君の声だけ、録音禁止

『君の声だけ、録音禁止』
 僕は、高校に入ってから一度も校内放送でしゃべったことがない。
 放送部員なのに。
 この話をすると、たいていの人は笑う。
「じゃあ、何するために放送部入ったの?」
 もっともな疑問だと思う。
 僕だって、他人が同じことを言ったらそう聞く。
 けれど放送部の仕事は、しゃべることだけじゃない。
 昼休みになれば放送室へ行き、機材の電源を入れる。放送予定表を確認する。音源をセットする。マイクのレベルを調整する。先生から預かった原稿を、担当者の机に置く。
 そして十二時四十五分。
 チャイムが鳴る。
 僕は再生ボタンを押す。
 音楽が流れる。
 以上。
 僕の仕事は、ほぼそれだけだ。
「相変わらず徹底してるねえ」
 六月の水曜日。
 放送室の椅子に座っていた僕に、三年生の部長、杉本先輩が言った。
「何がですか」
「しゃべらないこと」
「いま、しゃべってますけど」
「屁理屈」
 杉本先輩は笑った。
 僕は別に、しゃべれないわけじゃない。
 授業で当てられれば答えるし、友達とも普通に話す。コンビニで「袋いりません」も言える。
 ただ、マイクに向かってしゃべるのが嫌いなのだ。
「宮野」
「はい」
「今日、新しいやつ来るから」
「新しいやつ?」
「入部希望」
「六月に?」
「六月だからじゃない? 五月いっぱいで別の部活辞めたんだって」
「何部ですか」
「知らない」
 杉本先輩は僕の前に一枚の入部届を置いた。
 僕は何となくそれを見る。
 氏名欄には、黒いボールペンで大きく書いてあった。
 瀬名航平。
 二年四組。
 僕と同じ学年だった。
「変なやつらしいよ」
「先輩に言われるなら相当ですね」
「宮野、それ私に失礼だからね」
 そのときだった。
 放送室のドアが三回鳴った。
 コン、コン、コン。
「どうぞ」
 杉本先輩が言う。
 ドアが開いた。
 最初に見えたのは、長い脚だった。
 次に白いシャツ。
 ネクタイは少し緩んでいる。
 髪は校則に引っかからない程度に長く、前髪が目にかかっていた。
 僕より、かなり背が高い。
「失礼します」
 低い声だった。
 僕は顔を上げた。
 瀬名航平は、僕を見た。
 目が合った。
 なぜか、すぐには逸らさなかった。
「あ」
 瀬名が言った。
「見つけた」
「……何を?」
 思わず聞いてしまった。
 瀬名は僕の前まで来ると、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「君」
「僕?」
「うん」
「僕を探してた?」
「三週間くらい」
 意味が分からない。
 僕は杉本先輩を見る。
 先輩も意味が分からないという顔をしていた。
「宮野、知り合い?」
「知りません」
「俺は知ってる」
 瀬名が言った。
「いや、知らないから」
「声を知ってる」
 その一言で、僕の背中が固くなった。
「……何?」
 瀬名はスマートフォンを操作した。
 画面に、音声ファイルらしい波形が表示される。
「再生していい?」
「何を」
「君の声」
「待って」
 僕が立ち上がったときには遅かった。
 スマートフォンから声が流れた。
『――大丈夫。まだ先生来ないから』
 僕の声だった。
 間違いない。
 けれど、いつ、どこで言った言葉なのか思い出せない。
『それより早く行ったほうがいいよ。見つかったら面倒だから』
 そこで音声が止まった。
 放送室が静かになった。
「……何これ」
「去年の十一月十七日。午後五時四十二分」
 瀬名は答えた。
「どこで録ったの」
「旧校舎の裏」
「僕、そこ行ってない」
「行ってる」
「行ってない」
「じゃあ、この声は?」
「知らない」
「君の声だよね」
「似てるだけじゃない?」
「そう思って半年くらい探してた」
「半年?」
「やっと見つけた」
 瀬名は、嬉しそうだった。
 僕は気味が悪かった。
 初対面の男が、自分の声を持っている。
 しかも半年間、自分を探していた。
 普通なら怖い。
 なのに僕が本当に怖かったのは、そこじゃなかった。
 音声の続きを、僕は知っている気がした。
 次に僕が何を言うのか。
 頭の奥に、言葉が浮かんだ。
 ――誰にも言わないから。
「続き、ある?」
 僕は聞いた。
 瀬名の表情が変わった。
「あるよ」
「聞かせて」
「いいの?」
「早く」
 瀬名が再生する。
『それより早く行ったほうがいいよ。見つかったら面倒だから』
 短い沈黙。
 そして。
『誰にも言わないから』
 全身に鳥肌が立った。
 杉本先輩が僕を見る。
「宮野?」
「……知らない」
「でも」
「知らないんです」
 僕はヘッドホンを机に置いた。
「帰ります」
「ちょっと、宮野」
 鞄をつかんだ。
 ドアへ向かう。
 瀬名の横を通り過ぎる。
「待って」
 腕をつかまれた。
「離して」
「ごめん」
 すぐに瀬名は手を離した。
 僕は振り返った。
 近くで見ると、瀬名は思っていたより整った顔をしていた。
 そういうことに気づいてしまった自分に腹が立つ。
「何なの、君」
「瀬名航平」
「名前を聞いてるんじゃない」
「分かってる」
「勝手に録音したの?」
「違う」
「じゃあ何」
「録音してたら、入ってた」
「何に」
 瀬名は一瞬黙った。
「街の音」
「街の音?」
「俺、音を集めてるんだ」
「何それ」
「趣味」
「変な趣味」
「よく言われる」
 瀬名はまったく傷ついた様子を見せなかった。
「電車の音とか、踏切とか、雨とか、自動販売機とか、商店街とか。そういうのを録ってる」
「それで?」
「去年の十一月、学校の裏で録音してた」
「何を」
「落ち葉」
「……落ち葉?」
「風でアスファルトの上を転がる音」
 変なやつだ。
 本当に変なやつだった。
「そこに君の声が入った」
「だから僕じゃない」
「最初は俺もそう思った」
「じゃあ、どうして僕だって」
「四月に聞いたから」
「どこで」
「図書室」
 思い出した。
 四月。
 図書委員の当番だった僕は、カウンターで同級生と話していた。
「そのとき、分かった。あの声だって」
「だったら、その場で声かければよかったじゃん」
「できなかった」
「どうして」
「緊張したから」
「半年も人を探してた人が?」
「探してたから緊張した」
 理屈になっているような、なっていないような。
「それで放送部に?」
「うん」
「僕と話すために?」
「半分」
「残り半分は?」
 瀬名は少し笑った。
「君の声を録りたい」
 僕は、反射的に一歩下がった。
「嫌だ」
「まだ何も」
「絶対嫌だ」
「理由聞いていい?」
「嫌だから」
「マイクが嫌い?」
「関係ない」
「あると思う」
「ない」
「じゃあ、どうして放送部なのに一回も放送しないの?」
 僕は黙った。
 杉本先輩を見る。
「先輩」
「私、何も言ってないよ」
「じゃあ誰から」
「調べた」
 瀬名が言った。
「何を?」
「君のこと」
 怖い。
 やっぱり怖い。
「気持ち悪い」
 口から出てしまった。
 瀬名の顔から笑みが消えた。
 僕は言い過ぎたと思った。
 けれど謝らなかった。
「ごめん」
 なぜか瀬名のほうが謝った。
「でも、知りたかったんだ」
「何を」
「あの日、君が誰と話してたのか」
 僕の心臓が一度、大きく鳴った。
「録音には、僕以外の声も入ってるの?」
「入ってない」
「だったら独り言かもしれない」
「違う」
「どうして」
「君、こう言ってるから」
 瀬名はスマートフォンを見た。
「もう戻ってくるな、って」
 記憶の底で、何かが動いた。
 暗い場所。
 冷たい風。
 誰かの背中。
 制服。
 でも、顔がない。
「知らない」
「宮野?」
「僕じゃない」
 僕は放送室を出た。
 その日の放課後、雨が降った。
 朝の天気予報では晴れだったから、傘を持っていなかった。
 昇降口で空を見ながら、最悪だ、と思った。
「宮野」
 後ろから声がした。
 振り返らなくても分かった。
「何」
「帰る?」
「帰るよ」
「傘ある?」
「ない」
「俺、ある」
「そう」
「入る?」
「入らない」
「即答だ」
「君と相合傘して帰るくらいなら濡れる」
「相合傘って言うんだ」
「言うでしょ」
「なんか古くない?」
「うるさい」
 瀬名は笑った。
 さっき気持ち悪いと言ったのに。
 どうしてこいつは普通に話しかけてくるのだろう。
「じゃあ、貸す」
「君は?」
「濡れる」
「意味ないじゃん」
「宮野が濡れるよりいい」
「なんで」
 瀬名は答えなかった。
 黒い傘を僕に差し出した。
「いらない」
「風邪ひくよ」
「君もでしょ」
「俺、丈夫だから」
「僕だって丈夫」
「細いじゃん」
「関係ない」
「あるよ」
「ない」
 僕たちは昇降口で、くだらない言い争いを続けた。
 雨脚は強くなる。
 周囲の生徒が次々と傘を開いて帰っていく。
「じゃあさ」
 瀬名が言った。
「半分ずつ濡れよう」
「何それ」
「公平」
「相合傘じゃん」
「古いやつ」
「もういい」
 僕は瀬名の傘を奪うように開いた。
「駅までだから」
「うん」
「近寄らないで」
「傘、小さいよ」
「じゃあ濡れて」
「ひどいな」
 瀬名が僕の隣に入る。
 肩が触れた。
 反射的に離れる。
 右肩が雨に濡れた。
「ほら」
「近い」
「離れたら濡れる」
「だったら濡れる」
「宮野」
「何」
「俺のこと嫌い?」
「今日会ったばっかり」
「じゃあ、まだ嫌いじゃない?」
「好きでもない」
「それはそうだろうね」
 瀬名は笑った。
 僕は前を見る。
 校門を出る。
 雨が傘を叩いている。
 瀬名は突然、スマートフォンを出した。
「ちょっと」
「録音」
「やめて」
「君じゃないよ」
「じゃあ何」
「雨」
 画面を見ると、本当に録音アプリが動いていた。
「雨なんか録ってどうするの」
「今日の雨は今日しか降らないから」
「雨なんて全部同じでしょ」
「全然違う」
 瀬名は真面目な顔で言った。
「屋根に当たる雨と、傘に当たる雨と、木の葉に当たる雨は全部違う。同じ傘でも、ビニール傘と布の傘じゃ違う。歩いてるときと止まってるときでも違う」
「へえ」
「興味ないでしょ」
「ちょっとだけ」
「じゃあ聞く?」
「何を」
「今の雨」
「今聞いてるじゃん」
 瀬名が立ち止まった。
 僕も止まる。
「そうなんだよ」
「何が」
「録音すると、今が過去になる」
 雨音の中で、瀬名の声だけが妙にはっきり聞こえた。
「今ここで聞いてる雨は、今しかない。でも録音ボタンを止めた瞬間、これは過去になる。十年後でも聞ける」
「……だから集めてるの?」
「うん」
「変なの」
「知ってる」
 歩き出す。
 また肩が触れた。
 今度は離れなかった。
「じゃあ」
 僕は聞いた。
「人の声も?」
「何?」
「残したいの?」
 瀬名は少し考えた。
「人の声は、ちょっと違う」
「どう違うの」
「怖い」
「怖い?」
「その人がいなくなっても残るから」
 僕は瀬名を見た。
 横顔は笑っていなかった。
「誰か、いなくなったの?」
 瀬名は答えない。
 僕も、それ以上聞かなかった。
 駅が見えてきた。
「ここでいい」
「傘、持ってって」
「明日返す」
「うん」
 僕は傘を受け取った。
 瀬名が雨の中へ出る。
「ちょっと」
「何?」
「濡れるじゃん」
「ここから走る」
「駅までまだあるよ」
「三分」
「入ればいいじゃん」
「相合傘?」
「言うな」
 僕は傘を瀬名のほうへ傾けた。
 瀬名が戻ってくる。
 また肩が触れた。
「宮野」
「何」
「録音していい?」
「雨なら」
「違う」
「じゃあ駄目」
「一言だけ」
「嫌」
「お願い」
「嫌」
「ケチ」
「なんで僕の声が欲しいの」
 瀬名は黙った。
 僕は歩きながら答えを待った。
 十歩くらい進んだところで、瀬名が言った。
「たぶん」
「何」
「好きだから」
 僕の足が止まった。
「……何が?」
「君の声」
 心臓が変な音を立てた。
 僕は顔を逸らす。
「紛らわしい言い方しないで」
「何と間違えた?」
「何も」
「顔赤いよ」
「走ったから」
「歩いてたよ」
「うるさい」
 瀬名が笑う。
 腹が立つ。
 なのに。
 その笑い声を、少しだけ悪くないと思った。
 駅前で別れた。
 僕は電車に乗った。
 座席に座り、窓についた雨粒を見る。
 スマートフォンが震えた。
 知らないアカウントからメッセージが届いていた。
『瀬名です』
 いつ交換した?
 考えて思い出した。
 放送部のグループ連絡網だ。
『今日はごめん』
 僕は返事をしなかった。
 続けてメッセージが来る。
『録音、勝手に聞かせて』
 その次。
『でも、宮野に会えてよかった』
 僕は画面を閉じた。
 三秒後、また開いた。
 返信欄に文字を打つ。
『録音データ、消して』
 送信。
 すぐ既読になった。
 返事はなかなか来なかった。
 電車が一駅進んだころ、ようやく届いた。
『あれだけは消せない』
 僕は眉をひそめた。
『なんで』
『あの日の全部が入ってるから』
『全部って?』
 既読。
 返事が来ない。
『瀬名?』
 既読。
 しばらくして、短いメッセージが届いた。
『宮野』
『何』
『去年の11月17日、学校で何があったか覚えてない?』
 指が止まった。
 十一月十七日。
 何の日だ。
 スマートフォンのカレンダーを遡る。
 予定は何もない。
 写真フォルダを見る。
 十一月十六日。
 昼食の写真。
 十一月十八日。
 帰り道の猫。
 十一月十七日だけ、写真が一枚もなかった。
 胸の奥がざわつく。
 メッセージが届く。
『録音の最後に』
 次のメッセージ。
『変な音が入ってる』
『何』
『人が落ちたみたいな音』
 息が止まった。
 電車の音が遠くなる。
 知らないはずなのに。
 僕は知っていた。
 その瞬間、頭の中に一つの光景が浮かんだ。
 旧校舎。
 非常階段。
 手すり。
 誰かが立っている。
 僕は下から見上げている。
 そして言う。
 ――もう戻ってくるな。
「……誰に?」
 自分の口から声が漏れた。
 向かいに座っていた会社員が顔を上げた。
 僕は俯いた。
 スマートフォンが震える。
『明日、全部聞く?』
 僕はしばらく画面を見つめた。
 やがて返信した。
『聞く』
 送信してから、もう一つ打った。
『ただし条件がある』
『何?』
『僕の声を録らないこと』
 返事はすぐ来た。
『分かった』
 そして、もう一通。
『宮野がいいって言うまで、絶対録らない』
 なぜだろう。
 その言葉を見た瞬間だけ、僕は少し安心した。
 翌日の昼休み。
 放送室へ行くと、瀬名が一人で待っていた。
 机の上に、古びた小さなICレコーダーが置かれている。
「杉本先輩は?」
「今日は委員会」
「二人だけ?」
「嫌?」
「……別に」
 僕は瀬名の向かいに座った。
「これ?」
「うん」
「スマホじゃなかったの?」
「元データはこっち」
 瀬名がICレコーダーを僕の前へ置いた。
「全部で二十七分」
「長いね」
「落ち葉を録ってたから」
「本当にそんなもの録ってたんだ」
「疑ってた?」
「かなり」
「ひどい」
「再生して」
 瀬名はボタンに指を置いた。
「宮野」
「何」
「途中で嫌になったら止めるから」
「いいから」
「分かった」
 再生ボタンが押された。
 最初は風の音だけだった。
 カサカサ。
 カラカラ。
 乾いた葉が地面を転がる。
 遠くで運動部の掛け声が聞こえる。
 自転車のベル。
 鳥。
 どこにでもある放課後だった。
 五分。
 十分。
 何も起こらない。
「これ、全部聞くの?」
「もう少し」
 十三分を過ぎたところで、足音が入った。
 誰かが走っている。
 そして僕の声。
『待って』
 僕は拳を握った。
 間違いなく自分だ。
『待ってって』
 足音。
 誰かを追っている。
『大丈夫。まだ先生来ないから』
 昨日聞いた部分だ。
『それより早く行ったほうがいいよ。見つかったら面倒だから』
 沈黙。
『誰にも言わないから』
 風。
 そして。
『もう戻ってくるな』
 数秒後。
 金属が鳴った。
 ガン。
 続いて、何か重いものが落ちるような音。
 僕は立ち上がった。
「止めて」
 瀬名が止めた。
「宮野?」
「……違う」
「何が」
「人が落ちた音じゃない」
「分かるの?」
「これは」
 口が勝手に動いた。
「ロッカーだ」
 瀬名が僕を見る。
「ロッカー?」
「古いスチールロッカー」
「どうして分かるの?」
 僕は答えられなかった。
 記憶が戻ったわけではない。
 なのに知っている。
「宮野」
「分からない」
「でも今」
「分からないって」
 僕は椅子に座り直した。
 手が震えている。
 瀬名がこちらへ手を伸ばしかけた。
 途中で止めた。
「触っていい?」
 僕は顔を上げた。
「……なんで聞くの」
「嫌かもしれないから」
 昨日、腕をつかんだことを気にしているらしい。
「別に」
 答えると、瀬名は僕の手首ではなく、制服の袖を軽くつまんだ。
「何それ」
「触っていいって言ったけど、どこまでいいか分かんないから」
「変なところ真面目だね」
「大事でしょ」
 少しだけ笑ってしまった。
 瀬名も笑う。
 その瞬間。
 放送室のスピーカーから、ノイズが流れた。
 ザーッ。
 二人同時に顔を上げた。
「何?」
「放送、入ってる?」
「入ってない」
 僕は操作卓を見る。
 電源は入っているが、マイクは切ってある。
 なのにスピーカーから音がする。
 ザーッ。
 カラカラ。
 風。
 落ち葉。
 僕は立ち上がった。
「瀬名」
「うん」
「これ」
「同じだ」
 昨日の録音と同じ音だった。
 そしてスピーカーから声がした。
『待って』
 僕の声。
 瀬名を見る。
「再生してる?」
「してない」
 ICレコーダーは停止したままだ。
『待ってって』
 僕の声が、校内放送に流れている。
「止めないと」
 僕は操作卓へ走った。
 主電源を切る。
 音が消えた。
 静寂。
「……何だったの」
 瀬名は答えない。
「瀬名?」
 彼は窓の外を見ていた。
「宮野」
「何」
「下」
 僕も見る。
 放送室は校舎の三階にある。
 中庭が見える。
 そこに、一人の男子生徒が立っていた。
 こちらを見上げている。
「誰?」
「知らない」
 その男子生徒は、僕たちが見ていることに気づくと背を向けた。
 歩き出す。
 旧校舎の方向へ。
 僕の頭の中に、昨日と同じ光景が浮かんだ。
 非常階段。
 手すり。
 制服の背中。
 今度は、もう少し鮮明だった。
「瀬名」
「何?」
「僕、あいつを知ってる」
「誰?」
「分からない」
「知ってるのに?」
「顔が思い出せない」
 僕は放送室を飛び出した。
「宮野!」
 瀬名が追ってくる。
 階段を駆け下りる。
 昇降口を抜け、中庭へ。
 男子生徒の姿はもうなかった。
 旧校舎へ続く渡り廊下。
 そこに水滴のような跡が続いていた。
「雨?」
 瀬名が言う。
 僕は空を見る。
 晴れている。
 水滴は一直線に続いている。
 僕たちはそれを追った。
 旧校舎の裏。
 十一月十七日の録音がされた場所。
 そこで水滴は消えていた。
「誰もいない」
 僕が言った。
「宮野」
 瀬名が地面を指さす。
 落ち葉の間に、小さなものが落ちていた。
 古い名札だった。
 拾う。
 青い縁。
 二年生。
 名前の部分は泥で汚れている。
 指で拭った。
 文字が現れる。
 僕は息を止めた。
『宮野 律』
「……僕?」
 瀬名が僕を見る。
 僕も瀬名を見る。
「これ、僕のじゃない」
「でも名前」
「僕、名札なくしてない」
 胸を見る。
 制服には自分の名札がある。
 同じ学校。
 同じ学年。
 同じ名前。
 瀬名が古い名札を受け取る。
 裏返した。
 そこには油性ペンで、小さく日付が書かれていた。
『11・17』
 風が吹いた。
 落ち葉がアスファルトを転がっていく。
 カラカラ。
 カラカラ。
 僕は、その音を知っていた。
 そして初めて思った。
 瀬名が音を残していなかったら、僕はこの日のことを永遠に知らなかったかもしれない。
「瀬名」
「うん」
「お願いがある」
「何?」
「録って」
 瀬名の目が大きくなった。
「何を?」
「今の音」
「君の声も入るよ」
「いい」
「本当に?」
「ただし」
 僕は瀬名を見る。
「僕がやめてって言ったら、すぐ止めて」
「分かった」
 瀬名がレコーダーを取り出す。
 録音ボタンを押した。
 小さな赤いランプが点灯する。
「宮野」
「何」
「録ってる」
「うん」
 僕は息を吸った。
 自分の声が残る。
 それは、ずっと嫌だった。
 声なんて残らなくていいと思っていた。
 過去なんて消えてしまえばいいと思っていた。
 なのに今は。
「瀬名」
「うん」
「僕、十一月十七日に何があったのか知りたい」
「一緒に調べよう」
「なんでそこまでしてくれるの」
 瀬名はレコーダーを持ったまま僕を見る。
「言ったじゃん」
「何を」
「君の声が好きだから」
「それだけ?」
「今は、それだけってことにしといて」
「何それ」
「そのうち続きを言う」
 胸の奥が、また変な音を立てた。
 録音されているのに。
 僕は、その音まで瀬名に聞かれてしまうような気がした。
「……勝手にして」
「うん」
「あと、近い」
「録音するから」
「それ絶対関係ない」
「ばれた?」
 僕は一歩離れた。
 瀬名も一歩近づいた。
「来ないで」
「声、小さくなる」
「高性能なんでしょ」
「宮野の声は近くで録りたい」
「気持ち悪い」
「昨日より言い方が優しい」
「同じだよ」
「違う」
 瀬名が笑った。
 僕も、少しだけ笑った。
 落ち葉の音。
 風の音。
 僕たちの声。
 全部が、小さな機械の中に残っていく。
 このときの僕は、まだ知らなかった。
 十一月十七日の録音には、僕と瀬名がまだ聞いていない声が、もう一つ入っていた。
 そして、その声の持ち主を探すことが、僕たち二人の高校生活を大きく変えることになる。
 何より僕は知らなかった。
 自分の声を誰より嫌っていた僕が、いつか瀬名に向かって、どうしても残してほしい言葉を言うことになるなんて。
 その日が来るまで、あと百二十三日だった。
 翌日から、瀬名は正式に放送部員になった。
 杉本先輩は、何も知らない顔で入部届に判を押した。
「というわけで、今日から瀬名くんはうちの部員です」
「よろしくお願いします」
「よろしくしたくない」
「宮野、冷たい」
「君、目的が不純だから」
「放送に興味あるよ」
「昨日まで落ち葉録ってた人が?」
「落ち葉を馬鹿にするな」
「してない」
「してる」
 杉本先輩が僕たちを交互に見た。
「なんか、昨日より仲良くなってない?」
「なってません」
「なりました」
 声が重なった。
「ほら」
「瀬名」
「何?」
「余計なこと言わないで」
「宮野が否定するから」
「否定するでしょ」
 杉本先輩は楽しそうに笑った。
 僕はため息をつきながら操作卓の電源を入れた。
 昼の放送まであと五分。
 今日の担当は一年生の女子二人だった。
 原稿を確認し、BGMをセットする。
 瀬名は僕の隣に立って、珍しそうに操作卓を眺めていた。
「触らないで」
「触ってない」
「顔が触りそう」
「そんな近い?」
「近い」
「宮野にもよく言われる」
「僕が言ってるんだけど」
「あ、そっか」
 こいつは時々、本当に馬鹿なのか、わざとなのか分からない。
「これ、何?」
「フェーダー」
「これは?」
「マイクの音量」
「これは?」
