幼馴染が突然「前世の記憶を思い出した」と言い出した。
「おれ、修ちゃんに飼われていた犬だったんだよ」
いつもよりも三割り増しほど、はきはきとした声で。
「自分の名前は言える?」
「え、なに、いきなり」
「いいから」
「山蕗《やまぶき》来夏」
「年齢は」
「この夏に十七歳になったばかり!」
「俺の名前は」
「常磐修一」
記憶に問題はなさそうだけど。
「愛称は修ちゃん! 生まれたときからのおれの幼馴染で、それで」
なさそうだけど。
「前世のおれの飼い主!」
「……記憶障害って、脳神経外科に診てもらえばいいんだっけ」
「見てもらったばかりだよ!」
夏休み終盤、来夏は交通事故に遭った。
俺の部活動が休みだったその日、どうせろくに宿題に手をつけていないだろうと来夏の家に押しかけたら、案の定、いかなる教科のテキストもほぼまっさらの状態だった。
かろうじて、現代文のおじいちゃん先生から出された一行日記の課題のまばらな日付に「修ちゃんとプールに行った」「修ちゃんと一緒にバーベキューをした」「修ちゃんが部活で暇」と書いてある程度。
「怠い」「面倒くさい」「修ちゃんがやって」の三拍子が口癖である来夏の重たい腰をどうにか持ち上げさせ、なるたけ自分で解かせつつも手伝っていたのだが、二時間もしないうちに「飽きた」「甘いもの食べないとやる気でない」「ね、修ちゃん、アイス買いに行こ」「アイス、アイス~」と駄々をこねだしたから、息抜きがてら外に出た。
昼下がりの太陽は燦燦と眩しく、来夏は「暑いね」と言いながら、俺の手を取ろうとした。
幼い頃からの、手繋ぎの癖。
俺たちはもう高校二年生だし、周囲の目に拙く映るのが気にならないわけではない。来夏はさておき、俺は目立つのも注目されるのもさほど好きではないから。
それでも、来夏に握られると俺はどうにも拒めなくて。
汗が滲む手を繋ぎながら、ぶらぶらと揺らしながら、近所のコンビニへ行って。
二本一組の容器の、ヨーグルト味のアイスを買って、分け合って食べて。
その帰りのことだった。
通り道にある公園に差し掛かったとき、ボールを追いかけた子どもが道路に飛び出した。
折悪しくも勢いのある自転車が右折してきて、咄嗟に俺は来夏と繋いでた手を離し、子どもを庇おうとして。それをさらに庇うように、俺たちと自転車の間に来夏が割って入った。
目の前で天然のブロンドヘアが眩く煌めきながら、ふんわりと揺れて。
来夏の身体は自転車と接触し、道端に突き飛ばされた。
外傷こそは擦り傷程度だったけれど、来夏は道路に倒れたまま意識が戻らなかった。
血の気が一気に引き、夏の盛りにいるとは思えないほどに全身が冷たく震えるのを感じながらも、救急車を呼んで、そして。
気を失っているだけだと診断された来夏は。
親が席を外している間に、病院のベッドで目を覚ました来夏は。
俺の手をぎゅっと握り、突然に言い出したのだ。
「ねぇ、おれたち、前世でも一緒だったんだよ。すごくない?」
いつになく、きらきらとした瞳で、弾んだ声で。
「前世は修ちゃんに飼われていた犬として。これからは、修ちゃんのために何でもするからね!」
いやいや、前世って。
まだ意識が混濁としているのか、それとも、来夏の気まぐれのどっきりか。
そう思っていたが、夏休みが明けて学校生活が再開してからも来夏の調子は変わらなかった。
「はい、修ちゃんの分のいちご牛乳」
「……ありがと、来夏」
昼休みになるなり、びゅんと教室から出ていったかと思えば、すぐに戻ってきた来夏が差し出してきたパックのいちご牛乳を受け取り、礼をすると、来夏はにへにへと笑った。
その様は、たしかに、飼い主に褒められて喜ぶ犬……というか大型犬っぽさがある。なまじ、背丈は俺より数センチ高いものだから。
幻覚の犬耳がぺたりと垂れ、尻尾がぶんぶん振れているように見える。
これまでは動物で例えるなら気まぐれの猫っぽかった幼馴染は、この夏に急変した。
「うわ、今日も山蕗が自分で購買行ってる」
「普段は常盤に駄々こねて、連行されるかお使いさせてるのに」
「常盤がいないと何も出来ないバブちゃんは一体どこに行ったんだ」
それこそ、クラスメイトにも奇妙がられるぐらいには。
「マジで夏休み中に何があったの? 滝にでも打たれて改心した?」
来夏が自転車に打たれはしたが。
「それともあれか、常盤がお前の世話をしすぎた過労で倒れてさすがに反省したとか」
来夏が倒れはしたが。
それで、来夏が前世の記憶とやらを思い出しはしたが。
話したところで信じてもらえるわけもない……というか俺も信じていないし。
「そりゃあ、おれは修ちゃんのい――」
「一番の幼馴染だから、たまには恩返しがしたくなったんだって。な、来夏」
奔放な口を塞いで、視線で咎めれば、それをどう受け取ったのか、来夏は瞳を煌めかせながらこくこくと頷いた。
あの事故以来、来夏は隙あらば「おれは修ちゃんの犬だからね!」と自称する。
やめてほしい。いい年した男子高校生同士が手を繋いで歩くよりも、遥かに奇異の目を向けられるに違いないから。本当に、やめてほしい。
「そんな恩義の心があるやつだったか? 山蕗って」
「中学のときからお前らと一緒だけど、山蕗が常盤に恩返ししているところなんて見たことないよ」
「いや、別に、俺は恩を感じてほしくて来夏の世話を焼いているわけじゃないから。ただ俺が放っておけないだけで――」
「これまでのおれは本当に、ダメダメだった。修ちゃんに頼って、甘えてばっかりで、修ちゃんのい――」
「来夏」
睨めば、来夏はすんでのところでぐっと言葉を飲み込んでから再度口を開く。
「いっ……一番の幼馴染失格だった。でも、これからは違うよ。修ちゃんのためなら何だってする。そうして、修ちゃんを幸せにするのが、俺の人生の一番の目標なんだ!」
ありふれた昼休みに、高らかに人生の目標を宣言する来夏。
周囲からは「おー……」という感心とも呆れとも取れる声とまばらな拍手が起こる。
「何があったかよくわかんないけど、本当に改心したんだな、山蕗」
何があったかよくわかんないのは俺も一緒だよ、大島。
いちご牛乳を啜りながら、心の中で相槌しつつ。
――改心、ね。
別に、来夏は元々悪いやつだったわけじゃない。
「怠い」「面倒くさい」「修ちゃんがやって」の三拍子をよく口にはしていたけれど、何をするにも基本的に腰が重くて、甘えたで、宿題だってぎりぎりまでやらないけれど。
それでも、昔からずっと、いいやつではあった。
幼い頃の俺は、出不精な来夏を無理やり外に遊びに連れ出しては、公園やら山やら川やら入ったことのない道やらに進んでいった。
そうして帰り道がわからなくなったり、転んで足が痛くて動けなくなって泣きそうになる俺を、来夏は咎めたり責めたりすることなく、慰めて大人に道を聞いたり、おんぶして運んだりしてくれた。俺より背はあったけれど体力はなくて、ぜえはあと息を乱しながらも、文句ひとつ言わずに。
そんなことをどれだけ繰り返しても、来夏は俺の遊びに付き合ってくれた。
あのときだって、そうだ。自転車に撥ねられそうになった俺と子どもを守ってくれて、それで事故に遭った。
昼食とともに交わされる男子高校生の話題は流動的で、少しぼうっとしているうちに、話題の中心は「改心した来夏」から「もうすぐ開催される体育祭」に移ろっている。
「さっき、教材運び手伝ったときに話したんだけどさ。どれかの競技で優勝したら、タニ先がクラス全員分のダッツ奢ってくれるって」
「え、マジで?」
「でもうちのクラス、運動部あんま多くないからなぁ……あ、バレーは常盤いるからワンチャン?」
「今年も地区予選二回戦目で敗退している身に対する嫌みか?」
「わ~、怒んないで常盤~」
「でも実際、修ちゃんはバレー上手だよ」
俺をじっと見つめて、来夏が言う。
「小学校のクラブ活動でバレーはじめてから一回も練習サボったことないし。夏の大会でも、活躍していたし。それが終わってからだって、家でのトス練習も、週四日の朝練も、欠かさずやってるじゃん。今日の朝練でしてたサーブも、すごく綺麗で、かっこよかった」
「さすが幼馴染、詳し~……って、山蕗、バレー部の朝練にまで顔出してんの?」
「最近遅刻ぎりぎり登校してこないなと思っていたけど、そんな早朝から学校に来てたとは」
朝練がない日は、来夏を起こしに行き、寝ぼけ眼を擦る来夏の手を無理やり引いて一緒に学校に連れて行っている。
だが、朝練がある日は、ただでさえ朝に弱い来夏をこんな早朝に起こすのは悪いと思い、看過してきた。そしてそういう日の来夏は決まって、遅刻ぎりぎりに登校してくる。
けれど今の来夏は、自主的に早起きをする。むしろ俺のことを起こしに来る。朝練がある日もだ。
「つか……思ったんだけどさ。今年の体育祭で山蕗のモテ期来ちゃうんじゃね?」
一人がぼそりと呟くと、一緒に昼食を摂っている他の男子数人も意味深に目配せをし合う。来夏だけがきょとんとしている。
「もともと顔だけは良かったからな」
「それでも、今までは寄せつけない雰囲気……ってほどかっこいいもんじゃないか。面倒くさいオーラってやつ? があったから、ちょっと敬遠されてたけど」
