君と、コントラプンクト


 八 エレナ

 白い紙が、廊下の掲示板いっぱいに貼られている。
 そこに細かく並ぶ黒い文字。
 目で何度なぞっても、私の名前はない。
 少し上に、上崎真弓。それだけが、妙にはっきり見える。
 横を向くと、目を伏せた真弓。
 同じ制服を着ているのに、ずいぶん遠くにいるみたい。

 気付くと、寮室にいる。腕の中にはチェロがある。
 くせ毛の隙間から、小さな背中が見える。彼女の背中。
 真弓がドアを開ける。それから足音がひとつ。またひとつ。そこで、止まる。
 ――大丈夫、なんとかなるよ。
 声は、聞こえない。
 私は顔を上げる。
 待ってよ、と言おうとする。けど、声にならない。
 真弓は振り返らない。
 私は、その背中に向かって口を開く。

 ――置いてかないでよ。真弓。

 大きく息を吸う。目の前は真っ暗で、何も見えない。ふと、ああ眠っていたのだと気付く。
 ゆっくり瞼を上げると、見慣れた色がうっすら視界に入る。チェロだ。頬から顎に汗が流れる感触。暑い。
 ぼんやりと夢を見ていた気がするけど、頭が痛くて、何も思い出せない。

「……起きた?」
 いつもの声。顔を上げる。
「ん、ごめん。寝てた」
 目をこすりながら彼女を見やると、真弓の顔は紅潮している。瞳もなぜか潤んでいた。
「どうしたの? 顔、すごく赤いよ?」
 私は、熱でも出たのかと心配になる。
「な、なんでもないよ!」
 広げた手をぱたぱた振りながら、彼女は視線を泳がせた。
 少しずつ意識がはっきりしてくると、屈んだ真弓の顔がすぐ目の前にある。
 視線が重なる。その瞬間、真弓は弾かれたように身を引いた。
「なにしてたの?」
「楽譜が落ちてたから、拾ってたの」
 そう言うと、彼女は暑いのか、今度は自分に向けて手をはためかす。
「そう」
「うん。あ、エレナのやつ、揃えといたよ」
 真弓が立ち上がって、譜面台を指さす。
 床にはまだ、楽譜が数枚散っていた。
「ありがと。あ、真弓は休憩終わった?」
「うん。長々とごめんね」
「いいよ、私も寝ちゃってたし。それより、練習続けようよ」
 今度はきっと、うまく弾けるはずだ。真弓の伴奏に負けないくらい。
 だけど、真弓はその場から動かずに、後ろ手を組んでいる。
「真弓? どうしたの?」
「あのさ、もう、今日はやめよっかなって思って」
「え?」
 真弓はふいと横を向き、視線を泳がせる。
「たまには、さ。砂浜を散歩しに行かない?」
 どこか上の空な声。
「なんで?」
「だって、夕陽がすっごく綺麗だよ」
 真弓が、ガラス戸の方を指さす。つられて目を向けると、太陽はもう、海に触れそうなくらい低くなっていた。
 もう、こんな時間なんだ。
「夕陽なんて……いつでも見れるじゃない」
 そう返事をして、真弓を見上げる。彼女は、私を横目で見下ろす。
 なに、その目つき……。
 その視線に苛立ちを感じて、顔をしかめる。
 私は、額のくせ毛を横に払いのけて、
「ねぇ、あのメロディー、ちゃんと弾けたよ」と言って、
 ――本当? じゃあ通して練習しよう! そう喜ぶ彼女の声を待つ。
「……ふーん」
 真弓は、まるで関心がなさそうに、すん、と鼻をすすった。
 なにそれ。
 私は、ヘアゴムを外した。
「あのさ。私、最初から通しでやりたいんだけど」
 言いながら、ばらばらになった髪に指を入れてとかそうとする。くせ毛が、何度も引っかかって鬱陶しい。
「エレナ、また今度やろうよ。それより――」
「ダメだって」
 すぐに言葉を遮った。
「ねぇ、ちゃんと練習しようよ。オーディションまで、時間残ってないんだから。このままじゃ、間に合わなくなっちゃう」
 そう言って、落ちていた弓を拾い上げる。
「大丈夫だよ。なんとかなるよ」
 耳の奥に、何かが引っかかった。
 私は立ち上がる。
「なんとかなるって、どういうこと?」
「いや、エレナならなんとかなるって――」
「だから、なんとかなるってなんなのよ!」
 そう叫んで、彼女をきつく睨んだ。真弓が、肩を強張らせる。
「いつもいつも! 根拠もないのに適当なこと言わないでよ!」
 頭がズキズキして、少し吐き気がした。
「真弓は、なんとかなるかもしれないよ。だって――」
 胸の中で冷たく固まった想いを吐き出そうになる。すんでのところでごくんと飲み込んだ。

 ダメだった。

 私は、全部吐き出した。