「CD」
「これは?」
「非常放送」
「押していい?」
「絶対駄目」
「押さないよ」
「今、押していいって聞いたじゃん」
「確認しただけ」
 僕は瀬名の手を払いのけた。
 その瞬間。
 指と指が触れた。
 たったそれだけだった。
 なのに僕は反射的に手を引いた。
「……何?」
 瀬名が僕を見る。
「何でもない」
「顔赤い」
「暑いから」
「エアコン二十二度だけど」
「うるさい」
「宮野って」
「何」
「分かりやすいね」
「何が」
「いろいろ」
「意味分かんない」
 僕は瀬名から離れた。
 腹が立つ。
 もっと腹が立つのは、自分でも理由が分かっていることだった。
 昨日、瀬名に「君の声が好き」と言われてから、妙に意識している。
 声が好き。
 ただ、それだけだ。
 人として好きだと言われたわけじゃない。
 まして、男として好きだと言われたわけでもない。
 それなのに。
「宮野」
「何」
「また考えてる」
「何を」
「俺のこと」
「考えてない」
「じゃあ、何考えてた?」
「昼ご飯」
「嘘」
「なんで」
「さっき食べてたじゃん」
「明日の昼ご飯」
「早いな」
 十二時四十五分。
 チャイムが鳴った。
「始まるよ」
 僕は一年生二人に合図した。
 一人がマイクをオンにする。
「こんにちは。お昼の放送です」
 いつもの声が校内に流れる。
 僕はBGMの音量を少し下げた。
 瀬名は黙って僕の手元を見ていた。
 その横顔を、僕はちらりと見る。
 意外に真剣だった。
「本当に興味あるの?」
 小声で聞いた。
「ある」
「音に?」
「うん」
「声じゃなくて?」
「両方」
「ふうん」
「あと」
「何」
「宮野にも」
 僕の指が滑った。
 BGMの音量が一瞬上がった。
 一年生が驚いてこちらを見る。
「すみません」
 慌てて戻す。
 瀬名が笑いをこらえている。
「……あとで覚えてろ」
「怖い」
「全然怖がってないでしょ」
 放送が終わる。
 一年生二人が出ていった。
 杉本先輩も先生に呼ばれて職員室へ行った。
 また僕と瀬名だけになった。
「宮野」
「何」
「昨日の名札」
 空気が変わった。
「持ってきた?」
「うん」
 僕は鞄からビニール袋を出した。
 泥のついた名札。
『宮野 律』
 そして裏には、
『11・17』
「やっぱり変だよな」
「うん」
「同姓同名の生徒がいるとか?」
「聞いたことない」
「昔の名札って可能性は?」
「デザインが今と同じだから、そんなに古くないと思う」
 瀬名がスマートフォンを出した。
「調べる?」
「どうやって」
「卒業アルバム」
「図書室にあるかも」
「行こう」
「今?」
「今」
「昼休み終わるよ」
「放課後」
「部活は?」
「これも部活」
「どこが」
「音響研究」
「絶対違う」
 放課後。
 僕たちは図書室へ向かった。
 校史や卒業アルバムは、一番奥の棚にまとめて置かれていた。
「何年分見る?」
「とりあえず五年」
「多いな」
「宮野律を探す」
「僕がいるじゃん」
「古いほう」
「古い僕って何」
 瀬名が一冊目を開いた。
 僕も隣に座る。
 肩が触れそうな距離だった。
「近くない?」
「アルバム一冊しかないから」
「向こうから見れば?」
「見づらい」
「じゃあ僕が向こう行く」
 立ち上がろうとすると、制服の袖をつかまれた。
「何」
「ここでいいじゃん」
「……瀬名」
「何?」
「君、人との距離近いって言われない?」
「言われない」
「じゃあ僕にだけ?」
 口にしてから後悔した。
 瀬名が僕を見る。
「そうかも」
「何で」
「宮野だから」
 まただ。
 こいつは時々、心臓に悪いことを何でもない顔で言う。
「意味分かんない」
「そのうち分かるよ」
「何それ」
「ほら、探そう」
 僕はアルバムへ視線を戻した。
 一年目。
 いない。
 二年目。
 いない。
 三年目。
 いない。
 四年目。
 いない。
「やっぱり僕の名札なんじゃない?」
「でもなくしてないんだろ」
「うん」
「じゃあ最後」
 五年前の卒業アルバムを開く。
 一組。
 二組。
 三組。
 四組。
「いない」
「待って」
 瀬名がページを戻した。
「何?」
「これ」
 指さしたのは、集合写真ではなかった。
 文化祭のスナップ写真。
 校庭で男子生徒が三人笑っている。
 そのうち一人。
 胸元を拡大する。
 名札。
『宮野』
「……嘘」
「親戚?」
「知らない」
「顔、似てる」
 確かに似ていた。
 僕より少し目つきが鋭い。
 でも鼻や口元は驚くほど似ている。
 写真の下に小さく名前が書かれていた。
『宮野理人』
「律じゃない」
「理人」
「知らない」
「兄弟は?」
「いない」
「従兄弟とか」
「聞いたことない」
「写真撮るよ」
「うん」
 瀬名がスマートフォンを向ける。
 その瞬間、僕は別のものに気づいた。
「待って」
「何?」
「隣」
 宮野理人の隣に立っている男子生徒。
 名前を見る。
『瀬名拓海』
 僕たちは同時に黙った。
 ゆっくり瀬名を見る。
「……親戚?」
 今度は僕が聞いた。
 瀬名は写真を見つめている。
「兄貴」
「え」
「俺の兄」
「お兄さん、この学校だったの?」
「うん」
「何で言わなかったの」
「関係ないと思ったから」
「でも」
 僕は写真を見る。
 宮野理人と瀬名拓海。
 二人は肩を組んで笑っている。
「知り合いじゃん」
「みたいだな」
「お兄さんに聞けば」
「無理」
 瀬名の声が変わった。
「どうして」
 瀬名は答えなかった。
 僕は昨日の会話を思い出す。
 ――人の声は怖い。
 ――その人がいなくなっても残るから。
「瀬名」
「兄貴、死んでる」
 僕は何も言えなかった。
「三年前」
「……ごめん」
「宮野が謝ることじゃない」
「でも」
「事故だった」
 瀬名は淡々と言った。
「高校三年の冬。バイク事故」
「この写真のあと?」
「うん」
「じゃあ、お兄さんはこの人を知ってた」
「たぶん」
 宮野理人。
 僕とよく似た男子生徒。
 瀬名の兄と肩を組んで笑っている。
「お兄さんのもの、残ってる?」
「何?」
「アルバムとか」
「家にある」
「この人が誰なのか分かるものないかな」
「探してみる」
「僕も家で聞いてみる」
「誰に?」
「母さん」
 そこで予鈴が鳴った。
「戻ろう」
 アルバムを閉じる。
 僕が持ち上げようとしたとき、瀬名が先に取った。
「僕が戻す」
「重いから」
「これくらい持てる」
「知ってる」
「じゃあ渡して」
「嫌」
「何で」
「持ちたいから」
「意味分かんない」
 瀬名が棚へ歩いていく。
 その背中を見ながら思った。
 兄を亡くした人。
 昨日まで知らなかった瀬名の一部。
 僕はもっと知りたいと思った。
 その気持ちに気づいて、少し怖くなった。
 家へ帰ると、母は台所で夕食を作っていた。
「母さん」
「なに?」
「宮野理人って知ってる?」
 包丁の音が止まった。
 ほんの一秒。
 でも僕は見逃さなかった。
「誰?」
「宮野理人」
「知らない」
「本当に?」
「どうして?」
「学校の昔の卒業アルバムにいた」
「同じ名字なんて珍しくないでしょ」
「僕に似てる」
 母はまた野菜を切り始めた。
「他人の空似じゃない?」
「瀬名のお兄さんと友達だったみたい」
 また包丁が止まった。
「瀬名?」
「同じクラスじゃないけど、放送部に入ったやつ」
「……そう」
「母さん」
「何?」
「知ってるでしょ」
「知らないわよ」
「じゃあ何でそんな顔するの」
 母が振り返った。
「律」
 珍しく強い声だった。
「その話はやめなさい」
「なんで」
「関係ないから」
「僕と同じ名字で、僕に似てるのに?」
「関係ありません」
「誰なの」
「知らない」
「嘘」
「律!」
 母が声を荒らげた。
 僕は黙った。
 母も黙る。
 気まずい沈黙。
「……ごめん」
 先に母が言った。
「でも、昔のことだから」
「昔の何?」
「もう終わったこと」
「終わってない」
「律」
「僕の名札が学校の裏に落ちてた」
 母の顔色が変わった。
「何?」
「僕と同じ名前の古い名札」
「見せて」
「学校」
 嘘をついた。
 本当は鞄の中にある。
「捨てなさい」
「なんで」
「いいから」
「理由言ってよ」
「律」
「僕、去年の十一月十七日のこと覚えてないんだ」
 母の手から包丁が落ちた。
 床に当たり、大きな音がした。
「母さん?」
「……十一月十七日?」
「うん」
「去年?」
「そう」
「その日、学校にいたの?」
「たぶん」
「誰と?」
「分からない」
 母の顔が真っ青になっていた。
「どうしたの」
「律」
「何」
「もう調べないで」
「どうして」
「お願い」
 母はそれしか言わなかった。
 夜十一時。
 ベッドに入っても眠れなかった。
 スマートフォンを手に取る。
 瀬名からメッセージが来ていた。
『起きてる?』
『起きてる』
 一秒で既読。
『電話していい?』
 僕は少し迷った。
『いいよ』
 すぐ着信。
「もしもし」
『宮野』
「何」
『声、聞きたかった』
「……切るよ」
『待って待って』
「用事は?」
『ある』
「何」
『兄貴の部屋探した』
 僕は起き上がった。
「何かあった?」
『写真』
「理人さん?」
『うん』
「本当に?」
『何枚もある』
「じゃあ友達だったんだ」
『それだけじゃない』
「何?」
 瀬名が黙った。
「瀬名?」
『写真の裏に』
「うん」
『兄貴の字で書いてある』
「何て?」
 しばらく沈黙。
『理人へ。声を忘れない』
 僕は息を止めた。
「声?」
『うん』
「瀬名のお兄さんも録音してた?」
『してた』
「君みたいに?」
『逆』
「逆?」
『俺が兄貴の真似したんだ』
 初めて知った。
 瀬名が音を集めるようになった理由。
『兄貴、音響が好きだった。家にレコーダーいっぱいある』
「残ってる?」
『ある』
「録音も?」
『たぶん』
 僕はベッドから降りた。
「探せる?」
『今から?』
「お願い」
『分かった』
 電話の向こうで物音がする。
 僕は待った。
 五分。
 十分。
『宮野』
「あった?」
『SDカードがいっぱいある』
「日付は?」
『五年前』
「聞ける?」
『パソコン立ち上げる』
 さらに数分。
『……ある』
「何が?」
『ファイル名』
「何て?」
 瀬名が読み上げた。
『RITO_01』
 僕の背中が震えた。
「再生して」
『電話越しじゃ音悪いよ』
「いい」
『分かった』
 数秒後。
 ノイズ。
 そして若い男の声。
『テスト、テスト。入ってる?』
 知らない声だった。
 次に別の男が笑う。
『入ってるよ』
 瀬名が小さく言った。
『兄貴だ』
 録音の中で会話が続く。
『これ、何に使うの?』
『残す』
『何を』
『おまえ』
『気持ち悪』
『声だよ』
『もっと気持ち悪い』
 二人が笑った。
 僕は胸が苦しくなった。
 なぜだろう。
 知らない二人なのに。
『理人』
『何』
『卒業したらどうする?』
『東京出る』
『俺も』
『おまえは来なくていい』
『なんでだよ』
『ついてくんな』
『じゃあ同じ大学受ける』
『馬鹿じゃねえの』
 また笑い声。
 瀬名が録音を止めた。
『宮野』
「何」
『兄貴』
「うん」
『たぶん、この人のこと好きだった』
 僕は答えなかった。
 声だけで分かった。
 ふざけているようで。
 でも、その声は特別だった。
「瀬名」
『何?』
「僕たちみたいだね」
 言ってから、時間が止まった。
『……え?』
「違う!」
『今、僕たちみたいって』
「違う意味」
『どういう意味?』
「部活とか」
『兄貴、放送部じゃないよ』
「音とか」
『宮野』
「何」
『今のもう一回言って』
「嫌」
『録音したかった』
「録音禁止」
『電話は録音してない』
「当たり前」
『宮野』
「何」
『顔見たい』
「は?」
『今』
「夜十一時半だよ」
『ビデオ通話』
「嫌」
『なんで』
「寝巻きだから」
『俺も』
「髪ぼさぼさだし」
『見たい』
「絶対嫌」
『じゃあ明日』
「学校で会うでしょ」
『うん』
 瀬名の声が少し嬉しそうだった。
 僕まで笑ってしまった。
『今笑った?』
「笑ってない」
『笑った』
「切るよ」
『待って』
「まだ何か?」
『宮野』
「何」
『おやすみ』
「……おやすみ」
 電話を切った。
 真っ暗な画面に、自分の顔が映る。
 確かに少し笑っていた。
 翌朝。
 校門の前に瀬名がいた。
「おはよう」
「なんでいるの」
「待ってた」
「何時から?」
「十分くらい」
「教室行けばいいじゃん」
「顔見たかったから」
「昨日も言ってたね、それ」
「うん」
 瀬名が僕の顔をじっと見る。
「何」
「寝癖」
「どこ?」
「ここ」
 瀬名の手が伸びる。
 僕の髪に触れた。
 指が耳の近くをかすめる。
 心臓が跳ねた。
「直った」
「……ありがとう」
「宮野」
「何」
「耳赤い」
「寒いから」
「六月だよ」
「うるさい」
 先に歩き出す。
 瀬名が追いつく。
「今日、放課後うち来る?」
「瀬名の家?」
「録音、もっとある」
「行く」
「即答」
「調査だから」
「分かってる」
「変な意味じゃないから」
「俺、何も言ってないけど」
「顔が言ってる」
「どんな顔?」
「うれしそうな顔」
「うれしいよ」
「何で」
「宮野が家来るから」
 僕は足を速めた。
 瀬名も速くなる。
「ついてこないで」
「同じ学校だよ」
「教室違うでしょ」
「途中まで一緒」
 階段を上がる。
 二階の踊り場。
 僕の教室は右。
 瀬名は左。
「じゃあ」
「宮野」
「何?」
「放課後」
「うん」
「逃げないでね」
「逃げないよ」
 瀬名が笑った。
 僕は教室へ向かう。
 その途中で振り返った。
 瀬名も振り返っていた。
 目が合う。
 二人とも一瞬止まる。
 僕は慌てて前を向いた。
 教室に入る。
 席に座る。
「宮野」
 隣の席の佐伯が言った。
「何?」
「おまえ、最近瀬名と仲いいの?」
「普通」
「さっき一緒だったじゃん」
「部活」
「瀬名、放送部?」
「入った」
「へえ」
 佐伯が妙な顔をした。
「何?」
「いや」
「言って」
「あいつ、前の部活辞めた理由知ってる?」
「知らない」
「写真部」
「写真部だったんだ」
「追い出されたらしいよ」
「なんで」
「人の写真、勝手に撮りまくってたって」
 僕は眉をひそめた。
「本当に?」
「噂だけど」
「本人に聞いた?」
「聞くわけないじゃん」
 予鈴が鳴る。
 先生が入ってくる。
 僕は教科書を出した。
 でも授業中、ずっとその言葉が引っかかっていた。
 放課後。
 瀬名は約束どおり僕の教室まで来た。
「行こう」
「瀬名」
「何?」
「写真部だったの?」
 瀬名の表情が止まった。
「誰から聞いた?」
「佐伯」
「そっか」
「なんで辞めたの」
「……あとで話す」
「今じゃ駄目?」
「宮野」
「何」
「俺のこと怖くなった?」
 僕は瀬名を見る。
 いつもの笑顔がない。
「分からない」
 正直に答えた。
「でも、知りたい」
「何を?」
「瀬名のこと」
 瀬名が黙った。
 僕も黙る。
 廊下を生徒たちが通り過ぎていく。
「それ」
 瀬名が言った。
「結構やばいよ」
「何が」
「俺が勘違いする」
「何を?」
「まだ言わない」
「またそれ?」
「うん」
「意味分かんない」
「宮野」
「何」
「家、来る?」
 僕は頷いた。
「行く」
「怖くない?」
「少し」
「少しか」
「でも」
 僕は瀬名を見る。
「怖いより、知りたいほうが大きい」
 瀬名はしばらく何も言わなかった。
 そして僕の鞄を取った。
「何してるの」
「持つ」
「自分で持てる」
「知ってる」
「じゃあ返して」
「嫌」
「何で」
「持ちたいから」
「昨日もそれ言ってた」
「今日も持ちたい」
「変なの」
「うん」
 僕たちは並んで階段を下りた。
 僕の鞄を瀬名が持っている。
 それだけなのに、廊下ですれ違う人に見られているような気がした。
「瀬名」
「何」
「やっぱ返して」
「嫌」
「恥ずかしい」
「なんで?」
「なんか……」
「なんか?」
「彼氏みたいだから」
 瀬名の足が止まった。
 僕も止まる。
「宮野」
「忘れて」
「無理」
「今の忘れて」
「絶対無理」
「返して」
 鞄を奪おうとする。
 瀬名が高く持ち上げる。
「届かない」
「返せ!」
「宮野」
「何!」
「俺だったら」
 瀬名は笑っていなかった。
「嫌?」
 僕の手が止まった。
 階段の途中。
 窓から午後の光が入っている。
 瀬名の顔が近い。
「……何が」
「彼氏」
 心臓が一度、大きく鳴った。
「冗談?」
「どう思う?」
「質問に質問で返さないで」
「じゃあ宮野から答えて」
「何を」
「俺だったら嫌?」
 逃げたかった。
 でも瀬名は僕の鞄を持っている。
 いや、鞄がなくても逃げなかったと思う。
「……分からない」
「そっか」
「瀬名は?」
「俺?」
「僕だったら」
 今度は瀬名が黙った。
 少しだけ目を細める。
「嫌じゃない」
 僕は何も言えなかった。
「むしろ」
「もういい」
「まだ言ってない」
「聞かない」
「聞いてよ」
「嫌」
「宮野」
「行くよ」
「どこに」
「君の家!」
「あ、そっか」
 瀬名が笑った。
 僕は階段を下り始める。
 顔が熱い。
 耳まで熱い。
 後ろから瀬名の声。
「宮野」
「何」
「録音したかった」
「絶対禁止!」
 笑い声が追いかけてきた。
 そのときの僕は、まだ知らなかった。
 瀬名の家で見つける一本の録音が、僕たちの関係を決定的に変えることを。
 そして五年前、宮野理人と瀬名拓海の間にも、僕たちとよく似た問いがあったことを。
「俺だったら嫌?」
 その問いに、彼らがどんな答えを出したのか。
 僕たちは、その日の夕方に知ることになる。
 瀬名の家は、学校から電車で二駅だった。
 駅から十分ほど歩いた住宅街にある、ごく普通の二階建ての家だった。
「誰かいる?」
「母さんは仕事。父さんはたぶん九時くらい」
「そう」
「緊張してる?」
「してない」
「二人きりだけど」
「帰る」
「嘘。ごめん」
 瀬名が玄関を開けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
 靴を脱ぐ。
 瀬名が僕の鞄まで持って上がろうとしたので、今度こそ奪い返した。
「僕の」
「分かってる」
「だったら返して」
「もう返したじゃん」
「僕が取ったの」
「同じ」
「違う」
 二階へ上がる。
 廊下の突き当たりに瀬名の部屋があった。
「ここ」
 入って最初に思った。
「普通」
「何を想像してたの」
「もっと機械だらけかと」
「それは兄貴の部屋」
「瀬名の部屋は普通なんだ」
「がっかりした?」
「ちょっと」
「ひどい」
 机。
 ベッド。
 本棚。
 小さなスピーカー。
 壁には写真が何枚か貼ってある。
 風景ばかりだった。
 踏切。
 公園。
 海。
 夕方の商店街。
 人物写真は一枚もない。
「写真、撮るんだ」
「たまに」
「写真部だったから?」
「うん」
 僕は壁の写真を見る。
「上手じゃん」
「ありがとう」
「人は撮らないの?」
 瀬名の表情が少し変わった。
「撮らない」
「前は?」
「撮ってた」
「それで写真部辞めたの?」
 瀬名は答えず、ベッドに鞄を置いた。
「飲み物取ってくる」
「逃げた」
「逃げてない」
「じゃあ答えて」
「あとで」
「またあとで」
「ちゃんと話すから」
 瀬名が部屋を出た。
 僕は一人になる。
 机の上にはICレコーダーが二台置かれていた。
 その横にヘッドホン。
 そして、小さな写真立て。
 男の人が二人写っている。
 一人は瀬名。
 もう一人は、卒業アルバムで見た兄の拓海さんだった。
 瀬名は今より幼い。
 二人とも笑っている。
「勝手に見てごめん」
 戻ってきた瀬名に言った。
「いいよ」
 ペットボトルの麦茶を渡される。
「兄貴」
「うん」
「似てる?」
「少し」
「よく言われた」
「でも、お兄さんのほうが」
「何?」
「優しそう」
「おい」
「冗談」
「宮野が冗談言うようになった」
「僕だって言うよ」
「俺には最初、気持ち悪いしか言わなかったのに」
「まだ気持ち悪いよ」
「ひどい」
 僕は写真立てを戻した。
「録音、聞こう」
「うん」
 瀬名はノートパソコンを開いた。
 フォルダの中には、日付ごとに大量の音声ファイルが保存されていた。
「すごい」
「兄貴、何でも録ってたから」
「君以上だね」
「俺は兄貴の真似だから」
「いつから?」
「兄貴が死んでから」
 瀬名は淡々と言った。
「最初は、兄貴の声を探した」
「録音の中から?」
「うん。でも聞いてるうちに、兄貴が録りたかったものも分かる気がして」
「それで自分でも録るようになった?」
「そう」
「寂しくならない?」
 瀬名の指が止まった。
「なるよ」
「ごめん」
「謝らなくていい」
 瀬名は僕を見る。
「でも、忘れるよりいい」
「声を?」
「全部」
 その言葉が胸に残った。
 忘れるよりいい。
 僕は去年の十一月十七日を忘れている。
 瀬名は兄を忘れたくなくて音を集めている。
 正反対だ。
「これ」
 瀬名が一つのフォルダを開いた。
『RITO』
 中には二十三個のファイルがあった。
「全部、理人さん?」
「たぶん」
 一つ目。
 二つ目。
 三つ目。
 二人の会話が続いた。
 くだらない話ばかりだった。
『今日数学の宿題見せろ』
『嫌だよ』
『なんで』
『字汚いから』
『関係ねえだろ』
『先生にばれる』
『じゃあ答えだけ』
『もっと駄目だろ』
 笑い声。
 次のファイル。
『拓海』
『ん?』
『卒業したら髪染める?』
『染めない』
『つまんねえ』
『理人は?』
『青』
『絶対似合わない』
『じゃあ赤』
『もっと似合わない』
 また笑う。
「仲良かったんだね」
「うん」
 瀬名が小さく答える。
 十四番目のファイル。
 今までと雰囲気が違った。
 風の音。
 電車。
 たぶん駅のホーム。
『理人』
『何』
『俺だったら嫌?』
 僕と瀬名が同時に顔を上げた。
「……これ」
「うん」
 昨日、階段で瀬名が僕に聞いた言葉。
 偶然なのか。
 録音が続く。
『何が』
『だから』
『何だよ』
『俺が』
 長い沈黙。
『おまえの彼氏だったら』
 僕は息を止めた。
 瀬名も動かない。
 録音の向こうで電車が通過した。
 大きな音。
 そのせいで数秒間、何も聞こえない。
 電車が遠ざかる。
『……馬鹿じゃねえの』
 理人さんの声。
『ごめん』
 拓海さんの声。
『なんで謝るんだよ』
『嫌なんだろ』
『そうじゃなくて』
 また沈黙。
『そういうの、録音しながら言うなよ』
『あ』
『馬鹿』
『ごめん』
『消せ』
『嫌だ』
『消せって』
『絶対嫌だ』
『拓海』
『理人』
 そこでファイルは終わった。
 部屋が静かになった。
 僕は瀬名を見る。
 瀬名はパソコンを見たままだった。
「知らなかった?」
「うん」
「昨日聞いてないの?」
「途中までしか」
「そっか」
 瀬名はヘッドホンを外した。
「兄貴、告白してたんだ」
「……たぶん」
「振られたのかな」
「分からない」
「馬鹿じゃねえの、って言われてる」
「でも」
「何?」
「嫌とは言ってない」
 瀬名が僕を見る。
「宮野も昨日そうだった」
「何が」
「分からないって」
「それは」
「同じだ」
「同じじゃない」
「そう?」
「僕たちは」
 言葉が止まった。
 僕たちは何なのだろう。
 友達?
 部活仲間?