「女子が「夏休みあけてから山蕗くんの雰囲気丸くなったよね」って話してるの聞いた」
「この状態で、体育祭で活躍しちゃったら」
俺と来夏以外がまた目配せし合ったかと思うと、それぞれ難しい顔をしたり、額に手を当てたりする。
「山蕗の参加競技がワンチャン球技だったらな~」
「マジで下手だもんね。バレーはサーブが入らないし、サッカーボールは明後日の方向に蹴る」
「でも、山蕗出るの、百メートル走とクラス対抗リレーだろ?」
「足だけは速いんだよな……」
「おかげでダッツには近づくが、女子の視線は奪われかねない……」
男子高校生たちは元気に唸る。
来夏だけは俺を見てにへっと笑った。
「おれは修ちゃんにだけかっこいいところを見せられたら満足だよ」
「……常盤にべったりなのは変わらないから」
「ギリ……モテない、か?」
「これまでとは違うおれを、見ててね、修ちゃん」
「……うん」
幼い頃からの癖、その二。
頭を撫でてやれば、来夏はぺかっと笑う。
少し前までも、頭を撫でたらこいつは嬉しそうに笑ったけれど、それはどこか気怠さを含むアンニュイな笑みだった。
皆、来夏の態度の変わり様を不思議がっているけれど、どこか受け入れてもいて。
生まれてからずっと一緒にいて、すべてを知り尽くしていると思っていた幼馴染だけが……俺だけが、ずっと、置いていかれている。
――前世ってなんだよ。本当に。
あの日から、ずっと。
俺の胸にはもやもやとしたものが蟠って仕方なかった。
***
夏休み前、体育祭の参加競技決めがあったその日。
部活を終えて教室に向かうと、今日も今日とて、窓辺の席に来夏が突っ伏していた。
「来夏、帰るぞ」
「んん~……」
軽く肩をゆすると、むにゃむにゃと目と口をもごつかせながら、来夏は顔を上げる。
小学生の頃、来夏は「楽そうだから」という理由でイラストクラブに入り、バレーボールクラブに入った俺よりも早く活動が終わっていた。それでも、来夏は、俺のクラブ活動が終わるまで教室で待っていた。
中学以降は来夏は帰宅部になったのに、それでもやっぱり俺の部活動が終わるまで、こうして教室で待っている。
「一人で帰るのは面倒くさいから」らしい。
用事もないのにこの時間まで学校に残っている方が面倒くさくないのか、と思いながらも、もう六年以上続けていることだから俺も慣れてしまっていた。
「おはよ、修ちゃん」
「もう夕方だけどな。ほら、帰るぞ」
「ん-、修ちゃん、おんぶして」
「嫌だよ。お前の方がでかくて重いんだから」
「ふふ、運動部に入っているわけでもないのに、おれの方が体格良く育っちゃったもんね。やっぱ、よく食べて、よく寝るのがいいのかなぁ」
そう言ってすくっと立ち上がった来夏が両手で俺の腰を掴んで、やわやわと揉む。
その表情や声には、ほんの少し、意地の悪い色が宿っている。
「修ちゃんはおれより食べないし、朝も早起きだから。おれより細っこい」
「嫌みか?」
「純然たる事実というやつです。仕方がないから、おれが修ちゃんをおんぶしてあげよっか。昔みたいに。あ、お姫様抱っこでもいいよ」
「そのやる気は荷物を持って家に帰るのに回してくれ。お腹空いた」
腰を掴む手を外しつつ言えば、来夏は教材のほとんどを机の中に置いているから相当軽いであろうリュックを気怠げに背負いながら「それならさぁ」と間延びした調子で言う。
「帰りに何か食べて帰ろうよ」
「駄目。今日は一緒に夕飯食べる日だから、母さんたち、用意して待ってるだろ」
「それもそっかぁ……でも、なんか、食べたいな。ね、コンビニでアイス買って食べてくくらいならよくない?」
「んー……」
「ね、いいでしょ。少しはさぁ、おれの機嫌とってよ。修ちゃん」
拗ねた声、拗ねた眼差し、拗ねた表情。先の意地悪。
それが何を指しているかは、言わずもがな。
ため息ひとつに。
「わかったよ」
と答えれば、来夏は悪戯が成功した子どものように笑った。
そして俺たちは、コンビニでアイスを買った。
二本一組の容器の、ヨーグルト味。
コンビニを出たところでパッケージを開けて、半分越して、一緒に食べる。
夕日に空は赤く染まり、カラスが遠くで鳴いている。
この頃は夕暮れ時もすっかり暑くて、それ故にアイスがより冷たく甘く感じて、美味しい。
「みんなはもっと、おれと修ちゃんがクラスメイトであることに感謝すべきだね」
ちうちうとアイスを吸う合間に、来夏が言う。
「体育祭なんてさっさと負けて残り時間サボれそうな競技しか出たくないもん。でもさぁ~、修ちゃんに、あんなこと言われちゃさぁ」
「あんなことって……お前が出るときは見に行くし、応援するから、ちゃんと活躍できる競技に出てほしいって言っただけだろ」
来夏は運動嫌いで、球技はからっきし。けれど、昔から足だけはやけに早かった。
だから小学校の運動会のリレー選抜でも、中学の体育祭でも、同じクラスになった際にはどうにかたきつけて、活躍させてきた。
いつもはだらりとしていて周囲から、特に大人からは呆れられている節のある幼馴染が、才能を光らせ感激されている姿を見るのは、なんとなく誇らしい気分になる。
「でもそれでおれが出るってわかってるじゃん? おれが修ちゃんのこと大好きだから」
「変なところでかっこつけたがりなところあるよな、お前」
「そりゃあ、好きな子の前ではたまには、少しくらいは、かっこつけたいじゃん」
「ていうか、それを言うなら。俺たちがクラスメイトである以前に幼馴染であることに感謝すべき、じゃねえの」
「おれと修ちゃんが幼馴染なのは、超絶対的運命だから。他人に感謝とかされるものじゃないもん。修ちゃんの隣の家に住ませてくれて、同じ年に生んでくれてありがとーっておれが母さんや神様に感謝することはあってもね」
「なんだそれ」
おかしなことを、やけに神妙に宣うものだから、笑ってしまう。来夏もくすくすと笑う。
来夏は面倒くさがりで、俺はその世話を勝手に焼いて。ほんのときどき、晴れ舞台に引っ張り出して。
穏やかに、のんびりと、寄りかかり合うあの時間は、もう、帰ってこないのだろうか。
***
訪れた体育祭当日。
グラウンドで行われる外競技、体育館と講堂で行われる屋内競技それぞれに分かれて、各競技が進行していく。
俺は予定通り、バレー部の試合に出場した。一回戦目は無事勝利した。
応援に来ていた来夏は、俺が得点を入れるたびに誰よりも盛大に拍手をかますものだから、少し恥ずかしかった。
それから来夏はすぐに外競技組の準備運動や練習に連れていかれた。
俺は俺でバレー部員故に他試合の審判や得点係といった裏方仕事を任されていた。
それでも、来夏が出場する百メートル走が行われる時間に合わせて休憩を取れるようスケジュールを組んでいた――のだけれど。
――こんなロングラリーの試合になるなんて。
俺の休憩前最後の試合が、バレー部を引退したばかりの先輩が複数人属しているクラス同士によるものだった。そこで、地区大会であっさり敗退してしまった憂さもあってか、先輩たちはボールを決して落とさんと粘りに粘る見事なロングラリーをしてみせた。
バレー部としても審判としても手に汗握る内容ではあったが、試合は長引き、試合後には先輩に絡まれ、ようやく俺が解放される頃には、百メートル走の時間はとうに過ぎていた。
外競技のスケジュールが押していてまだ開催されていない可能性に賭け、一度グラウンドに顔を出したが、既に八百メートル走……百メートル走の次の競技へと移っていた。
教師に怒られない程度の早足で二年三組の教室に向かえば、窓際の席に座っていた来夏がすぐに俺を見た。
「――修ちゃん、お疲れ様」
駆け寄ってきた来夏が、にへらと俺に笑いかけながら、スポーツドリンクを差し出してくれる。それから、来夏は何か言おうとした。けれど、俺はそれを待たず、頭を下げた。
「ごめん、来夏」
「え、修ちゃん、どうしたの。顔上げてよ。おれ、修ちゃんに謝られるようなこと、されてないよ」
「約束、破っただろ。お前の試合、見に行くって、応援するって言ったのに」
「それは……だって、仕方ないでしょ? 修ちゃんが審判してたバレーの試合長引いたって聞いたよ。ラリーがめちゃくちゃ続いたーって。修ちゃんは、お仕事頑張ってただけなんだからさ。謝ることじゃないよ」
だからって、お前との約束を破っていいことにはならないだろ。
普段のお前なら――今までのお前なら。三日は拗ねて、朝な夕な俺を扱き使って、甘え倒してきただろ。
それとも。
「えっ、修ちゃん、いきなりどうしたの!?」
俺は来夏の手首を掴むと駆け出した。
教師に怒られない程度の早歩きではなく、間違いなく廊下を走って。
階段をのぼって、適当な踊り場に辿り着いた。
そこにはなにやら親密そうな男女が一組いたけれど、突然の俺たちの登場に驚くとちょっぴり気まずそうにそそくさと去っていった。
お陰で俺と来夏はふたりきりになり、心置きなく触れられる。
「今までのお前なら、俺が約束破ったら拗ねたじゃん」
「それは、ね。今までのおれは、修ちゃんに甘えてばかりのダメダメだったから。でも、今は――」
「……今のお前にとって、俺との約束って、価値がないものなの」
「え?」
来夏の手を掴む手に、力が籠りそうになるのをぐっと堪えながら、苦い声を紡ぐ。
