り振りを話し合うことになっていた。
 二年三組は模擬店で、〝アニマル喫茶〟をやる予定だ。
 もちろん、世の中の犬猫カフェのように、本物の動物と交流できる場を提供するわけではない。店内装飾、飲食物、それからスタッフの衣装すべてが動物をモチーフにする、といった企画だ。
 少し前に行われた出し物決めのときにはじめて知ったが、このクラスは動物を飼っている人が多く、それゆえに支持を集めたらしい。
 教壇に立ったクラス委員長が取り仕切り、会議は進行していく。
「準備期間の係は大きく分けて、三つです。店内装飾、衣装作り、メニュー開発。そして当日の係は、宣伝、接客、調理。原則メニュー開発のメンバーは調理に入ってもらえたらと思います」
「ってことは、徹頭徹尾裏方に徹したいならメニュー開発がいいってことか」
「はいはい、俺は絶対接客、接客したい! 映えを求める女子たちがたくさん来るかもしれないし!」
「お客様へのナンパはNGです」
「いろんな動物モチーフで衣装デザインすんの、楽しそうだよね~」
「宣伝って?」
「看板を持って校内を巡って、客引きをしてもらいます」
 クラスメイトたちが思い思いに言葉を交わす中、俺は店内装飾と接客かな、と考える。表に出るのはあまり好きではないから裏方に徹したい気持ちはあるが、料理だけは生まれてこの方一度も上手くできたことがない。
――来夏はメニュー開発と調理かな。
 対して来夏は存外手先が器用で、レシピ通りにものを作るのは結構得意だ。
 それに不特定多数とのコミュニケーションが発生する仕事は……いや、今の来夏ならできるか。それでも、人混みが苦手な来夏は、学内外たくさんの人で溢れる校内を巡らねばならない宣伝係だけは選ばないだろうが――。
「それなら、目立つやつがやる方が宣伝効果ってやつあるんじゃね? 山蕗とかさ」
「え、おれ?」
 途端、クラス中の視線が来夏に集中する。
「でかいし、顔良いし」
「お前、山蕗の顔とモテ期に嫉妬してなかった?」
「嫉妬はしてるけど、山蕗が客引きしてくれたら、女子がいっぱい来店してくれるかもしれないじゃん?」
「山蕗を利用することまで考えるとは……」
「女子に対する熱意がいっそ逞しい……」
「キモ」
「え、今誰かキモって言わなかった?」
「でも、宣伝効果は実際高そうだよね」
「当日は衣装も着るから、より目立つだろうし」
「なぁ、来夏は」
 俺は右手を浮かせ、やりとりの中に割って入ろうとした。
 来夏は人混みが苦手だから向いてない、ということを意見しようと思ったのだが。
「――いいよ。おれ、宣伝係、やるよ」
 それより先に来夏が、はっきりとした声で宣言する。
「え、山蕗、マジで?」
「頑張って人たくさん呼ぶよ。その売り上げで、今度こそみんなでダッツ食べられるかもしれないしね?」
「たしかに。それ目指して頑張るのもいいかもな」
 クラスメイトたちは来夏が宣伝係を引き受けたのを皮切りに、やりたい係を立候補しては決めていく。
 俺だけが、口は開いたまま、右手は挙げかけたままの宙ぶらりんになる。
 それでも心と目だけは来夏に向いて「お前、宣伝なんてできるのかよ」と訴えかける。
 それを感じ取ったのか、来夏は俺の方を見ると、べ、と舌を出し、ぷい、とそっぽを向いた。
――は。
 はぁ~~~~!?
「俺は来夏のことっ、心配っ、してるのにっ! なんだ、あの態度っ!」
 身がは入らなかった朝練から一転、その日の部活動での俺の怒りのスパイク練習は歴代見ないほどに力が入っていた。「今日の常盤は気勢が凄い」「俺たちも頑張らないと」とチームメイトたちの士気も謎に上がっていた。
 打ちに打って打ちまくって、さすがに息が切れたところで、体育館脇でひと休憩。
「怒りのスパイクずいぶん決まってたね」
「はい、常盤」と俺のタオルと水筒を持ってきてくれた猪口に「ありがとう」と礼をし、汗を拭ってスポーツドリンクを飲む。火照った身体に冷たい液体が染みるが、胸の奥底は、あのホームルームからずっと燻ぶったままだ。
「また山蕗と何かあったの。この間まで山蕗とのことに悩んでいたかと思ったら。今日は怒り心頭って感じでさ。喧嘩でもした?」
「喧嘩……」
「喧嘩じゃないの?」
「……喧嘩、なのかな」
「え?」
「思えば、来夏と喧嘩したことなかったから。これが喧嘩なのか」
「常盤と山蕗って、たしか、生まれたときから一緒だったんだよな?」
「うん」
「それで、今まで、約十七年間、喧嘩したことないの? 一度も?」
「ないと思う」
 答える俺に、猪口は感心したような表情で息を吐く。
「本当にお前ら、仲いいんだな」
「仲いいっていうか……仲は、いいけど。来夏が怒らないんだよ」
 面倒くさがりの来夏は、省エネルギーを好む。だから来夏が、怒りや悲しみといった強い感情を見せることはこれまでほとんどなかった。
「拗ねることはままあるけど。あれは俺が困ったりご機嫌取をしようとするのを楽しむ、ポーズ的な部分も結構あるし」
 それでも、どれだけ拗ねたとしても、来夏は俺を無視したり、突き放したことはなかった。
 俺の心配を無下にして、舌を出すなんてこともなかった。
 けれど、俺が、来夏の告白を踏み躙ったから。
 来夏は、俺にひどく、悲しんでいる。
 そして、多分、怒っている。
「……まぁ、でも、幼馴染離れをするには、ちょうどいいのかな」
 来夏から避けられるようになってしまったが、そもそも先に来夏を避けたのは俺の方だ。
 社交的になった来夏の将来を鑑みて、いつか来夏と来夏の大切な人を傷つけないように、そして俺自身がこれから開くかもしれない来夏との距離に耐えられるように。
 こうして離れている間に、来夏は俺と過ごしていた時間を他の人に使い、様々な交流をし、新たな関係を築くかもしれない。
 そうして、気づくかもしれない。
 俺への気持ちは、幼馴染の、そして前世の記憶による情による勘違いだったと。気づいてしまうかもしれない。
 そうなったら、俺の選択は正しかったことになる。
 大切な幼馴染との間に、恋人になったが別れたという気まずい溝を作らなくて済むのだから。
 そう思うのに、ちくり、ちくりと、針に差されるような胸の痛みは、以前よりも大きくなって止まない。
 どうしてか。
 幼馴染としての適切な距離感については、もう来夏に説いて。
 それに、そもそも、来夏のキスは端から、犬的スキンシップでも幼馴染としてのスキンシップでもなくて。
 来夏は、恋として好きだから、俺にキスをした。
 来夏から告白されるまで、恋だの性愛だのといった目で来夏を見たことはなくて。
 けれど、来夏からのキスも、告白は嫌じゃなくて。
 けれど、来夏と恋人になって別れることになるのは嫌で。
 それでいて、来夏に他に特別な人ができるのも……俺は、嫌、で。
 でも、それは、大切な幼馴染との間に、距離ができるのが寂しいという感情で。
 ……本当に、それだけ、なのだろうか。
 来夏に告白されてから、来夏と喧嘩をしてから、胸がちくちくとして、もやもやとして、ずっと苦しい。
「……あのさ。もしよかったら、文化祭一緒に回んない?」
 猪口からの言葉に、沈んでいた意識が浮上する。
「去年は山蕗と回るって断られたけど。その調子じゃ、今年はさ?」
「ああ、うん……そうだな。今年は、バレー部で回んのもいいかも」
「……バレー部で、か」
 ぽつりとそういう猪口に首を傾げると「そうだな」と猪口は快活に笑む。
「うちのクラス、駄菓子大食い選手権やるからさ。俺たちで勝負すんの、どう?」
「えー、俺甘いのあんま食べられないんだけど」
