二 エレナ
開け放したままのガラス戸から、生ぬるい潮風が吹き込んでくる。汗ばむ肌にはそんな風ですら心地よくて、ついベランダの方へ顔を向けてしまう。
真弓は椅子に座り込んで、足にひっかけたサンダルをぶらぶら揺らしていた。首元まで伸びた彼女の黒髪が、風に遊ばれてサラサラとたなびいている。自然法則にどこまでも従順な、羨ましいほどのストレートヘア。
私は、自分のくせ毛を撫でまわした。
真弓は、ちゃんと弾けているのに。私はまだ弾けてない。
長時間練習を続けたせいで、左手の指先がじんじん痺れて、体の節々は痛かった。本当なら、今すぐシャワーを浴びて、ベッドに飛び込みたいくらい。けど早くこの曲を形にしておかないと、いよいよオーディションに間に合わなくなってしまう。
リフレッシュするつもりで、ゆっくり深呼吸する。それから、チェロの指板の上で指を動かして、運指を確認した。
クライマックス直前の、跳躍する旋律がどうしてもうまく弾けない。その箇所に来ると、なぜか指がもつれる。ここさえ克服できればなんとかなるのに……。
軽く弓を握り直して、弦に当てる。
――同室のよしみで伴奏してあげるみたいだよ。
不意に、弦楽器科の子たちのひそひそ声が蘇る。
――エレナのことが、かわいそうになったんじゃない?
弓毛が、弦の上で止まる。
そんなことない。
入学したばかりの頃は、私と真弓は同じくらいの実力だった。少なくとも、私はそう思っていた。
だけど、そのあと真弓は、才能をどんどん開花させていって、私はずっとつぼみのまま、置いてきぼり。
痺れていた左手の指先が、急に冷たくなった気がした。
――もしかして、つぼみですらなくて、はじめから枯れていたのでは?
私は、チェロを弾く手を止めた。
「真弓ちゃんにオーディションの伴奏、お願いしてみる」
周りでは、そういう声がちらほら聞こえていたから、てっきり真弓は別の子の伴奏をするのだと思い込んでいた。
だから、曲目の提出日に真弓が、
「この曲で、エレナの伴奏をしてもいい?」
と言って私に楽譜を渡してきたときは、すぐに「冗談やめてよ」と突き返した。
真弓は、むっとして、
「冗談なんかじゃないって」と食い下がってきた。
どうしたらいいか分からなくなって、彼女から逃げるように目をそらすと、教室の隅にいた子とばったり目が合った。
私たちは、クラス中から視線を浴びていた。恥ずかしくなって、お腹のあたりがむずむずした。
「私なんかより、ほかの子と組んだら? 真弓に伴奏弾いてもらいたい子、たくさんいると思うし……」
周りの視線を気にしてそう言っても、彼女はそんなことには無頓着なのか、握りしめていた楽譜で口元を隠してから、
「ダメ。エレナがいいの」
と言った。
その表紙を見て、演奏が難しいことで有名なチェロソナタだと分かった。たしか、どこかの楽章が、カノンだったかフーガだったか……。どちらにせよ私には、かなり背伸びした曲に思えた。
「私じゃ、弾けるか分からないよ」
「大丈夫。エレナなら、なんとかなるって」
真弓はいつも根拠なく、なんとかなる、と言う。入学時から寮のルームメイトとして過ごしているのだから、私の実力なんて分かってるはずなのに。
そう思って渋っていると、彼女は、私の胸に無理やり楽譜を押しつけて、
「ねぇ、お願いだから」
と、少し寄り目気味の黒い瞳で見つめてくる。
普段からうっすらと湿りを帯びている彼女の瞳にどうにも弱くて、つい、「もう、しょうがないなぁ」と承諾してしまった。
真弓の顔がぱっと明るくなる。頬には、なぜか淡い赤みが差していた。
私はといえば、渋るふうを装ったものの、実はちょっと嬉しかった。真弓と一緒なら、オーディションを通過できるかもしれないと思って……。
だけど、周囲から、
――なんでエレナなの?
と言わんばかりのため息が聞こえると、希望で小さく膨らんだ私の胸は、すぐしぼんでしまった。
本当。なんで、私なんだろう?
同室のよしみでとか、かわいそうになったとか、本当なのかな。そんなの、いらないのに。
私は、チェロを思いっきり抱きしめた。
胸の内に、汚い感情がふつふつと沸いてくる。
真弓に聞きたい。でも、ずっと聞けない。だって、もしその答えが期待に反していたら……。
強い風が吹き込んでくる。髪がはためいて頬を打つ。目をつむる。くせ毛が踊って、顔中をいじくりまわす。
しばらく我慢していると、風が落ち着いてきた。薄目を開けると、蜘蛛の巣のように絡まった髪が、視界を遮っている。
最悪だ。
ぼさぼさになった髪に手を入れる。指の間で髪が軋んで、無理に引っ張ると頭のところどころが痛い。
室内を見渡すと、床には楽譜が、雑然と広がっている。
拾うの、めんどくさいな。
床を見つめていると、足元で楽譜が一枚、カサカサと音を立てた。何気なく拾い上げる。
苦手なメロディーが書かれているページだった。
五線譜の欄外には、丸っこい字のメモ書きがある。
『階段を、勢いよく駆け上がる
ここで思いっきりジャンプする
チェロと手をつないで』
真弓の楽譜。
それを、目の前の譜面台にそっと置く。
――まだ、枯れてなんかいない。
私は、スカートのポケットからヘアゴムを取り出して、首元にまとわりつく鬱陶しいくせ毛を乱暴にかき集め、ポニーテールに結い上げた。
「少し花開くのが遅いだけ」
そう小さくつぶやいて、階段状にまとまった黒い音符の列を睨む。
一度、深呼吸する。
ネジを回して弓毛の張りを調整する。
弓を持ち直して、弦に当てる。
怖がらずに、弾けばいい。
音符の階段を、駆け上がる。最上段まで、一息に。
そこからありったけの力を込めて、飛んだ。
