田んぼというものはずっと水を張っているものだと大輝は長年思っていたが、田植え後に一回水を抜くフェーズがあるらしい。
梅雨の合間、ところどころヒビの入った田んぼの横を歩きながら、大輝は鞄からスマホを取り出した。分からない問題を先生に聞いていたら遅くなってしまった。だが怜がコタローの散歩で呼びに来る時間前には帰れるだろう。
「よし、大丈夫だな」
カバンにスマホを戻す。さっきコンビニで買った、怜の餌付け用ミントチョコが見える。
「……」
結局、怜は傷のこともキスのことも、あれから何も教えてくれなかった。
嫌ならいいと言ったのは大輝自身だし、別に大輝が詳細を知ったところで何かがどうにかなるわけではない。それに、毎日律儀に散歩に誘ってはくれるし、その後怜か大輝の部屋で勉強するのも継続しているから、嫌われていないのだとは思う。
それでも少し、そんなものか、とつまらない気分になる。
(……結局、その程度なんだろうな、俺は)
父親を繋ぎ止められるような子供には、なれなかった。
自分に話が来た時には、離婚も、転校して祖母の家に行くことも、もうすでに決まっていた。
多分、怜にとっての自分もそんなものなのだ。
込み入った話をする相手ではない、ただそこにいる人間。
(まあ、他人なんてそんなもんだけどさ)
機械的に足を動かしていると、道の前に倒れた自転車が見えてきた。横に同じ学校の制服を着た女子が蹲っている。
律儀に被られたヘルメットから覗くポニーテールに、村上だ、と気づく。
「大丈夫!? どうしたの?」
小走りで近づくと、「三田くん」と涙目の村上が顔を上げた。泥のついた顔に血が滲んでいてぎょっとする。
「転んじゃった……」
「歩ける? 親に連絡したほうがいい?」
言いながら、大輝は田んぼ横の側溝に頭から突っ込んでいた黒い自転車を引き上げた。前カゴも前輪の泥除けもひしゃげてしまっているようだが、走れないことはなさそうだ。路肩に自転車を停めてから、畔に落ちていた村上の鞄を拾って前カゴにいれる。
「あ、ありがとう……ちょっとびっくりしただけだし、大丈夫」
立ち上がった村上が小さく顔を顰める。
「怪我した?」
「……くじいちゃった、かも」
「送ってこうか?」
村上の自転車のハンドルに手をかけて、大輝は振り向いた。スタンドを蹴り上げる。
「後ろ乗りなよ。家まで漕ぐから」
「や、でも……悪いし」
「いいよ、一人で帰らせるほうが心配だって」
乗って、と後ろの荷台を軽く叩く。遠慮がちに村上が乗ったのを確認して、サドルの低い自転車に大輝は跨った。
「あ」
走りだそうとして、大輝はスマホを取り出した。まだ怜が来る時刻よりは少し前なことにホッとしつつ、「ごめん、今日帰るの遅くなるから先にコタローの散歩行ってて」とメッセージを送る。
「家、どっち? ここ曲がる?」
「次のところ」
ブレザーの背にしがみついてくる村上に聞きながら自転車を漕ぐ。自宅前を通り過ぎ、よくコタローの散歩に来る川を渡る。思ったより遠くから来ていたようで、彼女の家に着いた時にはあたりは薄暗くなりかけていた。
「あ、ありがとう三田くん……」
「痛いなら無理せず病院行きなよ」
家に入る村上を確認してから、来た畦道を戻る。家についた頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。リビングに明かりがついているから、先に母か祖母が帰ってきているのだろう。
「ただいまー」
靴を脱いで上がると、リビングにいたのは母の方だった。夕飯を作っている途中らしい。大輝に振り向き、おや、という顔をした。
「大輝、遅かったわね。隣の子が犬連れで待ってたけど……」
「怜が?」
連絡はしたはずだが、見ていなかったのだろうか。