 他愛ないことを話して、笑いを交わす。きっと猪口は、幼馴染とはじめての喧嘩をして落ち込んでいる俺を慰めてくれているのだろうと思う。
 その気持ちは嬉しいのに、俺の心の痛みは、苦しみは、ちっともおさまってくれなかった。
 部活動終わり、先に帰ってしまっているだろうと思いながらも、今日も今日とて教室に一度立ち寄ってしまって。
 窓際の席にその姿を見つけられなくて、俺はもっと、痛く、苦しく、なるのだった。


「三十七度八分……今日は学校休みなさい」
 朝練のために起きて、いつもよりぼんやりと思い頭をどうにか運ぶようにして朝食の席についたら、いつのまにか母さんに脇に体温計を差し込まれていた。
 普段ろくに考え事をしないくせに、この頃は隙が出来次第、来夏との関係に思いを馳せていたが故の知恵熱だろう。
「これぐらい大丈夫だよ」
「あんた、昔っから風邪ひくたびにそう言って無茶して悪化させてきたでしょ。文化祭も近いでしょ。出られなくなってもいいの」
 文化祭当日、俺は接客係を担当することになっている。その枠をひとつ空けてしまうのは申し訳ないが、それでも、体育祭などと比べたら全然埋められないことのない穴だと思う。
 それに、今年は、来夏と一緒に回る予定もないし。
 来夏は、別の誰かと回るかもしれないし。
 なんてことをぼうっと考えているうちに、母さんに自室に連行され、ベッドに横たわらされた。「そんなにぼんやりした状態じゃ学校に行けないでしょ。電話しとくからね」と言って母さんは部屋のドアを閉める。その向こうに何かを呼びかける気力も湧かず、俺は熱っぽい息を吐いて、横になるなり重たくなった瞼を閉じた。

***

 瞼を開けると、大きな窓が視界に映った。
 窓の向こうには庭園のようなものがあり、葉が赤く色づいている。
 季節は、俺が今生きている世界と同じ、秋らしい。
 俺の傍には、ブロンドの毛をふっさりと蓄えた大型犬が、心配そうに寄り添っている。その仕草は、表情は「早くベッドに戻って休んでほしい」と訴えているようだった。
 俺がいる部屋は設えが豪奢で、ああ、前世の記憶というやつなのだろう、と思う。
「ねぇ、ライカ」
 そして俺の口は、勝手に動く。
「俺、今年の秋は、越せないかもしれないんだって」
 その言葉を理解してか、せずか、犬がくぅんと鳴き声を上げる。
「俺の人生って、なんだったんだろう。どうせ、死んじゃうならさ。もっと、外に出て、遊んだって良かったんじゃないかな。もっといろんな世界を見て、自由に生きたって、良かったんじゃないかな……この年まで生きられなかったとしても、その方が」
 犬が先よりも、大きく切ない声を上げる。
 俺は、は、として、身を屈め、犬の頭を撫でた。
「……ごめんね、ライカ。この部屋でライカと過ごす時間が嫌だったわけじゃないよ。寂しかったわけじゃないよ。ライカがいてくれなかったら、きっと俺は、身体だけじゃなくて、心も、もっと、病んでいたと思うから」
 くぅん、と頭を摺り寄せてくる犬に、俺の頬は自然と緩むが、それでも胸の切なさは癒え切らない。
「……俺が元気だったら、来夏にもいろんな世界を見せてあげられたのに。ライカと一緒に、いろんな場所に行って、いろんな景色を見て、いろんなものに触れて、一緒に、感動してみたかった」
「またしんみりしたこと言っちゃったな」と俺は苦笑してから、犬をそっと抱きしめる。
「もし来世ってものがあったら。今度は、健康に生まれたいな。それで……また、ライカ会って、一緒にいろんな場所に行って、遊びたい。ほら、あそことか行って見たいな。一緒に本で読んだ、空を鏡みたいに映すとっても綺麗な湖とか……もしこの世にそんなものがあったら、きっと。その湖畔に立ったら、俺やライカも、生き写しがいるみたいに映るかも。そんな綺麗な場所で、昔はよくしてたボール遊びをしたり、追いかけっことかもしたりしちゃって――っ、こほ」
 急激に何かがせり上がり、胸や殿が焼けるように熱くなる。
 繰り返し咳き込むうちに、口元を押さえる手に生温かい液体が付着した。
 自身の血液だった。
 それを見るなり、犬は大きな鳴き声を上げながら、部屋を飛び出して俺の親を呼びに行く。
――ただ見てることしかできなかった、なんて嘘だ。
 ライカはいつも俺の傍にいてくれて、慰めてくれて、愛してくれて。俺の身に何かあるとすぐに動いてくれるくらい、賢くて、やさしくて。
 大好きな、大好きな俺の友だち。
 たったひとりの、幼馴染。
 それを失うのは嫌で。
 喧嘩しっぱなしも本当は嫌で。
 どうしたらいいんだろう、と思いながら、俺の意識は、この世界は、ゆっくりと暗んでいく。

***

 ひんやりと濡れた布が、俺の額を、首を、ゆっくりと撫でていく。
 皮膚にべったりとまとわりついていた汗が拭われていき、快い。
 母さんが世話を焼いてくれているのか、と思いながら瞼を持ち上げる。
「……あ、修ちゃん。起こしちゃった?」
 俺と目が合った来夏は、一瞬気まずそうに瞳を伏せたが、すぐに心配そうに俺を覗き込む。
「具合、どう?」
「……ちょっと、熱、出ただけ。全然平気」
「修ちゃんは風邪引くたびに、そう言って無茶して悪化させてきたでしょ」
「母さんにもそれ言われた」
「修ちゃんの周囲はみんなそう認識してるってことです。反省して」
 それから、来夏はくんと眉尻を下げる。
「……修ちゃんが今より辛い思いするところ、見たくないし」
 俺よりもよっぽど辛そうな表情を浮かべながら、来夏は引き続き、丁寧な手つきで俺の汗を拭ってくれる。
「……また、前世っぽい夢、見た気がする。やっぱり、はっきりとは覚えてないけど。犬と、紅葉を見てた気がする」
「うん。一緒に見たことあるよ。何度も」
「……ごめん」
「それは何のごめん? 前世のことを思い出せなかったこと?」
 こてんと来夏が首を傾げる。
「修ちゃんが覚えてなくてもおれが覚えてるから、それでいいの。それに、修ちゃんにとって前世は……辛いことの方が多かったと思うし。思い出さない方が、幸せかも」
「そんなことない」
 咄嗟に来夏の腕を掴む。
 青みがかった瞳が丸く見開かれる。
「前世のことは覚えてないけど。お前の話からして、辛いことも多かったと思うけど。でも、お前と過ごした時間は、楽しかったし幸せだったと思う」
「修ちゃん……」
「ただ、そんな俺を見ていた来夏は、きっと、俺がまた床に臥してるところなんて見たくなかったと思うから。それの、ごめん」
 来夏の瞳がみるみる艶めく。
 泣いてしまうのではないかと思い、その頬に手を添えると、来夏は拗ねているような、怒っているような、それでも泣きそうな、複雑な表情を浮かべる。
「もー……修ちゃんってずるい」
「ずるいって、何がだよ」
「そんなにやさしくしたって、おれ、今回ばっかりは許さないんだからね」
「……俺が、お前の告白を踏み躙ったこと?」
「ふ」
 来夏がぎょっと目を見開く。
「踏み躙ったとまでは、思ってない。思ってないよ。修ちゃん。だから、そんな顔しないでよ」
 どんな顔をしてしまっているのか自分では分からないが、今度は来夏の方が俺の頬に両手を添えて、「でも」と頬を膨らませた。
「意地悪されたとは思ってる。悲しかったし、怒ってもいるよ。修ちゃんがおれの告白を信じてくれなかったこと。だから、決めたんだ」
 瞬く俺に、いつかにも見た得意げな笑顔で来夏は言う。
「おれが修ちゃんを好きだってこと、修ちゃんに信じてもらえるように頑張る。修ちゃんが信じてくれるまで、許さない」
「……それって、俺がお前と付き合うまで許してもらえないってことじゃ」
