ヤバ澤くんに二言はない

 幸いとして、というべきか不幸にして、と言うべきかは分からなかったが、怜の母親は外出中らしかった。父親は毎日仕事で遅くまで帰らないらしい。

「病院とか、行かなくていいのかよ」
「……行っても、何もしてくれないよ」

 怜の部屋。置いてあった救急箱を使い、大輝は洗った傷口にガーゼを貼った。大輝の足の間に座って腕を差し出す怜は、どこか子供のようだ。

「薬とか貰って楽になれるわけじゃないし、話を聞いてくれるわけでもないし、行くだけ無駄」
「そんなもんか」
「ん」

 頷いた怜が、あげたチョコレートを口に入れる。はい、と渡された一欠片を大輝もかじった。爽やかな甘さが口の中で溶けていく。
 背中にいる大輝に、怜が軽く寄りかかってくる。いつもより距離感が近いのは、もしかして怜なりに寂しかったりしたのだろうか、と考えてしまう。

「……そんなに、俺に会いたかったの?」
「会いたかった、のかな」

 自分でも困ったように、怜は手首を見た。そのまま固まる怜に、大輝は後ろから怜の腰に両腕を回した。自分が思っている以上に怜の傷を見たのがショックだったのか、まだ少し息苦しくて動悸が収まらない。怜に触れていたかった。
 背丈は向こうのほうが高いくせに、ほとんど座高は同じなのがなんだか納得いかない。ゆっくりと息をすると、怜の柔らかい匂いが体の中に入ってきて今度は目頭が熱くなる。
 何かが溢れそうなのに、その感情の正体が大輝にもわからない。ぎゅっと腕のなかにある細い体を抱きしめる。

「んー。会いたかったけど、そういうんじゃなくて……」

 やがて呟いた怜は、大輝の手に自分の手を重ねた。水で洗ったばかりのせいか、少し冷たい手を握り返す。

「約束と違ったのが、辛かった……んだと思う」
「約束?」

 そんな大層な何かがあっただろうか。肩越しに怜を見ながら首を傾げる大輝に、うん、と怜は返した。

「昨日、『また明日、同じ時間ね』って、言ってただろ」
「言っ……てたっけ」

 正直、記憶にない。そこまで考えて言葉なんて発していないし、相手だって別に聞いてもいないだろうと思っていた。

「ごめん。でも……村上が怪我してて……」

 しどろもどろになりながら説明すると、「知ってる」と怜は頷いた。

「送ってるところ見えたし」
「……ダメ、だったか?」
「そうだけど、そうじゃない」

 もどかしげに首を振った怜が、またチョコレートをひとつ口に入れる。

「多分……大輝は『正しくて、普通のこと』をしてるんだ」
「う、うん……」

 多少うざったいクラスメートの女子でも、目の前で転んでいたら助けるものだろう。

「だから納得して俺は従わなくちゃいけないんだけど、でも突然決まっているものが変わるとすごく怖いって言うか、どうしていいか分からなくなって苦しくなってくるし……普通が分からない自分がダメなのはわかるんだけど、でもどうしてそうなるのかも分からないし」

 整理されていない言葉を続ける怜の目から、ぽろぽろと涙が零れていく。

「む、村上はああやって転んでたら助けてもらえるけど、でも俺はあのとき辛くても怒られたなとか、そういうのとか、みんな普通に学校行ってたんだなとか、行きたいわけじゃないんだけど、なんか……色々一気に来ちゃって、すごくもう……なんだろう、全部嫌になったっていうか。なんでこうなんだろうって、普通になりたかったっていうか自分は違うんだなって言うか、どうしてダメなんだろうって、何で自分にはできないんだろう、分からないんだろう、どうしたらよかったんだろうって全部、もうわーってなっちゃって……」
「あー……なるほど」