 知り合ってまだ数日。
 なのに毎日話している。
 電話もした。
 家にも来た。
 声が聞きたいと言われた。
 顔が見たいと言われた。
 彼氏だったら嫌かと聞かれた。
「宮野」
「何」
「今、何考えてる?」
「言わない」
「俺のこと?」
「違う」
「嘘」
「何で分かるの」
「顔」
「そんなに分かりやすい?」
「うん」
「最悪」
「俺は好きだけど」
 まただ。
「そういう言い方」
「何?」
「紛らわしい」
「紛らわしくしてる」
 僕は瀬名を見る。
 笑っていなかった。
「……わざと?」
「うん」
「何で」
「宮野に意識してほしいから」
 心臓が速くなる。
「何を」
「俺を」
「してるよ」
 口から出た。
 瀬名の目が少し大きくなる。
 僕も、自分で何を言ったのか理解するまで一秒かかった。
「今のなし」
「無理」
「忘れて」
「絶対忘れない」
「録音してないよね」
「してない」
「本当に?」
「してない。でも覚えた」
「忘れて」
「嫌」
「瀬名」
「宮野」
 距離が近くなっていることに気づいた。
 いつからだ。
 瀬名はベッドの端。
 僕は机の椅子。
 なのに瀬名が少し身を乗り出している。
「近い」
「うん」
「離れて」
「嫌?」
 昨日と同じ問い。
 嫌なら離れる。
 そういう聞き方だった。
「……少し」
「少しか」
 瀬名は少しだけ後ろへ戻った。
 本当に少しだけ。
「これなら?」
「まだ近い」
「これは?」
 さらに数センチ。
「……まあ」
「よかった」
「何が」
「完全に嫌われてない」
「最初よりは」
「最初、何点?」
「マイナス八十」
「今は?」
「二十」
「上がった」
「百点満点とは言ってない」
「じゃあ何点満点?」
「千点」
「下がってるじゃん」
 僕は笑った。
 瀬名も笑った。
 そのときだった。
 パソコンから突然、声が流れた。
『律』
 僕たちは止まった。
「今、何?」
「触ってない」
 再生画面を見る。
 次のファイルが自動再生されていた。
『律』
 男の声。
 理人さんではない。
 拓海さんでもない。
『これを聞いてるってことは――』
 ノイズ。
 瀬名が音量を上げる。
『――俺はもういないと思う』
 僕の腕に鳥肌が立った。
「誰?」
「分からない」
『拓海には言えなかった』
 瀬名の顔が変わる。
『でも、律には言っておく』
 律。
 僕と同じ名前。
『十一月十七日』
 僕は立ち上がった。
「待って」
 瀬名が一時停止する。
「今、十一月十七日って」
「言った」
「何年前?」
 ファイル情報を見る。
 五年前の十一月十六日。
「前日だ」
「何の?」
「この録音の翌日が十一月十七日」
「でも僕が覚えてないのは去年の十一月十七日」
「同じ日」
「偶然?」
「分からない」
「続き」
 瀬名が再生する。
『十一月十七日に、全部終わらせる』
 ノイズ。
『あの場所で』
 遠くで鐘が鳴っている。
『誰にも見つからないように』
 そして最後。
『律。おまえだけは来るな』
 録音が終わった。
「……誰なんだ」
 僕は言った。
 瀬名がファイル名を見る。
『K_1116』
「K?」
「イニシャル?」
「分からない」
「次のファイルは?」
 瀬名が一覧を見る。
 十一月十七日。
 一つだけあった。
『1117_LAST』
「再生する?」
 僕は頷いた。
 瀬名がクリックする。
 最初は無音だった。
 やがて足音。
 風。
 そして拓海さんの声。
『理人!』
 走っている。
『待て!』
 何かがぶつかる音。
『離せ!』
 知らない声。
 さっきの男だ。
『何やってんだよ!』
 拓海さん。
『関係ないだろ!』
『ある!』
『ない!』
『理人は?』
 沈黙。
『……帰った』
『嘘つけ』
『本当だ』
『じゃあ電話する』
『やめろ!』
 大きな物音。
 僕は無意識に瀬名の袖をつかんだ。
 瀬名が僕を見る。
 僕は離さなかった。
『来るな!』
 男が叫ぶ。
『拓海、来るな!』
 次の瞬間。
 金属が倒れる音。
 ガン。
 僕と瀬名は同時に顔を見合わせた。
「これ」
「同じ」
 去年の録音に入っていた音と同じだった。
 スチールロッカーが倒れる音。
 五年前。
 去年。
 同じ十一月十七日。
 同じ音。
 録音は続いている。
『大丈夫か!』
『触るな!』
『血出てるぞ』
『平気だ』
『保健室』
『いい』
『よくない』
 遠くから誰かの足音。
『誰か来る』
『拓海』
『何』
『今日のこと』
 短い沈黙。
『理人には絶対言うな』
 そこで録音が終わった。
 僕は瀬名の袖をつかんだままだった。
「宮野」
「何」
「手」
「あ」
 慌てて離す。
「ごめん」
「別に」
「怖かっただけ」
「うん」
「変な意味じゃない」
「分かってる」
 瀬名はそう言った。
 でも少し残念そうに見えた。
「……つかんでていい?」
 僕は聞いた。
「え?」
「怖いから」
「うん」
 もう一度、瀬名の袖をつかんだ。
 今度は瀬名が笑った。
「何」
「何でもない」
「笑わないで」
「笑ってない」
「笑ってる」
「嬉しいだけ」
「何が」
「宮野が俺を頼ってる」
「袖だけ」
「十分」
 僕は手を離そうとした。
「待って」
 瀬名が言う。
「何」
「そのままでいい」
「……変なの」
「知ってる」
 僕は袖をつかんだまま画面を見る。
「このKって人、探せるかな」
「兄貴のアルバムにいるかも」
「理人さんとも知り合い」
「たぶん」
「そして十一月十七日に何かしようとしてた」
「うん」
「でも」
 僕は画面を見る。
「どうして去年も同じことが起きたんだろう」
「そこだよな」
「五年前と去年」
「四年離れてる」
「僕は去年、その場所にいた」
「録音に声が残ってる」
「でも覚えてない」
 僕は自分の手を見る。
「それに」
「何?」
「母さんは知ってる」
「何を?」
「理人さん」
「聞いた?」
「知らないって言った。でも嘘」
「どうして分かる?」
「十一月十七日って言ったら、顔色変わった」
 瀬名は少し考えた。
「宮野」
「何」
「理人って人、本当に親戚じゃない?」
「分からない」
「家族に隠されてるとか」
「そんなことある?」
「分からない。でも」
 瀬名が僕を見る。
「宮野、似てる」
「写真?」
「うん」
「そんなに?」
「かなり」
「瀬名のお兄さんは?」
「何が」
「理人さんのこと、家で話してなかった?」
「俺には何も」
「そっか」
「でも母さんなら知ってるかも」
「聞ける?」
「聞いてみる」
 そのとき玄関が開く音がした。
「ただいまー」
 女性の声。
「母さん」
「早いね」
「今日早番だったの忘れてた」
「僕、帰ったほうが」
「別にいいよ」
 階段を上がる足音。
「航平?」
「いる」
「お友達?」
「うん」
 ドアが開いた。
「こんにちは」
 僕は立ち上がる。
「お邪魔してます。宮野律です」
 瀬名のお母さんの顔から笑顔が消えた。
「……宮野?」
「はい」
「律くん?」
「そうです」
 ペットボトルを持っていた手が震えた。
「母さん?」
「あなた」
 瀬名のお母さんは僕の顔をじっと見た。
「理人くんの……」
 そこで口を押さえた。
「理人さんを知ってるんですか?」
 僕が聞く。
「母さん」
 瀬名も立ち上がる。
「この人、誰?」
「……知らないの?」
「何を」
「宮野理人くん」
「兄貴の友達だろ」
「そうじゃなくて」
 瀬名のお母さんが僕を見る。
「律くん」
「はい」
「あなたのお父さんの弟よ」
 頭の中が真っ白になった。
「……え?」
「理人くんは」
 彼女はゆっくり言った。
「あなたの叔父さん」
 僕は何も言えなかった。
「でも」
 ようやく声が出る。
「僕、叔父さんなんて」
「聞いてないのね」
「いません。母さんも父さんも」
「律くん」
「どうして誰も」
 瀬名が僕の腕に触れた。
 僕は振り払わなかった。
「母さん」
 瀬名が聞く。
「理人さん、今どこにいる?」
 瀬名のお母さんは答えなかった。
 その沈黙だけで、嫌な予感がした。
「母さん」
「……亡くなったの」
 僕の耳の奥で音が消えた。
「いつ?」
「五年前」
 瀬名が息を呑む。
「まさか」
「十一月十七日よ」
 僕は瀬名を見る。
 瀬名も僕を見ていた。
 五年前の十一月十七日。
 宮野理人が死んだ。
 そして去年の十一月十七日。
 僕は同じ場所にいた。
 その記憶だけがない。
「どうして」
 僕は聞いた。
「理人さんは、どうして死んだんですか」
 瀬名のお母さんは目を伏せた。
「事故だと聞いたわ」
「どんな事故?」
「旧校舎で」
 僕の指が震える。
「非常階段から落ちたって」
 頭の中に光景が戻った。
 手すり。
 制服。
 背中。
 落ちる影。
「違う」
 僕は言った。
「律?」
 瀬名が僕を見る。
「違う」
「何が?」
「あの日」
 息が苦しい。
「去年の十一月十七日」
 頭の奥で誰かが叫んでいる。
 僕自身の声だった。
『待って!』
 そしてもう一人。
 僕によく似た男が、非常階段に立っている。
 そんなはずはない。
 死んでいる。
 五年前に死んでいる。
 なのに。
「僕」
 瀬名の腕をつかんだ。
「理人さんに会った」
 部屋が静まり返った。
「去年?」
 瀬名が聞く。
「うん」
「でも亡くなってる」
「分かってる」
「じゃあ誰だった?」
「分からない」
 記憶がもう一つ戻る。
 十一月十七日。
 夕方。
 旧校舎。
 僕の前に立っていた男。
 その人は僕に言った。
『律』
『俺の声を残してくれ』
 そして。
『瀬名を探せ』
「瀬名」
「何?」
「思い出した」
「何を?」
「理人さんが言ってた」
「何て?」
「瀬名を探せって」
「俺?」
「分からない」
「兄貴かもしれない」
「でも拓海さんも亡くなってる」
「うん」
 僕は瀬名を見る。
「だから僕」
 震える声で言った。
「君に会う前から、君を探してたのかもしれない」
 瀬名は何も言わなかった。
 ただ、僕の手を握った。
 初めてだった。
 袖じゃない。
 腕でもない。
 手のひらと手のひら。
「嫌?」
 瀬名が聞いた。
 僕は首を横に振った。
「今日は」
「うん」
「このままがいい」
 瀬名の指が少しだけ強くなる。
「分かった」
 その手の温度だけは、現実だった。
 過去の録音でもない。
 失われた記憶でもない。
 今、ここにいる瀬名航平の手だった。
 そして、その夜。
 家に帰った僕を、父が待っていた。
 テーブルの上には、あの古い名札が置かれていた。
『宮野 律』
 鞄の中に隠していたはずの名札。
「父さん」
 父は僕を見た。
「どこで見つけた」
「学校」
「旧校舎か」
「……知ってるの?」
 父は目を閉じた。
「律」
「何」
「それは、おまえの名札じゃない」
「でも僕の名前」
「違う」
 父は名札を裏返した。
 十一月十七日。
「これは理人のものだ」
「理人さんの名前は理人でしょ」
「違う」
 父が言った。
「あいつの本当の名前は――」
 一度、言葉を切った。
「宮野律だった」
 僕は動けなかった。
「理人は通称だ。家ではずっとそう呼んでいた」
「どうして」
「おまえが生まれたとき」
 父は僕を見る。
「俺がおまえに、弟と同じ名前をつけた」
「なんで」
「忘れないためだ」
 その言葉を聞いた瞬間。
 瀬名の言葉が頭に浮かんだ。
 ――忘れるよりいい。
 僕は自分の名前を見た。
 宮野律。
 それは僕だけの名前ではなかった。
 五年前に死んだ少年の名前。
 瀬名拓海が好きだった少年の名前。
 そして去年、僕の前に現れた誰かの名前。
「父さん」
「何だ」
「理人さんは、本当に事故で死んだの?」
 父は答えなかった。
「父さん」
「……違う」
 僕の喉が乾く。
「じゃあ」
 父は僕をまっすぐ見た。
「誰かに突き落とされた」
 時計の秒針だけが聞こえた。
「誰に?」
「分からない」
「警察は?」
「事故として処理された」
「どうして」
「目撃者がいなかった」
「いたよ」
「何?」
「拓海さん」
 父の顔色が変わった。
「誰だ」
「瀬名拓海」
「……瀬名?」
「理人さんの友達」
 父が立ち上がった。
「律」
「何」
「その名前をどこで聞いた」
「瀬名航平」
「誰だ」
「拓海さんの弟」
 父の顔から血の気が引いた。
「会ってるのか」
「毎日」
「もう会うな」
「何で」
「いいから」
「嫌だ」
「律」
「理由を言って」
「会うな!」
 父が怒鳴った。
 僕も立ち上がった。
「絶対嫌だ」
「律!」
「瀬名は関係ない」
「関係ある」
「何が!」
 父は拳を握った。
 そして、僕が一番聞きたくなかった言葉を言った。
「理人を最後に見たのは」
 父の声が震えた。
「瀬名拓海なんだ」
 僕は黙った。
「警察が最後に話を聞いた相手も瀬名だった」
「でも」
「その三年後」
 父が続ける。
「瀬名拓海も死んだ」
 僕はスマートフォンを取り出した。
「何してる」
「瀬名に電話する」
「やめろ」
「嫌だ」
 着信音。
 一回。
 二回。
 三回。
『宮野?』
 瀬名の声。
 その声を聞いた瞬間、なぜか安心した。
「瀬名」
『どうした?』
「声聞きたかった」
 電話の向こうが静かになった。
『……今の』
「録音してないよね」
『してない』
「よかった」
『宮野』
「何」
『俺、今すごい顔してると思う』
「どんな」
『たぶん、人生で一番嬉しい顔』
 こんな状況なのに。
 僕は少し笑った。
「馬鹿」
『うん』
「明日」
『うん』
「一緒に調べよう」
『何を?』
「全部」
 父を見る。
「理人さんのことも」
 瀬名の声を聞く。
「拓海さんのことも」
 そして。
「僕たちのことも」
 言ってから気づいた。
『僕たち』。
 瀬名も気づいたらしい。
『宮野』
「何」
『最後のやつ、もう一回』
「嫌」
『お願い』
「絶対嫌」
『じゃあ明日言わせる』
「無理」
『頑張る』
「何を頑張るの」
『宮野が俺を好きになるように』
 心臓が止まりそうになった。
「……瀬名」
『何?』
「それ」
『うん』
「告白?」
 数秒の沈黙。
『そう聞こえた?』
「質問で返さないで」
『じゃあ』
 瀬名が息を吸う音がした。
『明日、ちゃんと言う』
「今じゃないの?」
『顔見て言いたい』
「……そう」
『逃げないでね』
「逃げない」
『約束』
「うん」
 電話を切った。
 父が僕を見ていた。
「律」
「会うよ」
「……」
「何があったのか知りたい」
 僕は名札を握った。
「それに」
 瀬名の声が、まだ耳に残っている。
「僕自身のことも、知りたいから」
 翌朝。
 僕はいつもより十五分早く学校へ行った。
 校門の前に瀬名はいなかった。
 珍しい。
 スマートフォンを見る。
 メッセージもない。
 五分待った。
 十分待った。
 予鈴が近づく。
『どこ?』
 送る。
 既読にならない。
 電話。
 出ない。
「瀬名?」
 嫌な予感がした。
 教室へ向かう。
 四組を覗く。
「瀬名航平いる?」
「今日まだ来てないよ」
「ありがとう」
 放送室。
 いない。
 旧校舎。
 まさか。
 僕は走った。
 渡り廊下を抜ける。
 旧校舎の裏へ。
 誰もいない。
「瀬名!」
 返事はない。
 非常階段を見る。
 そこにスマートフォンが落ちていた。
 瀬名のものだった。
「……瀬名?」
 拾う。
 画面が割れている。
 録音アプリが動いていた。
 赤い数字。
 録音時間、三分四十二秒。
 僕は停止ボタンを押した。
 再生する。
 最初に瀬名の声。
『宮野に話すことがある』
 風。
『今日、ちゃんと言う』
 足音。
『たぶん俺、宮野が好きだ』
 僕の手が震えた。
『声だけじゃなくて』
 瀬名が少し笑う。
『全部』
 そのあと。
 別の足音が入った。
『誰?』
 瀬名の声。
 知らない男の声が答える。
『おまえが瀬名拓海の弟か』
 僕は息を止めた。
『誰ですか』
『宮野律から離れろ』
『嫌です』
『あの子まで巻き込みたくない』
『何の話ですか』
 男が言う。
『十一月十七日の話だ』
 録音の最後。
 瀬名が叫んだ。
『宮野には触るな!』
 激しい物音。
 そして録音は終わっていた。
「瀬名」
 僕は顔を上げた。
 誰もいない。
 でも地面に、小さなものが落ちていた。
 瀬名のICレコーダー。
 その下に紙が一枚。
 拾う。
 手書きの文字。
『声を残したければ、十一月十七日を忘れろ』
 僕は紙を握りしめた。
「ふざけるな」
 初めてだった。
 自分の声が嫌じゃなかった。
 もっと大きな声を出したかった。
「瀬名!」
 旧校舎に僕の声が響いた。
「瀬名航平!」
 返事はない。
 僕はもう一度叫んだ。
「返事しろ!」
 その声を。
 瀬名がどこかで聞いている気がした。
 そして僕は気づいた。
 僕はもう、声を残すことが怖いんじゃない。
 瀬名に届かないことのほうが、ずっと怖かった。
 僕は瀬名のスマートフォンを握ったまま、旧校舎の裏を走った。
「瀬名!」
 返事はない。
 非常階段。
 倉庫。
 体育館との間の細い通路。
 全部見る。
 いない。
 もう一度スマートフォンの録音を再生した。
『宮野には触るな!』
 物音。
 終了。
 何度聞いても同じだった。
 でも。
「待って」
 僕はイヤホンを取り出した。
 音量を上げる。
 最後の五秒。
『宮野には触るな!』
 ガン。
 ザザッ。
 その奥。
 かすかに音がある。
 ピーン。
 ピーン。
 一定間隔の電子音。
 聞いたことがある。
「どこだ」
 学校の中。
 毎日聞いている音。
 僕は目を閉じた。
 ピーン。
 ピーン。
 思い出した。
「エレベーター」
 この学校にはエレベーターが一基しかない。
 新校舎の職員用。
 でも録音場所は旧校舎。
 なら違う。
 もう一度聞く。
 ピーン。
 ピーン。
「違う」
 電子音じゃない。
 金属。
 何かが風で揺れている。
 僕は周囲を見る。
 風が吹く。
 遠くから同じ音。
 ピーン。
 僕は走った。
 旧校舎のさらに奥。
 今は使われていない自転車置き場。
 その向こうに古い倉庫がある。
 入口に金属製の札がぶら下がっていた。
 風が吹くたび、柱に当たる。
 ピーン。
 ピーン。
「ここだ」
 ドアを開ける。
 鍵はかかっていない。
「瀬名!」
 暗い。
 スマートフォンのライトをつける。
 古い机。
 椅子。
 壊れたロッカー。
 体育祭の道具。
 誰もいない。
「瀬名?」
 奥へ進む。
 床に何か落ちていた。
 瀬名の鞄。
「……いる」
 僕は叫んだ。
「瀬名!」
「……宮野?」
 声。
 奥。
「瀬名!」
 机を避ける。
 その向こう。
 床に座り込んでいる瀬名がいた。
「何してんの!」
「宮野」
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「うん」
 僕は瀬名の前にしゃがんだ。
「よかった」
 力が抜けた。
「宮野」
「何」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてる」
「うるさい」
 目をこする。
「誰に連れてこられた?」
「分からない」
「録音の男」
「顔見てない」
「何で」
「後ろから腕つかまれて」
「殴られた?」
「いや」
「じゃあ」
「ここに入れられただけ」
「鍵は?」
「外から何か置かれてたみたい」
「僕、普通に開いたけど」
「たぶん、もういない」
 僕は立ち上がった。
「先生呼ぶ」
「待って」
「何で」
「宮野」
 瀬名が僕の手首をつかんだ。
「まだある」
「何が」
「これ」
 瀬名が床を指さした。
 古い箱。
 中にはカセットテープが十本ほど入っていた。
「何これ」
「ここに置いてあった」
「誰の?」
「分からない」
 一本を取る。
 ラベルに日付。
『11月17日』
「また」
「うん」
「聞ける?」
「放送室なら」
「持っていこう」
「その前に」
 瀬名が僕を見る。
「何?」
「宮野」
「何」
「さっき」
「さっき?」
「俺の録音、聞いた?」
 心臓が跳ねた。
「……聞いた」
「どこまで」
「全部」
「全部?」
「全部」
「じゃあ」
「今はそれどころじゃない」
「俺には大事」
「あと」
「宮野」
「あとで!」
 僕は箱を持ち上げた。
 瀬名が僕を見ている。
「何」
「顔赤い」
「走ったから」
「泣いたからじゃなくて?」
「両方!」
 倉庫を出る。
 瀬名が後ろからついてくる。
「宮野」
「何」
「俺、告白したことになってる?」
「録音に」
「本人に言ってない」
「同じでしょ」
「違う」
「何が」
「ちゃんと顔見て言いたい」
 僕は止まった。
 振り返る。
「今?」
「今」
「こんなところで?」
「場所はどこでもいい」
「僕はよくない」
「じゃあ放課後」
「今朝、言うって言ってた」
「今朝は誘拐されたから」
「誘拐って言うほどじゃ」
「閉じ込められた」
「それはそうだけど」
「じゃあ昼休み」
「急ぐね」
「昨日からずっと言いたかった」
「……分かった」
「本当に?」
「昼休み」
「逃げない?」
「逃げない」
「約束」
「約束」
 瀬名が笑った。
 僕は前を向いた。
 こんな状況なのに、胸の奥が少しだけ軽くなっている。
 馬鹿みたいだと思った。
 放送室に戻ると、杉本先輩がいた。
「二人ともどこ行ってたの?」
「ちょっと」
「朝から?」
「はい」
「瀬名くん、ホームルーム出てないでしょ」
「すみません」
「宮野も」
「すみません」
 杉本先輩が僕たちを見る。
「何かあった?」
 僕と瀬名は顔を見合わせた。
「先輩」
「何?」
「この学校に昔、録音用のカセットデッキありました?」
「昔?」
「五年くらい前」
「あるんじゃない? 倉庫に」
「今も使えます?」
「放送室の棚に一台あったと思うけど」
 探す。
 本当にあった。
「これ?」
「たぶん」
 瀬名が接続する。
「先輩」
「ん?」
「少しだけ二人にしてもらえます?」
「え」
「お願いします」
 杉本先輩の目が急に楽しそうになる。
「なるほど」
「違います」
「何も言ってないけど」
「顔が言ってます」
「はいはい。十分だけね」
 先輩が出ていく。
「何で二人にしたの」
「聞かれたくない」
「カセット?」
「うん」
 一本目を入れる。
 再生。
 ザーッ。
 古い録音特有のノイズ。
 そして男の声。
『十一月十七日。午後四時十二分』
 瀬名を見る。
「この声」
「昨日のK」
 同じだった。
『記録しておく』
 男は淡々と話す。
『宮野律は来ない』
 僕の名前。
 いや。
 五年前なら叔父の名前。
『瀬名拓海も来させない』
 瀬名の表情が固まる。
『全部、俺一人で終わらせる』
 そこで一度、録音が切れる。
 次。
『午後四時三十八分』
 荒い息。
『失敗した』
 遠くで誰かが叫んでいる。
『理人が来た』
 僕は息を呑む。
『来るなと言ったのに』
 足音。
『あいつは馬鹿だ』
 声が震えている。
『俺なんかのために』
 次の瞬間。
『景!』
 遠くから声。
 瀬名が止めた。
「今」
「名前」
「景」
「K」
 瀬名がスマートフォンを出す。
「卒業アルバム」
「図書室?」
「写真撮ってある」
 画像を見る。
 拓海さんのクラス。
 名前を追う。
「いた」
 瀬名が指さす。
『黒瀬 景』
 写真の男子生徒。
 僕は顔を見た。
 背中が冷たくなる。
「この人」
「知ってる?」
「昨日」
「え?」
「いや」
 記憶を探す。
 昨日じゃない。
 もっと前。
「去年の十一月十七日」
 頭の奥に顔が浮かぶ。
「いた」
「どこに?」
「旧校舎」
「理人さんじゃなくて?」
「二人いた」
 記憶が戻る。
 非常階段。
 僕によく似た男。
 その向こう。
 もう一人。
「黒瀬景」
「でも五年前の生徒だよ」
「今なら二十二、三歳」
「じゃあ昨日の男も」
「声は?」
「録音の男と似てた」
「黒瀬かもしれない」
「どうして学校に?」
「分からない」
 カセットを再生する。
『景!』
 理人さんの声。
『来るな!』
『何してんだよ』
『帰れ!』
『嫌だ』
『関係ないだろ』
『ある』
『ない!』
 そして。
『おまえが死んだら、俺が困る!』
 沈黙。
『何だよ、それ』
『そのままだよ』
『俺、おまえに何も返せない』
『返さなくていい』
『理人』
『生きろよ』
 僕は目を閉じた。
 カセットの向こうで風が吹いている。
『頼むから、生きてくれ』
 その言葉のあと。
 金属音。
 叫び声。
 何かが落ちた。
 録音が止まった。
「理人さん」
 僕が言う。
「黒瀬さんを止めようとしたんだ」
「たぶん」
「それで落ちた?」
「事故だったのかも」
「でも父さんは突き落とされたって」
「誰が?」
「分からない」
 次のテープ。
 再生。
『十一月十八日』
 黒瀬の声だった。
『理人が死んだ』
 長い沈黙。
『俺のせいだ』
 息を吸う音。
『拓海は違うと言った』
 瀬名の肩が動いた。
『事故だったって』
 僕は瀬名を見る。
『でも違う』
 黒瀬の声。
『俺が死のうとしなければ、理人は来なかった』
 また沈黙。
『だから俺が殺したのと同じだ』
 録音が終わった。
「……そういうこと?」
 僕は言った。
「黒瀬さんが突き落としたわけじゃない」
「でも自分のせいだと思ってる」
「じゃあ父さんが言ってた話は」
「誤解かもしれない」
 瀬名が次のテープを取る。
 ラベルには三年前の日付。
「これ」
「拓海さんが亡くなった年」
 再生。
 黒瀬の声。
『拓海から連絡が来た』
 僕たちは黙って聞く。
『理人の録音を渡したいと言われた』
 瀬名が僕を見る。
『もう終わりにしよう、と』
 風。
『あいつは俺を許すと言った』
 黒瀬が笑う。
 乾いた笑いだった。
『許される資格なんてない』
 次の言葉。
『でも会いに行く』
 そこで終わる。
「次」
 瀬名が言った。
 次のテープ。
 日付は翌日。
『拓海が死んだ』
 瀬名の手が止まった。
 僕は何も言わず、その手に触れた。
 瀬名は僕を見る。
 僕は離さなかった。
 録音が続く。
『事故だ』
『警察はそう言った』
『俺も見ていた』
 瀬名の指が震える。
『バイクが滑った』
 沈黙。
『俺の目の前で』
 瀬名が停止した。
「もういい」
「瀬名」
「ちょっと」
「うん」
「ごめん」
「謝らないで」
 瀬名は顔を伏せた。
 僕は手を握った。
 昨日とは逆だった。
「宮野」
「何」
「手」
「嫌?」
