ヤバ澤くんに二言はない

「おはよー」

 隣の席の松本に声をかけ、大輝は自分の席に腰を下ろした。結局予習が終わらなかった英語のノートを開いていると、「ねえ」と松本に机を叩かれる。

「三田ー、進路希望調査どうした? 今日提出だったよね」
「……え、今日だっけ」

 鞄の中から紙を引っ張り出す。確かに今日が回収日になっている。

「やっべ、忘れてたわ。ありがと」

 とは言えど、今更そんなに悩むようなものでもない。何となく自分でも行けそうな大学の名前を偏差値順に並べて書く。

「三田、経済学部志望なんだ」
「まあ、やりたいこととか特にないし。就職考えるとそういう方がいいかなって」

 今のところ明確な将来像がないなら、選択肢が多い方がいいだろうという判断だ。全部都内の大学なのも同じ理由である。
 なるほどねえ、と松本が頷いた。頼んでもいないのに自分の進路希望を見せてくれる。

「俺はさあ、製菓学校行ってパティシエなるから。お菓子好きだし」
「へー、いいじゃん。店開いたら教えてよ」

 適当に相槌を打っていると、後ろの席に鞄が置かれる音がした。振り向くと、ポニーテールの女子が登校してきたところらしい。

「あ、おはよー……」

 軽く手を挙げて挨拶する。名前なんだっけ、と思ったところでちょうど胸元についた名札が目に入り、「村上さん!」と笑顔で付け加える。
 机に座った大輝を見下ろしてきた村上は、いつもより少し機嫌の悪そうな表情をしていた。

「あのさあ三田くん、昨日ヤバ澤と歩いてなかった?」
「あーうん。犬の散歩させてもらってる」

 大輝が答えると、村上はうわ、とでもいうように顔を顰めた。

「え、いや私、あいつに近寄らないほうがいいって教えてあげたじゃん」
「でも別に……普通だよ。犬かわいいし」

 確かにそんなことは言っていたが、実際に誰とどう付き合うかは大輝が決めることだろう。カチンと来て少し強めの口調で言い返してしまう。

「何言ってんの。普通じゃないってあいつ。犬の散歩以外で家出ないし、リスカ痕ヤバいし。教えたじゃん、カッターでクラスメートのこと切ったって。じっと女子のこと見てたりしてたし、本当に頭おかしいから」
「でも、お前怜と話したことないんだろ」

 大輝の言葉に、村上は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「当たり前じゃん。あんなのと話すわけないって」
「じゃあ何も知ら……」
「いや、リスカ痕も、切られた子が運ばれるとこも、長澤が捕まるとこも見てるし」

 それだけあれば十分でしょ、とばかりに村上はふんと鼻を鳴らす。

「とにかく、本当にあいつには近寄らないほうがいいから。嫌がらせとかじゃなくて、親切で言ってるんだよ?」
「……いや」

 小さな親切、大きなお世話って言葉知ってる?
 大輝が言いかけたところで、ホームルームのチャイムが鳴った。なんとなく話が途切れたので前に向き直った大輝は、自分の進路調査票を再度見下ろした。
 書いた大学が三つとも私立だったことに気付き、消しゴムを手に取る。
 ……離婚、したもんな。
 なんとなく一番上を国立に書き換え、そこから下を一つずつスライドさせていく。
 程なくしてやってきた担任に、その紙を提出した。


 そう言えば、怜は進路をどうするつもりなんだろう。
 大輝がそう思ったのは、帰宅して自宅の隣にある長澤家を見たときだった。
 前に聞いたときは「そんなの考えてない」みたいなことを言っていたが、高校を卒業したらニートになる気なのだろうか。

(っていうか、俺だって、怜のこと分かってるわけじゃないんだよな)

 朝はなんとなく腹が立って村上に言い返してしまったが、リストカットや事件について、大輝だって怜の口から何か聞いたわけではない。
 それどころか、昨日なぜ突然キスを求められたのかすらも分からないのだ。
 怜の頬にキスした感触を思い出すと、また何とも言えない気分になってくる。
 祖母と母、二人ともパートでいない家はしんとしている。またベッドに転がっていると、しばらくしてインターホンが鳴った。

「……はーい」

 玄関を開けると、案の定ジャージ姿の怜が門の向こうに立っている。近づくと、にこにこしたコタローと無表情の怜の表情が見えてきた。

「コタロー、散歩の時間だから」
「……うん」

 いつものように言われ、気まずいまま頷いてしまう。無言のまま家を出ると、当たり前のような顔をして大輝にリードを渡してきた。
 こいつ、何考えてるんだろう。
 涼しい顔をしているが、昨日のことを何と思っているのか分からない。会話もないまま、気まずさを抱えて歩く。
 そのまま長澤家に戻り、コタローのブラッシングをする。