「おれね、修ちゃんのこと、昔から、大大大大大好き。幼馴染としても、恋愛としても。それでも、修ちゃんに好きな人ができたら。それはちゃんと応援しようと思ってたんだよ……ううん、前世の記憶を思い出す前なら邪魔してたかも。でも、今世では修ちゃんには、やりたいこと全部叶えてほしいから。修ちゃんに好きな人ができたら、ちゃんと応援したいって思ってた……けど、修ちゃんに告白して、修ちゃんに意地悪されて、気づいた」
 来夏の、まっすぐな眼差しが、俺を射抜く。
「修ちゃんの一番隣は、最愛は、おれじゃないとやだ。これだけは譲れない。年を重ねて、しわしわのおじいちゃんになった修ちゃんを看取るのはおれじゃないとやだ。おれは、修ちゃんと添い遂げるの」
 青みがかった瞳は相変わらずと透徹としていて。
 けれど、爛々とした愛情と熱情を孕んでいて。
 そうして象られる来夏の笑顔は、とても、眩しかった。
 その後も、来夏はおれの体中の汗を拭き取り、母さんが作った粥を運んできてくれたり、ゼリーを用意してくれたりしてくれた。
 喧嘩中にもかかわらず、朝までつきっきりで俺の看病をしてくれた。
 ただ、ひたすらに、来夏は本当に俺のことが好きなんだな、と思った。
 付き合って、別れて、今まで通りの幼馴染ですらいられなくなったらどうしようと臆病風に吹かれている自分がひどく情けなく思えた。
 翌日、一日しっかりと休んで回復した俺が登校支度をしようとしたら来夏は「もう一日くらい休んだら」とぐちぐちと文句を垂れた。それでも、最終的には久々に一緒に登校することになった。
 学校についてからも来夏は心配そうに俺の様子を窺いながらも、口は利かなかった。
 信じさせるために頑張るとは、何をする気なのか。
 わからないが、来夏がそれを果たすまでは、もしくは、俺が信じたことを証明するまでは、きっとずっとこの調子なのだろうと思う。
 放課後、俺は部活動に行く前に、文化祭当日まで文化祭実行委員の作業部屋となっている教室へと向かった。
 声を掛ければ、二年三組から実行委員に参加している大島がすぐに出てきてくれた。
「もらいたものがあるんだけど」
「用意はすぐできるけど……常盤がそれ使うの?」
「ああ」
 大島は不思議そうにしながらも、すぐに俺が求めたものを差し出してくれた。
 それにすぐに内容を記入し、大島に返すと、その目は丸くなる。
 おれと手元のものを交互に見て、大島は深く突っ込みたそうな顔をした。
「これ、本気?」
「本気だよ」
「そうか……」
 少しして、大島は俺の肩を軽く叩くと。
「これは受理した。当日楽しみにしてる」


 勉強に、部活動に、それから文化祭の準備に。
 目まぐるしく駆け抜けていく日々を過ごすうちに、いよいよ、文化祭当日が訪れる。
 当日朝、接客係である俺は、衣装係の女子から犬、その中でもシェパードをモチーフにしたという衣装を渡された。
 ぴんと立った黒毛の犬耳のカチューシャ、首輪をイメージしたのか赤色のチョーカー。それから、ふっさりとした犬の尻尾がついたウエイターユニフォーム。
 身に纏うとちょっと恥ずかしいけれど、うさぎだのクラゲだのをモチーフとしたもこもこふりふりとした衣装を着せられている面々もいるから、それよりはましだと思うことにした。
 それに、犬とは浅からぬ縁がある。
 と、来夏の方に目を向ける。
 なんという巡り合わせか、来夏の衣装もまた、犬モチーフだった。
 犬の中でも髪色に合わせてかゴールデンレトリバーモチーフらしく、ブロンドの布や白の記事をたっぷりとあしらった、王子様のような格好をさせられていた。
 俺とかが着ようものなら学芸会めいた印象を抱かれてしまいそうだが、来夏が着ると、絶妙に様になっている。
 素材がいいからか宣伝係だからか、衣装係の女子によってされるがままに髪や衣装などの最終調整を施されている来夏と目が合う。
 ぱっと見開かれた来夏に瞳はきらきらと煌めいた。
 その口が動きかけるも、喧嘩中であることを思い出したのか、来夏はむっと顔を引き締める。が、またそろりと俺を盗み見ては瞳の中に星を散らす。
 そしてふいにスマホを取り出したかと思ったら、少しして俺のポケットに入れたスマホが震えた。
 見れば、来夏から「修ちゃん、似合ってる!」というメッセージが来ていた。喧嘩中は可能な限り無視をする、というのが来夏の中の取り決めのようだが、口頭で話さなければセーフなのだろうか。
 ちょっと噴き出してから来夏を見ると、目が合った瞬間、ぷい、と顔を逸らされた。なんとも忙しい人である。
 開店準備は恙なく終え、アナウンスとともに、文化祭が開幕する。
「じゃあ、お客さんいっぱい呼んでくるね」
 それと同時に来夏は〝アニマル喫茶〟という文字とともに賑やかにデコレーションされた看板を持って教室を出ていく。
――来夏、大丈夫かな……。
 わが校の文化祭は一日開催で一般開放もするため、学外から多くの客が訪れる。人で溢れる校内を宣伝し歩くのは、人混みが苦手な来夏にとって辛いだろうと思う。
――来夏が宣伝係に立候補したのは、多分、俺への対抗の一環なんだろうけど。
 宣伝係を押しつけられそうになった来夏を庇おうとした俺を遮るように、来夏はそれを引き受けたし、その後の意地の悪い態度からしても。
 つまり、来夏が宣伝係をやることになったのは、半ば、俺のせいのようなものでもあって。
 休憩時間にそれとなく様子を見に行こうと思いながら、俺は自分の仕事に勤しんだ。


 アニマル喫茶は開店から盛況で、廊下に列を作るほどだった。
 訪れる客をどんどん捌いていき、衣装がいいだのなんだの振られる世間話も適度にいなしているうちにあっという間に時間は経過し、シフト交代となった。
 更衣室で着替えてバレー部の面々と合流しようと思ったのだが、教室を出かかったところで、クラスメイトの一人に呼び止められる。
「あ、常盤。休憩中も着替えないで、その格好のままでいて」
「え、なんで」
「模擬店の宣伝になるじゃん。そうだ、これもつけて」
 いつの間にか用意していたらしい「二年三組アニマル喫茶、もふもふ営業中!」と書かれたバッジを胸につけられる。
「すでにかなり客来てるのに、商魂たくましいというか」
「これしきで満足しちゃ駄目だよ。もっともっと、お客さんを呼ばないとね。だって、さぁ、聞いた?」
「何を?」
「模擬店売り上げが学校一位だったら、谷センが今度こそダッツ奢ってくれるって」
「……」
「そんで売り上げの方はクラス会に使っていいんだってさ! だから、もっと客を呼ばないと。ってことで、よろしくな」
 いい年した男がベースはウエイター服といえど犬耳、犬の尻尾をつけて歩くのは、いささか、だいぶ、恥ずかしいものがあるが……。
 俺よりもずっと派手な衣装で、看板を掲げて、校内を歩き回っている幼馴染がいる。
 そう思えば、俺は衣装はそのままに、バレー部の同級生たちと合流した。
 今日一緒に文化祭を回る俺以外の四人全員ジャージか制服に着替えていて「犬耳似合ってんじゃん」などと揶揄われもしたせいで恥ずかしさがひとしおになったが、途中で気にすることを諦めた。
 気になる模擬店や文化部の出し物など話ながら、とりあえず昼食の調達をすることにした。
 俺はぱっと目についた模擬店で、焼きそばを買うことにした。
 近くの模擬店に並びに行った猪口からもひとつ買っておいてほしいと頼まれ、紅ショウガ抜きを注文し、受け取る。
 他のメンバーはもう少し吟味するらしく、俺は先に食事や休憩スペースとして提供されている教室に入った。少ししたら猪口もやってきて、隣に座る。