「お前が言う前世とやらで、俺がお前をどう扱ってたかは知らないよ。でも、思い出しただけで、そんだけぶんぶんしっぽ振って献身してくるくらいだから、きっとさぞいい扱いしてたんだろな」
してたんだとしても、だからって。
「お前が俺に約束を破られていいことにならないだろ。それに、約束を破ったことを軽く扱われるのも……もやもや、する。破った俺が言えることじゃないけど……前世がなんだって、どうしたって、俺にとっては、幼馴染の、山蕗来夏なのに」
「修ちゃん……」
来夏は目を丸く見開く。
それから、来夏は少し視線を彷徨わせ、わずかに眉を寄せて。
「……本当は、寂しかったよ」
ぽつりと言った。
「修ちゃんが、約束破るときはどうしようもないときだって。わかってる。修ちゃんは、真面目で、やさしいから。だから、拗ねるのはお門違いだって、本当は、ずっと、わかってて。わかってるから、もう、拗ねないようにしようって、思って……でも」
俯いた来夏が、空気を切なく震わせる。
「寂しかった。修ちゃんに、見てほしかった」
「うん」
「おれが、頑張ってるところ。応援してほしかった」
「うん……約束、破ってごめん」
来夏は小さく頷き、それからわずかに首を傾げて、上目に俺を見る。
「でも、でもね。修ちゃんが後から褒めてくれるかもしれないと思ったから。ちゃんと、一位取ってきたよ。ね、おれ、えらい……?」
「えらいし、すごい。さすが、来夏だ」
頭を撫でると、来夏は眦を緩めて、頬をほんのりと朱色に染める。
「へへ、やったぁ」
ゆるりと浮かんだ笑顔には、かつての気怠げな色はない。
けれど、そこにいたのは、たしかに、俺の幼馴染の来夏だった。
「来夏。お前にとって、思い出した前世ってやつは大事なのかもしれないけど。そのことで、俺への気持ちを我慢したり、無理をしたりしないでほしい。俺は、面倒くさがりのお前だって、好きなんだから」
「す、き」
「じゃなかったら、ここまで一緒にいないだろ。だから、約束な。ほら、指切り」
来夏に向かって、小指を差し出す。
来夏はさっきよりも紅潮した顔で俺の顔と小指をしばらく交互に見つめてから、自身の小指を差し出して絡めてくる。
「うん、約束」
「よし」
小指を離した後も、来夏は自身の小指をしばし見つめてから、顔を上げた。
「ねぇ、修ちゃん。今日はここで二人で一緒にごはん食べよ。それで、休憩終わったら、リレーまでは、修ちゃんと一緒に体育館いていい?」
「この後も俺裏方仕事があるから一緒にはいられないし、二試合目もしばらく後だけど」
「裏方仕事頑張ってる修ちゃんを見てるからいいの」
裏方仕事をしている俺よりも試合を見た方が断然楽しいと思うけれど。
でもそう言う来夏は楽しそうだからまぁいいか、と俺は頷く。
「来夏がいいなら、俺はいいよ」
「やったぁ」
そうして、俺たちは一度教室に戻り、弁当を持って踊り場に戻った。
他愛のないことを話しながら昼食を食べた。
それから時間になって、体育館へと向かった。
来夏は体育館の端に座りながら、審判の仕事に勤しむ俺を見つめている。
コートチェンジなどの折にたまにちらりと目を向けると、来夏はにへらと嬉しそうに笑って手を振ってきた。
そうしているうちにまた試合がひとつ終わり、俺のクラスの二回戦目が、次の次にまで迫る。
その準備運動などもあるため、俺の裏方仕事もそこで一区切り。
次の試合の組が練習している傍ら、審判を務めるバレー部の同級生に引継ぎの話をしているときだった。
急カーブを描いたボールが俺の方に飛んできた。
躱すのも、レシーブの構えを取り衝撃を和らげるのも、間に合わない。しかしこのままでは顔に当たりかねないと判断した俺は、とっさに腕で顔を庇った。
「す、すみません、大丈夫ですか!」
ボールを放った張本人らしい、次試合に参加する下級生が焦った様子で声を掛けてくる。
日頃の部活動で強いボールに打たれるのには慣れていても、リストサポーター等をつけていない状態で、急襲への咄嗟の対応はさすがに腕がひりひりと痺れた。
とはいえ、動かないというほどでもない。
俺は安心させるように笑みを作って、下級生に応えようとした。
だが、その前に、大きな影が差した。
いつの間にか、来夏がすぐ傍に来ていた。
そして、瞬く間に――俺を横抱きにした。
傍にいた同級生も、下級生も唖然として。
どこからともなく、黄色い歓声が上がって。
俺は目を白黒させる。
来夏はそれらを一切気にすることなく、前だけを見て颯爽と体育館を出ていくと、向かったのは保健室だった。
うっすらと薬のにおいがする部屋には、白衣を着た壮年の女性養護教諭が来て「さすがに今日は来客が多いね」と穏やかな調子で言う。
「それで、君たちはどうしたの」
「バレーボールが思いっきり修ちゃんの腕に当たっちゃったんです」
「なるほどね、修ちゃんくん、腕見せて」
あれよあれよという間に、養護教諭の前の椅子に座らされ、診察がはじまる。
体調を崩すことがあまりなく、部活動中にも怪我をしたことがほとんどないため、養護教諭とこうして対峙するのははじめてだった。その緊張もあったし、怒涛の展開への困惑もまだ拭いきれていない。
「どう、これ、痛みある?」
養護教諭に腕をゆっくりと押され、俺は首を小さく振って答える。
「大丈夫です」
「じゃあ、このぐらい力入れるのは」
「大丈夫です」
「うん、骨は問題なさそうだね。ただ、右腕の方がちょっとだけ腫れちゃってるから。湿布を貼ってれば大丈夫だと思うけど。修ちゃんくんはこのあと、競技ある?」
「はい。バレー出場予定です。でも、これぐらいなら――」
「だめ。修ちゃんは安静にしてて」
その道のプロがなにを言うよりも先に、幼馴染の頑なな声が宣告する。
「本当に全然痛くないから」
「腫れてるんでしょ。悪化したら、大変じゃん」
「いや、でも」
「おれは、修ちゃんにできるだけ、痛い思いや苦しい思いをしてほしくないんだよ」
そう言う来夏の瞳は、どこか陰りを帯びている。
それは、前世の俺絡みの想いなのだろうか。
……いや。それもあるかもしれないけれど。それだけじゃない。
この幼馴染は昔から、俺をよく守ってくれた。幼い頃の冒険でも。自転車に撥ねられそうになったときも。
面倒くさがりの甘えたな頃からずっと、持ってくれている祈り、なのかもしれない。けれど。
「……うちのクラス唯一のバレー部員で、多少は期待されてるのに。がっかりさせちゃうかもしれない。俺の代わりで誰か出すなら、そいつに居心地悪い思いをさせちゃうかもしれない。そうなるくらいなら――」
「おれが出るよ」
「え、でも、お前、球技」
「修ちゃん、忘れちゃったの?」
来夏は得意げな笑みを浮かべる。
「犬は玉遊びが大得意なんだよ」
まったくもって半信半疑だった。
そもそも前世の記憶自体、俺はいまだ信じきれていないし。
仮に本当に前世の記憶というものがあって、それを思い出したくらいで、人の身体能力に大幅な変化が現れるものなのか。というか、玉遊び得意でも、犬はバレーしないだろ。
それでも来夏は「おれが修ちゃんの代わりに出場する」と言ってきかず、コートに立った。
遠慮のないクラスメイト、特に男子諸君は「我がクラスのバレーは終わった……」と悲嘆の声を漏らした。
二セット先取の試合は、来夏のサーブからはじまる。
来夏は深呼吸をすると、最も難易度が低い、アンダーハンドサーブの姿勢を取る。
俺は両手を組み合わせ祈りながらそれを見つめる。
そして――来夏はサーブを空振った。
またどこからともなく「やっぱり、我がクラスのバレーは終わった」という声が聞こえた。
俺が抜けた我がクラスこと二年三組チームは、バレー部員はいない。対して、相手の二年一組チームには俺の部活動のチームメイト……すなわちバレー部員が二人いる。
バレー部員の人数が勝敗を決めるわけではないとはいえ、それでも、我がクラスは劣勢に進み、あっという間に一セットを取られてしまう。
はじまった第二セット。再び、来夏のサーブからのスタートとなる。
来夏は一セット目でことごとくボールとの不仲っぷりを披露していたから、二年四組チームには自然余裕の表情が浮かぶ。
来夏はアンダーハンドサーブの構えを取って――相手コートにしっかりと入れた。
舐めていてもサーブが入る可能性は鑑みていたのか、二年四組チームはしっかりと動き、ボールを返してくる。
「おれに回して!」
トスをしようとしていたクラスメイトに来夏が呼びかける。
クラスメイトは半信半疑ではあったものの、声に反応したままに、来夏にトスを上げた。
そして、来夏はスパイクを決めた。
その球は相手コートの、しっかりとラインの内側に決まり、第二セットは二年三組チームの一点先取で開幕することとなった。
ついさっきまで落胆し、期待を抱かなくなっていたクラスメイトたちはぽかんとしてから、ざわついた。
「え、え~!? 山蕗が覚醒した!?」
「戦いの中で成長していくタイプだった……ってコト!?」
「にしたって上手くなりすぎじゃあ」
「ま、まぐれ?」
話している間に、再び来夏のサーブとなる。
今度は来夏は、エンドラインからだいぶ後ろに下がった。
「え」
――まさか、ジャンプサーブする気か?
