三 真弓
白い世界が、どこまでも続いている。
穏やかな波の呼吸。その合間から、ひとつの音がすっと伸び、キャンバスに茶色い線を引いていく。チェロの音だ。
――どこにいるの?
私は、エレナを探して歩く。
片手で、何か重いものを引いている。衣擦れの音。不意に桜の匂いが鼻をかすめる。ほんの少しだけ肌寒い。
真っ白な景色は、霧が晴れるように薄くなっていく。目の前に、見慣れた学生寮の廊下が広がる。
入寮式を終えた私は、寮の自室へと向かっていた。
閉め切られたドアが整然と並ぶ廊下は、昼前なのに日当たりが悪いせいか暗く沈んでいる。
すでに入室している生徒もいるはずなのに、物音ひとつ聞こえないのが怖くなってきた私は、背丈ほどもあるスーツケースをわざとらしくガラガラ鳴らし、新調したばかりのローファーをコツコツと踏み鳴らした。
「ここだよね?」
ドアの前で立ち止まると、入寮証明書に書かれた番号と、目の前の番号プレートを何度も確認する。唾を飲み込むと、ごくりという音が、とてつもなく大きく聞こえた。
コンコンとドアをノックしてみる。
返事はない。
――同室の子はまだ来てないのかな?
光沢のない真鍮のドアノブに手をかける。少しひんやりする。ノブを回そうとすると、力を入れていないのに、勝手にするする回りはじめた。びっくりして、ぱっと手を放す。
ドアが、軋みながらゆっくりと開いていく。奥のガラス戸を通して射し込む陽光が、ドアの隙間から私の目に飛び込んでくる。あまりの眩しさに手をかざした。
「あの、どちらさまですか?」
不安に渇いていた私の耳は、凛として落ち着いたその声を、一息に飲み干す。かざしていた手をゆっくり下ろすと、目の前に、私より頭半分くらい背の高い女の子が立っていた。
少しつり上がった大きな目は、くっきりとした二重瞼に縁取られていて、透き通るような翠色。すらりと通った高い鼻筋。その端正な顔立ちを、ふわふわした長い髪が包んでいる。その髪は、奥から射し込む光を透かして、栗色というよりもほとんどブロンドに見えた。
――妖精みたい。
彼女が、目を細めて、かくんと首をかしげる。
「もしかして、同じ部屋の子?」
怪訝そうに尋ねられて、私は、ぽかんと開いてしまった口をいったん閉じた。そして、何度かまばたきしてから、もう一度彼女の姿を確認する。
チャコールグレーのニーソックス。その上に、少し膝上の海老茶色のプリーツスカート。純白のブラウスの胸元に、銀色の丸ピンで留められたクロスタイ。ベージュ色のブレザーの下襟には、校章のバッジがあった。
――大丈夫。同じ制服。
落ち着くために一度大きく深呼吸をしてから、
「同室の上崎真弓です。これから、よろしくお願いします」
と自己紹介した。彼女が、それに応じて会釈すると、ほのかに甘い匂いが漂った。
「そう、よろしく。私は、西山エレナ」
エレナ。その名の響きを、胸の中で反芻する。
「上崎さんは――」
「あ、えっと……真弓でいいよ。これから一緒に過ごすんだもん」
そう言って、開いた右手を前に差し出してぱたぱた振る。すぐに、いきなり図々しかったかな? と、後悔しかけたけど、
「そう……それじゃ、真弓は、ピアノ科?」
と、彼女はとくに戸惑う様子もなく、私の胸元を見つめながら、問いかけてくれた。
私は、こくんと頷く。
それぞれの専攻は、襟元のクロスタイの色と模様で見分けられるようになっている。ピアノ科のものはアイボリー色。先端には、黒の横縞が二本。
「エレナちゃんは?」
「私は、弦楽器科だよ」
彼女は、自分のクロスタイの両端を指でつまんで引っ張ると、「ほら、これ」と私に見せるように胸を張った。人並みより少しばかり豊かな胸の上に、茶色一色のタイが、お行儀よく収まっている。まるで、ケーキの上のチョコプレートみたいだった。
おいしそう……。おかしなことを考えていた私の襟元に、エレナの細い指がすっと伸びてきて、タイの片端をつまむ。
「ピアノ科っていいよね」
彼女はそう言って、親指で黒の横縞をさすると、「模様、可愛いもん」と羨ましそうにつぶやいた。
「……そう、かな?」
なんだか照れくさくなって頬をかく。
「ねぇ、もっとよく見せて」
エレナの顔が、目の前までぐっと近づく。途端に、ふわりとバニラの香りが鼻をくすぐる。
一息に吸い込むと、とろけそうなほど甘い匂いが胸の中に染み込んで、耳元がじんわり熱くなった。
「あの、エレナちゃんて、外国人さん?」
虚ろになっていた私は、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまう。
突然、彼女が私をきつく睨んだ。
「違うよ。ハーフなの」
そう吐き捨てるように言って、エレナは私のタイから手を放すと、ぷいっと横を向き、
「苗字は西山だし。名前、聞いてなかったの?」
と、不機嫌そうに口を尖らせた。
慌てて、ごめんなさいと謝ったけど、彼女は頬を膨らませただけで、返事をしなかった。