 買っておいた焼きそばと代金をトレードした後、猪口が小さなパックを俺に差し出す。
「これ、ベビーカステラ。焼きそば買ってきてもらったお礼」
「え、そんな悪いって。ちゃんと代金払うから」
「いいから、受け取って。対した値段じゃないしさ」
 からりと笑ってから、猪口が焼きそばのパックの蓋を開けた。
「あれ、ここの紅しょうがないタイプの焼きそばなんだ」
「あ……悪い、いつもの癖で紅ショウガ抜き頼んじゃなった」
「常盤、紅ショウガ苦手なの?」
「いや、俺じゃなくて……来夏が」
「ああ、なるほどね。でも、常盤の方も紅ショウガ抜き?」
 不思議そうに首を傾げた猪口に、苦笑しながら答える。
「昔、夏祭りで焼きそば頼んだときに、片方だけ紅ショウガ抜きって頼んだら、忘れられたことがあってさ。それからは、両方抜いてもらったら忘れられる確率が下がるかなって、そうしてる。まぁ、俺も紅ショウガ特別好きってわけじゃないし」
「そういうこと。常盤は相変わらず山蕗に甘いな」
「俺も紅ショウガ好きってわけじゃないからいいよ」と山吹は割り箸を割り、焼きそばを食べはじめる。
「そういえば、山蕗との喧嘩はどうなったの」
「まぁ……ぼちぼちかな」
「何それ」
「仲直りの準備はしたから、後はなるようになれって感じ」
「仲直りに準備がいんの? プレゼント用意するとか?」
 くすくす、と猪口が笑う。
「なんか、女遊びがバレた後の夫みたい」
「嫌な例えするなよ……別にプレゼントとかじゃない。俺がしたいからするだけ」
 来夏ももしかしたらプレゼントと受け取るかもしれないけれど。これはプレゼントでも、償いでも、奉仕などでもなく、俺がしたいと思ったからすることだ。
「あ、そうだ。猪口のクラスって、別棟の特別教室使ってのお化け屋敷だったよな」
「うん、そうだけど」
「そっちに来夏来てたりした?」
「あー、そういえば、廊下がざわついてたタイミングあったかも。「リアル王子様だー」とかなんとか」
「顔までは……見てないか」
「見てないな。何かあったの」
「いや……」
 宣伝係としての務めを果たすべく、色んなところを行き来していることはわかったが、元気でいるかどうかは判然としない。
 バレー部の面々と文化祭を巡りつつそれとなく様子を見れたら、と思っていたけれど。時間が経てば経つほどに心配は膨らんでいき、そろそろ破裂しかかっていた。
 このまま文化祭を回るにしても、クラスのシフトに戻るとしても、心配でろくに楽しめず、仕事も手につかないかもしれない可能性がある。
 俺は焼きそばを掻っ込むようにして食べると、さっとパックを処分し、もらったベビーカステラのパックをバッグにしまって肩に掛ける。
「猪口、ベビカス、ありがとな。それと、俺、ちょっと行って来る」
「山蕗のところ?」
「うん」
「幼馴染離れするんじゃなかったの?」
 しようと、すべきだと思って悩んだこともあったけれど。
「出来ないってわかったから、やめた」
「……本当、仲良いね。わかった、あいつらには俺から言っとくよ」
「助かる」
 猪口と別れて、人波を縫いながら、後者を巡り、来夏の姿を探す。
 毎年人で賑わう文化祭ではあるが、今年はいつもよりも人が多い気がする。
――来夏、大丈夫かな……。
 猪口の話からして、来夏のいる場所は賑わっている可能性が高いから近づけばわかりそうなものだが、なかなか見つからない。また別棟の方に行ってるのだろうか。
 渡り廊下を渡って、別棟にも足を運ぶ。一階から順に巡り、三階までたどり着いたところで賑わいに遭遇した。
「次、私と一緒に写真撮ってもらっていいですか!」
「うん、いいよ。けど、アニマル喫茶の方にも遊びに来てね」
 黄色い声が飛び交う賑わいの中で、声だけが聞こえる。女性と、来夏の声。
 一聴は朗らかに聞こえるが、いつもよりも音が少し低い気がする。
 人垣を掻き分け渦中に近づいていくと、女性がカメラを掲げ来夏と一緒に写真を撮ろうとしているのが目に入った。
 そのシャッター音が聞こえたところで、俺は手を伸ばし、来夏の手首を掴んだ。
「え、修ちゃん?」
「来夏、行くぞ」
「え、お兄さん行っちゃうんですか」
「私まだ写真撮ってもらってないのに~」
「この人、もう休憩時間なので」
 来夏の手を引いて駆け出そうとしたが、大学生くらいに見える女性が来夏の方を掴んだ。
「ちょっと、待ってよ。あたし次だったんだけど。あと一人くらいはいいでしょ」
「……学生に求めすぎないでください」
 来夏の方に乗せられた肩をそっと退かすと、俺は今度こそ来夏の手を引き駆け出した。
 本校舎棟に戻り、その最上階奥に向かう。
 道中で黄色い悲鳴や来夏を呼び止めようとする声が飛んできたが、すべてを振り切り、最上階奥の、机とバリケードテープが施されているエリアに入る。
 空き教室や旧史料室などが並んでいるそのエリアは普段は開放されているが、文化祭中は立ち入り禁止扱いになっているため、人気はない。
 空き教室のひとつに飛び込んで、ドアを閉めると一息吐く。
 それから来夏の方を見れば、膝に手をついてすっかり息を切らしていた。
 少しでも早く人気がないところに向かうことばかり考えて、来夏のスタミナがないことをすっかり忘れていた。
「ごめん、大丈夫か」
 背を撫でようと伸ばした手が、来夏に掴まれる。
「なんで」
 乱れた息の中で、来夏が言う。
「なんで、連れ出したの」
「人に囲まれて、来夏が、辛そうだったから」
「……ちゃんと、出来てたと思うけど」
「出来てたよ。出来てたけど、声がいつもより低かったし、顔色も少し悪い」
 俺を仰いでわずかに目を見開いた来夏が、眉尻を下げる。
「……そんなの、修ちゃんしかわからないよ」
「そうかもな。俺は、来夏のこと、ずっと見てきたから」
 しばし俺を見つめた来夏が、やがて、床に座り込む。
「……廊下出てすぐから、結構人に囲まれて。ちょっと、きつかった」
「……お前が宣伝係を担当したら囲まれるって、お前自身もわかってただろ」
「まぁ、おれ、顔はいいからね?」
 来夏が息を整えるように呼吸をしながらも、そっと瞳を細める。
 生まれてからずっとそばで見てきた顔だが、たしかにとても整っていると思うし、笑顔には愛嬌がある。さっきの作り物ではない、俺の前で見せるゆるっとした笑顔はなおさらに。
「それなのに宣伝係になったのは、俺が係決めのときに来夏を庇おうとしたから?」
「それも、ある」
「それ以外もあるのか」
「言ったじゃん。修ちゃんに信じてもらえるように頑張るって」
「……それが、宣伝係?」
 来夏がこくりと頷く。
「クラスの模擬店にお客さんがいっぱい来たら、売り上げもいっぱいになるでしょ。そうしたら、修ちゃんにも恩恵があるじゃん。修ちゃんに少しでもいいことが起こるように、苦手なことも全力で頑張る姿を見せたら。少しは、おれの修ちゃんへの熱意を認めてくれるかなと思って……まぁ、結局、修ちゃんに助け出されちゃったんだけど」
「いつも肝心なところでしまらないね、おれ」と来夏は悪戯が失敗した子どものようにぎこちなく笑う。
「……俺のために無理をしたりしないでほしいって言った」
「でも、修ちゃんへの気持ちを我慢しなくていいとも言ってくれたでしょ。おれは、絶対に、修ちゃんに振り向いてほしいから。そのためになら、なんだってしたい。それを我慢する方が、おれは、苦しい」
 一途で、まっすぐな想いに、は、とする。
 来夏がこれまでも時折、俺にかっこつけたがったのは。
 好きな子にはかっこつけたいという言葉は戯れなんかじゃなくて。
