君と、コントラプンクト


 十 エレナ

 何もない場所。
 高い耳鳴り。頭痛は、不思議と和らいでいく。
 熱を持ったものが、視界の端を圧迫する。

 ――チェロは?
 左手にある、固い感触。大丈夫、そこにある。
 チェロを引き寄せ、抱く。
 わずかに見える世界には、泥水みたいな茶色。
 ああどうか、これだけは消えないでください。
 つたんつたん、と雨が屋根を打つ音。
 見れば、チェロの表面にいくつもの雫が筋を引いて、流れている。
 知らなかった……チェロって泣くんだ。
 泣かないで。
 慰めるように、さすってあげる。
 感触が薄くなる。チェロが消えてしまう気がした。
 嫌だ。
 もう一度、ぐっと抱く。
 チェロが痙攣している。
 どうしてか、いつもより少しだけ小さい。
 抱いたところに、かすかな温もり。

『エレ……ナ……』
 遠くから、声がする。その響きは、水の中にいるみたいに籠っている。
『ごめんなさい……』
 声が、水面を震わせ反響する。
 頬を、柔らかいものが撫でる。
 甘酸っぱいシトラスの匂い。
 私はその香りを知っている。
 真弓?
 大きくまばたきをする。大粒の雫が、パチンッ、と光って弾ける。水から上がったように、視界が開ける。

 ――ああ、泣いていたのは、チェロじゃない。

 私だ。

 それなら、私が抱きしめていたのは……。

 ……違った。

 抱きしめられていた。
 私が、真弓に。

 彼女は膝をついて、私の胸元に顔をうずめていた。
 心臓の鼓動が、お腹に伝わる。背中には、細い指が絡み合う感触。
「かわいそうなんて、思ってない……」
 囁く真弓の声が、聞こえる。
「ただ私は、ずっと……」
 彼女の指先が、背中に、グッと食い込む。
 痛い。
「エレナと……一緒に、いたくて……」
 息が詰まった。
 内側から聞こえる、強いノックの音。
 それが私のものなのか、真弓のものなのかは、もう分からない。
「それで……私を選んでくれたの?」
「……うん」
 喉の奥に、苦いものがぐっとせり上がる。
「それ、だけ?」
 ――ただ一緒にいたい、だけ?
「……」
 お願い――。応えてよ。
 真弓の背に、右腕を回す。
「ねぇ、本当に……それだけ?」
 チェロを握る左手が湿って、滑る。
「……」
「真弓?」
「……うん」
 かろうじて耳に届くほどの小さな声。
 でも、それは彼女の吐息と溶け合って、私の胸の奥を熱く侵した。

 ――真弓に、私の音を認めてほしかった。
 分かっていたはずだ。もう、追いつけないって。
 それでも、私を選んでくれたことに期待して。

 怖かった。でも、もっと早く聞けばよかった。
 そうすれば、こんなに意地悪く、彼女を試すこともなかったのに。

 ――最低なんだ、私は。

「真弓、ごめん」
 彼女は首を横に振る。顔をうずめたまま。
「ひどいことを、言って……ごめん」
 もう一度、そう伝える。
 彼女は、首を横に振る。何度も。
 揺れた髪が、顎のあたりをくすぐる。
 私は指先で、真弓の背中を上へなぞっていく。
 湿った首筋。
 そのまま後ろ髪に指を分け入れて、撫でる。
 ずっと羨ましく眺めていた、真弓の髪。
 いつもサラサラだと思っていた。
 それなのに、潮風のせいか、ザラザラしていて、ときおり引っかかった。
 私は、その髪を撫でる。
 ふと、少しだけ真弓を大きく感じた。はじめて抱きしめたとき、彼女の体は小柄で華奢だったのに。

 ――ああ、そっか。

 私は、耳元に口を寄せる。
「真弓。背、伸びた?」
 胸元で真弓がこくん、と頷く。
 私は、そんなことにすら、気付かなかった。
 ゆっくり、息を吐いた。

「もう……大丈夫だよ」
 それから、彼女の背に回した右腕を離し、身をよじって腕をほどこうとする。背中に絡まっていた指の力が、少しずつゆるんでいく。
 真弓が、静かに顔を上げる。戸惑うように私を見つめている。少し寄り目気味の黒い瞳が潤んで、やがてまた涙が浮かんでくる。
「なんで真弓が泣くの?」
 言って思い出す。
 はじめて会った日も、真弓は泣いていたっけ……。

 ――もうあの日と同じではないけれど、
 それでも、真弓が、そう望んでくれるなら――。

「一緒にいてあげるよ……。だって、真弓は泣き虫だから」
 と言った。
「エレナのバカ! 大嫌い!」
 罵られた。
 それからまた、ぎゅっと抱きつかれた。
 真弓が思いっきり泣き出す。
 涙が、ブラウスを濡らしていく。
 彼女の体温を感じながら、私は、
「もう、バカでもなんでもいいよ……」
 そう言って、彼女を抱きしめ返した。

 いつの間にか、日は沈んで、部屋はすっかり暗くなっている。
 私は、真弓の背中をやさしく撫でる。
 泣き止むまで、ずっとそうしていた。