君と、コントラプンクト


 十一

 冬の海は、夏より遠く見える。
 灰色がかった水面に、夕陽が細長く落ちている。波が寄せるたび、その光が折れて、つながって、また千切れる。

 私は、振り返る。濡れた砂に、ふたつの足跡が続いている。ひとつは少し大きくて、もうひとつは少し小さい。歩幅も揃ってない。
 寄せた波が、後ろの足跡の端をさらう。引いたあとには、浅いくぼみだけが残る。濡れた縁が、夕陽を鈍く返している。
「真弓、シーグラスって本当に見つかるの?」
 私は、声がした方へ顔を向ける。
 エレナは少し先でしゃがみ込み、指先で砂を掻いている。風に煽られた栗色の髪が、頬にまとわりついている。
「波が引いたところにあるって」
「どこ?」
「そのへん」
「適当すぎない?」
 エレナは目を細める。
「私も探すのはじめてだもん」
 白い貝殻。黒い小石。細い流木。
 波が引くと、それまで水の下に隠れていたものが、濡れた砂の上で一瞬だけ光る。
「あ」
 しゃがむ。
 指先で砂を払う。
 小さなガラスだ。表面は曇っていて、角が丸い。
「エレナ」
「なに?」
「見つけた」
 私はその小さなガラスをつまんで持ち上げ、夕陽へかざす。
 濃い緑の奥に光が入る。見慣れた色。
「シーグラスなの?」
 エレナが、私のそばに来て、手元を覗き込む。
「分からない……けど」
 立ち上がる。
「エレナの目と、同じ色だね」
 そう言って、それを彼女の顔へ向ける。
 ――翡翠色(ひすいいろ)
 ガラスを見つめるエレナの瞳。
 よく見比べてみる。
 同じだと思ったのに、違う。
 ガラスはただの緑色。
 彼女の瞳には、奥にもっと薄い色や、黒い影や、光が混ざっている。
「ちょっと違った」
「なにそれ」
「似てると思ったんだけどな……」
「人の目で色合わせしないでよ」
「これ、エレナにあげる」

 差し出された手からガラスを受け取る。指先でつまんで、真弓に向ける。片目をつむる。
 透けた緑色の向こうに、真弓がいる。黒い髪も、白い頬も、緑の中へ滲んでいる。
 こんなふうに見えているわけじゃない。
 昔から、いろいろ言われた目の色。綺麗だとか、外国人みたいだとか、お母さんに似てるね、とか。同じだと言って、見て、それから違うと言う。
 でも、真弓はまだ、私の目を見ている。
「やっぱり、真弓が持ってて」
「え?」
「見つけたんでしょ」
「でも、エレナの色」
「違うって言ったの、真弓だよ」
「あ、そっか」
 真弓はガラスを受け取ると、ポケットへしまう。
「そういえば、赤いのが珍しいんだって」
 真弓が言う。
「赤?」
 私は聞き返す。
「うん」
「じゃあ、赤いの探そう」
「でも、たぶん簡単に見つからないよ」
「探してみないと分からないでしょ」
 私は、歩き出して、波が引いたあとの砂を目で追う。
 真弓は少し後ろをついてくる。
 振り返ると、彼女の足が砂に沈んで、体が傾く。
 ――あっ。
 手を伸ばす。
「危ない!」
 細い手首を掴む。
「……ありがと」
「ちゃんと足元見なよ」
「見てたよ」
「見てない」
 引っ張って歩く。指が手首からずれて、手のひらへ移る。

 手。
 ――つないでる。
 エレナは何も言わない。
 赤いのを探して、足元ばかり見ている。
 きっと、私みたいには気にしていない。
 いや。何を考えているかなんて、分からない。
 歩くたび、手のひらが擦れる。
 彼女の指先は、少し硬い。
 私は、海を見る。

 真弓の手は、冷たい。
 寒いのかな? そう思って真弓を見ると、海の方を向いている。耳が赤い。
 寒さのせいか、それとも違うのか。
 どちらでもいい。
 握っていれば、そのうち温かくなる。
 波が来る。
 少し陸側へ寄る。
 また波が引く。
 濡れた砂が夕陽を映す。
 その中に、小さな赤い光。
 ――あ。
 手を離す。
「エレナ?」
「赤!」
 走る。
 次の波が来る。
 砂へ指を差し込む。
 波が、靴を覆う。
「冷たっ!」
 指先に硬いもの。
 拾い上げる。
 赤い。
 小さな赤。
「真弓!」
 振り返る。
 黒い髪が風に流れている。
 彼女は、少し離れたところに立って、右手を見ている。

 手。
 ――つないでた。さっきまで。
 でも、私はすぐ顔を上げる。
 エレナと目が合う。
「赤いの見つけた!」
 手を掲げるエレナが笑っている。
 栗色の髪を風にぐしゃぐしゃにされて、靴まで濡らして。
 私は、自分の右手をそっと握る。
 指のあいだを、潮風が抜ける。
 残っていた熱は、もう薄れている。
 それでも、エレナはそこにいる。
 私は彼女のもとへ、歩いていく。
「見せて」
「ほら」
 ふたりで覗き込む。
 赤いガラスの中で、夕陽が揺れている。
「これ、どう?」
 エレナが私に聞く。
「……分かんない。違うかも?」
「そう」
「でも、持って帰ろうよ」
「うん」

 ふたり、歩き出す。
 ひとり、砂を踏む。もうひとり。
 少しずれて。また近づいて。
 濡れた砂に、ふたりの足跡が残る。
 ひとつが海へ寄る。
 もうひとつが、少し遅れて寄る。
 また離れる。
 寄る。
 後ろから夕波が寄せて、足跡の端をさらっていく。
 やがて、どちらの跡だったのかも分からなくなる。
 波のあいだを、ふたつの足音が歩いていく。