一 真弓
同じメロディーを弾くたびに、私たちの音はばらばらになる。それでも、私は彼女を選んだ。
「エレナ、少し休憩しよっか」
そう言って、ピアノの脇に置いてあったペットボトルを手に取った。彼女の様子をうかがいながら、ひとくち水を飲む。
エレナはうつむいて、チェロをガーゼで拭っている。翠色の瞳は伏せられ、くせのある栗色のロングヘアが肩の前へ垂れている。
「真弓、ごめんね。うまく弾けなくて」
私は彼女の方を向いて、無理に笑顔を作り、
「大丈夫。なんとかなるよ」
と返事をした。
どうして、合わないんだろう。何度も一緒に練習しているのに。
腕を高く突き上げてうんと伸びをする。汗ばんだ肌に吸い付くブラウスの感触が気持ち悪かった。閉め切られた部屋の空気は、淀んでいて息苦しい。
「ちょっと外の空気、吸ってくる」
エレナに声をかけて、奥のガラス戸へ向かった。
戸を開けると、湿った風と波の音が入り込む。綺麗に並べられたサンダルに足を通して、ベランダへ飛び出す。外は、そんなに暑くなかった。
手すりの向こうの下には、砂浜が広がっている。先日まで海水浴客で賑わっていたのに、今日は散歩する人がちらほらいるだけだ。
白い椅子を引く。背もたれの裏で、指先に何かが引っかかった。色褪せたシールに、〈S音大附属高校 寮室備品〉の文字。端が少し浮いていた。丸いテーブルの脇に椅子を寄せて、座る。
もう夏が終わるんだ。
秋に入るとすぐに、三年生を対象とした学内選抜オーディションが控えている。部門はデュオとソロのふたつしかなく、どちらか一方にしかエントリーできなかった。
エレナと一緒に合格したい。肘掛けを強く握る。潮風に運ばれてきた砂のせいで手のひらが少しチクチクした。
「――ねぇ、真弓。オーディション、どうしてエレナと組んだの?」
以前、伴奏を頼んできたヴァイオリンの子から、そう詰め寄られたことがあった。
「どうしてって、ルームメイトだからだよ」
「え、それだけ?」
「うん」
私は嘘をついた。
「真弓は、エレナの実力、知ってるよね?」
「まぁ、それなりに」
「私の方が絶対、エレナより上手なんだけど」
「うーん、それは、あんまり関係ないかな」
「どういうこと?」
彼女が怪訝な眼差しを向けてくる。
「なんというか、うまいかどうかはどうでもよくって……」
「いや、一番重要でしょ。だって、卒演と大学進学がかかってるんだから」
「それはまぁ、そうかもしれないけど……」
「でしょ? だったら、私とデュオ組んだ方がいいって」
彼女はそう言って、私の腕を掴もうと手を伸ばしてくる。逃げるように身を引いた。
「ごめん。もう決めたことだから」
私がそう言うと、彼女は急に憐れむような視線を向けてきて、
「真弓は、オーディション落ちてもいいの?」
と声を落とした。
――いいわけないよ。
でも黙っていた。やがて彼女は、大きなため息をつき、
「見たくないなぁ。クラスで一番の優等生が落ちるとこ」
と吐き捨てて、上履きを鳴らしながら去って行った。
ベランダから見える水平線は、日が傾くにつれて黄金色の光を滲ませていく。
風で乱れた髪に手ぐしを入れていると、背後でエレナが、チェロを弾き始める。メロディーをさらうように、ゆっくりと。
なんとなく、また同じところで間違える気がした。
ほら。チェロの音がもつれて止まる。
振り向くと、不機嫌そうに髪をいじくるエレナの姿。ひと房つまんで引っ張り、指を離す。伸ばされていた髪は、ふわりと元に戻る。なんだかその仕草が、いつもの可憐な彼女には似合わなくて、つい笑ってしまった。
こちらに気付いたエレナが、つり上がった目で睨んでくる。
「ごめん。続けて」
手をひらひら振って促す。
鳴り始めるチェロの音。それと、波の音。あまりにも心地よい響き。ずっとピアノを弾き続けたせいで、さすがに疲れた。もう瞼が重い。
エレナを選んだ本当の理由。それは、簡単なこと。
だけど、誰にも言えない。残された時間は、どんどん少なくなっていくのに。
目を閉じれば、弓のしなやかな動きに合わせて、ロングヘアを揺らしながらチェロを弾くエレナが浮かんでくる。はじめて出会ったときの姿。
あのとき、彼女の柔らかい髪が、私をふわりとくすぐったんだ。
その感触を思い出そうとして、指先で頬のあたりをやさしく撫でた。