「違う」
「じゃあこのまま」
「うん」
 しばらく二人とも何も言わなかった。
 窓の外から運動部の声が聞こえる。
「兄貴」
 瀬名が言った。
「黒瀬に会いに行ったんだ」
「うん」
「その帰りに事故」
「たぶん」
「だから黒瀬は」
「二人とも自分のせいだと思ってる」
「それで去年」
「僕に会った」
「なんで?」
「分からない」
 僕は考えた。
「僕の名前」
「何?」
「黒瀬さんが知ったんじゃない?」
「宮野律」
「理人さんと同じ名前」
「それで学校に?」
「分からない」
「宮野」
「何」
「去年、何を言われた?」
「まだ全部思い出せない」
「無理しなくていい」
「でも」
「ゆっくりでいい」
 瀬名の親指が僕の手の甲に触れた。
 僕はそこを見る。
「瀬名」
「何?」
「それ」
「嫌だった?」
「……嫌じゃない」
「じゃあ続ける」
「調子に乗らないで」
「はい」
 でも指は離れなかった。
 僕も手を離さなかった。
 昼休み。
 僕は約束どおり放送室にいた。
 瀬名もいる。
 杉本先輩は一年生を連れて購買へ行った。
 二人きり。
「宮野」
「何」
「覚えてる?」
「何を」
「約束」
「……忘れた」
「嘘」
「カセット調べよう」
「その前」
「あとで」
「逃げないって言った」
「逃げてない」
「じゃあ」
 瀬名が僕の前に立つ。
「近い」
「今日は言っていい?」
「何を」
「昨日言えなかったこと」
「……うん」
 心臓が速い。
 瀬名は僕を見る。
 真面目な顔。
「宮野律」
「フルネームやめて」
「緊張してるから」
「君も?」
「めちゃくちゃ」
「見えない」
「手、触ってみる?」
「何で」
「震えてる」
 僕は瀬名の手を見る。
 本当に少し震えていた。
 思わず握る。
「本当だ」
「宮野」
「あ」
 離そうとした。
 握り返された。
「このまま」
「……うん」
「俺」
 瀬名が息を吸う。
「宮野が好き」
 分かっていた。
 録音で聞いていた。
 それでも本人の声で聞くと、まるで違った。
「最初は声だった」
「うん」
「でも今は違う」
「何が」
「全部」
 昨日の録音と同じ言葉。
「面倒くさいところも」
「それ言う?」
「すぐ怒るところも」
「褒めてない」
「照れると耳赤くなるところも」
「瀬名」
「怖いのに強がるところも」
「もういい」
「よくない」
 手を握る力が少し強くなる。
「全部好き」
 僕は瀬名を見られなくなった。
「……ずるい」
「何が」
「僕、まだ分かんないのに」
「いいよ」
「返事」
「今じゃなくていい」
「でも」
「宮野が分かるまで待つ」
「どれくらい」
「卒業まででも」
「長い」
「じゃあ一週間」
「短い」
「難しいな」
 思わず笑った。
 瀬名も笑う。
「一つだけ」
「何?」
「確認していい?」
「うん」
「俺に触られるの、嫌?」
 僕は考えた。
 手はつないでいる。
 嫌じゃない。
「嫌じゃない」
「じゃあ」
 瀬名が少し近づく。
「ここまで?」
「……近い」
「嫌?」
「分からない」
「じゃあ止まる」
 本当に止まった。
 僕たちの間に、ほんの少し空間がある。
 僕はその距離を見る。
 あと十センチくらい。
 自分でも何をしているのか分からなかった。
 一歩だけ前へ出た。
 瀬名の目が大きくなる。
「宮野?」
「何」
「それ、期待していい?」
「駄目」
「なんで」
「まだ分かんないから」
「そっか」
 でも瀬名は嬉しそうだった。
「何笑ってるの」
「宮野から近づいた」
「一歩だけ」
「十分」
「忘れて」
「絶対忘れない」
「録音禁止」
「録音してない」
「記憶も禁止」
「それは無理」
 昼休み終了のチャイムが鳴った。
「戻らないと」
「うん」
 でも手はつながったまま。
「瀬名」
「何?」
「手」
「うん」
「離さないと」
「宮野から離して」
「なんで僕から」
「俺は離したくないから」
「……馬鹿」
 僕が手を離す。
 急に少し寒く感じた。
 ドアへ向かう。
「宮野」
「何?」
「放課後」
「うん」
「またここで」
「調査?」
「半分」
「残り半分は?」
「デート」
「しない」
「即答」
「調査」
「じゃあ調査デート」
「勝手に名前変えないで」
 放送室を出る。
 廊下を歩きながら、僕は自分の手を見る。
 まだ瀬名の温度が残っている。
 嫌じゃなかった。
 それどころか。
 もう一度触れたいと思っていた。
 それを認めるのが、少しだけ怖かった。
 放課後。
 僕が放送室へ行くと、瀬名はまだ来ていなかった。
 机の上にカセットの箱がある。
 僕は残りを整理した。
 その一番下。
 ラベルのない一本があった。
「何だろ」
 デッキに入れる。
 再生。
 最初は無音。
 そして。
『律』
 僕は止まった。
 黒瀬の声。
『去年の十一月十七日、おまえに会った』
 僕の心臓が速くなる。
『理人と同じ名前』
 ノイズ。
『同じ顔』
 僕はスピーカーに近づいた。
『最初は、理人が戻ってきたと思った』
 息を吸う音。
『でも違った』
 そして。
『おまえに全部話した』
 僕は椅子に座った。
『理人のこと』
『拓海のこと』
『俺のこと』
「じゃあ」
 僕は呟いた。
「僕は知ってた」
 録音が続く。
『でも、おまえは言った』
 黒瀬の声。
『忘れたいって』
 僕の背中が冷たくなる。
『だから約束した』
 何を。
『十一月十七日のことは、二度と話さないと』
 僕は立ち上がった。
「違う」
 記憶が戻り始める。
 去年。
 旧校舎。
 黒瀬。
 僕。
 そして。
『ただ、一つだけ』
 黒瀬が言う。
『おまえが俺に頼んだことがある』
 ノイズ。
『もし瀬名拓海の弟に会うことがあったら』
 僕は息を止める。
『伝えてほしい、と』
「何を?」
 思わずスピーカーに聞いた。
 黒瀬の声が答える。
『拓海は最後まで、弟の話をしていた』
 僕の目が熱くなった。
『航平は俺と違う』
『あいつは音を怖がらない』
『だから、いつか俺よりすごいものを残す』
 そこで一度、黒瀬が笑った。
『拓海はそう言ってた』
 僕は目を閉じた。
 瀬名に聞かせなければ。
 絶対に。
 ドアが開いた。
「宮野」
 瀬名。
「遅くなった」
「瀬名」
「何?」
「来て」
「どうした?」
「いいから」
 僕は瀬名の手をつかんだ。
「これ聞いて」
「何?」
「拓海さん」
 瀬名の顔が変わる。
「兄貴?」
「君の話」
 最初から再生する。
 瀬名は黙って聞いた。
『航平は俺と違う』
『あいつは音を怖がらない』
『だから、いつか俺よりすごいものを残す』
 録音が終わった。
 瀬名は何も言わなかった。
「瀬名」
「……ずるい」
「何が」
「今それ聞かせる?」
「ごめん」
「違う」
 瀬名が目をこする。
「泣くじゃん」
 僕は初めて瀬名が泣くところを見た。
「泣けばいいよ」
「宮野の前で?」
「うん」
「格好悪い」
「昨日、僕も泣いた」
「宮野はいい」
「何で」
「かわいいから」
「今それ言う?」
 瀬名が笑った。
 泣きながら。
 僕はポケットからハンカチを出した。
「使う?」
「宮野が拭いて」
「自分でやって」
「ケチ」
「はい」
 渡そうとした。
 瀬名が僕の手ごとハンカチをつかんだ。
「何」
「宮野」
「何?」
「ありがとう」
「僕じゃない」
「見つけてくれた」
「偶然」
「それでも」
 瀬名の顔が近い。
「近い」
「嫌?」
 いつもの質問。
 僕は今日は首を横に振った。
「嫌じゃない」
 瀬名が止まる。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ」
 さらに少し近づく。
「これは?」
「……大丈夫」
 あと数センチ。
 僕は瀬名の目を見る。
 逃げなかった。
「宮野」
「何」
「キスしていい?」
 心臓がうるさい。
「……聞くんだ」
「聞くよ」
「何で」
「嫌なことしたくないから」
 僕は少し考えた。
 そして。
「一回だけ」
 瀬名の表情が変わった。
「本当に?」
「何度も聞かないで」
「ごめん」
 瀬名がゆっくり近づく。
 僕は目を閉じた。
 唇が触れた。
 本当に一瞬だった。
 離れる。
 僕は目を開けた。
 瀬名が僕を見ている。
「……何」
「宮野」
「何」
「もう一回は?」
「一回って言った」
「駄目?」
「駄目」
「そっか」
 瀬名は残念そうに笑った。
 僕は自分の唇に触れた。
「でも」
「何?」
「明日は分かんない」
 瀬名の目が大きくなった。
「それ」
「何」
「期待していい?」
「知らない」
「宮野」
「録音禁止」
「してない」
「絶対?」
「してない。でも」
「でも?」
「一生覚えてる」
「……馬鹿」
 僕は顔を逸らした。
 瀬名が笑う。
 放送室の窓から夕方の光が差していた。
 スピーカーの横には、過去の声を閉じ込めたカセット。
 机の上には、瀬名のICレコーダー。
 僕たちの間には、今の声。
 過去を残すための音と、これからを始めるための音。
 その二つが初めて、同じ場所にあった。
 でも、まだ終わっていなかった。
 カセットには続きがあった。
 僕たちがキスをした数分後。
 最後まで巻き戻されていなかったテープが、不意に再生を再開した。
『律』
 黒瀬の声。
 僕たちは同時に振り返る。
『もし、これを瀬名航平と一緒に聞いているなら』
 瀬名が僕を見る。
『二人で、放送室の床を調べろ』
「床?」
 僕たちは足元を見る。
『拓海が最後に残したものは』
 ノイズ。
『そこにある』
 録音が終わった。
 僕と瀬名はしばらく床を見つめた。
「宮野」
「何」
「調査デート、延長」
「デートじゃない」
「さっきキスした」
「それとこれは別」
「別なの?」
「別」
「厳しいな」
 僕はしゃがんだ。
「探すよ」
「はい」
 瀬名も隣にしゃがる。
 床板を一枚ずつ確認する。
 放送室の一番奥。
 古い機材棚の下。
「宮野」
「何?」
「ここ」
 一枚だけ色の違う床板。
 瀬名が指を入れる。
 持ち上がった。
 その下。
 小さな金属の箱があった。
 僕たちは顔を見合わせる。
「開ける?」
「うん」
 瀬名が箱を取り出す。
 蓋を開ける。
 中に入っていたのは、小さなICレコーダー。
 そして封筒。
 表には一行だけ。
『航平へ』
 瀬名の手が震えた。
「兄貴の字だ」
 五年前に死んだ瀬名拓海から。
 弟、航平へ。
 まだ開かれていない手紙だった。
 瀬名は封筒を持ったまま、しばらく動かなかった。
「開けないの?」
「怖い」
「……そっか」
「兄貴が俺に何を残したのか、知りたい。でも」
「うん」
「知ったら、本当に終わる気がする」
 僕には、その感覚が少し分かった。
 知らないままなら、まだ何かが残っている。
 開けてしまえば、そこに書かれている言葉が最後になる。
「じゃあ、今じゃなくてもいいよ」
「宮野は気にならない?」
「気になる」
「だよな」
「めちゃくちゃ気になる」
「正直だな」
「でも瀬名の手紙だから」
 瀬名が僕を見る。
「僕は待つ」
「……ありがとう」
 瀬名は封筒を胸元に持っていった。
 その横顔を見ていると、さっきのキスを思い出してしまう。
 ほんの一瞬。
 唇が触れただけ。
 なのに、まだ感触が残っている。
「宮野」
「何」
「また考えてる」
「考えてない」
「俺のこと」
「違う」
「キス?」
「違う!」
 瀬名が笑った。
「当たり?」
「うるさい」
「顔赤い」
「暑い」
「今日二十六度」
「僕には暑い」
「じゃあ窓開ける?」
「そういう意味じゃない」
「どういう意味?」
「もういい」
 僕は立ち上がった。
 瀬名も立つ。
「宮野」
「何」
「さっき言ってたよね」
「何を」
「明日は分かんないって」
「忘れて」
「明日、もう一回していい?」
「まだ今日なんだけど」
「予約」
「そんな予約ない」
「じゃあ当日受付」
「病院みたいに言わないで」
 僕は笑ってしまった。
 瀬名も笑う。
 少し前まで、僕は自分の声が嫌いだった。
 笑い声なんてもっと嫌いだった。
 録音されると、自分が思っている声と違って聞こえる。
 薄くて。
 頼りなくて。
 妙に幼くて。
 だから残したくなかった。
 でも瀬名といると、そんなことを忘れる。
 笑ってしまう。
 しゃべってしまう。
 そして時々。
 残ってもいいと思う。
「レコーダーも見る?」
 僕が聞いた。
「うん」
 床下から出てきたICレコーダー。
 電源は入らなかった。
「古いからな」
「充電?」
「たぶん」
「ケーブルある?」
「型が古い」
「放送室の棚」
「ありそう」
 二人で探す。
 十分ほどして、瀬名が一本のケーブルを見つけた。
「これ」
「合う?」
「たぶん」
 接続。
 ランプが点いた。
「生きてる」
「すごいね」
「五年も床下にあったのに」
 しばらく充電する。
 その間、瀬名は手紙を机に置いた。
「宮野」
「何?」
「やっぱり開ける」
「いいの?」
「うん」
「一人で読む?」
「一緒に」
「でも」
「一緒がいい」
「分かった」
 瀬名が封筒を開ける。
 便箋は一枚だけだった。
 瀬名が読む。
「声に出していい?」
「うん」
 少し震える声だった。
「航平へ」
 瀬名は一度止まった。
「おまえがこれを読むころ、俺がどこで何をしているか分からない」
 僕は黙って聞いた。
「たぶん、おまえはまだ音を集めていないと思う。でも、おまえは昔から耳がいい。俺が聞き逃した音を、おまえだけが聞いていることが何度もあった」
 瀬名が小さく笑った。
「覚えてる」
「何?」
「子供のころ、兄貴に言われた」
「何て?」
「おまえ、犬みたいな耳だなって」
「褒めてないね」
「兄貴だから」
 続きを読む。
「もし俺がいなくなったら、俺の声を無理に探さなくていい」
 瀬名の声が止まった。
 僕は隣を見る。
 目が赤くなっている。
「代わる?」
「大丈夫」
 瀬名は続けた。
「録音は人を生き返らせない。写真も同じだ。残るのは、その瞬間だけだ」
 瀬名の手が震える。
「だから、おまえは過去じゃなくて、今の音を録れ」
 僕は瀬名の手に触れた。
 握る。
 瀬名も握り返した。
「好きな人ができたら、その人の声を録れ」
 僕たちは同時に止まった。
「……兄貴」
 瀬名が呟く。
「そこだけ急に」
「続き」
「うん」
「ただし、勝手に録るな。嫌われるぞ」
 僕は吹き出した。
「ほら」
「兄貴、予言者?」
「完璧に当たってる」
「最初、僕に嫌われた」
「マイナス八十点」
「覚えてたんだ」
「忘れない」
 瀬名も笑った。
 続きを読む。
「ちゃんと本人に聞け。いいと言われたら、大事に残せ」
 瀬名が僕を見る。
「何」
「録音していい?」
「今?」
「うん」
「手紙の途中で?」
「兄貴が言ってる」
「都合よく使わないで」
「駄目?」
「……あとで」
「あとでならいい?」
「考える」
「進歩」
「うるさい」
 手紙の最後。
「航平。人の声は、なくなってから大切になるんじゃない。そこにいるときから大切なんだ。忘れるな。拓海」
 瀬名は読み終えた。
 長い沈黙。
「兄貴らしい」
「どんな人だった?」
「うるさい」
「瀬名みたい」
「俺よりうるさい」
「じゃあ相当だね」
「宮野、それ悪口」
「褒めてる」
「絶対嘘」
 瀬名は手紙を丁寧に畳んだ。
 封筒へ戻す。
「宮野」
「何?」
「ありがとう」
「僕、何もしてない」
「いた」
「それだけ?」
「それが大事」
 瀬名が僕の手を握った。
 僕はもう振りほどかなかった。
 ICレコーダーの充電が終わった。
「いけるかな」
 電源を入れる。
 画面が点灯。
 録音ファイルは一つだけだった。
「一個」
「聞こう」
 再生。
 最初に拓海さんの声。
『テスト』
 瀬名の表情が変わる。
『これ、床下に入れとく』
 少し笑っている。
『いつ見つかるか知らないけど』
 椅子の音。
『理人』
『何』
 僕は驚いた。
「理人さんもいる」
「うん」
 録音の中で拓海さんが言う。
『おまえも何か言え』
『何を』
『未来の人に』
『誰だよ未来の人』
『知らん』
『じゃあ言うことない』
『つまんねえ』
『おまえが勝手にやってんだろ』
 楽しそうな声。
 五年前の二人。
 僕はなぜか少し安心した。
 事故のことでも、死のことでもない。
 ただの高校生の声だった。
『じゃあ質問』
『何』
『十年後、何してたい?』
『急だな』
『いいから』
『生きてたい』
 僕と瀬名は黙った。
 録音の中の拓海さんも、一瞬黙る。
『それだけ?』
『それが一番難しいだろ』
『高校生が言うことかよ』
『じゃあ拓海は?』
『俺?』
『十年後』
『理人といる』
 僕は瀬名を見る。
 瀬名も僕を見る。
『は?』
『だから』
『気持ち悪』
『まだ何も言ってねえだろ』
『顔が言ってる』
『録音だから顔残らない』
『よかったな』
『理人』
『何』
『好き』
 突然だった。
 僕は息を止めた。
『……録ってるぞ』
『知ってる』
『消せ』
『嫌だ』
『馬鹿』
『返事は?』
 長い沈黙。
『……俺も』
 小さな声。
 拓海さんが聞き返す。
『何?』
『一回しか言わない』
『聞こえなかった』
『嘘つけ』
『もう一回』
『絶対嫌』
 二人が笑っている。
 そして理人さんが言った。
『十年後』
『うん』
『まだ一緒にいたら』
『いたら?』
『そのとき、ちゃんと言う』
『何を』
『今は言わない』
『ケチ』
 録音はそこで終わった。
 僕と瀬名は何も言えなかった。
「両想いだったんだ」
 僕が言う。
「うん」
「ちゃんと」
「うん」
「でも十年後」
「来なかった」
 瀬名の声が震えた。
「二人とも死んじゃったから」
「瀬名」
「分かってる」
 瀬名は目を閉じた。
「でも」
「うん」
「残ってた」
 レコーダーを見る。
「兄貴が欲しかった答え」
「うん」
「ちゃんと残ってた」
 僕は頷いた。
「瀬名」
「何?」
「録音って」
「うん」
「悪くないね」
 瀬名が僕を見る。
「宮野がそれ言う?」
「今だけ」
「録音したかった」
「してないよね」
「してない」
「……じゃあ」
 僕は机の上の瀬名のレコーダーを見る。
「録っていいよ」
「え?」
「今」
「本当に?」
「うん」
 瀬名が動かない。
「何」
「ちょっと待って」
「何で」
「緊張する」
「いつも勝手に録ろうとしてたくせに」
「許可されると違う」
「早く」
「待って」
 瀬名がレコーダーを持つ。
「押すよ」
「うん」
「本当に?」
「しつこい」
「押す」
 赤いランプ。
 録音が始まった。
「……何しゃべればいい?」
「何でも」
「急に言われても」
「名前」
「宮野律」
「好きな食べ物」
「カレー」
「好きな色」
「青」
「好きな人」
「瀬名」
 沈黙。
 僕自身が一番驚いた。
「……あ」
 瀬名が固まっている。
「今のなし」
「無理」
「消して」
「絶対嫌」
「瀬名!」
「もう一回言って」
「言わない」
「宮野」
「事故」
「事故でもいい」
「よくない!」
 瀬名は笑っている。
 僕は顔が熱くなる。
「止めて」
「まだ」
「止めて!」
「一個だけ」
「何」
「俺も言う」
 瀬名はレコーダーを机に置いた。
 僕を見る。
「宮野律が好きです」
「……知ってる」
「声も」
「うん」
「怒ってる顔も」
「それ声じゃない」
「笑ってる顔も」
「録音できない」
「全部」
 瀬名が少し近づく。
「好き」
 僕は逃げなかった。
「宮野」
「何」
「キスしていい?」
「……今日二回目」
「まだ一回しかしてない」
「だから二回目」
「駄目?」
 僕は赤いランプを見る。
「録音中」
「音しか入らない」
「分かってる」
「じゃあ」
「……一回だけ」
「昨日も聞いた」
「嫌ならなし」
「します」
「即答」
 瀬名が笑った。
 そして近づく。
 今度は僕も目を閉じた。
 触れる。
 一度離れる。
 でも。
「宮野?」
 僕が瀬名の制服をつかんだ。
「……もう一回」
「え?」
「聞き返したらなし」
 瀬名は何も言わなかった。
 二度目。
 今度は少し長かった。
 離れたとき、僕は瀬名の顔を見られなかった。
「録音」
「うん」
「止めて」
「はい」
 赤いランプが消える。
「絶対誰にも聞かせないで」
「命かける」
「そこまでしなくていい」
「大事だから」
「……僕も聞かない」
「なんで」
「恥ずかしい」
「俺、毎日聞く」
「消す」
「嘘です」
「本当に消すよ」
「一生封印します」
 僕は笑った。
「でも」
「何?」
「声だけ残るんだね」
「うん」
「変な感じ」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
 僕はレコーダーを見る。
「今日の僕は、今日しかいないんでしょ」
 瀬名が驚いた顔をした。
「覚えてた?」
「雨の日に言ってた」
「うん」
「今日の雨は今日しか降らない」
「そう」
「だったら」
 僕は自分の胸に触れた。
「今日の僕も、今日しかいない」
「宮野」
「何」
「それ、すごく好き」
「録音終わってるけど」
「あ!」
 瀬名が慌ててレコーダーを取る。
「もう一回言って」
「嫌」
「お願い」
「絶対嫌」
「宮野」
「一回しか言わない」
「理人さんと同じこと言ってる」
「じゃあ十年後」
「十年?」
「覚えてたら言う」
「絶対覚えてる」
「僕は忘れるかも」
「忘れさせない」
 瀬名が言った。
「十年後も俺がいるから」
 僕は何も言えなくなった。
「……そういうこと簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
「まだ高校生だよ」
「知ってる」
「十年後なんて分からない」
「うん」
「僕たちがどうなってるかも」
「うん」
「だから」
 僕は瀬名を見る。
「約束はしない」
「分かった」
「でも」
「うん」
「明日も一緒にいたい」
 瀬名が笑った。
「それで十分」
 僕も笑った。
 翌日。
 僕たちは黒瀬景を探し始めた。
 卒業アルバムの住所録はなかった。
 先生たちに聞いても、五年前の卒業生の連絡先は教えてもらえない。
「どうする?」
「本人が来るの待つ?」
「また瀬名さらわれるよ」
「さらわれたってほどじゃ」
「僕、めちゃくちゃ心配した」
「ごめん」
「もう一人で行動しないで」
「それ」
「何」
「彼氏っぽい」
「違う」
「まだ?」
「まだ」
「まだってことは可能性ある?」
「うるさい」
 昼休み。
 放送室。
 僕たちは残ったカセットを確認していた。
 最後の一本。
 日付は去年の十一月十七日。
「これ」
「僕が黒瀬さんに会った日」
 再生。
 最初に僕の声が流れた。
『あなた誰ですか』
 去年の僕。
 忘れていた僕。
 黒瀬の声。
『宮野律?』
『そうですけど』
『……嘘だ』
『何が』
『その名前』
『僕の名前です』
 長い沈黙。
『理人』
『誰ですか』
『いや』
 黒瀬が息を吸う。
『ごめん』
 そこから、黒瀬は話し始めた。
 五年前のこと。
 理人さんのこと。
 拓海さんのこと。
 全部。
 そして録音の後半。
 僕が泣いていた。
『嫌だ』
 自分の声。
『こんなの知りたくなかった』
 瀬名が僕を見る。
『父さんも母さんも何も言わなかった』
『知らないほうがいい』
 黒瀬。
『じゃあ何で僕に言ったんですか』
『君が理人に似てたから』
『僕はその人じゃない!』
『分かってる』
『分かってない!』
 僕は聞くのが苦しくなった。
「止める?」
 瀬名が聞く。
「大丈夫」
 続ける。
『忘れたい』
 去年の僕が言う。
『全部忘れたい』
 黒瀬が答える。
『忘れていい』
『本当に?』
『ああ』
『じゃあ』
 僕の声。
『もう戻ってくるな』
 僕は息を止めた。
 あの言葉。
『誰にも言わないから』
 すべてつながった。
 黒瀬に言っていたのだ。
 そして金属音。
 ロッカー。
『何ですか』
『倒れただけだ』
『びっくりした』
『帰れ』
『はい』
 足音。
 そこで終わるはずだった。
 でも。
 まだ録音は続いていた。
 僕が去ったあと。
 黒瀬が一人で呟く。
『ごめんな、理人』
 そして。
『ごめん、拓海』
 長い沈黙。
『俺だけ生きてて』
 僕は停止ボタンを押した。
「瀬名」
「うん」
「黒瀬さん」
「うん」
「ずっと五年前にいる」
 瀬名は黙った。
「僕たちは」
「何?」
「会わないと」
「黒瀬に?」
「うん」
「危ないかもしれない」
「でも」
 僕はカセットを見る。
「この人にも、今の音が必要なんだと思う」
 瀬名が僕を見る。
「宮野」
「何」
「変わったね」
「何が」
「最初、過去なんて消えればいいって顔してた」
「そんな顔してた?」
「してた」
「今は?」
「前向いてる」
「瀬名のせい」
「俺?」
「音なんか集めてるから」
「悪かった?」
「……悪くない」
 僕はレコーダーを見る。
「瀬名」
「何?」
「今日も録る?」
「いいの?」
「少しだけ」
 瀬名が録音ボタンを押す。
 赤いランプ。
「何しゃべる?」
「何でも」
「じゃあ」
 僕はマイクを見る。
 以前なら、それだけで喉が固くなった。
 でも今は違う。
「六月二十日。昼休み。放送室」
 自分の声が機械に入っていく。
「瀬名航平と一緒」
「はい」
「返事いらない」
「はい」
「だから」
「ごめん」
 僕は笑う。
「これから、五年前の十一月十七日に起きたことを調べます」
 少し考える。
「目的は、犯人探しじゃありません」
 瀬名が僕を見る。
「死んだ人のためでもありません」
「じゃあ誰のため?」
 僕は答えた。
「生きてる人のため」
 赤いランプが光っている。
「黒瀬景と」
 瀬名を見る。
「瀬名と」
 そして。
「僕のため」
 瀬名が笑った。
「いい録音」
「まだ終わってない」
「ごめん」
「最後」
 僕はマイクに向かう。
「僕は、自分の声が嫌いでした」
 少しだけ息を吸う。
「でも今は」
 瀬名を見る。
「一人だけ、聞いてほしい人がいます」
 瀬名の目が大きくなった。
「以上」
「待って」
「何」
「一人って誰?」
「録音終わり」
「宮野」
「止めて」
「誰?」
「止めて!」
 瀬名が笑いながら停止ボタンを押した。
「絶対俺」
「知らない」
「俺でしょ」
「違う」
「じゃあ誰」
「杉本先輩」
「嘘」
「校長先生」
「もっと嘘」
「もう教室戻る」
 僕は立ち上がる。
 瀬名が追いかける。
「宮野」
「何」
「好き」
「廊下で言わないで」