「えっと……それじゃ今日は」
「うん、待ってるから」
「お、おう……」

 今日は来ないから、と言おうとした大輝だったが、いつものように勉強道具を持って戻ってくることを前提に話されて、なんとなく頷いてしまう。
 いやそうじゃなくて、とも言えず一度家に戻り、また鞄を持って長澤家に戻る。怜の母に挨拶をして部屋に行くと、クッションを渡されたのでローテーブルに腰掛けた。
 数学の問題集を広げたものの、集中なんてできるはずがない。
 ちらりと見た怜は、スマホで映像授業を見ているようだ。
 ここまで普段通りに接してくる怜に、だんだん自分の記憶も信じられなくなってくる。

(昨日のことは夢だった……とか、いやそんなわけないよな)

 声をかけあぐねて、じっと怜を見てしまう。イヤホンを押さえた怜の袖から、真新しいガーゼが覗いていた。

「……あの、さ」
「ん」

 恐る恐る声をかけると、怜が視線をこちらに向けた。

「昨日……俺……怜にキス、したよな?」
「まあ」

 それだけ答えて、また怜はスマホに視線を戻してしまう。

「あの、いやちょっと」

 もう一度声をかけると、動画を止めた怜が耳元に手をやった。イヤホンを外し、また大輝の方を向く。

「……なに?」
「……いや、その」

 邪魔だと言わんばかりの視線に、たじろぎながら大輝は言葉を探した。

「えっと……怜は……男、好きなの?」
「別に」

 ぴしゃりと言われ、大輝は鼻白んだ。もう意味が分からない。

「じゃあ……あの、なんで、昨日俺に『キスして』って言ったんだよ」
「んー」

 首を傾げた怜が、じっと大輝を見たまま固まる。階下でコタローや怜の母が歩く音を聞きながらそれを見返していると、ぱちりと瞬きをした怜の視線が少し動いた。

「なんか、大輝とならやってみたかった」
「いや、じゃあなんで嫌そうな顔したんだよ」

 やりたかったことが叶ったんならせめて喜んでくれ。どうしてそうなるんだ。
 答えしかない問題集を解いている時のような気分で質問を重ねると、無表情だった怜がようやく眉間にしわを寄せた。

「大輝、嫌そうだったから」
「別に嫌では……」

 言いかけて、自分でもよく分からなくなって大輝は言葉を切った。

「や、嫌っていうか……『なんで?』ってなるだろ、ムードとか脈絡もなくいきなり言われたら。相手が誰とか関係なく」
「……なにそれ」

 理解できない、という表情で怜が低く言葉を漏らす。

「いやだから。怜だからとかじゃなくて。絶世の美女でも誰でも同じように言われたら同じ反応になるから」
「あ、そう」

 大輝の説明を興味なさげに聞いた怜は、話は終わったとばかりに視線をスマホに戻した。
 イヤホンを手に取り、左手の袖に手を突っ込んでポリポリと中を掻く。そこに貼られたガーゼがまた見えた。
 なんで、そんな興味なさそうなんだよ。
 質問を重ねたというのに、かえって大輝の心の中ではもやもやとした疑問が増えていた。
 男に興味があるわけではないのに、「大輝とキスしてみたかった」って何だよ。
 こっちの説明を本当に理解したんだろうか。
 じゃあ結局、どうしたら怜は満足したのか。
 ……そのガーゼは、一体何なのか。

 他人のことなんて、大輝には関係ない。そう思うものの、気になって仕方がない。

「なあ」

 再び声をかけると、イヤホンを手に持ったまま怜は視線を大輝に向けた。

「……俺、怜のこともっと知りたいんだけど。昨日のことだけじゃなくて……その、傷のこととかも」

 イヤホンを持った手を指差すと、怜は袖口から覗くガーゼに目を落とした。隠すように右手で左手首を押さえ、机の下に手を引っ込める。

「なんで。教えてどうなるの」

 怜に刺々しく睨みつけられ、大輝は首を振った。

「別にどうにもならない。俺が知りたいだけ」
「……興味本位?」
「興味あって悪いか」

 一瞬、怜は言葉に詰まったようだった。伏せられた視線が手首の辺りを向く。「嫌だ」と少しだけ上ずった声が聞こえた。

「……どうせ、分からないし」
「俺は今のままのほうが嫌なんだけど」

 大輝は大きく息をついて、持っていたシャーペンをノートの上に置いた。

「こうやって毎日散歩して、一緒の部屋で勉強してて……そいつが何考えてるか、何をしたいのか、何も分からない方が普通に嫌だよ。すごいもやもやする」

 怜は答えず、テーブルの向こうで縮こまるように肩をすくめた。そのまままた人形にでもなったように固まってしまう。
 今度は、しばらく見ていても怜のフリーズが解ける様子はなかった。

「……まあ、嫌なら別に無理して言わなくていいけど」

 再度シャーペンを手に取った大輝は、ようやく数学の問題集に取りかかった。
 やがてキリのいいところになったので立ち上がる。じっとしたままの怜は、先程から全く動いていないようだ。

「それじゃ、今日は帰るわ」
「あ、うん……」

 のろのろとした動きで怜が立ち上がる。一足先に階段を降りた大輝は、コタローと怜の親に挨拶をしてから玄関に向かった。

「また明日な」

 うん、と頷いた怜は、少しだけホッとしているように見えた。