その予想は当たったようで、来夏は高くトスを上げる。
それから助走をつけると、大きな体躯盛大に活かしたジャンプをして、ボールを打った。
スパイクほどの威力を持ったボールが、相手コートの人と人の間を貫くような絶妙な位置を、射貫く。
「ほ、本当に覚醒した!」
「山蕗すげえ!」
「山蕗くん、かっこいい……」
先までざわつくばかりだったクラスメイトたちは、今度は喝采を上げた。
俺はただただ呆然としていた。
生まれてこの方、運動が嫌いで、その中でも球技は不得手で、ボールに翻弄される来夏しか見たことがない。
俺は今、生まれてからずっと一緒にいる幼馴染の未知の部分を見ている。
三度目のサーブに入ろうとしていた来夏がふとこちらに目を向けた。
視線が絡むと同時に、来夏はピースをして見せ、唇だけで何かを象る。
――修ちゃんのおかげだよ。
その言葉の意味はすぐにはぴんと来なかった、けれど。
『でも実際、修ちゃんはバレー上手だよ。小学校のクラブ活動でバレーはじめてから一回も練習サボったことないし。夏の大会でも、活躍していたし。それが終わってからだって、家でのトス練習も、週四日の朝練も、欠かさずやってるじゃん。今日の朝練でしてたサーブも、すごく綺麗で、かっこよかった』
面倒くさがりの幼馴染は、それでも、俺が出る試合を毎度見に来てくれていた。
甘えたがりなのに、俺が家で練習をしているときは邪魔をしてきたことはなかった。
俺が朝練で起こしに行けない日は遅刻ぎりぎりに登校しては来ても、遅刻をして、心配を掛けたことはなかった。
「怠い」「面倒くさい」「修ちゃんがやって」の三拍子をよく口にして、何をするにも基本的に腰が重くて。
それでも、昔からずっと、いいやつではあった。
誰よりも俺をよく見て、俺を慮って、俺の傍に居てくれる。
一番の幼馴染だ。
『そりゃあ、好きな子の前ではたまには、少しくらいは、かっこつけたいじゃん』
そして、かっこつけたがりも、昔からだった。
前世が犬だったから、という理由だけでなく。俺の傍で、俺をよく見ていて、幼馴染の前でかっこつけることが好きな来夏は、さんざん目に焼きつけた俺の真似をして、今、頑張ってくれているのかもしれない。
――だからって、頑張りすぎだっての。
球技が不得手だったはずのに、人生で一度もやったことがないであろうジャンプサーブをして、成功して、点を得るなんて。
思わず笑いが溢れてしまうと同時に、眼窩が少しだけ、熱くなる。
これまでの来夏と、前世の記憶とやらを取り戻した来夏。
そのふたつの間に俺は溝を感じていた。来夏が別人になってしまったような気がして、あの日からずっと、俺だけが置いてけぼりにされているような寂しさがあった。事故に遭う前の、元の来夏に戻ってほしいとさえ思ってしまっていた。
けれど、ふと見せる表情にも、共有している思い出にも、来夏が見せてくれる思いやりにも。
これまで一緒に過ごしてきた来夏は、たしかにいた。
来夏は、来夏だ。
「頑張れ、来夏!」
四度目のサーブを打たんとする来夏に、力の限りの声援を送る。
来夏は、わ、と目を見開き、凄まじい威力を持ったジャンプサーブを繰り出す。
サーブで四点先取。その後も、来夏は見事活躍し、二年三組チームは第二セットを勝ち取った――が。
「……まぁ、スタミナだけはどうしようもないよな」
元々運動嫌いで、インドア派。体育も可能な限り、手を抜く来夏は、第三セットの序盤でバテてしまった。
ボールを追いかけきれず、パスもへにゃへにゃになってしまい、二年一組チームもそこをすかさず攻め入ってきて、敗北した。
「うー……最初から上手に出来てたら、スタミナももって、二セット先取で勝てたのに」
「それでも、お前、すごい活躍しただろ。クラスのみんなからもいっぱい褒められてた」
バレーの試合こそ敗北に終わってしまったけれど、「ジャンプサーブかっこよかったよ!」「あんなに能動的な山蕗はじめて見た」「球技下手なの嘘だったん!?」と負けてしまったとは思えないほどに二年三組は活気ったっぷりに来夏に喝采を送った。
「それに、リレーでも大活躍だったし」
日が沈みはじめた頃、体育祭の終盤を飾る、花形競技であるクラス対抗リレーが行われた。全学年の同クラスを縦割りに編成したチームでのリレーで、来夏は三番手を務めた。
それまでの三組チームは四位と心許ない順位だったが、バレーの試合からリレーまでしっかりと休養を取ったのもあって来夏は一歩目から勢いたっぷりに駆けた。前にいる全員を抜いて一位に躍り出て、そのまま三組チームは優勝した。
「リレーに関しては他学年の力もあるから優勝とは言いきれないって、ダッツはもらえなかったけどさ。代わりに、ペプコはもらえたじゃん」
「最終競技が終わってすぐに配ってくれたのを見るに、最初から適当な理由つけてペプコを配る気だったんだと思うけどね」
「それは言わないであげなよ」
「まぁ、おれたちには馴染みの味だから、いいけどね」
俺たちは今、担任から配ってもらったペプコをちうちうと吸いながら、陽が沈みかかっている茜色の帰路をだらだらと歩いている。
二本一組の容器の、ヨーグルト味。
俺と来夏で一袋ずつもらったから、今日は俺の分を開けて。
来夏の分はまた明日食べることにした。
「とにもかくにも、我がクラスの今日のヒーローは間違いなく、お前だったよ」
「……修ちゃんは?」
ふいに来夏が足を止める。一歩先に行ってしまった俺も足を止めて、来夏を振り返る。
「修ちゃんにとっても、おれはヒーローだった?」
もうほとんど空っぽのアイスの容器を握りしめ、来夏は眉尻を下げながら、俺を見つめる。
「来夏は」
俺は来夏の頭に手のひらを乗せようとして、けれどアイスの結露で濡れていることに気づいて、咄嗟にシャツでごしごしと拭ってから改めて。来夏の頭に手を乗せた。
「来夏はずっと、俺のヒーローだよ」
教師や、クラスメイトが聞いたら、怪訝な顔をするかもしれない。
来夏は面倒くさがりな部分ばかりを他人に見せるし、そこですかさず俺が世話を焼くから、来夏は俺がいないと何も出来ないと思っている人もいる。
けれど、実際は。
来夏に支えてもらっているのは、守られているのは、俺の方で。
だから俺も、来夏の世話を勝手に焼きたがっているだけで……。
――もう、世話を焼かなくても、いいのかもしれないけど。
あの事故以来、ずいぶん快活になった来夏の方が、むしろ俺の世話を焼くようになった。
そうして、俺だけでなく、みんなのヒーローになった。
みんなが気づいていなかっただけで、絶妙なライン引きをしていただけで実はもともとそれなりにしっかりとしていた来夏が、更にしゃんとした今。
来夏はこれからこれから、更に多くの人から好かれ、慕われ、愛されるだろう。
来夏が認められることは、俺にとって嬉しく、誇らしいことだ。
けれど、それでも、どれだけの人が来夏の周囲に集まっても、来夏の隣は、一番の幼馴染で友だちは、俺であってほしいと思ってしまう。
「……修ちゃん」
頭を撫でていた手の、手首が来夏に掴まれる。
きょとんとしていると、来夏はそのまま撫で滑らせるように俺の手首から手を掴み、指をひとつひとつ絡めてくる。手が深く密着する。
「来夏?」
何がしたいのか、と首を傾げたとき。
来夏の顔が俺に近づいて、そして。
唇が触れ合った。
アイスを食べたばかりの、来夏の冷たい唇が。俺の冷たい唇に。
「え」
それから来夏は俺の身体をぎゅうっと抱きしめた。
「もっと、褒めて。修ちゃん」
「あ、うん……?」
望まれるままに俺はまた来夏の頭をわしわしと撫でながら。
――今の、キス、だよな?
