君と、コントラプンクト


 四 エレナ

 ――目が綺麗だね。
 そう言われるのが嫌いだ。

 私のことなんてなにも知らないくせに、見た目で勝手なことを言う。
 昔から、そうだった。

 母はドイツ人で、国際コンクールに入賞したピアニストだった。リサイタルやコンサートのために国内外を飛び回っていた。でも、私がまだ幼いうちに、移動中の事故で亡くなった。だから、母と触れ合った記憶はほとんどない。
 家には、母の知り合いの音楽家がよく出入りしていた。来る人はみんな、私の顔を見ると懐かしそうに目を細めた。
「その目、綺麗ね。お母さんにそっくり」
 その人たちにいろいろな楽器を触らせてもらった。

 私は、チェロを選んだ。

 別にチェロが好きだったわけではなくて、ただ見た目が人の体とよく似ていて、抱くと不思議と落ち着くからだった。
 そんな不純な動機も、チェロを一度も嫌になることなく弾き続けるうちに、いつか母と同じように音楽で生きていきたいという思いに変わった。

「エレナちゃんも、やっぱり音楽をやるのね」
 そう言った母の知人の前で、チェロを弾いたことがある。
 弾き終わると、その人はしばらく黙っていた。
「……そうなのね」
 笑っていた。
 でも、その人はもう、私の目を見なかった。
 そんなことは、一度だけじゃなかった。

 私は母みたいにはなれない。
 結局、似ていたのは栗色の鬱陶しいくせ毛と、翠色の瞳だけ。
 どうせなら、音楽の才能を遺してくれればよかったのに。

 ――きっとこの子だって、同じだ。そのうち私から離れていく。

「あの、エレナちゃん、ごめんなさい……」
 小さい声で真弓が謝ってくる。私は、腕を組んで横目で見下ろすだけで、何も言わなかった。
 真弓は、スカートの端をいじくった後、外に放置されていたスーツケースを中に引き入れた。そして、彼女は玄関で靴を脱ぎ捨てたまま、逃げるように奥へ向かう。
 私は、むっとして、ばらばらになったローファーをこれ見よがしにきっちりと揃えてあげてから、彼女の後を追う。
 部屋の手前で彼女は、スーツケースの取っ手を握りしめたまま立ち尽くしていた。
「なんか思ってたのより、部屋狭いかも」
 そうつぶやく声。まぁ、そうかもしれない。
 寮室には、ベッドと机がふたつずつシンメトリーに置かれている。私は、先に入室していたから、手持ち無沙汰にちょっと音出しをしていて、ガラス戸に近い方のベッドの上にチェロを寝かせていた。その脇の床には、黒いチェロケースが置いてある。
 ただでさえ狭い部屋なのに、手前の壁には古いアップライトピアノが置かれていて、さらに窮屈だった。
 真弓がこちらを振り向く。少し不安そうな黒い瞳が、私を見上げる。
「あの、荷物ってどこに置けばいいの?」
 私は何も言わずに、彼女の手を取って部屋に引き入れる。
「ここ、使って」
 と、ピアノの横に隠れているクローゼットを指さした。
 返事がないので振り返ると、真弓は眉を下げてピアノを見ていた。
「こんなに古いアップライトなんだ……。グランドだと思ってたのに」
 と、泣きそうな声で言う。
「いや、それは期待のしすぎでしょ」
「それは、そうだけど……」
 私は、手を離して、
「別に、ピアノはピアノでしょ。練習するのにグランドかどうかなんて関係――」
 ない、と言いかけて、しまった、一言多かった、と思う間もなく真弓が、
「そんなことないよ!」
 と声を荒げた。
 目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 追い詰められた小動物みたいになっている彼女を見て、さすがに邪険にしすぎたことを反省する。
 ごめん、と言いかけた途端、真弓が力任せに鍵盤の蓋を上げた。
 がこんっ、という音とともに、黄ばんだ鍵盤が顔を出す。
 真弓は一瞬口元を引きつらせたが、すぐに立ったままピアノを弾き始めた。

 引退直前にしか見えないピアノから、透き通って芯のある丸い音が溢れ出す。
 鳥肌が立った。
 彼女の細い指が、鍵盤の上を流れるように滑る。その指先で、ピアノが悦ぶように歌っている。
 その響きに合わせて揺れる彼女の華奢(きゃしゃ)な体。たなびく艶やかな黒髪。

 美しかった。妬ましいくらいに。

 ……一緒に弾きたい。
 そう思ったときには、もう身体が動いていて、私はチェロのネックを握ると、弓を手に取った。