 昔から、ずっと、俺を振り向かせられたらという願いを胸に抱いてのことで。
「来夏」
 目の前の、俺よりも少し大きな身体をぎゅっと抱きしめて、頭をくしゃりと撫でる。連動して来夏のつけている犬耳もふわふわと揺れて、なんとも大型犬めいている。
「……喧嘩中でも頑張ったご褒美くれるの? それとも慰め?」
「ご褒美でも慰めでもない」
「じゃあ、なに?」
「俺がしたいと思ったからした」
「……修ちゃんって本当にずるいなぁ。この、人たらし。頑固者。真面目。可愛い。大好き」
 来夏がおれの首に腕を巻きつけて、顔を寄せてくる。
 生温かい吐息が触れて、唇が重なると思った。
 だが、来夏は何もせず、顔も腕も離して、微笑んだ。
「次のキスは、修ちゃんを振り向かせたときにするって決めてるから」
「……じゃあ、もうすぐすることになるな」
「……ん? え?」
 丸くなった瞳に小さく笑い、肩にかけていたバッグを探る。
「ずっと校内を宣伝し歩いて疲れただろ。少し休もう。とりあえず、はい、水。俺の飲みさしだけど、ないよりはいいだろ」
「え、うん、修ちゃんの飲みさしなら全然……」
「それから、ベビーカステラ」
「え、買ってきてくれたの?」
「いや、部のやつからのもらいもの」
「もらいものをおれに横流しするんだ? 修ちゃん本当にずるい……って、そんなんで誤魔化されないよ!」
 来夏がさっきとまったく違う色を持って身を乗り出し、俺に顔を近づけてくる。
「もうすぐすることになるって、何、どういうこと」
 俺はそれをさらりと躱してスマホを取り出し、クラスのグループチャットに、来夏を避難させている旨のメッセージを入れる。
「ちょっと、修ちゃん、無視しないで」
 元々来夏はこれくらいの時間から休憩に入る予定だったし、宣伝用の看板も複数種類用意されている。
「修ちゃん!」
 案の定、文句は湧かず了解のメッセージや何か差し入れを持っていこうかという言葉もあった。
「クラスのやつが差し入れ持ってきてくれるらしいけど。何か頼む?」
「修ちゃんがいればそれでいいから、ね、どういう意味なの」
「じゃあ、適当な飲み物と食べ物って感じで頼んでおく」
「修ちゃんー!」
 別にもったいぶることでもないといえば、ないのだけれど。
「先に俺を無視したのはお前なんだから、ちょっとぐらい待て」
「うー、犬だから〝待て〟って言われると弱いのをわかってるね?」
 まったくもってそんな意図はなかったが。
 俺はもう、来夏の気持ちを信じている。
 それをここで伝えてしまったって問題はないが、俺は一度来夏の告白を踏み躙った身だ。
 来夏は踏み躙られたとは思っていないと言ったが、誰かを愛しく思う気持ちが否定されるのは、とてもつらいことだと思う。
 俺なんか、来夏と付き合い別れ今までの距離感でいられなくなるということを想像しただけで、とてもつらい気持ちになったのだから。
 傷つけてしまった過去は取り消せない。そしてそれはもしかしたら、来夏の不安の種になるかもしれない。前世のことを、とても引きずっている来夏のことだから。
 ならば、俺にできるのは、その傷を俺の想いで埋めること。来夏を不安にさせないために、来夏に信じてもらうために、全力で来夏への愛情を表明すること。
 そのためにはここでさらりと想いを告げるより、きっといいシーンがあるから。
 釈然としない様子で唇を尖らせながらも、来夏は水を飲み、もきゅもきゅとベビーカステラを食べる。
 少しして、教室のドアがノックされた。
「常盤、山蕗、いる? 大島だけど」
 ドアを開けると、腕に文化祭実行委員の腕章をつけた大島が、ビニール袋を手に提げていた。
「山蕗、大丈夫そうか? ……なんか、険しい顔してるけど」
「修ちゃんに虐められてるの」
「今日まで無視してきた仕返しをちょっとしただけだ」
「そんなんでこの後大丈夫なのか?」
 呆れた調子で言いつつ、大島は来夏にあわせるように腰を屈めると、パックの中から焼きそばやたこ焼きなどを取り出していく。
「とりあえず、混んでなさそうな店を適当に選んで買ってきたから」
「ありがとな、大島。来夏、どれ食べる?」
「焼きそば。修ちゃん、紅ショウガ取って」
「はいはい」
 焼きそばのパックを開け紅ショウガを先に食べてやってから、割り箸後と来夏に譲渡する。
 来夏は拗ねた顔のまま、もきゅもきゅと焼きそばを食べていく。
「……なんか、夏休み明けからさ」
 と大島が言う。
「山蕗、改心したーって思ってたけど。でも、こうしてみると、思ったより変わんないな。常盤に甘えて、常盤も甘やかして。めちゃくちゃ仲がいい幼馴染のまま」
 その言葉に俺は少し瞬いてから、眦を緩ませた。
「俺もそう思う。来夏は来夏だ」
「俺は今でも十分いい関係だと思うけど……それじゃあ、足りないんだよな」
「うん」
 目くばせし合う俺たちに、来夏は首を傾げつついっそう不機嫌になる。
「なに、何を通じ合ってるの」
「俺がお使いを届けに来てやったのはそれのためでもあるってわけで。はい、お二人さん」
 大島が差し入れを入れていた袋の中から、ふたつのバッジを取り出す。
「後夜祭の〝エンコン〟の参加証。今、渡しとくな」
「じゃあ、俺は実行委員の仕事あるから」と颯爽と去っていく大島を見送る。
 来夏はぽかんとしたまま、俺を見る。
「怨恨……?」
「恨みつらみの方じゃないよ」
 俺は大島から受け取ったバッジをしまおうと思ったが――いや、いっそ、と自分の胸元、クラスの宣伝バッジの近くにつけた。
 それから、王子様の格好をしている来夏の胸元にもつけた。
「来夏は人混みは苦手だけど、一段上の場所に立つ分には大丈夫だよな――お前に話したいことがあるから。この格好のまま、俺と一緒に後夜祭に参加してくれるか」
 来夏はいまだ状況がよく理解できていないといった顔をしながらも。
「修ちゃんのお誘いなら、断らないよ。今も、昔も」
 出不精ながら俺が誘えば面倒くさそうな顔をしながらも必ずついてきてくれた幼馴染は。
 喧嘩中でありながらも俺にだいぶ甘い幼馴染は。
 そう言って、へにゃりと笑った。


 日が暮れる頃、文化祭の一般開放が終わり、学外の客はぞろぞろと帰っていく。
 生徒たちは後片付けもほどほどに、後夜祭のためにグラウンドへと移動していた。
 二年三組の面々もとうに出払い、沈みかけの夕陽の橙がアニマル喫茶の形跡が残る閑散とした教室に差し込む様はどこか侘しさがある。
 そんな教室に、俺が犬ウエイターの衣装のまま一人佇んでいると、待ち合わせをしていた来夏が駆け込んできた。犬の王子様衣装のまま、頬を火照らせながら。
「お待たせ、修ちゃん」
「お疲れ。迷子の子は?」
「無事、お母さんと合流したよ」
 空き教室での休憩後、俺はまたシフトの時間になりアニマル喫茶で接客をし、来夏も宣伝係として校内を歩き回った。交代しないかと持ち掛けたが「助けてもらったうえに交代までしてもらうのは、さすがにかっこ悪すぎるし。一度決めたことはぐだぐだになってもやり遂げはする、筋を通す男だってところ、見ていてほしいから」来夏は断った。
 だがそれではいそうですかと送り出せるほど、俺の来夏への情も生温くはない。辛くなったり、何か厄介ごとが生じたら必ずすぐに連絡を寄越すようにと約束させた。俺たちの約束事の定番である、小指を交える指切りをして。
 かくしてしばらくの間は、来夏から特に連絡がなく、俺は心の隅に心配を携えつつも盛況のアニマル喫茶で客をせっせか捌いていたのだが。一般開放終了が近づいてきた頃に、一件、来夏からメッセージが入った。
『迷子の対応があるから、後夜祭、ちょっと遅れるかも』
