君と、コントラプンクト



 十二

 海の向こうから風が吹き、早咲きの桜が花びらを散らす。
 三月。S音大附属高校の卒業演奏会の日。
 合奏棟のホールには、真新しいコンサートグランドピアノが置かれている。

 演奏会が始まると、卒業生たちが控え室と舞台袖の間を行き交う。演奏が終わるたび、廊下の奥から拍手がかすかに届く。
「おつかれ」
「ありがとう」
 控え室で取り交わされる、ありふれた挨拶。
 演奏会は滞りなく進み、すでに終盤に入った。控え室のモニターには、無伴奏ヴァイオリン・ソナタを弾く卒業生の姿が映っている。天井に埋め込まれたスピーカーから、メロディーが鳴り響く。

 トリを飾る卒業生のひとりが、控え室に入ってくる。
 チェロと弓を手に持った、少し背丈の高い女の子。ポニーテールに結われた栗色の長い髪は、外に跳ねたくせがついている。ノースリーブの亜麻色(あまいろ)のロングドレスは、すらりとした体躯(たいく)に沿っている。
 彼女が椅子に腰かけると、もうひとりの卒業生が入ってくる。
 艶やかに流れる黒いミディアムヘアに、白いガーベラの髪飾りが添えられている。胸元の開いた桜色のドレスは、少し小柄な彼女を包み、足取りに合わせて揺れる。

 真弓は、エレナの隣に腰かけると、指慣らしを始める。膝の上で、両手の指を一本ずつ素早く動かしている。
「ねぇ、真弓」
 エレナに呼ばれて、真弓は指を止める。
「――なに?」
「緊張してる?」
「ん、平気だよ」
「嘘つき」
 そう言って、エレナがくすっと笑う。
 真弓の表情がゆるむ。
 エレナが、顔を上げてモニターを見つめる。そして、少しの間をおいてから、視線を戻して、
「今、伝えとこうかな」とつぶやく。
 きょとんとする、真弓。
 エレナが、チェロを手にしたまま腰を浮かせて座り直す。そうして真弓と正面から向き合った。
「真弓、今までありがとう。ずっと私のそばにいてくれて。真弓がいなかったらさ、私、ここまで来られなかったと思う」
 穏やかで、はっきりとした口調。
 真弓はうつむいて、口を結ぶ。
 モニターに映る卒業生が、ヴァイオリンをかき鳴らす。曲は、まもなく終結部に入ろうとしている。
 そのとき真弓が、薄く口を開いて息を吸う。
「それじゃあ、私も言っとく」
 顔を上げ、真っすぐにエレナを見つめる。
「あのね、エレナ。私は――」
 途切れた言葉に、エレナが首をかしげる。ポニーテールがアーチを描く。
 エレナの耳元に、真弓の顔が寄る。黒色と栗色の髪が絡み合う。口元に手を当てながら囁く。チェロを握るエレナの手に少し力が入り、翠色の瞳が見開かれていく。
 やがて真弓は手を下ろして、少しだけ顔を離す。
 真弓の小ぶりな耳は真っ赤に染まり、エレナの白い頬は紅に色づく。

 ――控え室のドアが開く。
 ぱっと離れるふたり。

「なにしてるの、ふたりとも! 前の曲、もう終わるよ! 早く舞台袖に来なさい!」
 進行役の教員が、慌ただしく声をかけた。
『すみません!』
 ふたりの声が、室内に共鳴する。それから顔を見合わせて笑い合う。
「行こう」
 真弓が立ち上がり、手を差し出す。
「うん」
 エレナは、その手を取って立つ。

 ふたりが出ていくと、控え室はがらんとする。
 モニターには、ヴァイオリンを片手に持った卒業生が舞台袖へ下がる姿が映っている。
 影アナがふたりの名前と曲目を読み上げる。
 演奏曲は、チェロソナタ。
 やがて、舞台袖から現れるふたりの姿が映る。
 客席から、拍手。
 止む。
 ホールは静まり返る。

 真弓は、ピアノの椅子に腰かけて、チューニングのための一音を鳴らす。
 エレナは、抱いたチェロを一度だけ弾く。

 ――完璧なユニゾン。
 大丈夫。ぴったり合っている。

 真弓が、鍵盤に指を乗せ、エレナを見つめる。
 エレナは、微笑んで真弓に頷く。
 ふたり、すっと息をする。
 チェロの弦に、弓がかかる。

 ふたりの秘密を、そのチェロだけが知っている。