スマホを取り出すと、メッセージに既読はついている。
「ごめん、今日待ってた?」
そうメッセージを追加で送ると、すぐに既読がついた。「また明日散歩行こうな」と追加で送ったものにも既読はつくものの、返信は来ない。
そう言えば、怜が大輝を誘いに来るようになってから、予定をキャンセルしたのは初めてだったな、と大輝は気が付いた。どこかに出かける用事も、帰りが遅くなるような部活も委員会もなく、いつも家にいるので気にしたこともなかった。
「んー……」
普段直接会うことが多いせいで、怜とメッセージのやり取りをすることはあまりない。だが、それでもいつも割とすぐに返信してきていた。
理由の判然としない不安感が、ひたひたと大輝の心中に押し寄せてきた。
「あー、ちょっと謝って来る」
鞄からミントチョコを出し、母に声をかけた大輝はブレザーにサンダルをつっかけ、再び外に出た。隣の長澤家のインターホンを押す。
ピンポーン、と妙に間の抜けた音が響き、それから暗闇に溶けていく。
コタローの吠える声が聞こえた。
返事はないが、留守ということはないだろう。なんせ怜は本当にコタローの散歩以外でほとんど外出しないし、その怜の部屋である二階の角部屋には明かりがついている。
しばらく待っても何も返事がないので、もう一度しつこくインターホンを押す。3回目はさすがにやりすぎだろうか、と思いながら門扉の前で立っていると、そろりそろりと長澤家の玄関が開いた。芝生の上を飛び出してくるコタローの後ろから、逆光で黒い怜が顔を出す。
「怜!」
声をかけると、怜がびくりと体を震わせた。だが、そこから一向にこちらに来る気配がないので、勝手に通用門を開けて中に入る。嬉しそうにまとわりついてくるコタローと共に、玄関に向かう。
中に入ると、白い怜の顔はいつもより青白くなっているように見えた。素足のままたたきに立ち、伏し目で左腕を握っている。
「今日はごめん、お詫びってほどじゃないけど、怜用にチョコ買ってきた、んだけど……怜、体調悪いのか?」
「あ……ありがとう」
小さく呟いた怜が、苦しそうに肩で息をした。それから数秒間を開けて「だいじょうぶ」とぼんやりした声色で続ける。
「今日は……うん、今日のことは。へいき、だから。お詫びとかいらない、し……」
ぽつぽつと呟く怜が、ぎゅっと左腕を握る力に力を込めた。
嫌な予感がした。
「切った、のか……?」
大輝の言葉に、怜が泣きそうな顔で下を向いた。肩が震えている。
「見せて!」
大輝が左腕を取ると、怜は大人しく右手を外した。手の下から出てきたシャツには血がにじんでいる。そっとめくり上げると、白い怜の腕に横一文字に走る、真新しい赤い傷跡が現れた。それだけではない。梯子のように刻まれた、新旧の似たキズがいくつも腕に残されている。
「な、なんで……どうしたんだよ、怜」
見せて、といったくせに、どんな言葉を怜にかけたらいいか大輝は分からなくなった。ただ綺麗な怜の腕にいくつもの傷跡があることが悲しくて、自分のことのように痛かった。
「……わかんない」
呆然とする大輝の胸に、怜の右手が置かれた。しなだれかかるように、大輝の肩に怜の額が当てられる。
「俺だって、わかんないよ……なんでだよ……」
どういうことだよ。何で切った本人が分かんないんだよ。
聞きたかったが、ぐす、と鼻を鳴らす怜にそれ以上何かを問いただす気にはなれなかった。
「……そっか」
代わりに背中に手を回し、怜の体を抱きしめる。
大きい、けれど大輝が想像していたよりも細い体が、時折息を詰めながら小さく震えている。そのことが、大輝を酷く息苦しくさせた。
胸が痛い、というのは現代文でよく出てくる陳腐な慣用句ではなく、本当に起きることらしい。