「宮野が答えないから」
「まだ考え中」
「いつまで?」
「十年」
「長い!」
 僕は笑いながら階段を下りた。
 瀬名が隣を歩く。
 肩が触れる。
 今度は離れなかった。
 その日の放課後。
 僕たちが校門を出ると、一人の男が立っていた。
 三十歳には見えない。
 二十代前半。
 白いシャツ。
 細い身体。
 卒業アルバムより少し痩せていた。
 僕はすぐ分かった。
「黒瀬さん」
 男が僕を見る。
 そして瀬名を見る。
「二人で来たか」
「僕たち、あなたを探してました」
「知ってる」
「どうして」
「放送室に入った」
「いつ?」
「昨日」
「床下のことを教えたのは」
「俺だ」
 瀬名が一歩前へ出る。
「俺を倉庫に閉じ込めたのも?」
「そうだ」
「なんで」
「試した」
「何を」
 黒瀬は僕を見る。
「宮野律が、おまえを探すか」
「は?」
 僕は腹が立った。
「そんなことのために?」
「悪かった」
「悪かったじゃない!」
 声が大きくなる。
「僕、本当に心配したんですよ!」
「宮野」
「瀬名は黙って」
「はい」
 黒瀬が少し驚いた顔をした。
「理人に似てる」
「僕は僕です」
「ああ」
「二度と間違えないでください」
「分かった」
「それから」
 僕は瀬名の隣に立った。
「瀬名に何かしたら、先生にも警察にも言います」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
 黒瀬は少し笑った。
「強くなったな」
「去年の僕を知ってるからって、知ったように言わないで」
「そうだな」
 瀬名が僕を見る。
「宮野」
「何」
「格好いい」
「今言わないで」
「はい」
 黒瀬が今度は本当に笑った。
 初めて見る笑顔だった。
「拓海と理人みたいだ」
「違います」
 僕が即答する。
 瀬名が横から言う。
「俺はちょっと嬉しいです」
「瀬名!」
「ごめん」
 黒瀬は僕たちを見た。
「最後に一つだけ渡したいものがある」
 ポケットから小さなメモリーカードを出した。
「何ですか」
「拓海が死ぬ前日に俺に渡した」
 瀬名の表情が変わる。
「兄貴が?」
「航平が大人になったら渡してくれって」
「どうして今まで」
「渡せなかった」
「なんで」
「怖かった」
 黒瀬は答えた。
「おまえに会ったら、拓海を思い出すから」
 瀬名は黙った。
「でも」
 黒瀬は僕を見る。
「律に会って分かった」
「何が?」
「忘れることと、前へ進むことは違う」
 僕は答えなかった。
「持っていけ」
 瀬名がメモリーカードを受け取る。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
「それでも」
 黒瀬は頷いた。
 そして僕を見る。
「律」
「はい」
「去年の約束」
「もういいです」
「何?」
「忘れるって約束」
 僕は言った。
「撤回します」
 黒瀬が目を細める。
「覚えてます」
「そうか」
「全部じゃないけど」
「それでいい」
「黒瀬さんも」
「何?」
「忘れなくていいんじゃないですか」
 黒瀬は黙った。
「理人さんのことも、拓海さんのことも」
「……」
「ただ」
 僕は瀬名を見る。
「今の音も聞いてください」
「今の音?」
「はい」
 校庭から野球部の声。
 道路を走る車。
 遠くの電車。
 鳥。
 そして瀬名。
「宮野」
「何」
「それ、兄貴みたい」
「嫌?」
「好き」
「簡単に好きって言うな」
「本当に好きだから」
 黒瀬が笑った。
 今度は少し寂しそうだったけれど。
 それでも笑っていた。
 その夜。
 僕と瀬名は瀬名の部屋でメモリーカードを開いた。
 ファイルは一つ。
『KOHEI』
「僕、外出ようか?」
「いて」
「いいの?」
「宮野と聞きたい」
「分かった」
 再生。
 拓海さんの声。
『航平』
 瀬名の肩が揺れる。
『たぶんおまえ、これ聞くころには俺よりでかくなってるな』
「なってる」
 瀬名が小さく答える。
『彼女できたか?』
「いない」
 僕を見る。
「何」
「彼氏候補ならいる」
「聞いてない」
 録音が続く。
『彼女でも彼氏でも、好きなやつがいたら大事にしろ』
 僕たちは顔を見合わせた。
「兄貴」
「すごいね」
『好きって言えるときに言え。明日でいいと思うな』
 瀬名の表情から笑みが消えた。
『俺は、それで失敗したから』
 短い沈黙。
『理人にもっと言えばよかった』
 瀬名が僕の手を握る。
『だから航平』
『好きなやつができたら』
 拓海さんの声。
『今日言え』
 録音が終わった。
 瀬名が僕を見る。
 僕は嫌な予感がした。
「何」
「兄貴が」
「駄目」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「好き」
「知ってる」
「宮野」
「何」
「返事」
「……ずるい」
「何が」
「お兄さん使うの」
「使ってない」
「使ってる」
「じゃあ兄貴関係なく」
 瀬名が僕の手を両手で握った。
「宮野律」
「だからフルネームやめて」
「好きです」
 逃げ道がなくなった。
 いや。
 最初から逃げたいわけじゃなかった。
「……僕も」
「何?」
「一回しか言わない」
「聞こえなかった」
「絶対嘘」
「もう一回」
「嫌」
「宮野」
 僕は息を吸った。
「好き」
 瀬名が動かなくなった。
「何か言って」
「録音」
「してないよ」
「してない」
「よかった」
「もう一回言って」
「嫌」
「じゃあ録音してから」
「もっと嫌」
 瀬名が笑った。
 僕も笑った。
「宮野」
「何」
「付き合ってください」
「……はい」
「本当に?」
「何度も聞くならやめる」
「聞かない」
「よろしい」
「キスしていい?」
「それは聞くんだ」
「大事だから」
 僕は少し笑った。
「いいよ」
 瀬名が近づく。
 僕は目を閉じる。
 今度は一回だけとは言わなかった。
 それから一か月後。
 僕は初めて校内放送のマイクの前に座った。
「緊張する?」
 瀬名が聞く。
「する」
「やめる?」
「やめない」
「録音は?」
「していい」
「本当に?」
「うん」
 赤いランプが点く。
 放送開始。
 僕はマイクを見る。
 以前なら怖かった。
 でも今は、その向こうにいる一人を思う。
 瀬名が操作卓の向こうから僕を見ている。
 僕は息を吸った。
「こんにちは。お昼の放送です」
 自分の声が学校中へ流れた。
 逃げなかった。
「今日の一曲目は――」
 放送は続く。
 終わったとき、瀬名が拍手した。
「よかった」
「本当?」
「うん」
「声、変じゃなかった?」
「最高」
「それは言いすぎ」
「俺には最高」
「……そう」
「顔赤い」
「暑い」
「七月だから、それは認める」
 僕は笑った。
「瀬名」
「何?」
「録音」
「うん」
「消さないで」
 瀬名が少し驚く。
「いいの?」
「今日の僕は今日しかいないから」
「うん」
「だから残して」
「分かった」
 瀬名はレコーダーを大事そうに持った。
 僕たちは、未来のことを約束しなかった。
 十年後も一緒にいるなんて言わない。
 永遠なんて言わない。
 高校生の僕たちには、そんなことは分からない。
 でも明日も会う。
 明日も話す。
 明日も、たぶんくだらないことで喧嘩する。
 そして時々、声を残す。
 それでいい。
 放課後。
 外は雨だった。
「傘ある?」
 瀬名が聞く。
「ない」
「俺ある」
「入れて」
「即答」
「何」
「最初は相合傘するくらいなら濡れるって言ってた」
「昔の話」
「一か月前」
「昔」
 黒い傘を開く。
 二人で入る。
 肩が触れる。
 僕は離れない。
 瀬名がスマートフォンを取り出した。
「録っていい?」
「何を?」
「雨」
「僕の声も入るよ」
「いい?」
 僕は少し考えた。
「いいよ」
 録音が始まる。
 雨が傘を叩く。
 車が水たまりを通る。
 遠くで電車。
 僕たちの足音。
「宮野」
「何?」
「好き」
「急に言わないで」
「今日言えって兄貴が」
「便利に使いすぎ」
「宮野は?」
「何が」
「好き?」
「録音中だから言わない」
「なんで」
「残るから」
「残したい」
「嫌」
「お願い」
「絶対嫌」
「一回だけ」
「嫌」
「宮野」
「しつこい」
 僕は笑った。
 瀬名も笑った。
 雨音の中を歩く。
 駅が見えてくる。
「瀬名」
「何?」
 僕は小さな声で言った。
「好き」
 瀬名が止まった。
「今の録れた?」
「たぶん」
「じゃあ一回だけ」
「待って。確認する」
「確認禁止」
「なんで!」
「一回しか言わないから」
「宮野!」
 僕は傘を持ったまま走った。
「ちょっと待って!」
 瀬名が追いかけてくる。
「傘!」
「一緒に入れば?」
「待てって!」
 僕は笑いながら走る。
 雨の音。
 足音。
 瀬名の声。
 僕の笑い声。
 全部が録音されている。
 たぶんいつか聞き返したら、恥ずかしくて死にそうになる。
 でも。
 消さなくていい。
 今日の雨は、今日しか降らない。
 今日の僕たちも、今日しかいない。
 だから。
 君の声だけ、録音禁止。
 そう言っていた僕はもういない。
 今はむしろ、こう思う。
 君の声だけは。
 僕の声だけは。
 僕たちが一緒に笑った、この瞬間だけは。
 どうか、消えないでほしい。
 そして十年後。
 僕は一つの古い音声ファイルを再生することになる。
 高校二年の六月。
 雨の日。
 ファイルの最後には、僕が忘れていた小さな声が入っていた。
『好き』
 その直後。
『今の録れた?』
 若い僕の声。
『たぶん』
 瀬名の声。
 そして笑い声。
「何聞いてるの?」
 背後から声がする。
 僕は振り返らない。
「昔の」
「何?」
「雨」
「俺にも聞かせて」
「嫌」
「なんで」
「恥ずかしいから」
「俺の録音でしょ」
「今は僕のパソコンに入ってる」
「ずるい」
 肩越しに腕が伸びてくる。
 僕はその手を叩く。
「勝手に触らない」
「十年経っても厳しい」
「当たり前」
「宮野」
「何」
「今日の雨も録る?」
 窓を見る。
 雨が降っている。
 あの日とよく似た雨。
「録ろうか」
「珍しい」
「今日の雨は今日しか降らないから」
「まだ覚えてた?」
「忘れるわけない」
 瀬名が笑う。
 僕も笑う。
「じゃあ」
 レコーダーが机の上に置かれる。
 赤いランプが点く。
「録音開始」
「瀬名」
「何?」
「一つだけ訂正」
「何を?」
「高校のとき言ったこと」
「どれ?」
「十年後の約束はしないって」
「言ってたね」
「撤回する」
 瀬名が黙った。
「律」
「何」
「それ、録音してるよ」
「知ってる」
「残るよ」
「残すために言った」
 十年前の僕なら、絶対に言えなかった。
 僕は瀬名を見る。
「次の十年も」
 雨音。
「一緒にいよう」
 瀬名が笑った。
「うん」
 赤いランプが光っている。
 今度は、消してなんて言わなかった。
   付き合い始めたからといって、翌日から何かが劇的に変わったわけではなかった。
 瀬名は相変わらず朝からうるさいし、僕は相変わらずそれを面倒だと思う。
「宮野」
「何」
「おはよう」
「おはよう」
「好き」
「朝から言わなくていい」
「なんで」
「おはようと同じ感じで言わないで」
「じゃあ、おはようより大事に言う」
「そういう意味じゃない」
 昇降口で靴を履き替えながら、僕は瀬名を睨んだ。
「それに」
「何?」
「学校では普通にして」
「普通って?」
「今までどおり」
「分かった」
 瀬名が頷く。
 そして僕の鞄を持った。
「何してるの」
「今までどおり」
「返して」
「今までどおり」
「それは普通じゃない」
「でも付き合う前からやってた」
 確かにそうだった。
「じゃあ、そこはいい」
「いいんだ」
「やっぱ返して」
「どっち?」
「返して」
 瀬名から鞄を奪う。
 そこへ佐伯が来た。
「おはよ」
「おはよう」
 佐伯は僕と瀬名を見る。
 そして僕の鞄を見る。
「なんか、おまえら前より仲良くなってない?」
「なってない」
「なった」
 また声が重なった。
 僕は瀬名の足を踏んだ。
「痛い」
「何か?」
「何でもありません」
 佐伯が眉を上げる。
「怪しい」
「何が」
「別に」
 笑いながら先へ行った。
 僕は小声で言う。
「瀬名」
「はい」
「学校では秘密」
「分かってる」
「本当に?」
「宮野が嫌なら言わない」
「嫌っていうか」
「うん」
「まだ、何て説明したらいいか分かんない」
「説明しなくていいよ」
「え?」
「俺たちのことだから」
 瀬名はさらっと言った。
「言いたくなったら言えばいいし、言いたくなかったら言わなくていい」
「……そういうところ」
「何?」
「時々まともだね」
「時々?」
「普段がひどい」
「彼氏に対して厳しくない?」
「その言葉、学校で言うな」
「彼氏?」
「言うなって!」
 僕は瀬名の背中を押した。
「早く教室行って」
「放課後ね」
「うん」
「好き」
「早く行け!」
 瀬名が笑いながら階段を上っていく。
 僕はその背中を見送った。
 彼氏。
 まだ、その言葉に慣れない。
 口の中でこっそり言ってみる。
「彼氏」
 変な感じだった。
 でも。
 嫌じゃなかった。
 その日の昼休み。
 放送室へ行くと、杉本先輩が大きな紙を机に広げていた。
「何ですか、これ」
「企画書」
「何の?」
「文化祭」
「まだ先じゃないですか」
「先だから今から考えるの」
 九月の文化祭まで、あと二か月以上ある。
「放送部、今年何するんですか」
「それを考えてる」
 紙には候補が書かれていた。
『校内ラジオ』
『リクエスト曲放送』
『公開アナウンス体験』
『先生インタビュー』
「普通ですね」
「普通で悪かったね」
「悪くないですけど」
 瀬名が入ってきた。
「こんにちは」
「ちょうどいいところに」
 杉本先輩が手招きする。
「瀬名くん、文化祭で何やりたい?」
「録音」
「却下」
「宮野、早い」
「何録るの」
「学校」
「学校?」
「校内の音を百個集める」
 杉本先輩が興味を示した。
「面白そう」
「先輩」
「いいじゃん。例えば?」
 瀬名は指を折る。
「チャイム、黒板、体育館、吹奏楽部、野球部、購買、図書室、階段、雨、プール」
「なるほど」
「全部録って、文化祭で流す」
「音だけ?」
「音だけ」
「映像なし?」
「なし」
「地味じゃない?」
 僕が言う。
「だからいい」
「どうして」
「普段見てるものを、見ないで聞く」
 瀬名が僕を見る。
「同じ学校でも、違って聞こえると思う」
 杉本先輩が企画書に書き込む。
「タイトルは?」
「学校の音」
「普通」
 僕が言う。
「宮野考えて」
「僕?」
「文句言ったから」
「じゃあ」
 少し考える。
「百個の放課後」
「昼の音も録るよ」
「細かい」
「事実」
「じゃあ百個の学校」
「普通」
「君が言うな」
 杉本先輩が笑った。
「『音の卒業アルバム』は?」
 僕と瀬名は同時に先輩を見る。
「いい」
 瀬名が言う。
「いいですね」
 僕も言った。
「じゃあ仮タイトル、それ」
 杉本先輩が大きく書く。
『音の卒業アルバム』
「卒業するの先輩だけですけど」
「いいの。来年も使えるでしょ」
 瀬名が急に僕を見る。
「宮野」
「何」
「やろう」
「何を」
「百個」
「大変だよ」
「二人なら」
 僕は一瞬だけ黙った。
 杉本先輩の前でそういう言い方をするな。
「……部員全員でね」
「うん」
「今、言い直した?」
 杉本先輩が聞く。
「何でもないです」
「怪しい」
「先輩まで」
 瀬名が笑っている。
 僕は机の下で瀬名の靴を蹴った。
 その日から、音集めが始まった。
 一番目。
 始業チャイム。
 二番目。
 黒板にチョークで文字を書く音。
 三番目。
 体育館でバスケットボールが弾む音。
 四番目。
 図書室で本を閉じる音。
 五番目。
 購買のパンを入れるビニール袋。
「これ本当に面白い?」
 僕は聞いた。
「面白い」
「ビニール袋だよ」
「聞いて」
 瀬名がヘッドホンを僕に渡す。
 録音したばかりの音。
 ガサガサ。
 カサッ。
 ガサガサ。
「……ビニール袋」
「でしょ」
「そのままじゃん」
「でも購買だって分かる?」
「言われれば」
「言われなかったら?」
「分からない」
「そこがいい」
「何が」
「音だけだと、想像するから」
 瀬名がヘッドホンを片方取った。
 一つずつ。
 僕と瀬名で同じ録音を聞く。
 肩が触れる。
「近い」
「ヘッドホンだから」
「イヤホンにすればよかった」
「これがいい」
「何で」
「近いから」
「……学校」
「誰も見てない」
「そういう問題じゃない」
 でも僕は離れなかった。
 ガサガサ。
 ビニール袋。
 こんな音を二人で真剣に聞いている。
 馬鹿みたいだ。
 でも少し楽しい。
「次」
「何?」
「自動販売機」
「また地味」
「いいから」
 六番目。
 硬貨が落ちる音。
 七番目。
 缶が自動販売機の下へ落ちる音。
 八番目。
 缶を開ける音。
「三つで一個じゃない?」
「別」
「数稼いでない?」
「違う」
「怪しい」
 九番目。
 テニスボール。
 十番目。
 吹奏楽部のチューニング。
 十一番目。
 美術室で筆を洗う水。
 十二番目。
 家庭科室で包丁がまな板に当たる音。
 十三番目。
 階段を駆け下りる上履き。
 十四番目。
 校庭のスプリンクラー。
 十五番目。
 風に鳴るカーテン。
 毎日、少しずつ集めた。
 気づけば僕も、音を探すようになっていた。
「瀬名」
「何?」
「今の」
「何?」
「聞こえなかった?」
「どれ」
 放課後の廊下。
 窓が少し開いている。
 風が吹く。
 そのたび、掲示板の紙が壁を叩く。
 パタ。
 パタ。
 パタ。
「これ」
 僕が指さす。
 瀬名が笑った。
「録る?」
「うん」
 十六番目。
 風に揺れる掲示物。
「宮野」
「何」
「音探すの上手くなった」
「瀬名のせい」
「嬉しい」
「褒めてない」
「俺は褒め言葉として受け取る」
「勝手にして」
 十七番目。
 水泳部の飛び込み。
 十八番目。
 野球部の金属バット。
 十九番目。
 校門を閉める音。
 二十番目。
 放送室のスイッチ。
 そして二十一番目。
「これ、何?」
 瀬名がレコーダーを僕へ向けた。
「僕?」
「うん」
「音じゃないじゃん」
「音だよ」
「何を録るの」
「笑って」
「無理」
「なんで」
「笑ってって言われて笑える?」
「宮野、笑って」
「嫌」
「かわいい」
「笑わない」
「好き」
「やめて」
「大好き」
「やめろって」
 思わず笑った。
 瀬名が録音を止める。
「取れた」
「ずるい!」
「二十一番」
「消して」
「嫌」
「音の卒業アルバムに入れないで」
「これは個人保存」
「もっと駄目」
「宝物」
「気持ち悪い」
「久しぶりに言われた」
「消して」
「じゃあ宮野も俺の録れば?」
「いらない」
「即答」
「嘘」
 僕は瀬名からレコーダーを取った。
「何するの」
「録る」
「俺?」
「うん」
「何を」
「笑って」
「無理」
「僕のこと好き?」
「好き」
 即答だった。
 僕は吹き出した。
 瀬名も笑った。
「今」
「え?」
「録れた」
「俺の笑い声?」
「うん」
「じゃあ交換」
「何を」
「宮野の笑い声と俺の笑い声」
「意味分かんない」
「お互い持つ」
「……まあいいけど」
「いいんだ」
「嫌なら返して」
「絶対嫌」
 二十二番目。
 瀬名航平の笑い声。
 これは文化祭では流さない。
 僕だけの音だった。
 七月の終業式が近づくころ、音は四十七個まで集まっていた。
「夏休み中に七十まで行きたい」
 瀬名が言った。
「学校ないのに?」
「部活ある」
「毎日じゃない」
「学校の外もあり」
「企画変わってる」
「高校生活の音」
「範囲広げたね」
「宮野と夏休み出かけたいから」
「それが目的?」
「半分」
「残り半分は?」
「デート」
「全部それじゃん」
 僕は笑った。
「どこ行く?」
「海」
「遠い」
「花火」
「混む」
「水族館」
「高い」
「宮野の家」
「絶対駄目」
「なんで」
「父さんいる」
「挨拶する」
「何て?」
「宮野くんとお付き合いしています」
「殺される」
「そんなに?」
「少なくとも僕が死ぬ」
「じゃあやめる」
「即答」
「宮野が死ぬのは困る」
「そこ?」
「大事」
 瀬名が真顔で言う。
 僕は目を逸らした。
「じゃあ」
「何?」
「海」
「行く?」
「一回だけ」
「やった」
「録音目的」
「デート目的」
「録音」
「デート」
「録音!」
「はいはい」
 瀬名が嬉しそうなので、それ以上言うのをやめた。
 終業式の日。
 僕は放送室で一人、夏休みの放送機材点検表を書いていた。
 瀬名は先生に呼ばれて職員室。
 杉本先輩は部活のミーティング。
 静かな放送室。
 窓の外から蝉の声。
「これも録ろうかな」
 自分で言って、少し笑った。
 完全に瀬名に影響されている。
 レコーダーを手に取る。
 録音。
 蝉。
 風。
 遠くの運動部。
 そのとき。
 放送室のドアが開いた。
「宮野」
「瀬名?」
 違った。
 佐伯だった。
「珍しいね」
「ちょっといい?」
「うん」
 佐伯が中へ入る。
 僕は録音を止めた。
「何?」
「聞きたいことある」
「何」
「瀬名と付き合ってる?」
 心臓が止まりそうになった。
「……なんで」
「やっぱり?」
「答えてない」
「顔」
 また顔。
 僕はそんなに分かりやすいのだろうか。
「誰かから聞いた?」
「聞いてない」
「じゃあ」
「見てれば分かる」
「何が」
「瀬名、おまえ見るときだけ顔違うし」
「どんな」
「嬉しそう」
 僕は黙った。
「宮野も」
「僕?」
「瀬名が来ると嬉しそう」
「そんなことない」
「ある」
 否定できない。
「嫌?」
 僕は聞いた。
「何が?」
「男同士」
 佐伯は少し驚いた顔をした。
「別に」
「本当に?」
「宮野が誰と付き合っても俺には関係ないし」
「冷たい」
「じゃあ、おめでとう?」
「それも変」
「面倒だな」
 佐伯が笑う。
「でも」
「何?」
「瀬名ならいいんじゃない」
「どういう意味」
「おまえ、前よりしゃべるようになった」
 僕は止まった。
「そう?」
「うん」
「前もしゃべってたよ」
「必要なことだけ」
「今は?」
「どうでもいいこともしゃべる」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
 佐伯はドアへ向かった。
「誰にも言わないから」
「……ありがとう」
「でも瀬名には言っといて」
「何を」
「校内で宮野見つけるたび、犬みたいな顔するのやめろって」
「犬?」
「しっぽ見える」
 佐伯が出ていった。
 僕は一人で笑った。
「犬って」
 その瞬間。
「誰が犬?」
 瀬名が入ってきた。
「うわ」
「何その反応」
「いつからいた?」
「今」
「本当に?」
「うん」
「よかった」
「何話してた?」
「秘密」
「佐伯と?」
「うん」
「怪しい」
「嫉妬?」
「する」
 即答。
「そこ否定しないんだ」
「だってするし」
「佐伯は友達」
「分かってる」
「じゃあ何」
「宮野が俺の知らないところで笑ってた」
「笑うよ」
「俺だけに笑って」
「重い」
「冗談」
「半分本気でしょ」
「ばれた?」
「分かりやすい」
 瀬名が僕の隣に座る。
「何録ってた?」
「蝉」
「聞きたい」
「どうぞ」
 再生。
 蝉。
 風。
 そして最後に僕の小さな声。
『これも録ろうかな』
 瀬名が止めた。
「宮野の独り言入ってる」
「消す」
「駄目」
「恥ずかしい」
「かわいい」
「消す」
「保存」
「瀬名」
「はい」
「そういえば」
「何?」
「佐伯が言ってた」
「何て」
「君、僕を見ると犬みたいな顔するって」
「犬?」
「しっぽ見えるって」
「失礼だな」
「僕もちょっと分かる」
「宮野まで」
「瀬名」
「何」
「お手」
「しない」
「お手」
「しないって」
 僕が手を出す。
 瀬名がため息をついた。
 そして。
 僕の手のひらに、自分の手を重ねた。
「……するんだ」
「宮野だから」
 僕は笑った。
 瀬名も笑う。
 その手を握った。
「これ、何番目?」
「何が」
「音の卒業アルバム」
「今の?」
「うん」
「四十八番」
「何の音」
「蝉と」
 瀬名が僕を見る。
「彼氏の独り言」
「文化祭で流したら殺す」
「個人保存」
「それなら」
 僕は言いかけて止まる。
「それなら?」
「……いい」
 瀬名が嬉しそうに笑った。
 夏休み最初の日曜日。
 僕たちは海へ行った。
 電車を降りた瞬間から瀬名は録音していた。
「駅の音」
「学校関係ない」
「夏休み」
「企画変わってる」
「高校生活の音」
「便利だね、その言葉」
 海岸へ出る。
 青い空。
 強い日差し。
 砂。
 波。
「海だ」
 瀬名が言う。
「見れば分かる」
「宮野、感動薄い」
「暑い」
「海入る?」
「着替えない」
「足だけ」
「靴濡れる」
「脱げばいい」
「砂つく」
「面倒くさいな」
「帰る?」
「駄目」
 瀬名が僕の手首をつかんだ。
「何」
「逃がさない」
「暑い」
「ごめん」
 すぐ離す。
 僕は少しだけ残念に思った。
 自分から手を出す。
「え?」
「何」
「手」
「迷子防止」
「俺が?」
「僕が」
「宮野が?」
「どっちでもいい」
 瀬名が笑う。
 手をつなぐ。
 学校じゃない。
 知っている人もいない。
 それでも少し緊張した。
「嫌?」
 瀬名が聞く。
「嫌じゃない」
「じゃあこのまま」
「うん」
 二人で海まで歩いた。
 波が足元へ来る。
「冷たい」
「気持ちいい」
 瀬名がレコーダーを出す。
「五十番目」
「もう五十?」
「うん」
「何」
「波」
「普通」
「普通が一番残らない」
 瀬名が言った。
「特別な日は写真撮るし、覚えてる。でも普通の日って忘れるだろ」
「うん」
「だから録る」
「そっか」
 僕は波を見る。
「じゃあ」
「何?」
「今日も普通の日?」
「違う」
「何で」
「初デート」
「録音旅行」
「デート」
「録音」
「宮野」
「何」
「俺と海来るの嫌だった?」
「嫌じゃない」
「楽しい?」
「……楽しい」
「じゃあデート」
「理屈がおかしい」
「いいじゃん」
「まあ」
 僕は少し笑った。
「デートでも」
 瀬名が止まった。
「今何て?」
「一回しか言わない」
「録音してなかった」
「残念」
「もう一回」
「嫌」
「お願い」
