七 真弓
――エレナで、いいよ。
心臓が驚いて、目の前がパッと真っ白になる。
やがて、白い世界は、血が染み出すように真っ赤に反転していく――。
瞼を開いた途端、強烈な光が瞳を刺した。思わず、手をかざす。
水平線が、強い西日に紅く染まっている。どうやら椅子に座ったまま、眠っていたらしい。
柔らかい吐息とともに囁かれたエレナの言葉が、波の音に揺られて何度も反響する。私は、残された感触を取り戻すように、耳たぶを撫でた。
「ちょ、やばい! 波きた!」
甲高い声が聞こえて、まどろみの名残が消える。
声の聞こえた砂浜に目をやると、寮生の女の子ふたりが並んで歩いている。
ひとりは高く結ったポニーテールを揺らしていて、もうひとりは私と同じくらいのミディアムヘアだ。
ふたりは、ときたま打ち寄せる波を追っては逃げて、仲睦まじそうに笑い合っている。
彼女たちの後には、音符のような足跡が付かず離れず続いていた。その痕跡を、波がさらっていく。
――いつかふたりは離れ離れになって、二度と交わることはない。
意地悪な声が胸の奥から聞こえてくる。
じゃあ、私たちは?
私とエレナは、あのときユニゾンから始まったはずだ。
誰よりも、ぴったり合っていた。
それなのに、少しずつズレて、離れて。
どうして?
あのとき、私の中で何かがおかしくなったから……。
チェロの音が止んでいる。
「エレナ――」
ごめん、と振り向きざまに言いかけて、私は言葉を呑む。
エレナは、うつむいていた。いつの間にか結われたポニーテールの毛束が、彼女の呼吸に沿うようにゆっくりと揺れている。
もしかして、寝てるの?
私は部屋に戻り、静かにガラス戸を引く。
射し込む夕陽の中で、埃が光をまとって、ゆっくりと舞う。
トンッという音がして戸が閉まると、吹き込んでいた風の音が止み、室内は急にしんと静まり返る。なんだか、私たちだけが、秘密の世界に閉じ込められたみたいだ。
風に飛ばされたのか、楽譜が床に散らばっている。
私は、散乱した楽譜を拾いながら、眠っている彼女の姿を盗み見る。
また、チェロ抱いてる……。
彼女の癖。そうすると落ち着くから、と言っていた。
楽譜に触れたままの指先が止まる。
――去年の秋。学内演奏会の出演者が発表された日、一覧に私の名前はあって、エレナの名前はなかった。
寮室へ戻ると、エレナは制服のまま、ベッドの端に座っている。ケースにも戻さず、チェロを胸に抱いていた。栗色の髪が、うつむいた顔を隠している。
「エレナ」
呼んでも、返事はなかった。
私は机の脇に鞄を置く。金具が床に当たって、小さく鳴った。その音が、やけに大きく響いた。
エレナのそばまで行く。髪の隙間から見える肩へ、右手を伸ばす。
あと、ほんの少し。指先が彼女の髪に届きそうになったところで、手のひらだけが急に熱くなった。
肩に触れるだけ。ただ、それだけのことなのに。そうしてしまったら、何かが今までとは変わってしまうような気がした。
私は、宙に浮いた手を引っ込め、腕を下ろす。指をぎゅっと握り込む。
「大丈夫。エレナなら、なんとかなるよ」
エレナは顔を上げなかった。ただ、チェロを抱く彼女の腕が、一瞬、強張ったように思えた。もう、かける言葉が分からなくなった。
時計を見ると、出演者の顔合わせの時刻が迫っている。
「ごめん。私、行かなきゃ」
返事を待ったけれど、何も聞こえなかった。
ドアを開けて廊下へ出る。
閉める直前に一度だけ中を覗くと、エレナはずっと同じ姿勢で、チェロを抱いていた。
私は、静かにドアを閉める。冷たいドアノブに熱が吸い取られる。
手のひらを見る。
エレナに触れられなかったわずかな距離だけが、まだそこに残っている気がした。
エレナは去年と同じように、チェロを抱いている。
拾いかけていた楽譜が、指先からかすかにずれた。
慎重にページの順番を確認してから楽譜を束ねて、近くの譜面台にそっと戻す。
――私はただ、エレナを慰めたかっただけなのかな。
あのときと同じように、手のひらを見る。夕陽に透けた指先が、うっすら赤い。
多分、本当は……。
もう戻れない。
見慣れたページが目に入る。私の楽譜だ。
汚い字で書かれたメモ。
『チェロと手をつないで』
違う。
私は、エレナと手をつなぎたい。
エレナを見る。
白い手が、チェロのくびれに力なく添えられている。
私が、チェロだったらいいのに。
自分の頬と耳に触れる。指先が熱い。秘密の扉を叩く、鈍いノックの音。
エレナに近づく。
胸元のクロスタイが、チェロのネックに擦れたのか少しズレている。
タイ、整えてあげようか?
身を屈めると、彼女の寝息が部屋のしじまを縫って耳に届く。私は、エレナの寝顔を覗く。
彼女の頬は、かすかに赤らんでいる。その頬を、汗が一筋流れる。
ねぇ、エレナ。
顔を近づける。
あのときと同じ、甘いバニラの匂い。鼻がくすぐられて、頭がくらっとする。膨らんで柔らかそうな唇は、ピンクのルージュで薄く染まっていて、寝息に合わせてわずかに上下している。
しても、いい?
チェロに手をかける。メイプルでできた胴が、触ると冷たい。目元に、なにかがじわりと滲んでくる。
――お願い、目を覚まさないで。
私は、頬にかかる髪を耳の上に掬い上げて、薄く唇を開いた。