幼い頃の癖でそれなりの頻度で手は繋ぐし、ハグも数えきれないことしたことはある、けれど。
キスをしたのは、はじめてだった。
幼い頃からどこもかしこもべたべたと触れ合ったことがある幼馴染。
その触れる場所が、唇だっただけといえば、それまでのことだけど。
夏や夕日だけのせいとは思えなくらいに、頬が身体が火照って。
心臓がやけに煩くなって。
この熱が、煩さが伝わっているであろう来夏が、今、なにを考えているのか。
気になって仕方がなかったのに、言葉が喉に詰まって、上手く聞けなかった。
「おれ、修ちゃんに飼われていた犬だったんだよ」
いつもよりも三割り増しほど、はきはきとした声で。
「自分の名前は言える?」
「え、なに、いきなり」
「いいから」
「山蕗《やまぶき》来夏」
「年齢は」
「この夏に十七歳になったばかり!」
「俺の名前は」
「常磐修一」
記憶に問題はなさそうだけど。
「愛称は修ちゃん! 生まれたときからのおれの幼馴染で、それで」
なさそうだけど。
「前世のおれの飼い主!」
「……記憶障害って、脳神経外科に診てもらえばいいんだっけ」
「見てもらったばかりだよ!」
夏休み終盤、来夏は交通事故に遭った。
俺の部活動が休みだったその日、どうせろくに宿題に手をつけていないだろうと来夏の家に押しかけたら、案の定、いかなる教科のテキストもほぼまっさらの状態だった。
かろうじて、現代文のおじいちゃん先生から出された一行日記の課題のまばらな日付に「修ちゃんとプールに行った」「修ちゃんと一緒にバーベキューをした」「修ちゃんが部活で暇」と書いてある程度。
「怠い」「面倒くさい」「修ちゃんがやって」の三拍子が口癖である来夏の重たい腰をどうにか持ち上げさせ、なるたけ自分で解かせつつも手伝っていたのだが、二時間もしないうちに「飽きた」「甘いもの食べないとやる気でない」「ね、修ちゃん、アイス買いに行こ」「アイス、アイス~」と駄々をこねだしたから、息抜きがてら外に出た。
昼下がりの太陽は燦燦と眩しく、来夏は「暑いね」と言いながら、俺の手を取ろうとした。
幼い頃からの、手繋ぎの癖。
俺たちはもう高校二年生だし、周囲の目に拙く映るのが気にならないわけではない。来夏はさておき、俺は目立つのも注目されるのもさほど好きではないから。
それでも、来夏に握られると俺はどうにも拒めなくて。
汗が滲む手を繋ぎながら、ぶらぶらと揺らしながら、近所のコンビニへ行って。
二本一組の容器の、ヨーグルト味のアイスを買って、分け合って食べて。
その帰りのことだった。
通り道にある公園に差し掛かったとき、ボールを追いかけた子どもが道路に飛び出した。
折悪しくも勢いのある自転車が右折してきて、咄嗟に俺は来夏と繋いでた手を離し、子どもを庇おうとして。それをさらに庇うように、俺たちと自転車の間に来夏が割って入った。
目の前で天然のブロンドヘアが眩く煌めきながら、ふんわりと揺れて。
来夏の身体は自転車と接触し、道端に突き飛ばされた。
外傷こそは擦り傷程度だったけれど、来夏は道路に倒れたまま意識が戻らなかった。
血の気が一気に引き、夏の盛りにいるとは思えないほどに全身が冷たく震えるのを感じながらも、救急車を呼んで、そして。
気を失っているだけだと診断された来夏は。
親が席を外している間に、病院のベッドで目を覚ました来夏は。
俺の手をぎゅっと握り、突然に言い出したのだ。
「ねぇ、おれたち、前世でも一緒だったんだよ。すごくない?」
いつになく、きらきらとした瞳で、弾んだ声で。
「前世は修ちゃんに飼われていた犬として。これからは、修ちゃんのために何でもするからね!」
いやいや、前世って。
まだ意識が混濁としているのか、それとも、来夏の気まぐれのどっきりか。
そう思っていたが、夏休みが明けて学校生活が再開してからも来夏の調子は変わらなかった。
「はい、修ちゃんの分のいちご牛乳」
「……ありがと、来夏」
昼休みになるなり、びゅんと教室から出ていったかと思えば、すぐに戻ってきた来夏が差し出してきたパックのいちご牛乳を受け取り、礼をすると、来夏はにへにへと笑った。
その様は、たしかに、飼い主に褒められて喜ぶ犬……というか大型犬っぽさがある。なまじ、背丈は俺より数センチ高いものだから。
幻覚の犬耳がぺたりと垂れ、尻尾がぶんぶん振れているように見える。
これまでは動物で例えるなら気まぐれの猫っぽかった幼馴染は、この夏に急変した。
「うわ、今日も山蕗が自分で購買行ってる」
「普段は常盤に駄々こねて、連行されるかお使いさせてるのに」
「常盤がいないと何も出来ないバブちゃんは一体どこに行ったんだ」
それこそ、クラスメイトにも奇妙がられるぐらいには。
「マジで夏休み中に何があったの? 滝にでも打たれて改心した?」
来夏が自転車に打たれはしたが。
「それともあれか、常盤がお前の世話をしすぎた過労で倒れてさすがに反省したとか」
来夏が倒れはしたが。
それで、来夏が前世の記憶とやらを思い出しはしたが。
話したところで信じてもらえるわけもない……というか俺も信じていないし。
「そりゃあ、おれは修ちゃんのい――」
「一番の幼馴染だから、たまには恩返しがしたくなったんだって。な、来夏」
奔放な口を塞いで、視線で咎めれば、それをどう受け取ったのか、来夏は瞳を煌めかせながらこくこくと頷いた。
あの事故以来、来夏は隙あらば「おれは修ちゃんの犬だからね!」と自称する。
やめてほしい。いい年した男子高校生同士が手を繋いで歩くよりも、遥かに奇異の目を向けられるに違いないから。本当に、やめてほしい。
「そんな恩義の心があるやつだったか? 山蕗って」
「中学のときからお前らと一緒だけど、山蕗が常盤に恩返ししているところなんて見たことないよ」
「いや、別に、俺は恩を感じてほしくて来夏の世話を焼いているわけじゃないから。ただ俺が放っておけないだけで――」
「これまでのおれは本当に、ダメダメだった。修ちゃんに頼って、甘えてばっかりで、修ちゃんのい――」
「来夏」
睨めば、来夏はすんでのところでぐっと言葉を飲み込んでから再度口を開く。
「いっ……一番の幼馴染失格だった。でも、これからは違うよ。修ちゃんのためなら何だってする。そうして、修ちゃんを幸せにするのが、俺の人生の一番の目標なんだ!」
ありふれた昼休みに、高らかに人生の目標を宣言する来夏。
周囲からは「おー……」という感心とも呆れとも取れる声とまばらな拍手が起こる。
「何があったかよくわかんないけど、本当に改心したんだな、山蕗」
何があったかよくわかんないのは俺も一緒だよ、大島。
いちご牛乳を啜りながら、心の中で相槌しつつ。
――改心、ね。
別に、来夏は元々悪いやつだったわけじゃない。
「怠い」「面倒くさい」「修ちゃんがやって」の三拍子をよく口にはしていたけれど、何をするにも基本的に腰が重くて、甘えたで、宿題だってぎりぎりまでやらないけれど。
それでも、昔からずっと、いいやつではあった。
幼い頃の俺は、出不精な来夏を無理やり外に遊びに連れ出しては、公園やら山やら川やら入ったことのない道やらに進んでいった。
そうして帰り道がわからなくなったり、転んで足が痛くて動けなくなって泣きそうになる俺を、来夏は咎めたり責めたりすることなく、慰めて大人に道を聞いたり、おんぶして運んだりしてくれた。俺より背はあったけれど体力はなくて、ぜえはあと息を乱しながらも、文句ひとつ言わずに。
そんなことをどれだけ繰り返しても、来夏は俺の遊びに付き合ってくれた。
あのときだって、そうだ。自転車に撥ねられそうになった俺と子どもを守ってくれて、それで事故に遭った。
昼食とともに交わされる男子高校生の話題は流動的で、少しぼうっとしているうちに、話題の中心は「改心した来夏」から「もうすぐ開催される体育祭」に移ろっている。
「さっき、教材運び手伝ったときに話したんだけどさ。どれかの競技で優勝したら、タニ先がクラス全員分のダッツ奢ってくれるって」
「え、マジで?」
「でもうちのクラス、運動部あんま多くないからなぁ……あ、バレーは常盤いるからワンチャン?」
「今年も地区予選二回戦目で敗退している身に対する嫌みか?」
「わ~、怒んないで常盤~」
「でも実際、修ちゃんはバレー上手だよ」
俺をじっと見つめて、来夏が言う。
「小学校のクラブ活動でバレーはじめてから一回も練習サボったことないし。夏の大会でも、活躍していたし。それが終わってからだって、家でのトス練習も、週四日の朝練も、欠かさずやってるじゃん。今日の朝練でしてたサーブも、すごく綺麗で、かっこよかった」
「さすが幼馴染、詳し~……って、山蕗、バレー部の朝練にまで顔出してんの?」
「最近遅刻ぎりぎり登校してこないなと思っていたけど、そんな早朝から学校に来てたとは」
朝練がない日は、来夏を起こしに行き、寝ぼけ眼を擦る来夏の手を無理やり引いて一緒に学校に連れて行っている。
だが、朝練がある日は、ただでさえ朝に弱い来夏をこんな早朝に起こすのは悪いと思い、看過してきた。そしてそういう日の来夏は決まって、遅刻ぎりぎりに登校してくる。
けれど今の来夏は、自主的に早起きをする。むしろ俺のことを起こしに来る。朝練がある日もだ。
「つか……思ったんだけどさ。今年の体育祭で山蕗のモテ期来ちゃうんじゃね?」