「絶対嫌」
 瀬名が追いかけてくる。
 僕は波打ち際を逃げる。
「宮野!」
「録音しながら走らないで!」
「今の残したい!」
「嫌!」
 波が来る。
 瀬名が足を取られた。
「うわ」
「危な」
 僕が腕をつかむ。
 逆に引っ張られる。
 二人で砂浜に座り込んだ。
「……最悪」
 制服ではないけれど、服が濡れた。
「ごめん」
「瀬名のせい」
「うん」
「笑うな」
「だって」
「何」
「宮野、髪びしょびしょ」
「君も」
 二人で笑った。
 レコーダーは無事だった。
「録れてる」
「消して」
「嫌」
「転んだ音まで?」
「全部」
「恥ずかしい」
「これがいい」
 瀬名が言う。
「十年後聞いたら、絶対笑う」
「十年後も持ってるつもり?」
「うん」
「データ壊れるよ」
「バックアップする」
「何個」
「三つ」
「本気だ」
「宮野とのは全部」
 僕は波を見る。
「……じゃあ」
「何?」
「僕にもコピーして」
「いいの?」
「うん」
「全部?」
「全部」
「キスの音も?」
「それは消せ!」
 瀬名が大笑いする。
 僕は肩を叩いた。
「痛い」
「自業自得」
「宮野」
「何」
「五十一番目」
「何が」
「今の笑い声」
「また?」
「海バージョン」
「分類細かすぎ」
「大事」
 僕は呆れながら笑った。
 波が来る。
 引いていく。
 また来る。
 同じように見えて、一度も同じ音はしない。
 夕方。
 僕たちは防波堤に座っていた。
 空が少しずつ赤くなる。
「宮野」
「何」
「夏休み、あと何回会える?」
「部活で会うでしょ」
「部活以外」
「何で」
「デート」
「また?」
「付き合ってるから」
「毎週は多い」
「じゃあ二週間に一回」
「交渉みたい」
「大事だから」
「……三回」
「何が」
「夏休み中、あと三回」
「本当に?」
「うん」
「どこ」
「決めてない」
「水族館」
「高い」
「俺出す」
「それは嫌」
「じゃあ割り勘」
「ならいい」
「映画」
「何見る?」
「宮野が見たいの」
「じゃあ考える」
「あと一回」
「学校」
「それデートじゃない」
「文化祭準備」
「デート」
「違う」
「じゃあ」
 瀬名が考える。
「何もしない日」
「何それ」
「駅で待ち合わせして、適当に歩く」
「目的なし?」
「うん」
「何録るの」
「決めない」
「瀬名が?」
「たまには」
 僕は少し考えた。
「いいかも」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ決まり」
 瀬名がレコーダーを出す。
「何」
「予定決定の音」
「そんなのいらない」
「いる」
「いらない」
 録音開始。
「八月、水族館」
「はい」
「映画」
「はい」
「何もしない日」
「はい」
「宮野と三回デート」
「録音旅行」
「まだ言う?」
「はい」
「彼氏と三回デート」
 僕は瀬名を見る。
「今、わざと言った?」
「うん」
「……まあいいけど」
「訂正しない?」
「しない」
 瀬名が嬉しそうに笑った。
「宮野」
「何」
「今の保存」
「勝手にして」
「永久保存」
「大げさ」
「俺には大事」
 夕日が海に落ちていく。
 僕は瀬名の肩に少しだけ寄りかかった。
「宮野?」
「疲れた」
「うん」
「五分だけ」
「何時間でも」
「重いでしょ」
「軽い」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
 瀬名は動かなかった。
 レコーダーも止めた。
「録らないの?」
「これはいい」
「何で」
「録らなくても覚えてるから」
 僕は少し笑った。
「瀬名」
「何」
「そういうの」
「うん」
「ずるい」
「何が?」
「たまに格好いい」
「たまに?」
「普段は普通」
「彼氏に厳しい」
「知ってる」
 波の音を聞いた。
 僕は目を閉じた。
 その日、瀬名は僕の寝息を録音しなかった。
 あとで聞いたら、録ろうとは思ったらしい。
 でもやめたと言った。
「何で?」
「宮野が嫌がりそうだから」
「正解」
「成長した?」
「三点」
「何点満点?」
「百」
「低い」
「最初はマイナス八十だった」
「じゃあ上がってる」
「そうだね」
 僕たちは、そんなくだらない話をしながら夏休みを過ごした。
 音は七十三個になった。
 八月最後の部活動の日。
 杉本先輩が一覧を見て言った。
「あと二十七」
「文化祭までにいけます」
 瀬名が答える。
「でもさ」
「何ですか」
「普通の音ばっかりだね」
「それがいいんです」
「分かるけど」
 杉本先輩は紙を見る。
「一個くらい、絶対忘れない音ほしくない?」
「絶対忘れない音?」
「そう」
 僕は考えた。
 チャイム。
 雨。
 波。
 笑い声。
 全部いつか忘れるかもしれない。
「何があります?」
「それを考えるのが二年生」
「先輩逃げた」
「三年生は受験で忙しいの」
 杉本先輩が帰った。
 僕と瀬名だけになる。
「絶対忘れない音」
 瀬名が呟く。
「ある?」
「宮野は?」
「分からない」
「俺はある」
「何?」
 瀬名が僕を見る。
「初めて宮野が好きって言った声」
「それ文化祭で流したら別れる」
「流さない」
「絶対」
「俺だけのだから」
「……そう」
「宮野は?」
「何が」
「絶対忘れない音」
 僕は瀬名を見る。
 すぐに浮かんだ。
 でも言うのは少し恥ずかしい。
「ある」
「何?」
「言わない」
「なんで」
「本人には言わない」
「俺?」
「知らない」
「絶対俺じゃん」
「違う」
「何の音?」
「秘密」
「教えて」
「嫌」
 瀬名が近づく。
「宮野」
「近い」
「教えて」
「嫌」
「お願い」
「絶対嫌」
 僕は笑いながら逃げた。
 瀬名が追いかける。
 放送室の中を二人で回る。
「危ないって!」
「じゃあ止まって」
「瀬名が止まれ!」
「教えたら」
「嫌!」
 そのとき、僕は思った。
 僕が絶対に忘れたくない音。
 それは、特別な日の音じゃない。
 告白でもない。
 キスでもない。
 瀬名が僕の名前を呼ぶ声だった。
「宮野」
 ほら。
 また。
「宮野!」
「何!」
「好き!」
「知ってる!」
「宮野は?」
「知らない!」
「ひどい!」
 僕は笑った。
 その笑い声を、机の上に置かれていたレコーダーが拾っていた。
 七十四番目。
 僕たちは後から、その録音に名前をつけた。
『放課後』
 ただ、それだけ。
 何年経っても。
 僕たちにとって一番大切になるのは、きっとこういう何でもない音なのだと思った。
  九月になった。
 夏休みが終わっただけなのに、学校は少し違って見えた。
 教室。
 廊下。
 階段。
 体育館。
 毎日見ていたはずの場所なのに、僕はまず音を聞くようになっていた。
 朝の昇降口。
 靴箱を開ける音。
 上履きを床へ置く音。
 生徒たちの声。
 七十五番目。
 新学期最初の昇降口。
「宮野」
「何」
「録ってる?」
「うん」
「俺も入ってる?」
「入ってる」
「じゃあ」
 瀬名がレコーダーへ顔を近づける。
「宮野、おはよう。好き」
「余計な声入れないで」
「高校生活の音」
「君の告白は学校の音じゃない」
「俺の高校生活」
「屁理屈」
 録音を止める。
「撮り直し」
「なんで」
「文化祭で流せない」
「俺は流していいよ」
「僕が嫌」
「じゃあ編集で切る?」
「最初から黙って」
「はい」
 二回目。
 靴箱。
 上履き。
 話し声。
 足音。
 今度は瀬名も黙っている。
 三十秒。
 停止。
「よし」
「宮野」
「何」
「好き」
「録音終わったら言うんだ」
「我慢してた」
「三十秒くらい我慢して」
「長かった」
「犬?」
「彼氏」
「学校で言うな」
「誰も聞いてない」
「僕が聞いてる」
「宮野には聞かせたい」
 朝から疲れる。
 でも。
 少し嬉しい。
 それは言わない。
 七十六番目。
 始業前の教室。
 七十七番目。
 昼休みの屋上。
 七十八番目。
 体育館のモップ。
 七十九番目。
 理科室のガスバーナー。
 八十番目。
 雨どいを流れる水。
 八十一番目。
 先生が職員室で大量のプリントを揃える音。
 八十二番目。
 文化祭準備で段ボールを切る音。
 八十三番目。
 演劇部の発声練習。
 八十四番目。
 軽音楽部のドラム。
 八十五番目。
 校庭でサッカーボールを蹴る音。
「あと十五」
 放送室のホワイトボードに瀬名が書く。
『85』
「文化祭まで三週間」
「余裕」
「そう言って最後に焦るタイプでしょ」
「宮野がいるから大丈夫」
「僕を計算に入れないで」
「彼氏だから」
「関係ない」
「ある」
「ない」
 杉本先輩が僕たちを見る。
「ねえ」
「何ですか」
「最近、本当に仲良くない?」
「普通です」
「付き合ってます」
 僕は瀬名を見る。
「……は?」
 杉本先輩も止まった。
「今、何て?」
「付き合ってます」
「瀬名!」
「駄目だった?」
「学校では言わないって」
「杉本先輩ならいいかなって」
「勝手に決めるな!」
「ごめん」
 杉本先輩は口を開けたまま僕たちを見る。
「え」
「先輩」
「え?」
「忘れてください」
「無理」
「お願いします」
「いつから?」
「先輩」
「どっちから?」
「先輩!」
「キスした?」
「帰ります」
「待って待って」
 僕は鞄を持つ。
 瀬名が笑っている。
「瀬名も帰るよ」
「はい」
「ちょっと! 二人とも!」
 放送室を出る。
「何で言ったの」
「嫌だった?」
「そうじゃなくて」
「じゃあいいじゃん」
「心の準備が」
「ごめん」
「本当に反省してる?」
「してる」
 僕は瀬名を見る。
「……まあ、先輩ならいいけど」
「でしょ」
「でも次は聞いて」
「分かった」
「約束」
「うん」
 瀬名が小指を出した。
「何」
「約束」
「小学生?」
「いいじゃん」
 僕も小指を出す。
 絡める。
「学校では秘密」
「宮野が言っていいって言うまで」
「うん」
「でも」
「何」
「二人のときは彼氏」
「……好きにすれば」
「やった」
 瀬名が嬉しそうに笑った。
「本当に犬みたい」
「誰が」
「瀬名」
「じゃあ飼って」
「嫌」
「即答」
「散歩大変そう」
「自分で行く」
「犬じゃないじゃん」
「彼氏です」
「知ってる」
 僕が言うと、瀬名が止まった。
「何」
「もう一回」
「嫌」
「今、知ってるって」
「一回しか言わない」
「宮野」
「帰るよ」
「待って」
 階段を下りる。
 瀬名が追いかけてくる。
 こういう時間が、僕は好きだった。
 翌日。
 杉本先輩は朝から妙に静かだった。
「先輩」
「何?」
「何でニヤニヤしてるんですか」
「してない」
「してます」
「青春だなと思って」
「忘れてって言いましたよね」
「忘れる努力はしてる」
「全然してない」
「安心して。誰にも言わないから」
「本当に?」
「本当」
 先輩は少し真面目な顔になった。
「でも、よかった」
「何がですか」
「宮野」
「僕?」
「一年のころより楽しそう」
「そうですか?」
「うん」
 また言われた。
 佐伯にも。
 杉本先輩にも。
「そんなに違います?」
「違う」
「どこが」
「笑う」
「前も笑ってました」
「笑ってたけど」
 先輩は考える。
「今は、誰かに笑わされてる感じ」
「何ですか、それ」
「いい意味」
 放送室のドアが開く。
「こんにちは」
 瀬名。
「ほら」
 杉本先輩が言った。
「何がですか」
「今、宮野の顔変わった」
「変わってません」
「変わった」
 瀬名まで言う。
「君は黙って」
「はい」
「犬」
「何で急に」
 杉本先輩が笑った。
「本当に面白いね、二人」
「面白くないです」
「宮野」
「何」
「今日、八十六番目行く?」
「何」
「屋上の風」
「前に録らなかった?」
「夏と秋で違う」
「違う?」
「聞けば分かる」
「本当かな」
「行こう」
「分かった」
 屋上。
 風は確かに夏とは違った。
 乾いている。
 フェンスがかすかに鳴る。
 遠くから吹奏楽部。
 グラウンドの笛。
 瀬名がレコーダーを置く。
「三分」
「長くない?」
「環境音は長いほうがいい」
「ふうん」
 二人で黙る。
 風。
 フェンス。
 遠くの声。
 何もしない三分。
 瀬名が隣にいる。
 僕は空を見る。
「宮野」
「録音中」
 瀬名が口を閉じる。
 僕は笑いそうになる。
 一分。
 二分。
 三分。
 瀬名が停止。
「終わり」
「何言おうとしたの」
「好き」
「また?」
「言いたくなった」
「三分くらい我慢して」
「した」
「偉い」
「褒められた」
「犬」
「彼氏」
「はいはい」
 瀬名が僕の隣へ座る。
「宮野」
「何」
「卒業したらどうする?」
「急だね」
「理人さんたちの録音思い出した」
「十年後の話?」
「うん」
「まだ決めてない」
「大学?」
「たぶん」
「どこ?」
「分からない」
「遠い?」
「だから分からないって」
「俺」
「うん」
「音響やりたい」
「仕事?」
「勉強したい」
「へえ」
「意外?」
「ちょっと」
「兄貴の真似じゃなくて」
「うん」
「自分でやりたい」
 瀬名が空を見る。
「録音とか、編集とか」
「向いてると思う」
「本当?」
「うん」
「宮野は?」
「僕?」
「放送」
「仕事にはしない」
「なんで」
「好きかどうかまだ分からない」
「そっか」
「でも」
 僕は考える。
「声を使うのは、前より嫌じゃない」
「それ嬉しい」
「瀬名のおかげとは言わない」
「言ってるようなもの」
「違う」
「宮野」
「何」
「卒業しても会おうね」
「当たり前でしょ」
 言ってから気づいた。
 瀬名が僕を見る。
「今の」
「何」
「録音したかった」
「してないから言った」
「ずるい」
「何が」
「もう一回」
「嫌」
「卒業しても?」
「知らない」
「さっき当たり前って」
「聞き間違い」
「宮野」
「風、もう一回録る?」
「話そらした」
 僕は笑った。
 未来は分からない。
 でも。
 卒業しても瀬名と会う。
 そのことを僕は、もう当然だと思い始めていた。
 九十番目まで来たところで、問題が起きた。
「データがない」
 瀬名が言った。
「何が?」
「七十二から八十」
「嘘」
「フォルダにない」
「バックアップは?」
「昨日取る予定だった」
「取ってないの?」
「ごめん」
「SDカード?」
「認識しない」
「壊れた?」
「たぶん」
 瀬名の顔が青い。
「九個」
「うん」
「録り直せる?」
「いくつかは」
「海は?」
「それは別カード」
「よかった」
「でも」
 七十二から八十。
 夏休み終盤。
 その中には、僕たち二人だけで録った音がいくつかあった。
「仕方ない」
「宮野」
「また録ろう」
「同じ音は無理」
「同じじゃなくていい」
「でも」
「今日の雨は今日しか降らないんでしょ」
「うん」
「じゃあ、なくなった音はなくなった音」
「……」
「今日のを録ればいい」
 瀬名が僕を見る。
「怒らないの?」
「何で」
「俺がバックアップしてなかった」
「怒ってほしい?」
「いや」
「じゃあいい」
「宮野」
「何」
「成長した」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺?」
「そう」
「嬉しい」
「褒めてない」
 瀬名は壊れたSDカードを見る。
「でも、ちょっと寂しい」
「うん」
「七十四番」
「放課後?」
「そう」
「僕が笑ってるやつ」
「うん」
「なくなった?」
「たぶん」
「そっか」
 少し寂しかった。
 僕も。
 あの日は戻らない。
 同じ笑い声も録れない。
「瀬名」
「何?」
「じゃあ」
 僕はレコーダーを取った。
「新しい七十四番作ろう」
「え?」
「録音」
 赤いランプをつける。
「九十一番じゃなくて?」
「番号なんて何でもいい」
「宮野が言う?」
「何」
「最初、きっちり番号つけてたのに」
「気が変わった」
「じゃあ何録る?」
「瀬名」
「俺?」
「笑って」
「急に無理」
「好き」
 瀬名が止まる。
 僕は笑った。
「今の顔」
「宮野!」
「顔は録れないけど」
「ずるい」
「笑って」
「宮野がもう一回好きって言ったら」
「嫌」
「じゃあ笑えない」
「面倒」
「条件」
「……好き」
「小さい」
「好き!」
 瀬名が笑った。
 僕も恥ずかしくなって笑った。
 録音停止。
「できた」
「何番?」
「新しい七十四番」
「タイトルは?」
「放課後・その二」
「普通」
「普通でいい」
「そっか」
「うん」
 瀬名が僕を見る。
「なくなっても」
「何?」
「また作れるんだね」
「音?」
「思い出」
 僕は少し考えた。
「同じものじゃないけど」
「うん」
「新しいのなら」
「うん」
「作れる」
 瀬名が笑った。
「それ、文化祭のテーマにしよう」
「何を」
「残すだけじゃない」
「?」
「消えたら終わりじゃない」
「また始められる?」
「そう」
「いいかも」
「宮野」
「何」
「好き」
「今録音してない」
「知ってる」
「残らないよ」
「宮野が聞けばいい」
 僕は何も言わなかった。
 でも、その言葉は録音されていなくても、長く残る気がした。
 文化祭まであと一週間。
 音は九十九個になった。
「最後」
 杉本先輩がホワイトボードに書く。
『99』
「百個目どうする?」
「チャイム?」
「もうある」
「校歌」
「ある」
「雨」
「三種類ある」
「多いな」
「瀬名のせい」
「宮野も録った」
「そうだけど」
 杉本先輩が言う。
「最後は二人で決めたら?」
「何で僕たち」
「この企画ほとんど二人でやったから」
「先輩は?」
「私は編集する」
「逃げた」
「三年生だから」
「便利ですね、それ」
 先輩が出ていく。
 僕と瀬名。
 ホワイトボードの『99』。
「百個目」
 瀬名が言う。
「何がいい?」
「絶対忘れない音」
「前に言ってたやつ?」
「うん」
「宮野、あるって言ってた」
「言った?」
「言った」
「忘れた」
「嘘」
「本当に」
「俺関係?」
「知らない」
「絶対俺」
 僕はホワイトボードを見る。
「瀬名」
「何」
「百個目」
「うん」
「名前」
「名前?」
「誰かが誰かを呼ぶ声」
 瀬名が黙った。
「学校って、毎日名前呼ばれるじゃん」
「うん」
「先生から」
「うん」
「友達から」
「うん」
「部活で」
「うん」
「卒業したら、同じ人たちから毎日名前呼ばれることってなくなる」
「……いい」
「本当?」
「すごくいい」
「じゃあ決まり」
「誰の声録る?」
「いっぱい」
 僕たちは学校中を回った。
「佐伯!」
「何?」
「今、宮野って呼んで」
「なんで」
「いいから」
「宮野」
 録音。
 杉本先輩。
「宮野」
 録音。
 担任。
「宮野」
 録音。
 一年生の部員。
「宮野先輩」
 録音。
「何で僕ばっかり」
「サンプル」
「次、瀬名」
 僕も集める。
「瀬名」
「瀬名くん」
「航平」
「瀬名先輩」
 いろんな声。
 いろんな呼び方。
 最後。
 放送室。
「宮野」
「何」
「俺も録る」
「僕の名前?」
「うん」
「どうぞ」
 録音開始。
 瀬名が僕を見る。
「律」
 僕は止まった。
「……何で下の名前」
「彼氏だから」
「学校で初めて呼んだ」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあもう一回」
「待って」
「何?」
「僕も」
 レコーダーを瀬名へ向ける。
「航平」
 今度は瀬名が止まった。
「宮野」
「何」
「もう一回」
「嫌」
「お願い」
「一回しか言わない」
「ずるい」
「君が先にやった」
 瀬名が笑う。
 僕も笑った。
 百個目。
『名前を呼ぶ声』
 最後には、僕たちがお互いの名前を呼ぶ声を入れた。
 文化祭用には、そこだけ少し小さく編集した。
 文化祭当日。
 放送室の隣の視聴覚室を使って、『音の卒業アルバム』を流した。
 映像はない。
 照明を少し暗くして、百個の音だけを順番に聞いてもらう。
 最初は誰も来ないと思っていた。
 でも意外と人が入った。
「あ、これ購買」
「体育館じゃない?」
「この音何?」
 声が聞こえる。
 瀬名が僕を見る。
「成功?」
「まだ」
 五十番目。
 海の波。
「学校じゃないじゃん」
 誰かが笑う。
「高校生活だから」
 僕は小声で言った。
 七十四番。
 新しい『放課後』。
 僕と瀬名の笑い声。
「これ誰?」
 客席から声。
 僕は顔が熱くなった。
「瀬名」
「何」
「やっぱ消せばよかった」
「もう遅い」
「恥ずかしい」
「俺は好き」
「黙って」
 九十九番。
 文化祭準備。
 そして。
 百番目。
 名前。
『佐伯』
『杉本先輩』
『先生』
『宮野』
『瀬名』
 いろんな人が、いろんな人を呼ぶ。
 最後。
 瀬名の声。
『律』
 僕の声。
『航平』
 暗い室内。
 誰にも僕たちだとは分からない。
 でも僕には分かる。
 瀬名にも分かる。
 音が終わる。
 数秒の静寂。
 拍手。
 大きくはない。
 でも確かに聞こえた。
 杉本先輩が後ろから言う。
「よかったね」
「はい」
 瀬名も頷く。
「はい」
 視聴覚室を出る。
 廊下は文化祭で騒がしい。
「宮野」
「何」
「俺たちも回ろう」
「どこ」
「文化祭」
「放送部は?」
「一時間休憩」
「先輩」
 杉本先輩を見る。
「行ってきな」
「いいんですか」
「デートでしょ」
「先輩!」
「いってらっしゃい」
 瀬名が僕の腕を引く。
「行こう」
「引っ張らないで」
「迷子になる」
「学校で迷わない」
「俺がなる」
「じゃあ仕方ない」
 僕たちは廊下へ出た。
 焼きそば。
 お化け屋敷。
 クイズ。
 演劇。
 軽音。
 何でもない文化祭。
 瀬名がレコーダーを出す。
「まだ録るの?」
「百一番」
「企画終わったよ」
「俺たち用」
「何」
「文化祭」
「普通」
「普通がいい」
「……そうだね」
 僕たちは歩いた。
 録音中。
 周囲の声。
 笑い声。
 呼び込み。
 音楽。
 そして瀬名。
「宮野」
「何」
「好き」
「録音中」
「知ってる」
「残るよ」
「残したい」
 僕はレコーダーを見る。
 以前なら絶対に言わなかった。
 でも。
「僕も」
「え?」
「一回しか言わない」
「待って、今ちゃんと録れた?」
「知らない」
「確認」
「駄目」
「宮野」
「行くよ」
「待って!」
 僕は笑いながら歩く。
 瀬名が追いかけてくる。
 レコーダーの赤いランプが光っている。
 百一番目。
 文化祭。
 その録音は、音の卒業アルバムには入らない。
 僕と瀬名だけのアルバムに入る。
 きっと僕たちは、これからもたくさん録る。
 楽しい日だけじゃない。
 喧嘩する日。
 何もしゃべらない日。
 雨の日。
 暑い日。
 離れたくなる日だって、いつかあるかもしれない。
 それでも。
 今日の僕たちは今日しかいない。
 だから僕は、少しずつ声を残す。
 瀬名のためだけじゃない。
 未来の僕自身が、今日を忘れないために。
「宮野!」
 人混みの向こうから瀬名が呼ぶ。
「何!」
「こっち!」
「待って!」
 僕は走る。
 瀬名のところへ。
 そのとき、僕はまだ知らなかった。
 百一番目の録音の最後に、僕たちとは違う声が入っていたことを。
『宮野律』
 低い男の声。
『やっと見つけた』
 その声に僕たちが気づくのは、文化祭が終わった三日後だった。
         文化祭が終わって三日後。
 僕と瀬名は放送室で録音データを整理していた。
「百一番、どうする?」
「残す」
「文化祭終わったのに?」
「俺たち用」
「じゃあ瀬名が持ってて」
「宮野にも送る」
「いらない」
「なんで」
「自分の声聞くの恥ずかしい」
「まだ?」
「まだ」
「俺は毎日聞ける」
「聞かないで」
「好きって入ってる」
「そこだけ消して」
「絶対嫌」
 瀬名がパソコンを操作する。
「ほら」
「何」
「ここ」
 波形が表示されている。
 文化祭の廊下。
 呼び込み。
 笑い声。
 僕たちの会話。
『宮野』
『何』
『好き』
『録音中』
『知ってる』
『残るよ』
『残したい』
『僕も』
 僕は停止した。
「もういい」
「まだ途中」
「恥ずかしい」
「このあと宮野が走る」
「覚えてる」
「俺が追いかける」
「逆。僕が瀬名を追いかけた」
「そうだっけ」
「そう」
「じゃあ聞こう」
 再生。
 足音。
 人の声。
 音楽。
『宮野!』
『何!』
『こっち!』
『待って!』
 そのあと。
 僕たちの声が遠ざかる。
 録音はまだ続いていた。
 ざわざわした廊下。
 誰かがレコーダーの近くを通る。
 そして。
『宮野律』
 僕と瀬名が同時に止まった。
「今」
「うん」
 続ける。
『やっと見つけた』
 低い男の声。
 録音終了。
「誰?」
「分からない」
「知ってる声?」
「知らない」
「黒瀬?」
「違う」
「俺も違うと思う」
「じゃあ誰」
 瀬名が波形を拡大する。
「周りの音消せるかやってみる」
「できる?」
「完全には無理」
 瀬名がヘッドホンをつける。
 操作。
 何度も聞く。
「宮野」
「何」
「この人」
「うん」
「近くにいた」
「分かるの?」
「声がかなり大きい」
「レコーダーのそば?」
「一メートルくらい」
「じゃあ僕たちを見てた?」
「たぶん」
 背中が少し冷たくなる。
「文化祭だから外部の人もいた」
「保護者とか卒業生とか」
「卒業生?」
 僕はその言葉に引っかかった。
「五年前の?」
「またそこ?」
「だって」
「黒瀬以外?」
「分からない」
 瀬名が録音をもう一度再生する。
『宮野律』
『やっと見つけた』
「やっと」
 僕が言う。
「探してたってことだよね」
「うん」
「僕を?」
「名前呼んでる」
「なんで」
「分からない」
「……嫌だな」
 瀬名が僕を見る。
「怖い?」
「少し」
「大丈夫」
「何が」
「俺いるから」
「瀬名」
「何」
「そういうときだけ格好つけないで」
「いつも格好いい」
「それはない」
「ひどい」
 でも僕は少し安心した。
 それが悔しい。
 翌日の昼休み。
 僕たちは文化祭の受付名簿を見せてもらった。
 一般来場者は名前を書いている。
「多い」
「そりゃ文化祭だから」
「卒業生だけ分けられない?」
「無理」
「一人ずつ見る?」
「見る」
 瀬名が名簿の写真を撮る。
「放課後やろう」
「うん」
 そのとき。
「宮野」
 後ろから声。
 振り返る。
 知らない先生だった。
 四十代くらい。
「はい」
「ちょっといいか」
「何ですか」
「校長室」