「痛いね」
うん、と大輝の肩に顔をつけたまま怜が頷いた。
梅雨の合間、ところどころヒビの入った田んぼの横を歩きながら、大輝は鞄からスマホを取り出した。分からない問題を先生に聞いていたら遅くなってしまった。だが怜がコタローの散歩で呼びに来る時間前には帰れるだろう。
「よし、大丈夫だな」
カバンにスマホを戻す。さっきコンビニで買った、怜の餌付け用ミントチョコが見える。
「……」
結局、怜は傷のこともキスのことも、あれから何も教えてくれなかった。
嫌ならいいと言ったのは大輝自身だし、別に大輝が詳細を知ったところで何かがどうにかなるわけではない。それに、毎日律儀に散歩に誘ってはくれるし、その後怜か大輝の部屋で勉強するのも継続しているから、嫌われていないのだとは思う。
それでも少し、そんなものか、とつまらない気分になる。
(……結局、その程度なんだろうな、俺は)
父親を繋ぎ止められるような子供には、なれなかった。
自分に話が来た時には、離婚も、転校して祖母の家に行くことも、もうすでに決まっていた。
多分、怜にとっての自分もそんなものなのだ。
込み入った話をする相手ではない、ただそこにいる人間。
(まあ、他人なんてそんなもんだけどさ)
機械的に足を動かしていると、道の前に倒れた自転車が見えてきた。横に同じ学校の制服を着た女子が蹲っている。
律儀に被られたヘルメットから覗くポニーテールに、村上だ、と気づく。
「大丈夫!? どうしたの?」
小走りで近づくと、「三田くん」と涙目の村上が顔を上げた。泥のついた顔に血が滲んでいてぎょっとする。
「転んじゃった……」
「歩ける? 親に連絡したほうがいい?」
言いながら、大輝は田んぼ横の側溝に頭から突っ込んでいた黒い自転車を引き上げた。前カゴも前輪の泥除けもひしゃげてしまっているようだが、走れないことはなさそうだ。路肩に自転車を停めてから、畔に落ちていた村上の鞄を拾って前カゴにいれる。
「あ、ありがとう……ちょっとびっくりしただけだし、大丈夫」
立ち上がった村上が小さく顔を顰める。
「怪我した?」
「……くじいちゃった、かも」
「送ってこうか?」
村上の自転車のハンドルに手をかけて、大輝は振り向いた。スタンドを蹴り上げる。
「後ろ乗りなよ。家まで漕ぐから」
「や、でも……悪いし」
「いいよ、一人で帰らせるほうが心配だって」
乗って、と後ろの荷台を軽く叩く。遠慮がちに村上が乗ったのを確認して、サドルの低い自転車に大輝は跨った。
「あ」
走りだそうとして、大輝はスマホを取り出した。まだ怜が来る時刻よりは少し前なことにホッとしつつ、「ごめん、今日帰るの遅くなるから先にコタローの散歩行ってて」とメッセージを送る。
「家、どっち? ここ曲がる?」
「次のところ」
ブレザーの背にしがみついてくる村上に聞きながら自転車を漕ぐ。自宅前を通り過ぎ、よくコタローの散歩に来る川を渡る。思ったより遠くから来ていたようで、彼女の家に着いた時にはあたりは薄暗くなりかけていた。
「あ、ありがとう三田くん……」
「痛いなら無理せず病院行きなよ」
家に入る村上を確認してから、来た畦道を戻る。家についた頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。リビングに明かりがついているから、先に母か祖母が帰ってきているのだろう。
「ただいまー」
靴を脱いで上がると、リビングにいたのは母の方だった。夕飯を作っている途中らしい。大輝に振り向き、おや、という顔をした。
「大輝、遅かったわね。隣の子が犬連れで待ってたけど……」
「怜が?」
連絡はしたはずだが、見ていなかったのだろうか。
スマホを取り出すと、メッセージに既読はついている。