一人がぼそりと呟くと、一緒に昼食を摂っている他の男子数人も意味深に目配せをし合う。来夏だけがきょとんとしている。
「もともと顔だけは良かったからな」
「それでも、今までは寄せつけない雰囲気……ってほどかっこいいもんじゃないか。面倒くさいオーラってやつ? があったから、ちょっと敬遠されてたけど」
「女子が「夏休みあけてから山蕗くんの雰囲気丸くなったよね」って話してるの聞いた」
「この状態で、体育祭で活躍しちゃったら」
俺と来夏以外がまた目配せし合ったかと思うと、それぞれ難しい顔をしたり、額に手を当てたりする。
「山蕗の参加競技がワンチャン球技だったらな~」
「マジで下手だもんね。バレーはサーブが入らないし、サッカーボールは明後日の方向に蹴る」
「でも、山蕗出るの、百メートル走とクラス対抗リレーだろ?」
「足だけは速いんだよな……」
「おかげでダッツには近づくが、女子の視線は奪われかねない……」
男子高校生たちは元気に唸る。
来夏だけは俺を見てにへっと笑った。
「おれは修ちゃんにだけかっこいいところを見せられたら満足だよ」
「……常盤にべったりなのは変わらないから」
「ギリ……モテない、か?」
「これまでとは違うおれを、見ててね、修ちゃん」
「……うん」
幼い頃からの癖、その二。
頭を撫でてやれば、来夏はぺかっと笑う。
少し前までも、頭を撫でたらこいつは嬉しそうに笑ったけれど、それはどこか気怠さを含むアンニュイな笑みだった。
皆、来夏の態度の変わり様を不思議がっているけれど、どこか受け入れてもいて。
生まれてからずっと一緒にいて、すべてを知り尽くしていると思っていた幼馴染だけが……俺だけが、ずっと、置いていかれている。
――前世ってなんだよ。本当に。
あの日から、ずっと。
俺の胸にはもやもやとしたものが蟠って仕方なかった。
***
夏休み前、体育祭の参加競技決めがあったその日。
部活を終えて教室に向かうと、今日も今日とて、窓辺の席に来夏が突っ伏していた。
「来夏、帰るぞ」
「んん~……」
軽く肩をゆすると、むにゃむにゃと目と口をもごつかせながら、来夏は顔を上げる。
小学生の頃、来夏は「楽そうだから」という理由でイラストクラブに入り、バレーボールクラブに入った俺よりも早く活動が終わっていた。それでも、来夏は、俺のクラブ活動が終わるまで教室で待っていた。
中学以降は来夏は帰宅部になったのに、それでもやっぱり俺の部活動が終わるまで、こうして教室で待っている。
「一人で帰るのは面倒くさいから」らしい。
用事もないのにこの時間まで学校に残っている方が面倒くさくないのか、と思いながらも、もう六年以上続けていることだから俺も慣れてしまっていた。
「おはよ、修ちゃん」
「もう夕方だけどな。ほら、帰るぞ」
「ん-、修ちゃん、おんぶして」
「嫌だよ。お前の方がでかくて重いんだから」
「ふふ、運動部に入っているわけでもないのに、おれの方が体格良く育っちゃったもんね。やっぱ、よく食べて、よく寝るのがいいのかなぁ」
そう言ってすくっと立ち上がった来夏が両手で俺の腰を掴んで、やわやわと揉む。
その表情や声には、ほんの少し、意地の悪い色が宿っている。
「修ちゃんはおれより食べないし、朝も早起きだから。おれより細っこい」
「嫌みか?」
「純然たる事実というやつです。仕方がないから、おれが修ちゃんをおんぶしてあげよっか。昔みたいに。あ、お姫様抱っこでもいいよ」
「そのやる気は荷物を持って家に帰るのに回してくれ。お腹空いた」
腰を掴む手を外しつつ言えば、来夏は教材のほとんどを机の中に置いているから相当軽いであろうリュックを気怠げに背負いながら「それならさぁ」と間延びした調子で言う。
「帰りに何か食べて帰ろうよ」
「駄目。今日は一緒に夕飯食べる日だから、母さんたち、用意して待ってるだろ」
「それもそっかぁ……でも、なんか、食べたいな。ね、コンビニでアイス買って食べてくくらいならよくない?」
「んー……」
「ね、いいでしょ。少しはさぁ、おれの機嫌とってよ。修ちゃん」
拗ねた声、拗ねた眼差し、拗ねた表情。先の意地悪。
それが何を指しているかは、言わずもがな。
ため息ひとつに。
「わかったよ」
と答えれば、来夏は悪戯が成功した子どものように笑った。
そして俺たちは、コンビニでアイスを買った。
二本一組の容器の、ヨーグルト味。
コンビニを出たところでパッケージを開けて、半分越して、一緒に食べる。
夕日に空は赤く染まり、カラスが遠くで鳴いている。
この頃は夕暮れ時もすっかり暑くて、それ故にアイスがより冷たく甘く感じて、美味しい。
「みんなはもっと、おれと修ちゃんがクラスメイトであることに感謝すべきだね」
ちうちうとアイスを吸う合間に、来夏が言う。
「体育祭なんてさっさと負けて残り時間サボれそうな競技しか出たくないもん。でもさぁ~、修ちゃんに、あんなこと言われちゃさぁ」
「あんなことって……お前が出るときは見に行くし、応援するから、ちゃんと活躍できる競技に出てほしいって言っただけだろ」
来夏は運動嫌いで、球技はからっきし。けれど、昔から足だけはやけに早かった。
だから小学校の運動会のリレー選抜でも、中学の体育祭でも、同じクラスになった際にはどうにかたきつけて、活躍させてきた。
いつもはだらりとしていて周囲から、特に大人からは呆れられている節のある幼馴染が、才能を光らせ感激されている姿を見るのは、なんとなく誇らしい気分になる。
「でもそれでおれが出るってわかってるじゃん? おれが修ちゃんのこと大好きだから」
「変なところでかっこつけたがりなところあるよな、お前」
「そりゃあ、好きな子の前ではたまには、少しくらいは、かっこつけたいじゃん」
「ていうか、それを言うなら。俺たちがクラスメイトである以前に幼馴染であることに感謝すべき、じゃねえの」
「おれと修ちゃんが幼馴染なのは、超絶対的運命だから。他人に感謝とかされるものじゃないもん。修ちゃんの隣の家に住ませてくれて、同じ年に生んでくれてありがとーっておれが母さんや神様に感謝することはあってもね」
「なんだそれ」
おかしなことを、やけに神妙に宣うものだから、笑ってしまう。来夏もくすくすと笑う。
来夏は面倒くさがりで、俺はその世話を勝手に焼いて。ほんのときどき、晴れ舞台に引っ張り出して。
穏やかに、のんびりと、寄りかかり合うあの時間は、もう、帰ってこないのだろうか。
***
訪れた体育祭当日。
グラウンドで行われる外競技、体育館と講堂で行われる屋内競技それぞれに分かれて、各競技が進行していく。
俺は予定通り、バレー部の試合に出場した。一回戦目は無事勝利した。
応援に来ていた来夏は、俺が得点を入れるたびに誰よりも盛大に拍手をかますものだから、少し恥ずかしかった。
それから来夏はすぐに外競技組の準備運動や練習に連れていかれた。
俺は俺でバレー部員故に他試合の審判や得点係といった裏方仕事を任されていた。
それでも、来夏が出場する百メートル走が行われる時間に合わせて休憩を取れるようスケジュールを組んでいた――のだけれど。
――こんなロングラリーの試合になるなんて。
俺の休憩前最後の試合が、バレー部を引退したばかりの先輩が複数人属しているクラス同士によるものだった。そこで、地区大会であっさり敗退してしまった憂さもあってか、先輩たちはボールを決して落とさんと粘りに粘る見事なロングラリーをしてみせた。
バレー部としても審判としても手に汗握る内容ではあったが、試合は長引き、試合後には先輩に絡まれ、ようやく俺が解放される頃には、百メートル走の時間はとうに過ぎていた。
外競技のスケジュールが押していてまだ開催されていない可能性に賭け、一度グラウンドに顔を出したが、既に八百メートル走……百メートル走の次の競技へと移っていた。
教師に怒られない程度の早足で二年三組の教室に向かえば、窓際の席に座っていた来夏がすぐに俺を見た。
「――修ちゃん、お疲れ様」
駆け寄ってきた来夏が、にへらと俺に笑いかけながら、スポーツドリンクを差し出してくれる。それから、来夏は何か言おうとした。けれど、俺はそれを待たず、頭を下げた。
「ごめん、来夏」
「え、修ちゃん、どうしたの。顔上げてよ。おれ、修ちゃんに謝られるようなこと、されてないよ」
「約束、破っただろ。お前の試合、見に行くって、応援するって言ったのに」
「それは……だって、仕方ないでしょ? 修ちゃんが審判してたバレーの試合長引いたって聞いたよ。ラリーがめちゃくちゃ続いたーって。修ちゃんは、お仕事頑張ってただけなんだからさ。謝ることじゃないよ」
だからって、お前との約束を破っていいことにはならないだろ。
普段のお前なら――今までのお前なら。三日は拗ねて、朝な夕な俺を扱き使って、甘え倒してきただろ。
それとも。
「えっ、修ちゃん、いきなりどうしたの!?」
俺は来夏の手首を掴むと駆け出した。
教師に怒られない程度の早歩きではなく、間違いなく廊下を走って。
階段をのぼって、適当な踊り場に辿り着いた。
そこにはなにやら親密そうな男女が一組いたけれど、突然の俺たちの登場に驚くとちょっぴり気まずそうにそそくさと去っていった。
お陰で俺と来夏はふたりきりになり、心置きなく触れられる。
「今までのお前なら、俺が約束破ったら拗ねたじゃん」
「それは、ね。今までのおれは、修ちゃんに甘えてばかりのダメダメだったから。でも、今は――」