 怜の説明は散らかっていて、全部の意味は取れなかった。けれど、ただ大輝に会えなくて嫌だったとか、村上に嫉妬したとかそういう話ではない、ということは理解できた。
 大輝が怜との約束を守れなかったことは、ただのきっかけに過ぎない。「普通」を理解できない自分を、怜自身どうしたらいいか分からなくなってしまったのだろう。

「……それで、切ったのか?」
「うん……」

 ぐす、と鼻をすすった怜が、こくりと頭を動かした。

「なんで……痛くないのか?」
「いや、痛いよ」
「だよな、悪い」

 アホなことを聞いてしまった。
 大輝が神妙な顔で返すと、怜は小さく笑ったようだった。そのまま大輝の頭に自分の頭を当てる。

「……でもね、切ると少し、楽になるんだ」
「楽?」
「息ができるっていうか……水面に顔が出る、みたいな。まだ、生きてられる、って思う」
「そっか」

 自分を傷つけるなんてもうやめて欲しい、という大輝の希望を言ってしまうのは簡単だった。だが、怜の悩みそのものが解決できない以上、そんな「普通」の押しつけは、怜を更に苦しませてしまうだけなのが目に見えていた。

(……俺には、どうにもできないんだろうか)

 もどかしい。怜の重みを感じながら、深呼吸をする。相変わらず、肺の奥に何かが詰まったように息がしづらい。けれど怜はもっと苦しいのだろうと思うと、どうにもやるせない。

「前にクラスメートを切った、っていうのも……楽になりたかったからなのか?」
「それは……違うかな」

 大輝の質問に、んー、とまた怜が考え込む。

「あれはね、嬉しかったんだ」
「嬉しかった?」

 なぜ嬉しかったら切りつけるのか。話が繋がらず大輝は聞き返した。「えーっと」と怜は軽く空中に視線を彷徨わせた。

「ごめん、大輝はどこまでその話知ってる?」
「なんか、怜が去年クラスメートのこと切ったらしいってだけ……」

 ああ、と頷いた怜は、だいぶ落ち着いた声色になってきている。

「えっと、2年のとき……山田って子が、俺がこうやってアムカしてるのに気づいて……『私の腕、切れる?』って聞いてきたんだよね」

 先程大輝が手当した時のように、怜は腕を出した。着替えた薄いシャツの下で、ガーゼが盛り上がりを作っている。

「言われたとき、俺のこと分かってくれようとしてくれてるんだ、って、思ったんだよ。同じように痛い気持ちとか、知ろうとしてくれてるんだって。だから、嬉しい、助けて欲しい、って思ったんだよ」

 はあ、とため息をついた怜が、傷のある方を下にするように腕を回した。

「でも違ったんだよな。自分も同じようにしたいとか、理解したいとかそういうことじゃなくて、なんか……『切るわけない』って思ってたとかで……そんなつもりじゃなかったって、普通そんなことしないって、すごい怒られたし」
「そういうこと……だったのか」

 怜には悪気も害意もなかったのだろう。
 ただ、相手の挑発的な言葉を額面通り信じてしまったのだ。
 相手の言い分を聞いたわけではないが、おそらくその山田という子もそこで怜から「人を傷つけることなんてできない」という言葉を引き出そうと思ったのだろう、という気はした。怜を馬鹿にしてのことなのか、それとも「だから怜自身のことも大事にしてほしい」という親切心だったのかは定かではないが。

 問題は、怜にそんな感覚はなかったし、切れるか、と問われて、切れるので実行した、ということだ。それが、怜にとっての普通だから。
 自分と同じ傷と痛みを背負ってくれる理解者が現れた。そう勘違いしたから。
 事件というよりも、互いの常識がかみ合わなかったために起こってしまった事故なのだろう。
 けれど、そこまでの経緯も理由も誰も汲み取ってくれないから、世間的には怜の方が一方的に悪いことになってしまった。