 昔から来夏は人への対応が粗雑な部分があったが、子どもとは妙に気が合うようで、高校生になってからも近所の公園で遊んでいることもたまにだがあった。
 だから子どもとの交流面で心配はないが、それでも、宣伝係で疲弊はしているだろう中で迷子対応は大変だろう。
 とりあえず来夏の現在地を聞き、大島経由で文化祭実行委員の面々に手伝いに行ってもらったのだが。
「王子様と一緒じゃないと嫌だーって思いきり泣かれちゃったときは、ちょっと焦っちゃったけど。それで、写真撮ってーとか言われなくなって、みんな道をあけてくれるようになったから、結果オーライだったよ」
 そんな出来事もあり、文化祭実行委員だけでなく来夏も最後まで付き添い、親御さんの元まで送り届けることになったのだった。
「実行委員の人呼んでくれてありがとね、修ちゃん」
「俺は大したことしてないよ」
 それに……俺は今から、その王子様を奪うのだから。
「それから……ね。宣伝中に、エンコンの話、ちょこちょこ聞いた」
 来夏が面映ゆそうに頬を掻く。
 その火照りは、急いできたことによるものだけではなかったらしかった。
 来夏は人よりも人に囲まれる容姿で、人波に飛び込む仕事をしていた。エンコンの話題を耳にすることも、今までは関心がなかったそのワードが気になり耳をそばだてることもあるだろうと思ってはいた。
「〝エンゲージコンテスト〟っていう、後夜祭のグラウンド特設ステージで、二人一組で参加して、約束事を交わすっていうイベントなんでしょ」
「ああ。コンテストとは言うけど、優劣をつけるものじゃない、いわば、願掛け的なノリだな」
「みんなの前で修ちゃんと約束事するのは全然いいけど……でも、エンコン参加者のほとんどはカップルか、カップルになりたい人たちが参加するものって聞いたけど」
「そうだな」
「修ちゃん、人前に出るの好きじゃないでしょ……それなのに、出るの。何を約束するの」
「何を約束するかは、この後のお楽しみだけど」
 と言ったところで、もう半分、理解されてはいると思うけれど。
「出る理由の根のところは、お前に近いもしれない」
 首を傾げる来夏に、俺は続ける。
「お前が言った通り、俺は必要以上に目立つことことも、派手なことも好きじゃない。だから、こういう格好も得意じゃないし、人生でステージに立つ機会なんてできるだけない方がいいと思う……バレー部のことで表彰される、とかならいいけどな」
「それなのに、なんで……それだから?」
 わずかに目を見開いた来夏に、俺は頷く。
「先に言っとくけど、これからすることは、プレゼントでも、ご褒美でも、慰めでもないから。俺が、お前に、信じてほしくて、振り向いてほしくて、認めてほしくてすることだから」
 そうして、俺は来夏に手を差し出す。
「俺についてきてくれるか、俺の王子様(ヒーロー)?」
「っ……」
 頬をいっそう赤くした来夏が、きゅっと眉間を寄せ、唇を噛む。
「王子様はどっちだよ!」
 噛みつくように言いながらも、俺の手を取る来夏の手の力はやさしくて、少し震えていた。
 俺がしっかりと握り返すと、来夏は瞳を揺らして、へにゃりと笑った。
 手を繋ぎながら校舎を出てグランドに出る。
 エンコンは既に開始していて、野外ステージに立つ男女が愛の言葉を交わしていた。
 少し駆け足で参加者待機場所に向かうと、おれたちを見つけた大島が少し焦った様子で手招きする。
「お前ら、遅い! 出番次だぞ! てか、その格好で出るのか?」
「みんなから、文化祭の王子様を奪おうと思って」
「何言ってるの、修ちゃん」
 来夏が俺に顔を寄せる。
「おれは最初から、修ちゃんのものだよ」
 前の組がステージから降りていく。
 俺たちはステージ袖にいて、まだライトも当たっていないのに、来夏だけでなく、俺の頬も少し、熱い。
「出る意味あんのか?」と呆れた様子で笑う大島に送り出されて、俺と来夏はステージに立った。
 来夏がステージに立つと、一段低いところから、黄色い歓声がどっと上がる。
 その中には「アニマル喫茶の王子様だ」という声も多くあった。今日一日この犬の王子様衣装で宣伝係を務めただけあり、案の定、かなり浸透しているらしい。
「二年三組、常盤修一です」
 視界から受け取ったマイクで自己紹介をし、来夏にもマイクを向ける。
「同じく二年三組、山蕗来夏です」
 ステージ上というのは意外と見晴らしがよく、来夏に色めき立っている人たちの顔もはっきり見えるし、俺たちがステージに出てきて驚いているクラスメイトやバレー部の面々もいくらか見つかった。
 でも、そのうちの、誰ひとりだって。
「来夏」
 来夏のことを、俺より知らない。
「うん、なぁに、修ちゃん」
 この中の誰よりも、俺は来夏のことを知っている――けれど。
「来夏、この間まで、避けたりしてごめん。酷いことを、言って、ごめん。俺は……お前の知らない一面に触れるたびに、勝手に色々、考えて、迷っていた。お前の将来を考えて、このままの距離じゃいけないって、幼馴染離れしないといけないって思ったりしてた。もしお前との関係が増えた先で、何かがあって、それで、今までの距離感でいられなくなったら嫌だって、憶病になったりしてた」
「……うん。勝手だね。おれたちが離れることなんてありえないのに」
 柔らかく、切なく瞳を撓ませる来夏に、俺は頷く。
「うん。俺も、そう思う。今は、そう思える。お前が、俺を想ってしてくれた行動が、俺を変えてくれた。俺に勇気をくれた――来夏は、やっぱり、俺のヒーローだ」
 来夏のことは、生まれてからずっと一緒にいて、すべてを知り尽くしていると、少し前までは思っていた。
 だが、夏休みの終わりから今まで、俺は来夏に何度、未知の来夏に触れ、驚かされ、気づかされ、ときめかされてきたか。
 それは来夏が前世を思い出したことによるものだけじゃない。
 それを知って、惑い、臆病になり、来夏を傷つけてしまったりもしたけれど。
 来夏が、勇気をくれたおかげで、自分がすべきことに、自分の望みに、気づくことが出来た。
「来夏。俺の人生を賭けて、お前のことを幸せにするから。これまでも、これからも、俺の傍にいてほしい。誰よりも近くで、お前のことを、もっと、教えてほしい。一生一緒に、俺と生きて、添い遂げて、年を重ねて。そして……しわしわのおじいちゃんになった俺を看取って、来夏」
 ざわついていた世界が、すっかり静まり返る。
 本当に皆が黙り込んだのか、それとも俺が来夏のことしか見えていないからそう感じているのかはわからない。わからないけれど。
 頬をりんごみたいに紅潮させ、瞳にも熱と潤みをたっぷりと蓄えている来夏さえそこにいれば、それで十分だった。
「来夏のことが大好きだ」
「おれも修ちゃんのことが大好き!」
 来夏は勢いよく俺に抱き着くと、唇を重ねた。
 ステージ上でここまでするつもりはなかったけれど、される可能性を考えていなかったわけではなかったから。
 それに――来夏から信頼の証を与えらえれたのが嬉しかったから。
 俺からも来夏に口づけを返す。
 来夏と互いの厚くやわらかな部分を触れ合わせるのはとても、心地いい。
「おれも人生を賭けて修ちゃんのこと幸せにする。だから、一生一緒にいようね」
「ああ、約束だ」
 俺たちの約束の定番である指切りを交わす。
 どこからともなく拍手が起き、世界に音が戻る。
 その音は次第に広まっていき、大きくなっていく。
 その場の空気やノリでも、応援されるのは悪い気はしなかった。
 そして俺も改めて決意できた。