「……今のお前にとって、俺との約束って、価値がないものなの」
「え?」
来夏の手を掴む手に、力が籠りそうになるのをぐっと堪えながら、苦い声を紡ぐ。
「お前が言う前世とやらで、俺がお前をどう扱ってたかは知らないよ。でも、思い出しただけで、そんだけぶんぶんしっぽ振って献身してくるくらいだから、きっとさぞいい扱いしてたんだろな」
してたんだとしても、だからって。
「お前が俺に約束を破られていいことにならないだろ。それに、約束を破ったことを軽く扱われるのも……もやもや、する。破った俺が言えることじゃないけど……前世がなんだって、どうしたって、俺にとっては、幼馴染の、山蕗来夏なのに」
「修ちゃん……」
来夏は目を丸く見開く。
それから、来夏は少し視線を彷徨わせ、わずかに眉を寄せて。
「……本当は、寂しかったよ」
ぽつりと言った。
「修ちゃんが、約束破るときはどうしようもないときだって。わかってる。修ちゃんは、真面目で、やさしいから。だから、拗ねるのはお門違いだって、本当は、ずっと、わかってて。わかってるから、もう、拗ねないようにしようって、思って……でも」
俯いた来夏が、空気を切なく震わせる。
「寂しかった。修ちゃんに、見てほしかった」
「うん」
「おれが、頑張ってるところ。応援してほしかった」
「うん……約束、破ってごめん」
来夏は小さく頷き、それからわずかに首を傾げて、上目に俺を見る。
「でも、でもね。修ちゃんが後から褒めてくれるかもしれないと思ったから。ちゃんと、一位取ってきたよ。ね、おれ、えらい……?」
「えらいし、すごい。さすが、来夏だ」
頭を撫でると、来夏は眦を緩めて、頬をほんのりと朱色に染める。
「へへ、やったぁ」
ゆるりと浮かんだ笑顔には、かつての気怠げな色はない。
けれど、そこにいたのは、たしかに、俺の幼馴染の来夏だった。
「来夏。お前にとって、思い出した前世ってやつは大事なのかもしれないけど。そのことで、俺への気持ちを我慢したり、無理をしたりしないでほしい。俺は、面倒くさがりのお前だって、好きなんだから」
「す、き」
「じゃなかったら、ここまで一緒にいないだろ。だから、約束な。ほら、指切り」
来夏に向かって、小指を差し出す。
来夏はさっきよりも紅潮した顔で俺の顔と小指をしばらく交互に見つめてから、自身の小指を差し出して絡めてくる。
「うん、約束」
「よし」
小指を離した後も、来夏は自身の小指をしばし見つめてから、顔を上げた。
「ねぇ、修ちゃん。今日はここで二人で一緒にごはん食べよ。それで、休憩終わったら、リレーまでは、修ちゃんと一緒に体育館いていい?」
「この後も俺裏方仕事があるから一緒にはいられないし、二試合目もしばらく後だけど」
「裏方仕事頑張ってる修ちゃんを見てるからいいの」
裏方仕事をしている俺よりも試合を見た方が断然楽しいと思うけれど。
でもそう言う来夏は楽しそうだからまぁいいか、と俺は頷く。
「来夏がいいなら、俺はいいよ」
「やったぁ」
そうして、俺たちは一度教室に戻り、弁当を持って踊り場に戻った。
他愛のないことを話しながら昼食を食べた。
それから時間になって、体育館へと向かった。
来夏は体育館の端に座りながら、審判の仕事に勤しむ俺を見つめている。
コートチェンジなどの折にたまにちらりと目を向けると、来夏はにへらと嬉しそうに笑って手を振ってきた。
そうしているうちにまた試合がひとつ終わり、俺のクラスの二回戦目が、次の次にまで迫る。
その準備運動などもあるため、俺の裏方仕事もそこで一区切り。
次の試合の組が練習している傍ら、審判を務めるバレー部の同級生に引継ぎの話をしているときだった。
急カーブを描いたボールが俺の方に飛んできた。
躱すのも、レシーブの構えを取り衝撃を和らげるのも、間に合わない。しかしこのままでは顔に当たりかねないと判断した俺は、とっさに腕で顔を庇った。
「す、すみません、大丈夫ですか!」
ボールを放った張本人らしい、次試合に参加する下級生が焦った様子で声を掛けてくる。
日頃の部活動で強いボールに打たれるのには慣れていても、リストサポーター等をつけていない状態で、急襲への咄嗟の対応はさすがに腕がひりひりと痺れた。
とはいえ、動かないというほどでもない。
俺は安心させるように笑みを作って、下級生に応えようとした。
だが、その前に、大きな影が差した。
いつの間にか、来夏がすぐ傍に来ていた。
そして、瞬く間に――俺を横抱きにした。
傍にいた同級生も、下級生も唖然として。
どこからともなく、黄色い歓声が上がって。
俺は目を白黒させる。
来夏はそれらを一切気にすることなく、前だけを見て颯爽と体育館を出ていくと、向かったのは保健室だった。
うっすらと薬のにおいがする部屋には、白衣を着た壮年の女性養護教諭が来て「さすがに今日は来客が多いね」と穏やかな調子で言う。
「それで、君たちはどうしたの」
「バレーボールが思いっきり修ちゃんの腕に当たっちゃったんです」
「なるほどね、修ちゃんくん、腕見せて」
あれよあれよという間に、養護教諭の前の椅子に座らされ、診察がはじまる。
体調を崩すことがあまりなく、部活動中にも怪我をしたことがほとんどないため、養護教諭とこうして対峙するのははじめてだった。その緊張もあったし、怒涛の展開への困惑もまだ拭いきれていない。
「どう、これ、痛みある?」
養護教諭に腕をゆっくりと押され、俺は首を小さく振って答える。
「大丈夫です」
「じゃあ、このぐらい力入れるのは」
「大丈夫です」
「うん、骨は問題なさそうだね。ただ、右腕の方がちょっとだけ腫れちゃってるから。湿布を貼ってれば大丈夫だと思うけど。修ちゃんくんはこのあと、競技ある?」
「はい。バレー出場予定です。でも、これぐらいなら――」
「だめ。修ちゃんは安静にしてて」
その道のプロがなにを言うよりも先に、幼馴染の頑なな声が宣告する。
「本当に全然痛くないから」
「腫れてるんでしょ。悪化したら、大変じゃん」
「いや、でも」
「おれは、修ちゃんにできるだけ、痛い思いや苦しい思いをしてほしくないんだよ」
そう言う来夏の瞳は、どこか陰りを帯びている。
それは、前世の俺絡みの想いなのだろうか。
……いや。それもあるかもしれないけれど。それだけじゃない。
この幼馴染は昔から、俺をよく守ってくれた。幼い頃の冒険でも。自転車に撥ねられそうになったときも。
面倒くさがりの甘えたな頃からずっと、持ってくれている祈り、なのかもしれない。けれど。
「……うちのクラス唯一のバレー部員で、多少は期待されてるのに。がっかりさせちゃうかもしれない。俺の代わりで誰か出すなら、そいつに居心地悪い思いをさせちゃうかもしれない。そうなるくらいなら――」
「おれが出るよ」
「え、でも、お前、球技」
「修ちゃん、忘れちゃったの?」
来夏は得意げな笑みを浮かべる。
「犬は玉遊びが大得意なんだよ」
まったくもって半信半疑だった。
そもそも前世の記憶自体、俺はいまだ信じきれていないし。
仮に本当に前世の記憶というものがあって、それを思い出したくらいで、人の身体能力に大幅な変化が現れるものなのか。というか、玉遊び得意でも、犬はバレーしないだろ。
それでも来夏は「おれが修ちゃんの代わりに出場する」と言ってきかず、コートに立った。
遠慮のないクラスメイト、特に男子諸君は「我がクラスのバレーは終わった……」と悲嘆の声を漏らした。
二セット先取の試合は、来夏のサーブからはじまる。
来夏は深呼吸をすると、最も難易度が低い、アンダーハンドサーブの姿勢を取る。
俺は両手を組み合わせ祈りながらそれを見つめる。
そして――来夏はサーブを空振った。
またどこからともなく「やっぱり、我がクラスのバレーは終わった」という声が聞こえた。
俺が抜けた我がクラスこと二年三組チームは、バレー部員はいない。対して、相手の二年一組チームには俺の部活動のチームメイト……すなわちバレー部員が二人いる。
バレー部員の人数が勝敗を決めるわけではないとはいえ、それでも、我がクラスは劣勢に進み、あっという間に一セットを取られてしまう。
はじまった第二セット。再び、来夏のサーブからのスタートとなる。
来夏は一セット目でことごとくボールとの不仲っぷりを披露していたから、二年四組チームには自然余裕の表情が浮かぶ。
来夏はアンダーハンドサーブの構えを取って――相手コートにしっかりと入れた。
舐めていてもサーブが入る可能性は鑑みていたのか、二年四組チームはしっかりと動き、ボールを返してくる。
「おれに回して!」
トスをしようとしていたクラスメイトに来夏が呼びかける。
クラスメイトは半信半疑ではあったものの、声に反応したままに、来夏にトスを上げた。
そして、来夏はスパイクを決めた。
その球は相手コートの、しっかりとラインの内側に決まり、第二セットは二年三組チームの一点先取で開幕することとなった。
ついさっきまで落胆し、期待を抱かなくなっていたクラスメイトたちはぽかんとしてから、ざわついた。
「え、え~!? 山蕗が覚醒した!?」
「戦いの中で成長していくタイプだった……ってコト!?」
「にしたって上手くなりすぎじゃあ」
「ま、まぐれ?」
話している間に、再び来夏のサーブとなる。
今度は来夏は、エンドラインからだいぶ後ろに下がった。
「え」
――まさか、ジャンプサーブする気か?