「僕が?」
「瀬名も」
 僕たちは顔を見合わせた。
 校長室には校長と教頭、それから見たことのない男がいた。
 三十歳くらい。
 紺色のスーツ。
「座って」
 僕と瀬名が並んで座る。
 男が僕を見る。
「宮野律くん?」
「はい」
「初めまして」
「初めまして」
「私は」
 男が名刺を出した。
『宮野理人』
 僕は固まった。
「……え?」
 瀬名も名刺を見る。
「宮野、理人?」
「はい」
 男は静かに答えた。
「君のお父さんの従弟です」
「待ってください」
 僕は立ち上がりそうになった。
「理人さんは」
「知っています」
「五年前に」
「亡くなったのは別人です」
「でも」
 頭が混乱する。
 父から聞いた。
 叔父。
 本当の名前は宮野律。
 家では理人と呼ばれていた。
 では目の前の宮野理人は。
「同じ名前?」
「正確には」
 男は言った。
「私の戸籍上の名前が宮野理人です」
「じゃあ」
「亡くなった彼は宮野律」
「僕と同じ」
「そうです」
「でも家では理人って」
「それは家族内の呼び名です」
「どうして」
「私と区別するためだった」
 僕は座り直した。
 頭が追いつかない。
「あなたは誰なんですか」
「君の父親の従弟」
「亡くなった理人さんとは?」
「従兄弟です」
「同じ学校?」
「はい」
 瀬名が口を開く。
「文化祭に来ました?」
 男が瀬名を見る。
「君は?」
「瀬名航平です」
 男の顔色が変わった。
「瀬名?」
「瀬名拓海の弟です」
 長い沈黙。
「……そうか」
「質問に答えてください」
「来ました」
「宮野を探してた?」
「はい」
「録音に声が入ってます」
「録音?」
「『宮野律、やっと見つけた』」
 男は少し驚いた。
「それは私です」
 僕は瀬名を見る。
 瀬名も僕を見る。
「じゃあ」
 僕が聞く。
「何で僕を探してたんですか」
「君に渡すものがあります」
 男が鞄から封筒を出した。
「また手紙?」
 思わず言ってしまった。
「また?」
「いえ」
 男が封筒を机に置く。
「これは宮野律からです」
 僕は封筒を見る。
「亡くなった?」
「はい」
「五年前に?」
「そうです」
「何で今まで」
「渡せなかった」
「またそれ?」
 少し腹が立った。
 大人たちはみんな同じことを言う。
 言えなかった。
 渡せなかった。
 隠していた。
「どうしてですか」
「君のお父さんに止められていました」
「父さんが?」
「はい」
「理由は?」
「君を巻き込みたくないと」
「もう巻き込まれてます」
「そうですね」
「じゃあください」
 封筒を取る。
 表には、
『未来の律へ』
 と書かれていた。
「未来?」
「亡くなった律は」
 男が言う。
「君が生まれたことを知っていました」
「僕、当時何歳?」
「十歳」
「会ったことは?」
「ありません」
「どうして?」
「君のお父さんが会わせなかった」
「何で」
「弟と息子が同じ名前だから」
「父さんがつけたんでしょ」
「そうです」
「意味分かんない」
 男は少し困ったように笑った。
「あなたのお父さんも、後悔していると思います」
「何を」
「弟と仲違いしたまま、死なせてしまったことを」
 僕は黙った。
「何があったんですか」
「それは手紙に」
 僕は封筒を開けた。
 便箋が三枚。
 最初の一行。
『未来の律へ。』
『たぶん、おまえは俺のことを知らない。』
 僕は読む。
『兄貴は俺を嫌っているから、きっと話さない。』
 父のことだ。
『でも俺は、おまえのことを知っている。』
『写真を見た。』
『俺に似ていて笑った。』
 僕は少しだけ息を止めた。
『兄貴がおまえに律とつけたと聞いたときは、正直、頭がおかしいと思った。』
 思わず笑いそうになった。
 瀬名も横から見ている。
「お父さん、言われてる」
「うん」
 続きを読む。
『でも、少し嬉しかった。』
『俺がいなくなっても、名前だけ残るみたいで。』
 胸が詰まる。
『ただし、おまえは俺じゃない。』
 僕はそこで止まった。
『絶対に俺になるな。』
『俺と同じ名前でも、俺と似た顔でも、おまえはおまえだ。』
『誰かが俺と間違えても、ちゃんと怒れ。』
 黒瀬さんに言った言葉を思い出す。
 僕は僕です。
『好きなものを好きになれ。』
『嫌いなものは嫌いと言え。』
『声を出せ。』
 僕の指が止まる。
『兄貴は何でも黙る。俺も大事なことを黙る。』
『だから、おまえは黙るな。』
『言いたいことは言え。』
『好きなやつができたら、特に。』
 僕は瀬名を見る。
 瀬名が笑いそうになっている。
「何」
「みんな同じこと言う」
「拓海さんも」
「うん」
「昔の高校生ってそれしか考えてないの?」
「俺たちもじゃない?」
「違う」
「違わない」
 手紙に戻る。
『もし俺が十年後も生きていたら、この手紙は捨てる。』
『そのときは直接会って話す。』
『もし俺がいなかったら、理人に預ける。』
 僕は目の前の男を見る。
「あなた」
「はい」
「預かったんですか」
「事故の二日前に」
「二日前」
「嫌な予感がすると言っていました」
「何で」
「黒瀬景のことです」
 僕は続きを読む。
『景が危ない。』
『拓海も気づいている。』
『俺たちで止める。』
『だから大丈夫。』
『大丈夫じゃなかったら、理人、これを頼む。』
 最後。
『未来の律。』
『俺の代わりに生きるな。』
『おまえの人生を生きろ。』
『あと、兄貴をあまり困らせるな。』
『でも困らせるくらいでちょうどいい。』
『宮野律』
 読み終わった。
 誰も何も言わなかった。
「僕」
 声が少し震えた。
「この人の代わりじゃないんですね」
 宮野理人さんが答える。
「もちろん」
「父さんは」
「あなたのお父さんも分かっています」
「だったら何で同じ名前」
「忘れたくなかったんでしょう」
「勝手だ」
「そうですね」
「僕の名前なのに」
「はい」
 僕は手紙を見る。
 腹が立つ。
 悲しい。
 でも。
「それでも」
 僕は言った。
「今はこの名前、嫌いじゃない」
 瀬名が僕を見る。
「律」
「何」
「今呼ぶ?」
「いい」
「律」
 不思議だった。
 同じ名前なのに。
 瀬名に呼ばれると、完全に僕の名前だった。
「もう一回」
「律」
「うん」
「何回でも呼ぶよ」
「それはうるさい」
「厳しい」
 理人さんが少し笑った。
「拓海も同じでした」
 瀬名が顔を上げる。
「兄貴?」
「律の名前をよく呼んでいた」
「そうなんですか」
「何かあるたび、律、律って」
「俺と同じ」
「似ています」
 僕は瀬名を見る。
「やっぱり犬」
「なんで」
「呼びすぎ」
「好きだから」
「学校」
「校長室だった」
「もっと駄目」
 校長が咳払いした。
 僕たちは黙った。
 校長室を出たあと、瀬名が言った。
「屋上行く?」
「授業」
「次、自習」
「僕は違う」
「じゃあ放課後」
「うん」
 その日の放課後。
 屋上。
 秋の風。
 僕は手紙をもう一度読んだ。
 瀬名は隣で黙っている。
「ねえ」
「何?」
「瀬名は」
「うん」
「僕の名前、好き?」
「好き」
「即答」
「律」
「うん」
「最初は宮野だった」
「そうだね」
「今は律」
「いつから?」
「付き合ってから」
「でも学校では宮野って」
「秘密だから」
「二人のときは?」
「律」
 少し恥ずかしい。
「僕はまだ瀬名って呼んでる」
「航平って呼んで」
「嫌」
「なんで」
「恥ずかしい」
「一回言った」
「録音のときだけ」
「もう一回」
「嫌」
「律」
「何」
「航平」
「自分で言わないで」
「呼んで」
「嫌」
「お願い」
「絶対嫌」
「じゃあ」
 瀬名がレコーダーを出す。
「これに」
「もっと嫌」
「保存したい」
「絶対言わない」
「律」
「しつこい」
「好き」
「知ってる」
「大好き」
「……航平」
 瀬名が止まった。
 僕も止まった。
 風。
 遠くの運動部。
「今」
「忘れて」
「もう一回」
「嫌」
「録音してなかった」
「よかった」
「律!」
「うるさい」
 僕は笑った。
 瀬名が頭を抱える。
「録りたかった」
「何でも残そうとしない」
「大事なのに」
「残らなくてもいいものもある」
「例えば?」
「今の」
「なんで」
「僕だけ覚えてればいい」
「俺も覚えてる」
「じゃあ二人だけ」
「……それ、いい」
 瀬名はレコーダーをしまった。
 珍しい。
「録らないの?」
「うん」
「どうして」
「二人だけの音」
 僕は少し笑った。
「成長したね」
「何点?」
「八十」
「高い」
「百点満点」
「やった」
「でも」
「何」
「残り二十点」
「どうしたら取れる?」
「分からない」
「キス?」
「減点」
「何点?」
「五十点」
「三十になるじゃん」
「じゃあやめる?」
「……やめる」
 瀬名が本当に離れる。
 僕は少し待った。
 一秒。
 二秒。
 三秒。
「航平」
「何?」
「減点してもいいよ」
 瀬名が僕を見る。
「それ」
「一回しか言わない」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ」
 瀬名が近づく。
「録音は?」
「禁止」
「はい」
 僕は目を閉じた。
 秋の風が吹いた。
 その瞬間だけは、何にも残らなかった。
 録音にも。
 写真にも。
 データにも。
 ただ僕と瀬名の記憶にだけ残った。
 それでいいと思った。
 数日後。
 音の卒業アルバムを学校の公式サイトに掲載する話が決まった。
「百個全部?」
「容量的に厳しいから三十個」
 杉本先輩が言う。
「選ぶ?」
「投票」
「誰が」
「部員」
 僕たちは一つずつ聞いた。
 チャイム。
 黒板。
 体育館。
 雨。
 風。
 購買。
 海。
「海は学校じゃない」
 一年生が言う。
「高校生活」
 瀬名が答える。
「先輩、それ便利ですね」
「宮野にも言われた」
 投票。
 三十個。
 最後まで残ったのは、意外にも百番目だった。
『名前を呼ぶ声』
「これ一番いいです」
 一年生が言う。
「何で?」
「卒業したら聞けなくなるから」
 杉本先輩が少し寂しそうに笑う。
「三年には刺さるね」
 僕は録音を聞く。
 たくさんの名前。
 最後。
『律』
『航平』
「ここ」
 僕が言う。
「カットしません?」
「何で」
 瀬名が即座に言う。
「個人的すぎる」
「誰か分からない」
「僕たちには分かる」
「だからいい」
「よくない」
 杉本先輩が僕たちを見る。
「残そう」
「先輩」
「いいじゃん」
「でも」
「卒業アルバムって、そういうものでしょ」
「どういう」
「その人にしか意味が分からないものも残る」
 僕は黙った。
 確かに。
 他人にはただの二つの名前。
 僕たちには違う。
「……じゃあ」
「残す?」
「はい」
 瀬名が嬉しそうに笑った。
「何」
「何でもない」
「顔」
「嬉しい」
「分かってる」
「律」
「学校」
「小声」
「駄目」
「はい」
 僕は笑った。
 そして十月。
 放送部に一通の封筒が届いた。
 差出人は書かれていなかった。
 中には一枚の紙。
『音の卒業アルバムを聞きました。』
『お願いがあります。』
『卒業までに、一つだけ録ってほしい音があります。』
 その下。
『誰もいない教室の音』
 僕は首をかしげた。
「誰もいない教室?」
 瀬名が紙を見る。
「無音じゃない?」
「でも」
「録ってみる?」
「誰の依頼か分からないよ」
「面白い」
「怖くない?」
「律と一緒なら」
「そういう問題?」
「大事」
 僕はもう一度紙を見る。
 裏。
 小さな文字があった。
『三年二組』
 杉本先輩のクラスだった。
 放課後。
 誰もいなくなった三年二組。
 僕と瀬名はレコーダーを机の上に置いた。
「五分」
「うん」
 録音開始。
 僕たちは廊下へ出る。
 誰もいない教室。
 何が録れるのだろう。
 五分後。
 戻る。
「聞く?」
「うん」
 再生。
 最初。
 静か。
 でも完全な無音ではない。
 時計。
 カチ。
 カチ。
 遠くの部活動。
 風。
 机がわずかにきしむ音。
「意外と音あるね」
「うん」
 二分。
 三分。
 そのとき。
 ガラッ。
 教室のドアが開く音。
 僕と瀬名は顔を見合わせた。
「誰か入った?」
「俺たち廊下にいたよね」
「反対側?」
 録音の中。
 足音。
 一歩。
 二歩。
 三歩。
 レコーダーの近くまで来る。
 そして。
 女の子の声。
『杉本さん』
 僕は止めた。
「先輩?」
「呼んでる」
「誰」
「分からない」
 続ける。
『卒業する前に』
 小さな声。
『一回だけ、話したいです』
 録音終了。
 僕たちは黙った。
「これ」
「うん」
「杉本先輩に聞かせる?」
「依頼した人、これを録ってほしかったんだよね」
「たぶん」
「何で直接言わないんだろ」
 僕は紙を見る。
『誰もいない教室の音』
「声を残したかった?」
「先輩に?」
「うん」
「誰だろ」
「探す?」
 瀬名が僕を見る。
「今度は先輩の番」
「何が」
「声に残った謎」
「僕たちの専門みたいに言わないで」
「放送部だから」
「そんな活動じゃない」
「でも」
 瀬名が笑う。
「面白くなってきた」
「君、絶対楽しんでる」
「少し」
「僕は嫌な予感する」
「大丈夫」
「何が」
「一緒にいる」
「そればっかり」
「効くでしょ」
 僕は少し考えた。
「……まあ」
「効く?」
「少し」
「よかった」
 僕たちはレコーダーを持って放送室へ戻った。
 まだ知らなかった。
 その女の子の声が、杉本先輩が一年以上探していた人のものだったことを。
 そして「音の卒業アルバム」が、僕と瀬名だけではなく、学校の中で言えずにいた言葉を次々と集め始めることを。
 声を残す。
 ただそれだけだったはずの企画は、少しずつ別のものへ変わろうとしていた。
  杉本先輩は、録音を聞き終わっても何も言わなかった。
『杉本さん』
『卒業する前に』
『一回だけ、話したいです』
 そこで録音は終わる。
 僕は先輩を見る。
「知ってる声ですか」
「……うん」
「誰ですか」
 杉本先輩は答えない。
 瀬名が僕の腕を軽くつついた。
 僕は黙った。
 しばらくして、先輩が言った。
「一年のときの友達」
「今は?」
「学校にはいる」
「同じ学年?」
「うん」
「じゃあ話せば」
 言いかけてやめた。
 話せばいい。
 そんな簡単なことではないと、僕は知っている。
「何かあったんですか」
 杉本先輩は窓を見る。
「喧嘩」
「一年以上?」
「二年近く」
「長い」
「でしょ」
「原因は?」
「忘れた」
「え?」
「本当に」
 先輩が笑った。
「最初は覚えてたんだと思う。でも時間が経ったら、何で怒ってたのか分からなくなった」
「じゃあ仲直りすれば」
「それができたら二年も喧嘩してない」
「確かに」
「宮野」
「はい」
「人間ってね」
「はい」
「喧嘩した理由より、話してない時間のほうが大きくなることがあるんだよ」
 僕は少し考えた。
「今さら話しかけたら変かな、とか」
「うん」
「相手はもう嫌ってるかも、とか」
「そう」
「でも向こうは話したいって」
「録音ではね」
「じゃあ」
 先輩は僕を見る。
「宮野は簡単に言うね」
「すみません」
「悪い意味じゃない」
 先輩は少し笑った。
「前の宮野なら、たぶん何も言わなかった」
「そうですか」
「今は、言えばいいって思ってる」
 僕は瀬名を見る。
 瀬名は何も言わず笑っている。
「何」
「何でもない」
「言いたいことある顔」
「成長したなって」
「先輩と同じこと言わないで」
「じゃあ好き」
「もっと駄目」
 杉本先輩が吹き出した。
「本当に変わった」
「先輩」
「ごめん」
 先輩はもう一度レコーダーを見る。
「これ、誰にも聞かせてない?」
「僕たちだけです」
「消して」
 僕と瀬名は顔を見合わせた。
「いいんですか」
「うん」
「でも」
「本人が私に直接言うなら聞く」
 先輩は言った。
「録音じゃなくて」
 瀬名が頷く。
「分かりました」
 削除。
 音声ファイルが消えた。
 僕は少し惜しいと思った。
 でも。
 残さないほうがいい声もある。
 初めて、それをはっきり理解した気がした。
 翌日の昼休み。
 杉本先輩は放送室に来なかった。
「話してるかな」
 僕が言う。
「たぶん」
「うまくいくかな」
「気になる?」
「少し」
「見に行く?」
「最低」
「冗談」
 瀬名は机に座る。
「律」
「学校」
「誰もいない」
「癖になるから駄目」
「律」
「瀬名」
「航平」
「自分で言わない」
「呼んで」
「嫌」
「昨日呼んだ」
「昨日は昨日」
「今日は?」
「今日は呼ばない」
「じゃあ明日」
「予約しないで」
 ドアが開いた。
 杉本先輩。
「こんにちは」
「先輩」
「何」
「話しました?」
 先輩が僕を見る。
「宮野」
「はい」
「そういうところ」
「何ですか」
「遠慮なくなったよね」
「すみません」
「話した」
「どうでした?」
「普通」
「普通?」
「うん」
 先輩が椅子に座る。
「二年近く話してなかったのに、最初の会話が『久しぶり』」
「普通ですね」
「でしょ」
「そのあと?」
「『卒業したら何するの』」
「普通」
「『大学どこ受けるの』」
「普通」
「それで終わり」
「仲直りは?」
「してない」
「え」
「謝ってもない」
「じゃあ」
「でも明日、一緒にお昼食べる」
 先輩が笑った。
「それでいいかなって」
 僕は少し考えた。
「いいと思います」
「ありがとう」
「何で僕に」
「宮野が言えって顔してたから」
「そんな顔してました?」
「してた」
 瀬名が言う。
「してた」
「君は黙って」
「はい」
 杉本先輩が鞄から封筒を出した。
「それより」
「何ですか」
「また来た」
「また?」
 差出人なし。
 放送部宛て。
 中の紙。
『録ってほしい音があります。』
「まただ」
 瀬名が嬉しそうに言う。
「楽しそうにしないで」
「だって」
 続きを読む。
『三年間、一度もホームランを打てなかった人の、最後の打席。』
「野球部?」
「たぶん」
「誰」
 裏を見る。
『十月二十三日 練習試合』
「日付指定」
「三年生かな」
「最後の試合?」
 杉本先輩が言う。
「野球部、秋の大会はもう終わってるから、三年は引退してるはず」
「じゃあ練習試合?」
「引退試合かも」
 僕は紙を見る。
「誰が頼んだんだろ」
「本人?」
「自分で一度もホームラン打てなかったって書く?」
「親」
「友達」
「マネージャー」
「先生」
 分からない。
「録る?」
 瀬名が聞く。
「録る」
 僕は即答した。
「律、乗り気」
「学校」
「はい」
「それに」
「何?」
「最後の打席って、ちょっと聞きたい」
「音だけ?」
「うん」
「ホームラン打ったら?」
「すごい」
「打たなかったら?」
「それも残す」
「いいね」
「結果じゃないでしょ」
 瀬名が僕を見る。
「何」
「いや」
「何」
「律、録音好きになったなって」
「君ほどじゃない」
「でも最初より」
「……少し」
 否定しなかった。
 十月二十三日。
 土曜日。
 僕と瀬名はグラウンド脇にいた。
「誰か分かった?」
「三年の田村先輩」
「ホームランゼロ?」
「公式戦では」
「練習でも?」
「たぶん」
「本人に聞いた?」
「聞けない」
「そりゃそうか」
 レコーダーを準備する。
 最終回。
 二アウト。
 田村先輩が打席へ入る。
「できすぎじゃない?」
 僕が言う。
「何が」
「最後の打席で二アウト」
「録音向き」
「ホームラン打ったらもっとできすぎ」
「期待する?」
「しない」
「なんで」
「結果はどっちでもいい」
 投球。
 ストライク。
 周囲の声。
「田村ー!」
「打てー!」
 二球目。
 ファウル。
「追い込まれた」
「うん」
 三球目。
 ボール。
 四球目。
 ボール。
 二ボール二ストライク。
 五球目。
 金属バットの音。
 カーン。
「行った?」
 打球は高く上がる。
 外野。
「行け!」
 みんなが叫ぶ。
 僕も見上げる。
 フェンス。
 その手前。
 外野手が捕った。
「アウト」
「終わった」
 ホームランではなかった。
 田村先輩は一塁へ走りかけて止まる。
 ベンチへ戻る。
 拍手。
 大きな拍手だった。
「ホームラン打てなかった」
 僕が言う。
「うん」
「最後まで」
「うん」
 でも。
 録音にはたくさんの音が入っていた。
 バット。
 走る足。
 仲間の声。
 拍手。
「いい音」
 瀬名が言った。
「うん」
 試合後。
 一人の女子生徒が僕たちのところへ来た。
「放送部ですか?」
「はい」
「録りました?」
「最後の打席?」
「はい」
「あなたが依頼した?」
 女の子が頷いた。
「妹です」
「田村先輩の?」
「はい」
「どうして録音を?」
 女の子はグラウンドを見る。
「兄、野球下手なんです」
「そこまで言う?」
「本当に」
 彼女は笑った。
「小学校からやってるのに、レギュラーになったの今年だけ」
「そうなんだ」
「ホームランも一本もない」
「うん」
「でも毎日練習してた」
 彼女が少し俯く。
「家でもずっと素振りして」
「うん」
「だから最後くらい、何か残したくて」
「写真じゃなくて?」
「写真だと、打てなかった顔が残るから」
「音なら?」
「みんなの拍手が残る」
 僕はレコーダーを見る。
「なるほど」
「聞かせてもらえますか」
「もちろん」
 再生。
 カーン。
 走る音。
 アウト。
 そして拍手。
 女の子が笑った。
「これです」
「え?」
「残したかったの」
「ホームランじゃなくて?」
「はい」
 彼女は言った。
「打てなくても、みんな拍手してくれたから」
 僕は瀬名を見る。
 瀬名も僕を見る。
「データ、渡します」
「ありがとうございます」
「田村先輩には?」
「卒業の日に」
「それまで秘密?」
「はい」
「分かりました」
 女の子が帰る。
 僕はグラウンドを見る。
「瀬名」
「何」
「録音って」
「うん」
「成功したものを残すだけじゃないんだね」
「そうだね」
「失敗も残る」
「うん」
「でも、あとで聞くと違う意味になる」
「それが面白い」
「……うん」
「今の録音する?」
「何で」
「いいこと言った」
「嫌」
「もう一回」
「絶対嫌」
 瀬名が笑う。
 僕も笑った。
 それから、放送部への依頼が増えた。
『美術部で三年間使った筆を洗う最後の音。』
『毎朝開けていた教室の窓。』
『卒業する先輩が吹くトランペット。』
『購買のおばちゃんの「ありがとう」。』
『体育館の床を走る音。』
『図書室で一番古い本を閉じる音。』
 誰が始めたのか。
 いつの間にか、校内ではこう呼ばれていた。
『音の手紙』
「企画変わってない?」
 僕が言う。
「いいじゃん」
「卒業アルバムは?」
「それもやる」
「仕事増えてる」
「楽しい?」
「……まあ」
「じゃあいい」
「瀬名は?」
「めちゃくちゃ楽しい」
「知ってる」
 十一月。
 放送室には毎週のように封筒が届いた。
 でも一通だけ、他とは違うものがあった。
『録ってほしい声があります。』
 瀬名が読む。
「誰の?」
 続きを見る。
『宮野律くん。』
「……僕?」
 紙を取る。
『一度だけ、全校放送で話してください。』
「嫌」
 即答だった。
「律」
「無理」
「まだ何も」
「全校放送は無理」
「昼の放送やったじゃん」
「一回だけ」
「できた」
「それとこれとは」
「同じじゃない?」
「違う」
 胸が苦しくなる。
 マイク。
 全校。
 全員が聞いている。
 去年の記憶。
 声。
「やらなくていい」
 瀬名が言った。
「え?」
「嫌なら」
「でも」
「依頼だからって全部受ける必要ない」
「……うん」
 僕は紙を裏返す。
 そこにもう一行。
『去年十一月十七日の放送を聞いた者より。』
 僕は固まった。
「瀬名」
「何?」
「これ」
 瀬名が読む。
 表情が変わる。
「去年の?」
「うん」
「律の声が録音されてた日」
「そう」
「誰?」
「分からない」
 僕は紙を握った。
 去年十一月十七日。
 旧校舎。
 黒瀬さん。
 倒れるロッカー。
 そして、なぜか学校中に流れた僕の録音。
「瀬名」
「うん」
「あの放送」
「何?」
「結局、誰が流したか分かってない」
 僕たちは黙った。
 そうだった。
 いろいろなことが分かった。
 理人さん。
 拓海さん。
 黒瀬さん。
 僕の名前。
 でも一つだけ。
 去年の録音が、なぜ今年になって放送室から突然流れたのか。
 その謎だけは残っていた。
「調べる?」
 瀬名が聞く。
 以前の僕なら嫌だと言った。
 でも今は。
「うん」
 僕は答えた。
「最後まで」
 瀬名が笑う。
「一緒に?」
「当たり前」
 僕は言った。
 そして気づいた。
 今の『当たり前』は、前とは違う。
 瀬名と一緒にいること。
 瀬名と調べること。
 瀬名に声を聞かれること。
 全部、少しずつ僕の日常になっていた。
 放課後。
 僕たちは放送室のパソコンを調べた。
「履歴残ってる?」
「古いのは消えてる」
「バックアップ」
「サーバーかな」
「先生に聞く?」
「その前に」
 瀬名が設定画面を開く。
「自動放送」
「何それ」
「時間指定で音声流せる」
「そんな機能ある?」
「ある」
 一覧。
 チャイム。
 緊急放送。
 テスト音源。
 そして。
「これ」
 瀬名が指さした。
『11_17_TEST』
「十一月十七日?」
「ファイル名だけ」
「開ける?」
 クリック。
 僕の声。
『待って』
 僕は息を止める。
『待ってって』
 あの録音。
「これだ」
「うん」
「登録日」
 画面を見る。
 去年十一月十八日。
「次の日?」
「誰かが登録した」
「黒瀬さん?」
「学校のシステムに入れる?」
「無理だと思う」
「じゃあ誰」
 登録者。
『ADMIN02』
「何これ」
「管理者アカウント」
「誰?」
「調べる」
 瀬名がログを開く。
 登録場所。
『職員室端末02』
「先生?」
「たぶん」
「去年の十一月十八日」
「誰が使ったか」
「分からない」
 そのとき。
 放送室のドアが開いた。
「何してる」
 僕たちは振り返った。
 担任だった。
「先生」
「もう下校時刻だぞ」
「すみません」
 瀬名が画面を閉じようとする。
 先生の顔が変わった。
「それ」
「何ですか」
「十一月十七日?」
 僕は先生を見る。
「知ってるんですか」
「いや」
「今、顔変わりました」
「宮野」
「先生」