 この先、俺たちは別々の進路に歩むことになるかもしれない。一時的には、違う場所で生活することになるかもしれない。そう、なったとしても。
 俺はもう誰にも、想像上でだって、来夏の隣を譲ったりはしない。
 来夏の一番隣は、俺のもので。俺の一番隣は来夏のものだから。


 翌日は、学校祭完全撤去のための半日登校日だった。
 朝練はないため通常の登校時間に「もう交際宣言したんだから、いいでしょ」と来夏に言われるまま手繋ぎで登校した。
 晴れやかな空の下、指をひとつひとつ絡めながら登校する男子高校生二人。
 他学年他クラスの生徒からちらちらと目を向けられては何事かを囁かれた。
 教師からは「羽目を外しすぎないように」というお小言をもらった。
 教室につけばクラスメイトたちに多少ひやかされもした。
 だが、敬遠されることなどはなく、少し、安心した。
「お前たち元々距離感バグってたから、納得と言えば納得だった」
 片付けの最中にクラスの誰かがそう言えば、賛同の声がいくつも飛んできた。日頃の成果というかなんというか。
「でも、意外だったな。普段のお前らを見てると、山蕗の方が常盤のことが大好きって感じだけど。昨日のエンコンだと、常盤の方が山蕗の方が好きって感じだった」」
 俺も教室の片づけに勤しみつつ「そりゃあ」と返す。
「俺の方が来夏のこと好きだよ」
「は?」
 と声を上げたのは、他でもない来夏だった。手に持っていた店内装飾の犬の絵がはらりと落ちる。
「待って、修ちゃん。異議あり」
 手を挙げた来夏に、面白がったクラスメイトが「お、被告人山蕗、発言を許可します」と誘導する。会話に混ざらず片付けに励んでいた面々からも好奇の眼差しが飛んでくる。
「明らかに、おれの方が修ちゃんのこと好きだよね? 昔から、ずっと」
「恋愛的な意味ではそうだけど、人として好きって点では、俺の方が来夏のこと好きだよ」
「たしかに、それなりの愛がないとあそこまで面倒見ないか」
 俺に加勢するような声を上げたクラスメイトを、来夏はきっと睨みつける。
「それはそうだけど、おれはおれで修ちゃんが大好きだから修ちゃんにだけ甘えてたの」
「そういえば、山蕗が常盤以外に「ジュース買ってきてー」とか「立てないから起こして―」って頼んでるの見たことないな」
「でしょー!」
「でも、俺の方が来夏のこと好きだと思う」
「修ちゃんの頑固ー!」
 クラスの誰かが「好意の大きさを比べる必要なくない?」と言う。
 さらに誰かが「そこ、痴話喧嘩は片付け終わってからにしてくれる?」と言う。
 どちらもまったくもってその通りだったが、俺と来夏は片づけを進める中でも、昼が過ぎのいつもより早い下校時間を迎え手繋ぎで帰る最中も、互いしか知らない過去の出来事をぶつけ合っては、どちらがより相手のことが好きかを戯れるとうに比べ合った。
 それも、俺の家に揃って帰り、母さんが用意してくれたカレーライスを昼食に食べる頃には落ち着いたのだが。
「明日休みだね、修ちゃん」
 母さんが買い物に出かけ、二人きりになったリビングのソファに横並びに座り、適当な映画を流しながら、ペプコのヨーグルト味を半分越して食べる。
 クラス担任から模擬店売り上げが学校二位だったことを讃えて、と今日配ってくれたものだ。おそらく今回も、端からペプコしか用意していなかったのだろうと思う。
 クラスの面々は気落ちしていたが、俺たちにとっては馴染みの味だから、これでよかったと思う。
「そうだな」
「部活も休みでしょ」
「ああ」
「今日、修ちゃんの部屋、泊っていい?」
「いいよ」
「ふぅん」
「ふぅんって何」
「ううん、別に」
 ちうちうとペプコを食べ終えた来夏は空っぽの容器をぷらぷらと揺らしながら、「ねぇ」と呼びかける。
「おれたち、恋人だよね」
「そうだけど……お付き合いしてください、的なやりとりは、そういえばしてなかったな」
 俺もペプコを食べ終え、空の容器をいったんテーブルに置くと、身体ごと来夏を向く。
「山蕗来夏さん、俺と付き合ってください」
 瞬いた来夏が、にへと笑う。
「修ちゃんにフルネーム呼ばれるの、変な感じ。でも、それじゃ足りない」
 足りない、とは。
 首を傾げると、来夏は勝手知ったる我が家の洗面台にとたとたと駆けていく。
 それから間もなく、またとたとたと戻ってきたかと思うと、その手には白いバスタオルがあった。
 一体何をする気かと思えば、来夏は俺の隣にぽすんと再び座るなり、白いバスタオルをひらりと広げ、俺の頭をとっかかりに布が後ろに流れるようにして掛けた――まるで、ヴェールのように。
「健やかなるときも病めるときも、いかなるときも、決して離れることのない契りを、おれと結んでください。修ちゃん。結婚を前提に、お付き合いしてください」
「……さすがにそれは、気が早すぎないか? ていうか、これウェディングヴェールのつもりか? 告白だとしてもプロポーズだとしても、ウェディングヴェールはつけないだろ」
「修ちゃんは細かーい! こうする方が誓いっぽいじゃん!」
 それに、と来夏は言う。
「おれが最初にした告白も、エンコンで修ちゃんがしてくれた告白も、実質、結婚を前提にお付き合いしましょうってことでしょ。むしろ、結婚しましょうってことだったでしょ」
「それは……まぁ、たしかに」
 俺たちは互いに添い遂げることを望み、約束した。
 現実を言えば、現代のこの国では、同性である俺たちは戸籍上結婚することは出来ない。
 結べるのはパートナーシップ。宣言をするのみで、配偶者故の特権などは与えられない――例えば、来夏がまた自転車に撥ねらた時。無論もう二度とそんなことは起きてほしくないのだが、起きたとして公的機関から俺に連絡が来ることはないだろう。
 けれど、そういった現実はさておて。
 かといって、ただの雰囲気のためだけでもなく。
 ずっと一緒にいることを約束する言葉が、証が、ひとつでも多くほしいという、祈りだ。
「でも、それなら。俺だけヴェールを被るのは違うだろ――ほら」
 タオルの半分を来夏の頭に掛ける。
 その様相はもはやウェディングヴェールなどではなく、一枚のタオルで一緒に雨をしのいでるかのようだ。
「なんか、これだと雨をしのいでるみたいだよ」
 まったくもって同じ意見を口にする幼馴染兼恋人に笑ってから、俺は来夏の頬を両手で包んだ。
「末永くよろしくお願いします、来夏」
 そうして、来夏の唇に自身の唇を重ねる。
 互いの熱を少し交換してからそっと離せば、来夏は目を見開いて固まっていた。
「どうした、来夏?」
 首を傾げる俺に、来夏は顔を赤くして、恨めしそうな顔になったり、怒ったような顔になったり、泣きそうな顔になったり、嬉しそうな顔になったりの百面相をする。
「本当に、修ちゃんって、修ちゃんだよね……!」
「何言ってるんだ、お前」
「おれがどれだけ――」
 来夏が俺の腕を掴んで何かを言いかけたところで、玄関の方からドアが開く音がする。買い物に行っていた母が帰ってきたらしい。
 家族にはまだ俺たちが恋人になった報告をしていない。それにしたって、未使用のバスタオルを二人で被っている光景は異常だ。俺は急いでタオルを回収し、洗面所に向かう。
「ただいまー。あれ、来夏くんだけ? 修一はどっかいったの?」
 リビングから聞こえてきた母さんの声に、俺は少し声を張って答える。
「いるよ。映画見てる最中にうたた寝しちゃって、顔洗ってた。あ、母さん、来夏今日うち泊まるって」
「そうだと思ったから、来夏ママパパも誘っておいたわ。今日の夕飯は、庭でバーベキューしましょ。ついでに花火も買ってきたから。来夏くん好きでしょ、線香花火」