その予想は当たったようで、来夏は高くトスを上げる。
それから助走をつけると、大きな体躯盛大に活かしたジャンプをして、ボールを打った。
スパイクほどの威力を持ったボールが、相手コートの人と人の間を貫くような絶妙な位置を、射貫く。
「ほ、本当に覚醒した!」
「山蕗すげえ!」
「山蕗くん、かっこいい……」
先までざわつくばかりだったクラスメイトたちは、今度は喝采を上げた。
俺はただただ呆然としていた。
生まれてこの方、運動が嫌いで、その中でも球技は不得手で、ボールに翻弄される来夏しか見たことがない。
俺は今、生まれてからずっと一緒にいる幼馴染の未知の部分を見ている。
三度目のサーブに入ろうとしていた来夏がふとこちらに目を向けた。
視線が絡むと同時に、来夏はピースをして見せ、唇だけで何かを象る。
――修ちゃんのおかげだよ。
その言葉の意味はすぐにはぴんと来なかった、けれど。
『でも実際、修ちゃんはバレー上手だよ。小学校のクラブ活動でバレーはじめてから一回も練習サボったことないし。夏の大会でも、活躍していたし。それが終わってからだって、家でのトス練習も、週四日の朝練も、欠かさずやってるじゃん。今日の朝練でしてたサーブも、すごく綺麗で、かっこよかった』
面倒くさがりの幼馴染は、それでも、俺が出る試合を毎度見に来てくれていた。
甘えたがりなのに、俺が家で練習をしているときは邪魔をしてきたことはなかった。
俺が朝練で起こしに行けない日は遅刻ぎりぎりに登校しては来ても、遅刻をして、心配を掛けたことはなかった。
「怠い」「面倒くさい」「修ちゃんがやって」の三拍子をよく口にして、何をするにも基本的に腰が重くて。
それでも、昔からずっと、いいやつではあった。
誰よりも俺をよく見て、俺を慮って、俺の傍に居てくれる。
一番の幼馴染だ。
『そりゃあ、好きな子の前ではたまには、少しくらいは、かっこつけたいじゃん』
そして、かっこつけたがりも、昔からだった。
前世が犬だったから、という理由だけでなく。俺の傍で、俺をよく見ていて、幼馴染の前でかっこつけることが好きな来夏は、さんざん目に焼きつけた俺の真似をして、今、頑張ってくれているのかもしれない。
――だからって、頑張りすぎだっての。
球技が不得手だったはずのに、人生で一度もやったことがないであろうジャンプサーブをして、成功して、点を得るなんて。
思わず笑いが溢れてしまうと同時に、眼窩が少しだけ、熱くなる。
これまでの来夏と、前世の記憶とやらを取り戻した来夏。
そのふたつの間に俺は溝を感じていた。来夏が別人になってしまったような気がして、あの日からずっと、俺だけが置いてけぼりにされているような寂しさがあった。事故に遭う前の、元の来夏に戻ってほしいとさえ思ってしまっていた。
けれど、ふと見せる表情にも、共有している思い出にも、来夏が見せてくれる思いやりにも。
これまで一緒に過ごしてきた来夏は、たしかにいた。
来夏は、来夏だ。
「頑張れ、来夏!」
四度目のサーブを打たんとする来夏に、力の限りの声援を送る。
来夏は、わ、と目を見開き、凄まじい威力を持ったジャンプサーブを繰り出す。
サーブで四点先取。その後も、来夏は見事活躍し、二年三組チームは第二セットを勝ち取った――が。
「……まぁ、スタミナだけはどうしようもないよな」
元々運動嫌いで、インドア派。体育も可能な限り、手を抜く来夏は、第三セットの序盤でバテてしまった。
ボールを追いかけきれず、パスもへにゃへにゃになってしまい、二年一組チームもそこをすかさず攻め入ってきて、敗北した。
「うー……最初から上手に出来てたら、スタミナももって、二セット先取で勝てたのに」
「それでも、お前、すごい活躍しただろ。クラスのみんなからもいっぱい褒められてた」
バレーの試合こそ敗北に終わってしまったけれど、「ジャンプサーブかっこよかったよ!」「あんなに能動的な山蕗はじめて見た」「球技下手なの嘘だったん!?」と負けてしまったとは思えないほどに二年三組は活気ったっぷりに来夏に喝采を送った。
「それに、リレーでも大活躍だったし」
日が沈みはじめた頃、体育祭の終盤を飾る、花形競技であるクラス対抗リレーが行われた。全学年の同クラスを縦割りに編成したチームでのリレーで、来夏は三番手を務めた。
それまでの三組チームは四位と心許ない順位だったが、バレーの試合からリレーまでしっかりと休養を取ったのもあって来夏は一歩目から勢いたっぷりに駆けた。前にいる全員を抜いて一位に躍り出て、そのまま三組チームは優勝した。
「リレーに関しては他学年の力もあるから優勝とは言いきれないって、ダッツはもらえなかったけどさ。代わりに、ペプコはもらえたじゃん」
「最終競技が終わってすぐに配ってくれたのを見るに、最初から適当な理由つけてペプコを配る気だったんだと思うけどね」
「それは言わないであげなよ」
「まぁ、おれたちには馴染みの味だから、いいけどね」
俺たちは今、担任から配ってもらったペプコをちうちうと吸いながら、陽が沈みかかっている茜色の帰路をだらだらと歩いている。
二本一組の容器の、ヨーグルト味。
俺と来夏で一袋ずつもらったから、今日は俺の分を開けて。
来夏の分はまた明日食べることにした。
「とにもかくにも、我がクラスの今日のヒーローは間違いなく、お前だったよ」
「……修ちゃんは?」
ふいに来夏が足を止める。一歩先に行ってしまった俺も足を止めて、来夏を振り返る。
「修ちゃんにとっても、おれはヒーローだった?」
もうほとんど空っぽのアイスの容器を握りしめ、来夏は眉尻を下げながら、俺を見つめる。
「来夏は」
俺は来夏の頭に手のひらを乗せようとして、けれどアイスの結露で濡れていることに気づいて、咄嗟にシャツでごしごしと拭ってから改めて。来夏の頭に手を乗せた。
「来夏はずっと、俺のヒーローだよ」
教師や、クラスメイトが聞いたら、怪訝な顔をするかもしれない。
来夏は面倒くさがりな部分ばかりを他人に見せるし、そこですかさず俺が世話を焼くから、来夏は俺がいないと何も出来ないと思っている人もいる。
けれど、実際は。
来夏に支えてもらっているのは、守られているのは、俺の方で。
だから俺も、来夏の世話を勝手に焼きたがっているだけで……。
――もう、世話を焼かなくても、いいのかもしれないけど。
あの事故以来、ずいぶん快活になった来夏の方が、むしろ俺の世話を焼くようになった。
そうして、俺だけでなく、みんなのヒーローになった。
みんなが気づいていなかっただけで、絶妙なライン引きをしていただけで実はもともとそれなりにしっかりとしていた来夏が、更にしゃんとした今。
来夏はこれからこれから、更に多くの人から好かれ、慕われ、愛されるだろう。
来夏が認められることは、俺にとって嬉しく、誇らしいことだ。
けれど、それでも、どれだけの人が来夏の周囲に集まっても、来夏の隣は、一番の幼馴染で友だちは、俺であってほしいと思ってしまう。
「……修ちゃん」
頭を撫でていた手の、手首が来夏に掴まれる。
きょとんとしていると、来夏はそのまま撫で滑らせるように俺の手首から手を掴み、指をひとつひとつ絡めてくる。手が深く密着する。
「来夏?」
何がしたいのか、と首を傾げたとき。
来夏の顔が俺に近づいて、そして。
唇が触れ合った。
アイスを食べたばかりの、来夏の冷たい唇が。俺の冷たい唇に。
「え」
それから来夏は俺の身体をぎゅうっと抱きしめた。
「もっと、褒めて。修ちゃん」
「あ、うん……?」
望まれるままに俺はまた来夏の頭をわしわしと撫でながら。
――今の、キス、だよな?
幼い頃の癖でそれなりの頻度で手は繋ぐし、ハグも数えきれないことしたことはある、けれど。
キスをしたのは、はじめてだった。
幼い頃からどこもかしこもべたべたと触れ合ったことがある幼馴染。
その触れる場所が、唇だっただけといえば、それまでのことだけど。
夏や夕日だけのせいとは思えなくらいに、頬が身体が火照って。
心臓がやけに煩くなって。
この熱が、煩さが伝わっているであろう来夏が、今、なにを考えているのか。
気になって仕方がなかったのに、言葉が喉に詰まって、上手く聞けなかった。