「そんなの、俺にわかるわけない」

 またチョコレートの小袋に指を突っ込んだ怜だったが、もう空になっていたらしい。くしゃりと握りつぶしてゴミ箱に入れる。

「普通にする、ってどうしたらいいかわかんないし、誰も教えてくれないから辛いのに、普通にしてって言われても困る」

 怜にしてみればそうだろう。ヒントも説明もなく、解法も知らないのにただ正答だけ求め続けられているに等しい。

(……多分、ずっと……そう感じて生きてきたんだろうな)

 何本も残っていた腕の傷を大輝は思い出した。
 大輝が怜に感じていた「少し変」「何を考えているんだろう」という感覚は、きっと怜が自分以外に感じているものと同じなのだろう。
 そして怜は、「それは自分が間違っているからだ」と思っている。
 確かにクラスメートに傷をつけたのは駄目だったのかもしれないけれど、傷ついたのは怜も同じなのに。

「じゃあ……さ。俺がいま『切って』って言ったら、怜はどうするんだ?」

 大輝が自分の腕を出すと、怜は「んー……」と少しまた動きを止めた。「あー」「えっと」と何回か意味のない言葉を発し、大輝の腕に手を置く。

「本当……なら、すごく、嬉しい」
「じゃあ、その……」

 じわりと大輝の手のひらに汗が浮かんだ。怜の手の下で、腕が震えている気がする。
 怖い。けれども、怜の気持ちを——少しだけでも、理解してみたかった。
 いつの間にか全身が強張っているのに、心臓だけがやけに早く動いている。何度か浅い息を繰り返し、大輝は決心して口を開いた。

「き、切っても……い、いいけど」
「いや、今はいい」

 あっさりと首を振られ、「えっ」と拍子抜けした声を大輝は出してしまった。

「だって今そういう人いたら嬉しいって……え? 俺じゃダメなのか?」

 ようやく怜が何を考えているか話してくれたので、親密になった気分になっていた。だがそう思っていたのは自分だけだったのか。とんでもない勘違い野郎じゃないか。
 おろおろと大輝が体を離そうとすると「ううん」と怜はようやく柔らかい笑みを見せた。

「あの時は、苦しかったから。助けて欲しいって、同じ痛みを知ってほしいって思って切ったんだ」

 引っ込めかけた大輝の腕を、行かないで、というように掴む。

「でも、今は……大輝が会いに来てくれて、こうやって話聞いてくれて……落ち着いてるっていうか。さっきみたいに、どうしよう、とか、同じことばっかり考えちゃったりとか、してなくて……もう、辛くないから」
「そ……そっ、か」

 目元の赤い怜に、大輝の胸がいっぱいになった。さっきとは違う、悶えたくなるような苦しさだ。
 大輝の行動のせいで自傷したのに、その大輝に向けて嬉しいと笑顔を向けてくれている。
 この笑顔を、ずっと自分に向けていて欲しいと思った。

「……怜、キスしていいか?」
「なんで?」

 突然の大輝の言葉に、きょとんとした怜の顔も愛おしい。

「俺、怜のこと……好きなのかも」

 自分でもよく分からないまま口走ると、怜は軽く目を見開いた。口もぽかんと薄く開けたまま、ぴたりと動きを止めてしまう。
 涙の痕の残る頬が、徐々に赤くなっていく。

「い、いい、けど……」

 やがて視線を部屋の隅に向けながら、怜は小さく呟いた。もぞもぞと大輝の方に向き直り、目と口をぎゅっとつぶる。
 そっとその上に唇を押し付ける。かすかにさっきのチョコレートの匂いがした。
 顔を離すと、ぷは、と怜が大きく息を吐いた。呼吸を止めていたらしい。潤んだ目が大輝を見る。
 足りない、と思った。

「ね、大輝……明日も、会える……?」
「うん」

 肩で息をする怜の背中に手を回し、怜を抱き寄せる。
 もう一度、唇を重ねた。