 昔から家族ぐるみでバーベキューをすることがままあり、その締めに花火で遊ぶのが定番だった。
 幼い頃の俺は色んな花火を楽しんでいたけれど、来夏は面倒くさがり故にか、線香花火だけをただひたすらに消費していた。あるとき俺が「それ楽しい?」と聞けば、来夏は「修ちゃんが一緒にしてくれたら楽しい」と言うから、気づけば俺たちは線香花火ばかりするようになり、親も線香花火だけのセットを買ってくるようになった。
「うん、好き。ありがと、おばさん」
 リビングに戻ると、来夏が線香花火セットを素直に受け取っていた。
「バーベキューの準備もうする?」
「もう少し後で大丈夫よ。部屋行くなら、お菓子買ってきたから、持って行って」
「はーい。修ちゃん行こ」
「あ、うん」
 母さんから花火に加えてお菓子も受け取った来夏の傍に行くと、来夏が俺の耳元に顔を寄せた。
「今夜、覚悟してて」
 覚悟、とは。
 さっきからの来夏が不可解な言動は、しかし部屋で宿題をしたり、ゲームをしたり、親に呼び出されて準備をしバーベキューをしているうちにすっかり頭から消えていた。
 日はすっかり沈み、月や星々が空に煌めく頃。
 互いの親はリビングに戻り酒盛りを楽しんでいる一方、俺と来夏はそれぞれ最後の線香花火を楽しんでいた。
「修ちゃん、線香花火上手くなったよね。昔はすぐに落としてたのに」
 花火が揺らがないよう、囁くようにして来夏が言う。
「あの頃は、やんちゃだったからな。来夏は昔から上手いよな」
「動かないの、得意だからね。動かないでいたら、修ちゃんがおれのところに来て、構ってくれるから」
「そういえば、幼稚園ではじめてクラス別れたとき、外遊びの時間なのに先生にどれだけ呼びかけられてもお前は教室の隅から動かないで「修ちゃんが来ないと行かない」って駄々こねてたことあったな。それで、本当に俺が呼び出された」
「手の掛かる幼馴染だったでしょ。だったっていうか、今もだけど」
「お前のこと、手が掛かるって思ったことはないよ」
「それはさすがに嘘だよ」
「本当だ」
 話しているうちに線香花火は盛りに入り、ぱちぱち、と華やかに火花が弾ける。
「本当に、本当の、一度も? これだけさんざん世話を焼かせてるのに?」
「そもそも来夏は、全部自分でやろうと思えばできるだろ」
 来夏が目を見開いた弾みに、その手の花火は揺れ、火の玉がぽとりと落下する。
 線香花火で、俺より来夏の火が先に消えるのは、思えばこれがはじめてだった。
 俺の方は、まだ、火花が華やかに、ぱちぱちと、咲いている。
「来夏は、遅刻ぎりぎりに学校には来るけど、遅刻はしない。宿題はぎりぎりまで手付けないけど、なんだかんだ提出期限には間に合わせるし。テストで赤点を取ったこともない。手先は器用で、料理作るときの分量もしっかり守る。お前って、だいぶ真面目だよ。その腰がちょっと重いだけで。その重さでお前が俺に甘えてくれるのをいいことに、俺が勝手に世話を焼いてきただけ。俺が、来夏の世話を焼きたがってるだけ」
 きっと、無視して、放っておいたって、来夏はそのうち自分で立つのに、勝手に構ってきただけ。その土台には、日頃来夏に支えて守ってもらっていることへの恩返し的な側面もあったと思う。けれど。
「……お前の傍を誰にも譲りたくないって思ってから、気づいたことなんだけど。多分、俺は、ずっと、無意識に――お前が俺がいないと生きていけない人間になったらいいなって思ってたんだと思う」
 俺の火花は弾けきり、やがて火の玉はじゅくじゅくと熟れだす。
 もうすぐ落ちるだろうそれを見守っていたら、突然胸倉が掴まれて。
 火の玉は落下し、来夏に口づけされた。
 唇を触れ合わせただけなのに、来夏は肩が上下するほどに激しく呼吸をして、俺を抱きしめた。
「修ちゃん、部屋、行こう」
 熱っぽい声に囁かれ、予感がするとともに、走馬灯のように家に帰ってきてからの一連が脳裏を駆け抜けた。
 恋人同士になって、はじめてのお泊り。
「今夜、覚悟してて」という宣告。
 そういう経験がなくても、結び付くものはあって、そして、案の定。
 来夏が連行するように俺の手を掴み、足早に俺の部屋に向かい着くなり、俺をベッドに押し倒して乗りかかった。
「……このマウントは犬的スキンシップとか」
「どうだと思う? 修ちゃん」
 言いながら、来夏は熱い手のひらを、俺のシャツの裾に潜りこませる。
 俺の知らない欲をその身に滾らせている、はじめて見る来夏が、いる。
「ま、待て!」
「……おれは待てに弱いけどさ。あんまりに待たされると、さすがに、我慢がきかなくなるよ」
 恨めしそうにそう言い、喉をぐるりと鳴らしながらも、来夏は手を止める。
「だって、俺たち、一応、恋人になったばっかりで」
「でも、おれはずっと修ちゃん好きだった。それに、恋人になってから、修ちゃん、フルスロットルで煽ってくるんだもん。修ちゃんが悪い」
「煽った覚えなんてないんだけど」
「無自覚はなおのこと悪い。ということで反省してもらうためにも――」
「待て待て待て待て待て」
 さらに服の中を這い進もうとする来夏の手から逃れるべく、俺は来夏の下から這い出ようとした。が、来夏はそれを巧妙に阻止してくる。
「下の階に親居るんだぞ!」
「聞こえないよ、あの人たち、今酒入ってるし」
「俺たち、まだ高校二年生だし!」
「初体験が高校生って全然ある話だと思うけど」
「で、でも、お前、責任取れる年になってから告白しようと思ってたとか言ってただろ」
「でも、もう、告白しちゃったし、付き合ってるから。もう関係ないかなって」
「ぐ……」
「修ちゃんの抵抗はそれで全部?」
 それじゃあ止まれないよ、と言わんばかりに、来夏はマウンティングを解かないどころか、俺に顔を寄せる。熱っぽい眼差しと生温かい息が至近距離で絡み合う、その下では手のひらが俺の腹をゆっくりと這っていて、くすぐったい。
「……待て」
「だから――」
「っ、心の、準備が、できてないから……もう少し、待って、ほしい。お願いだから」
 羞恥だけじゃない、むず痒く熱っぽい感情が身体の内で起こす嵐に、心臓が飛び出そうなほどに跳ね、顔が焼けるように火照り、目が潤むのを感じながら、俺はどうにか訴える。
 来夏はぱちりとひとつ瞬いてから、やがて――俺の身体を抱きしめた。
「修ちゃん、ずるい。そんな風に言われたら、手出せない」
 とりあえず、今日この場での進展は止まったらしい。
 俺はほっと胸を撫で下ろす一方で、少し、ほんの少しだけ、惜しいような身勝手な感情も覚えた。
「でも、さっきも言ったけど。あんまりに待たされると、我慢がきかなくなるからね」
 来夏は俺の左手を、指を絡めながら掬い取ると。
「なるべく早く、覚悟を決めてほしいな」
 そのまま俺の手を口元に運び、来夏は甘く噛んだ。
「我慢しきれなくなって、おれ(飼い犬)が修ちゃんの手を噛んじゃう前に」
 そう言いながらも、俺が待てと必死に願えばきっと、いつまでも待ってくれそうな気もする。
 俺の幼馴染で、前世は俺の飼い犬だったらしい、この恋人は。
 なんだかんだで、俺に甘いから。
「あんまり待たせないように、頑張る」
 せめてもの気持ちで頬に口づけると、来夏はむうっと頬を膨らませた。
「だからなんで煽るかなー!? この、修ちゃんめ!」
「わ、おい、来夏、やめろ! っ、はは、くすぐったい!」
 幼馴染らしく無遠慮に、どこか犬と飼い主のように無邪気に、それでいて恋人めいた色を交えながらじゃれ合ううちに、どちらともなく睡魔に飲まれて。
 そして気づけば、いつものように二人並んで、穏やかな眠りについていた。