「もう帰れ」
「教えてください」
「何を」
「去年の十一月十八日」
 先生は黙った。
「職員室の端末から、この音声を登録した人」
 長い沈黙。
「先生ですよね」
 瀬名が言った。
「どうしてそう思う」
「否定しないから」
 先生はため息をついた。
「……俺だ」
 僕の心臓が跳ねた。
「どうして」
「拾った」
「何を」
「SDカード」
「どこで?」
「旧校舎」
「いつ?」
「十一月十八日の朝」
「それ、僕の」
「名前が書いてあった」
「宮野律?」
「ああ」
「だから聞いた?」
「中身を確認した」
「それで学校のパソコンに?」
「コピーした」
「何で」
「事故があったかもしれないと思った」
「先生」
「金属音が入っていたからな」
「じゃあ警察は?」
「そこまでじゃない。まず校内で確認しようとした」
「それで?」
「放送システムのテストフォルダに入れた」
「どうしてテストに」
「職員室のパソコンで再生できなかった」
「形式?」
「そうだ」
 瀬名が頷く。
「古い音声形式だったんだ」
「放送システムなら変換できた」
「それで登録」
「ああ」
「じゃあ今年流れたのは?」
「俺も知らない」
「え?」
「削除したつもりだった」
「でも残ってた」
「そうらしい」
 瀬名が自動放送設定を見る。
「スケジュール」
 登録日時。
 今年六月。
「これ」
『再生条件:機器テスト時』
「機器テスト」
 僕が言う。
「僕たちが放送室にいた日」
「新しい機材確認した」
 瀬名が答える。
「だから」
「自動で流れた?」
「たぶん」
 僕は椅子に座った。
「そんなこと?」
「そんなことだった」
 瀬名も少し笑う。
「幽霊でも誰かの脅しでもなく」
「システムの設定」
「……拍子抜け」
「でもよかった」
「うん」
 先生が僕を見る。
「宮野」
「はい」
「悪かった」
「何がですか」
「勝手に音声をコピーした」
「……」
「名前があったから、何かあったと思った」
「分かります」
「消すか?」
 僕は少し考えた。
 去年の僕。
 忘れたいと言った僕。
 黒瀬さんに会った僕。
 全部、僕だ。
「消さなくていいです」
「いいのか」
「はい」
「でも」
「僕が持ってます」
「そうか」
「学校のは消してください」
「分かった」
 先生が頷いた。
 それで。
 去年十一月十七日の最後の謎は、驚くほど普通に終わった。
 帰り道。
「律」
「何」
「全部分かったね」
「うん」
「寂しい?」
「何で」
「謎なくなった」
「別に」
「俺はちょっと」
「君はミステリー好きだったの?」
「律と調べるのが好きだった」
「……そういうこと言う」
「駄目?」
「駄目じゃない」
 駅。
 ホーム。
 電車を待つ。
「でも」
 僕は言う。
「まだ一つある」
「謎?」
「うん」
「何?」
「依頼した人」
「全校放送?」
「そう」
 紙を見る。
『去年十一月十七日の放送を聞いた者より。』
「先生じゃない?」
「先生なら僕に依頼しない」
「じゃあ誰」
「分からない」
「調べる?」
「うん」
「楽しそう」
「少し」
「俺に似てきた」
「それは嫌」
「ひどい」
 電車が来る。
 僕たちは乗った。
 混んでいた。
 瀬名が僕の前に立つ。
「律」
「何」
「全校放送」
「まだやるとは言ってない」
「やらなくていい」
「うん」
「でも」
「何」
「もしやるなら」
 瀬名が小さな声で言う。
「俺、一番近くで聞く」
「放送室?」
「うん」
「録音する?」
「律がいいって言ったら」
 僕は少し考えた。
「そのとき決める」
「分かった」
 電車が揺れる。
 瀬名の肩に僕の額が触れた。
「ごめん」
「そのままでいい」
「人いる」
「誰も見てない」
「見るかも」
「じゃあ離れる?」
 僕は離れなかった。
「……次の駅まで」
「うん」
「それだけ」
「分かった」
 瀬名の声が近い。
 僕は思った。
 昔の僕なら、この距離から逃げていた。
 声からも。
 人からも。
 残るものからも。
 でも今は。
 次の駅が来るまで。
 もう少しだけ、この声の近くにいたかった。
 翌朝。
 放送室のドアの下に、また封筒が差し込まれていた。
 中には一枚。
『宮野律くんへ。』
『あなたの声に、去年、助けられました。』
 僕は読む手を止めた。
『だから今度は、あなた自身の言葉を聞きたいです。』
 最後に名前。
『一年五組 高橋悠真』
「一年生」
 瀬名が言う。
「男子?」
「名前は」
「悠真」
「たぶん」
「知ってる?」
「知らない」
 僕は紙を裏返す。
 もう一行。
『去年、学校に来られなかった僕が、偶然聞いた放送でした。』
 去年。
 僕の録音。
『誰にも言わないから』
『もう戻ってくるな』
 あの言葉。
 僕は黒瀬さんに言った。
 でも。
 別の誰かには、違う意味で届いていた。
「律」
「何」
「会う?」
 僕は頷いた。
「会う」
「全校放送は?」
 僕は少し考えた。
「そのあと決める」
「うん」
 僕は初めて思った。
 声は、話した本人のものだけではない。
 届いた瞬間から。
 聞いた人の中にも残る。
 僕が消したかった声が。
 誰かにとっては、残してほしい声だったのかもしれない。
 昼休み。
 一年五組の前。
「高橋悠真くん?」
 一人の男子生徒が振り返った。
 小柄で、眼鏡。
「はい」
 僕を見る。
「あ」
「宮野です」
「……本物」
「本物?」
「すみません」
 高橋くんが立ち上がる。
「放送部、来てもらえる?」
「はい」
 三人で放送室へ行く。
 高橋くんはずっと緊張していた。
「座って」
「はい」
「手紙ありがとう」
「すみません」
「何で謝るの」
「勝手にお願いして」
「いいよ」
 僕は正面に座る。
「去年の放送、聞いたの?」
「はい」
「どうして?」
「保健室にいました」
「学校来てたんだ」
「教室には行けなくて」
 僕はそれ以上聞かなかった。
「急に放送が流れて」
「うん」
「宮野先輩の声」
「僕だって分かった?」
「あとで」
「そう」
「『もう戻ってくるな』って」
「うん」
「僕、自分に言われた気がしたんです」
 僕は驚いた。
「学校に?」
「違います」
 高橋くんが首を振る。
「前の自分に」
 瀬名も黙って聞いている。
「ずっと、中学のときの失敗を考えてて」
「うん」
「また同じことになると思って、教室に行けなかった」
「うん」
「でも、もう戻らなくていいって聞こえた」
「……」
「前と同じじゃなくていいんだって」
 僕は何も言えなかった。
「だから」
 高橋くんが笑う。
「次の日、教室に行きました」
「そうだったんだ」
「はい」
「でも」
「?」
「あれ」
 僕は苦笑した。
「君に言った言葉じゃないよ」
「知ってます」
「黒瀬さんって人に」
「それも聞きました」
「じゃあ」
「でも、僕には僕の言葉になりました」
 僕は瀬名を見る。
 瀬名が少し笑った。
「だから全校放送?」
「はい」
「何を話してほしい?」
「何でも」
「何でもが一番困る」
「すみません」
「謝らなくていい」
 高橋くんが少し考える。
「今の宮野先輩が」
「うん」
「今、言いたいこと」
 僕はマイクを見る。
 怖くないと言えば嘘になる。
 全校放送。
 何百人。
 僕の声。
 残るかもしれない。
 誰かに聞かれる。
 誰かに何かを思われる。
「考えていい?」
「もちろんです」
「ありがとう」
 高橋くんが帰る。
 僕と瀬名だけになる。
「律」
「何」
「どうする?」
「……やる」
「本当に?」
「うん」
「無理してない?」
「少し」
「なら」
「でもやる」
 僕はマイクに触れた。
「僕が今言いたいこと」
「何?」
「まだ分からない」
「一緒に考える?」
「それは駄目」
「なんで」
「僕の言葉だから」
 瀬名が笑った。
「分かった」
「でも」
「何」
「聞いてて」
「うん」
「一番近くで」
「もちろん」
 僕は息を吸った。
 放送日は十一月十七日に決めた。
 偶然ではない。
 僕が選んだ。
 去年、忘れたいと思った日。
 五年前、誰かの時間が止まった日。
 今年は。
 僕自身の声で、その日を終わらせようと思った。
          十一月十七日。
 朝から、いつもと同じ学校だった。
 昇降口。
 靴箱。
 教室。
 チャイム。
 窓から入る冷たい風。
 去年の十一月十七日も、たぶんこんな日だった。
「宮野」
 佐伯が僕の机を叩く。
「今日、放送やるんだって?」
「何で知ってるの」
「放送部が昼休みに特別放送するって掲示出てる」
「僕が話すとは書いてない」
「おまえなんだ」
「……今ので分かった?」
「うん」
「忘れて」
「無理」
 佐伯が笑う。
「緊張してる?」
「してない」
「嘘」
「少し」
「大丈夫だろ」
「簡単に言うね」
「だって」
 佐伯は椅子を引く。
「前にもやったじゃん」
「前は事故みたいなもの」
「でも声出た」
「うん」
「じゃあ今日も出る」
「そういう問題?」
「そういう問題」
 佐伯が自分の席へ戻る。
「聞いてるから」
「聞かなくていい」
「全校放送だから勝手に聞こえる」
「それもそうか」
 僕は笑った。
 以前なら。
『聞いてるから』
 その一言だけで逃げたくなったかもしれない。
 今日は違う。
 聞かれるために話す。
 昼休み十分前。
 放送室。
 杉本先輩が機材を確認している。
「マイクよし」
「音量よし」
 瀬名が答える。
「録音は?」
「まだ」
 僕が言った。
「本当に録らない?」
「あとで決める」
「分かった」
 瀬名はレコーダーを机に置いた。
 電源も入れない。
「律」
「何」
「水」
「ありがとう」
 ペットボトルを受け取る。
 手が少し震えていた。
「やっぱり緊張してる」
「見ないで」
「見る」
「何で」
「心配だから」
「余計緊張する」
「じゃあ後ろ向く?」
「それも変」
 杉本先輩が笑う。
「瀬名くん、黙ってたほうがいいんじゃない?」
「はい」
「素直」
「先輩の言うことは聞くんだ」
「律の言うことも聞いてる」
「嘘」
「本当」
「じゃあ黙って」
「はい」
 本当に黙った。
 それはそれで落ち着かない。
「何かしゃべって」
「どっち?」
「普通に」
「難しい」
 先輩がまた笑った。
「あと三分」
 僕は原稿を見る。
 書いた。
 消した。
 また書いた。
 結局、短い文章になった。
「宮野」
「はい」
「無理なら途中で切っていいからね」
「はい」
「放送事故にはしないから」
「お願いします」
「でも」
 先輩が僕を見る。
「最後まで言えると思う」
「どうしてですか」
「今の宮野だから」
 僕は少し笑った。
「ありがとうございます」
 チャイム。
 昼休み。
「一分前」
 瀬名が言う。
 僕は椅子に座る。
 マイクの前。
 赤いランプ。
 まだ点いていない。
 去年。
 僕は自分の声が残るのが嫌だった。
 聞かれるのも嫌だった。
 声を出した瞬間、その言葉が自分の手から離れていく気がした。
 実際、そうだった。
『もう戻ってくるな』
 黒瀬さんに言った言葉を、高橋くんは自分への言葉として聞いた。
 僕には止められない。
 でも。
 それでいいのかもしれない。
「十秒」
 杉本先輩。
 瀬名が僕を見る。
 口だけ動かす。
『大丈夫』
 僕も口だけで答える。
『知ってる』
 赤いランプ。
「どうぞ」
 僕は息を吸った。
「こんにちは。放送部二年の宮野律です」
 自分の声がヘッドホンから返ってくる。
 逃げたくなる。
 でも続ける。
「今日は、少しだけ僕の話をします」
 原稿を見る。
「僕は、自分の声があまり好きではありませんでした」
 放送室は静かだ。
「正確には、声が残ることが嫌いでした」
「録音されることも、マイクで話すことも苦手でした」
「一度言ったことが、自分の知らないところで残ってしまうのが怖かったからです」
 瀬名が聞いている。
 杉本先輩も。
 学校中の誰かも。
「でも今年、いろいろな音を録りました」
「チャイム。雨。風。部活動。購買。海。笑い声」
「名前を呼ぶ声も録りました」
 少しだけ笑う。
「録ってみて分かったことがあります」
「音は、残すためだけにあるわけではありません」
「消える音もあります」
「録音に失敗することもあります」
「残したくない声もあります」
「誰にも聞かせたくない言葉もあります」
「それでも、人は話します」
 原稿の最後。
 僕はそこで紙を置いた。
 ここからは書いていない。
「僕には、去年、忘れたい日がありました」
 瀬名が少し動く。
「その日の声も、ずっと消したいと思っていました」
「でも、その声を聞いてくれた人がいました」
「僕が別の人に言った言葉を、自分への言葉として受け取った人がいました」
「だから今は」
 一度、息を吸う。
「声は、誰かに届いたあと、話した人だけのものではなくなるのかもしれないと思っています」
「怖いです」
「今も怖いです」
「でも」
 僕は瀬名を見る。
「それより、言わないまま終わるほうが、少し怖くなりました」
 瀬名が笑う。
「だから、言いたいことがある人は」
「言えるときに言ってください」
「ありがとうでも」
「ごめんでも」
「好きでも」
「嫌いでも」
「また話したいでも」
「何でもいいと思います」
 少し間を置く。
「僕も、そうします」
 最後。
「以上、宮野律でした」
 杉本先輩がスイッチを切る。
 赤いランプが消えた。
 終わった。
「……」
 誰もしゃべらない。
「何か言って」
 僕が言う。
 瀬名が息を吐いた。
「すごかった」
「それだけ?」
「好き」
「それは今いらない」
「感想」
「もっと内容について」
「好き」
「もういい」
 杉本先輩が拍手した。
「よかった」
「本当ですか」
「うん」
「放送事故じゃない?」
「大丈夫」
 僕は椅子の背にもたれた。
「疲れた」
「お疲れ」
 瀬名が水を渡す。
「ありがとう」
「録ればよかった」
「え?」
「今の放送」
「録ってない?」
「律が許可してないから」
 机の上のレコーダー。
 電源は入っていない。
「本当に?」
「約束」
「……そっか」
「後悔した?」
「少し」
「学校の放送システムには記録残ってると思う」
「じゃあ」
 僕は考える。
「一個だけコピーして」
「いいの?」
「うん」
「俺が持っていい?」
「僕も持つ」
「分かった」
「でも勝手に人に聞かせない」
「もちろん」
「約束」
「うん」
 瀬名が小指を出す。
「またそれ?」
「約束」
 僕も小指を絡めた。
 放送室を出る。
 廊下。
 高橋くんが待っていた。
「宮野先輩」
「聞いた?」
「はい」
「どうだった?」
「よかったです」
「それだけ?」
「すみません」
「瀬名と同じ」
「え?」
「何でもない」
 高橋くんが少し笑う。
「ありがとうございました」
「僕こそ」
「何がですか」
「きっかけくれて」
 僕は言った。
「君が手紙くれなかったら、やらなかった」
「でも決めたのは先輩です」
「うん」
「じゃあ」
 高橋くんが言う。
「半分ずつですね」
「何が?」
「きっかけ」
 僕は笑った。
「そうだね」
 高橋くんが戻っていく。
 廊下の向こうから佐伯。
「宮野」
「何」
「聞いた」
「どうだった」
「長い」
「そこ?」
「でもよかった」
「どっち」
「よかった」
「ありがとう」
「あと」
「何」
「好きな人いるだろ」
 僕は止まった。
「何で」
「放送」
「何が」
「『好きでも』のところだけ声違った」
「嘘」
「本当」
「違わない」
「瀬名?」
「帰れ」
「まだ昼休み」
「教室戻れ!」
 佐伯が笑って逃げる。
「絶対そうじゃん」
「うるさい!」
 後ろで瀬名が笑っている。
「何笑ってるの」
「俺?」
「君以外いない」
「嬉しい」
「何が」
「『好き』で俺思い出した?」
「思い出してない」
「本当?」
「本当」
「じゃあ誰」
「知らない」
「怪しい」
「瀬名」
「はい」
「好き」
 瀬名が固まった。
「……え」
「今、録音してないでしょ」
「してない」
「じゃあ終わり」
「待って」
「何」
「もう一回」
「嫌」
「律!」
 僕は走った。
 瀬名が追いかけてくる。
 廊下は走るなと先生に怒られた。
 その日の放課後。
 僕たちは旧校舎へ行った。
 十一月十七日。
 一年前と同じ場所。
「寒い」
「去年も?」
「覚えてない」
「そっか」
 古いロッカーはもう撤去されていた。
 床には薄い跡だけが残っている。
「ここだった」
「うん」
「録る?」
 瀬名が聞く。
「何を」
「今の音」
「何もないよ」
「だから」
 レコーダーを床へ置く。
「一分」
「誰もいない教室と同じじゃん」
「廊下」
「もっと何もない」
「いいの」
 録音開始。
 僕たちは黙る。
 風。
 窓。
 遠くの車。
 校舎のきしむ音。
 一分。
 停止。
「何番?」
「百何番だっけ」
「もう数えてない」
「じゃあ番号なし」
「タイトル」
 僕は考える。
「十一月十七日」
「そのまま」
「いいでしょ」
「うん」
 瀬名が保存する。
「去年の録音と並べる?」
「嫌」
「なんで」
「去年は去年」
「今年は今年?」
「うん」
「分かった」
 僕たちは旧校舎を出た。
 振り返らなかった。
 戻ってくるな。
 一年前、僕は誰かにそう言った。
 今日は自分に言う必要がなかった。
 戻ってもいい。
 戻らなくてもいい。
 もう、この場所に引っ張られることはない。
 冬。
 杉本先輩たち三年生は自由登校になった。
 放送室が急に広くなった。
「静か」
 僕が言う。
「俺いる」
「だからうるさい」
「ひどい」
 瀬名は机で編集している。
「何してるの」
「卒業アルバム」
「まだ?」
「完全版」
「百個以上あるよ」
「百二十七」
「増えたね」
「音の手紙入れたらもっと」
「それ本人の許可いるよ」
「分かってる」
「勝手に使わないで」
「律」
「何」
「俺、信用ない?」
「前よりある」
「何点?」
「九十五」
「あと五点」
「欲張り」
「百にしたい」
「無理」
「なんで」
「百になったらつまらない」
「何それ」
「伸びしろ」
「先生みたい」
 僕は笑った。
 瀬名も笑う。
 放送室。
 冬の午後。
 窓から光。
 以前なら録音したかもしれない。
 今はしない。
 何でも残さなくていい。
 その代わり。
「瀬名」
「何」
「春休み」
「うん」
「どこ行く?」
 瀬名の手が止まる。
「今」
「何」
「デート誘った?」
「違う」
「誘った」
「録音旅行」
「まだそれ言う?」
「言う」
「どこでも」
「それが一番困る」
「じゃあ海」
「また?」
「冬の海」
「寒い」
「水族館」
「それなら」
「行く?」
「うん」
「録音する?」
「水族館で?」
「水の音」
「迷惑にならないところだけ」
「了解」
 瀬名が笑う。
「律」
「何」
「春も一緒だね」
「当たり前」
 また言ってしまった。
「今の録音」
「してない」
「残念」
「いいじゃん」
「何が」
「春になったら」
 僕は言う。
「また言うから」
 瀬名が黙る。
「……律」
「何」
「それずるい」
「何が」
「未来の約束みたい」
「違う?」
「違わない」
「じゃあいい」
 僕は窓を見る。
 冬の空。
 もうすぐ春になる。
 三月。
 卒業式。
 式が終わったあと、杉本先輩が放送室へ来た。
「三年間、お世話になりました」
「こちらこそ」
「先輩なのに」
「形式」
 杉本先輩が笑う。
「最後に一個録って」
「何を」
「卒業する音」
「そんなのある?」
「考えて」
 僕と瀬名は顔を見合わせる。
「校門?」
「普通」
「卒業証書?」
「音しない」
「上履き?」
 僕が言う。
「何で」
「最後に上履き脱ぐ音」
 杉本先輩が少し考える。
「それいい」
 三人で昇降口へ行く。
 卒業生たちが帰っていく。
 先輩が靴箱の前に立つ。
 瀬名がレコーダーを構える。
「録音します」
「はい」
 先輩が上履きを脱ぐ。
 床。
 靴。
 靴箱を閉める。
 小さな音。
「終わり?」
「終わり」
「地味」
「先輩が希望したんでしょ」
「そうだけど」
 杉本先輩が笑う。
「でもいい」
「タイトル」
「『卒業』」
「普通」
「普通がいいんでしょ」
 瀬名が言う。
「そうだった」
 先輩が僕たちを見る。
「じゃあね」
「はい」
「来年、ちゃんと卒業してね」
「まだ一年あります」
「すぐだよ」
「先輩」
「何」
「ありがとうございました」
「うん」
 先輩は僕を見る。
「宮野」
「はい」
「いっぱいしゃべるようになったね」
「そうですか」
「うん」
「うるさいくらい」
 瀬名が言う。
「誰のせい」
「俺」
「分かってるならいい」
 先輩が笑う。
「じゃあ」
「はい」
「またね」
 また。
 さよならではない。
 それが少し嬉しかった。
 先輩が校門を出る。
 瀬名がレコーダーを止める。
「律」
「何」
「俺たちの卒業も録ろう」
「来年?」
「うん」
「覚えてたら」
「絶対覚えてる」
「じゃあ」
「何」
「来年も一緒に放送部やってたら」
「やってる」
「分からないでしょ」
「やってる」
「何で言い切るの」
「律がいるから」
「僕が辞めたら?」
「俺も」
「それは駄目」
「じゃあ辞めないで」
「……分かった」
「約束?」
「たぶん」
「弱い」
「約束」
「うん」
 春の風。
 僕たちは校門の前に立つ。
 一年前。
 僕は自分の声を残したくなかった。
 今は少し違う。
 全部を残したいわけではない。
 忘れていい日もある。
 消していい声もある。
 言わなくていいこともある。
 でも。
 残したいと思える声ができた。
 聞きたいと思う声ができた。
 名前を呼んでほしい人ができた。
「律」
「何」
 瀬名の声。
 僕はこの声が好きだ。
「呼んだだけ」
「何それ」
「呼びたかった」
「変なの」
「律」
「はい」
「律」
「はいはい」
「律」
「うるさい」
「好き」
「知ってる」
「律は?」
 僕は周りを見る。
 卒業生。
 先生。
 保護者。
 誰も僕たちを見ていない。
「航平」
 瀬名が止まる。
「何」
「好き」
「……」
「何か言って」
「録音」
「え?」
 瀬名がレコーダーを見る。
 赤いランプ。
「録ってたの?」
「卒業の続き」
「消して」
「嫌」
「瀬名」
「今のは無理」
「勝手に録った」
「ごめん」
「じゃあ消して」
 瀬名がレコーダーを見る。
 僕を見る。
「……分かった」
 本当に削除画面を開く。
「待って」
「何?」
「やっぱり」
「うん」
「残していい」
「本当に?」
「うん」
「絶対?」
「何回聞くの」
「だって」
「一個だけ条件」
「何」
「僕にもコピー」
 瀬名が笑った。
「もちろん」
 録音ファイルの名前。
『卒業』
 その最後に。
 僕の声が入っている。
『航平』
『好き』
 ずっと残るかもしれない。
 いつかデータが壊れて消えるかもしれない。
 どちらでもいい。
 今、言えた。
 それだけで十分だった。
 一年後。
 僕たちは三年生になった。
 瀬名は相変わらず音を録っている。
 僕は相変わらず放送室にいる。
 ただ一つ、大きく変わったことがある。
「宮野先輩」
 一年生の部員が僕を呼ぶ。
「何?」
「今日の昼放送、お願いします」
「分かった」
 僕は普通にマイクの前へ座る。
 スイッチ。
 赤いランプ。
「こんにちは。昼の校内放送です」
 もう手は震えない。
 放送を終える。
「お疲れ」
 瀬名が言う。
「ありがとう」
「上手くなった」
「一年やってるから」
「最初覚えてる?」
「忘れた」
「嘘」
「少し」
「録音あるよ」
「聞かない」
「卒業したら聞こう」
「嫌」
「十年後」
「もっと嫌」
「二十年後」
「何歳まで一緒に聞くつもり」
 言ってから止まる。
 瀬名も止まった。
「今の」
「何」
「すごくいい」
「何が」
「何歳まで一緒にいるつもりって」
「そういう意味じゃない」
「俺はずっと」
「重い」
「律」
「何」
「俺だったら嫌?」
 僕は笑った。
 ずっと前。
 この質問から、いろいろなことが始まった。
「嫌じゃない」
「本当?」
「うん」
「じゃあ」
「でも」
「何」
「未来のことは分からない」
「うん」
「喧嘩するかもしれない」
「うん」
「別れるかもしれない」
「それは嫌」
「可能性」
「嫌」
「聞いて」
「はい」
「でも」
 僕は瀬名を見る。
「今日、一緒にいたいとは思う」
「うん」
「明日も」
「うん」
「たぶん来週も」
「うん」
「来月も」
「うん」
「それを続ければいいんじゃない」
 瀬名が笑う。
「律」
「何」
「今の録っていい?」
「嫌」
「なんで」
「大事だから」
「大事だから録りたい」
「僕は大事だから録りたくない」
「逆だ」
「そう」
「じゃあ録らない」
「うん」
 瀬名がレコーダーを机に置く。
 電源を切る。
 放送室。
 窓。
 風。
 遠くの部活動。
 誰かの笑い声。
 いつもの学校。
 僕は思う。
 すべての音を残す必要はない。
 残らないから大切な音もある。
 誰にも聞かせないから言える言葉もある。
 そして。
 たった一人に届けば十分な声もある。
「航平」
「何?」
「好き」
 瀬名が笑った。
「俺も」
 録音ランプは点いていない。
 だからこの声は、いつか消える。
 それでいい。
 忘れたら、また言えばいい。
「航平」
「何」
「好き」
「俺も」
「もう一回」
「律、好き」
「うん」
「大好き」
「それは一回でいい」
「なんで」
「重い」
「ひどい」
 僕は笑った。
 瀬名も笑った。
 窓の外で、午後のチャイムが鳴る。
 その音も録らなかった。
 僕たちはただ聞いた。
 今ここにある音を。
 今ここにいる、お互いの声を。
 いつか高校を卒業する。
 この放送室にも来なくなる。
 違う場所へ行く。
 違う人に会う。
 それでも。
 もし未来の僕が今日を忘れていたら。
 録音を聞けばいい。
 もし録音までなくなっていたら。
 そのときは、もう一度話せばいい。
 声は残すためだけにあるんじゃない。
 今、誰かに届けるためにある。
「律」
「何」
「帰ろう」
「うん」
 瀬名が放送室の電気を消す。
 僕がドアを閉める。
 廊下を並んで歩く。
 階段。
 昇降口。
 校門。
 いつもの帰り道。
 瀬名が僕の名前を呼ぶ。
 僕が返事をする。
 それだけでいい。
 今日の声は、今日の僕たちが聞いている。
 明日はまた、明日の声で話せばいい。
 了