「ごめん、今日待ってた?」
そうメッセージを追加で送ると、すぐに既読がついた。「また明日散歩行こうな」と追加で送ったものにも既読はつくものの、返信は来ない。
そう言えば、怜が大輝を誘いに来るようになってから、予定をキャンセルしたのは初めてだったな、と大輝は気が付いた。どこかに出かける用事も、帰りが遅くなるような部活も委員会もなく、いつも家にいるので気にしたこともなかった。
「んー……」
普段直接会うことが多いせいで、怜とメッセージのやり取りをすることはあまりない。だが、それでもいつも割とすぐに返信してきていた。
理由の判然としない不安感が、ひたひたと大輝の心中に押し寄せてきた。
「あー、ちょっと謝って来る」
鞄からミントチョコを出し、母に声をかけた大輝はブレザーにサンダルをつっかけ、再び外に出た。隣の長澤家のインターホンを押す。
ピンポーン、と妙に間の抜けた音が響き、それから暗闇に溶けていく。
コタローの吠える声が聞こえた。
返事はないが、留守ということはないだろう。なんせ怜は本当にコタローの散歩以外でほとんど外出しないし、その怜の部屋である二階の角部屋には明かりがついている。
しばらく待っても何も返事がないので、もう一度しつこくインターホンを押す。3回目はさすがにやりすぎだろうか、と思いながら門扉の前で立っていると、そろりそろりと長澤家の玄関が開いた。芝生の上を飛び出してくるコタローの後ろから、逆光で黒い怜が顔を出す。
「怜!」
声をかけると、怜がびくりと体を震わせた。だが、そこから一向にこちらに来る気配がないので、勝手に通用門を開けて中に入る。嬉しそうにまとわりついてくるコタローと共に、玄関に向かう。
中に入ると、白い怜の顔はいつもより青白くなっているように見えた。素足のままたたきに立ち、伏し目で左腕を握っている。
「今日はごめん、お詫びってほどじゃないけど、怜用にチョコ買ってきた、んだけど……怜、体調悪いのか?」
「あ……ありがとう」
小さく呟いた怜が、苦しそうに肩で息をした。それから数秒間を開けて「だいじょうぶ」とぼんやりした声色で続ける。
「今日は……うん、今日のことは。へいき、だから。お詫びとかいらない、し……」
ぽつぽつと呟く怜が、ぎゅっと左腕を握る力に力を込めた。
嫌な予感がした。
「切った、のか……?」
大輝の言葉に、怜が泣きそうな顔で下を向いた。肩が震えている。
「見せて!」
大輝が左腕を取ると、怜は大人しく右手を外した。手の下から出てきたシャツには血がにじんでいる。そっとめくり上げると、白い怜の腕に横一文字に走る、真新しい赤い傷跡が現れた。それだけではない。梯子のように刻まれた、新旧の似たキズがいくつも腕に残されている。
「な、なんで……どうしたんだよ、怜」
見せて、といったくせに、どんな言葉を怜にかけたらいいか大輝は分からなくなった。ただ綺麗な怜の腕にいくつもの傷跡があることが悲しくて、自分のことのように痛かった。
「……わかんない」
呆然とする大輝の胸に、怜の右手が置かれた。しなだれかかるように、大輝の肩に怜の額が当てられる。
「俺だって、わかんないよ……なんでだよ……」
どういうことだよ。何で切った本人が分かんないんだよ。
聞きたかったが、ぐす、と鼻を鳴らす怜にそれ以上何かを問いただす気にはなれなかった。
「……そっか」
代わりに背中に手を回し、怜の体を抱きしめる。
大きい、けれど大輝が想像していたよりも細い体が、時折息を詰めながら小さく震えている。そのことが、大輝を酷く息苦しくさせた。
胸が痛い、というのは現代文でよく出てくる陳腐な慣用句ではなく、本当に起きることらしい。
「痛いね」
うん、と大輝の肩に顔をつけたまま怜が頷いた。
