五 真弓
――アップライトかグランドかなんて、関係ない。
エレナにそう言われて、ピアノ科でもないくせに、と腹が立った。でも、傷だらけのそのピアノは、弾いてみれば思ったよりも素直に鳴る。
弾きもせずに、見くびっていた自分が馬鹿みたいで、とてつもなく恥ずかしい。
今すぐ弾くのをやめたくなる。でも、やめたらもっと格好がつかない。どうしようもなくなって、ただひたすら間違えないように弾いて、体裁を保つしかなかった。
不意に、背中をやさしくさすられる感覚。低いチェロの音が立ち上がる。
顔を上げると、光沢の残ったピアノの筐体に、目をつむりながらチェロを奏でるエレナの姿が映っている。あんなに不機嫌そうだった彼女の口元は、不思議と微笑んでいるように見えた。
私が弾いている曲は独奏曲だから、エレナが私の音に合わせて即興で演奏していることはすぐに分かった。
――すごい。
私はこれまで一度も、譜面にない音を弾いたことがなかった。
正解のない音を奏でるのは、少し怖い。
チェロが刻むスタッカートが、私を呼ぶ。
――応えたい。
大丈夫。きっと私にも、できる。
原曲を放り出す。
エレナの音にしっかり耳を傾けて、話しかける。
――さっきは、ごめんね。
私の和音がぺこりと謝ると、エレナのメロディーが手を振って、「ううん、私も言い過ぎた」と応える。
ペダルを踏み込む右足がリズムを刻む。エレナの左足がつられてタップする。
舞踏のリズム。
私が左手を差し出すと、彼女は右手を差し出してくる。その手を握る。
――このまま、踊ろう。
手と手を取り合ってお辞儀をして、寄り添ってワルツを踊る。
スタッカートでステップを踏み、レガートで頬と頬を寄せ合う。
互いの腰に腕を回して、くるりと回る。
そしてじっと見つめ合う。
最後の一音まで、離れないまま。
やがて、音が止む。
しんと静まり返った室内に、私たちの荒い吐息が反響する。
振り返って、エレナを見る。
うっすらと汗で湿った髪が、赤みがかった頬を撫でている。視線に気付いたエレナが、はにかむように微笑んで、私を見つめ返してくれた。
さっきまで、トゲトゲしくしていたのが、嘘みたい。
――なんだ、そういう表情もできるんだ。
そのとき、何かが、ガクンとズレた気がした。
不意に、全身の力が抜けた。
