ヤバ澤くんに二言はない

 家に帰り、祖母の作ってくれた夕飯を食べる。母はまだパート先から帰って来るのに時間がかかるらしい。
 自室に戻った大輝は、自分の机で英語の教科書とノートを開き直した。
 結局、怜の家でやっていたところから何も進んでいない。明日までに予習しておきたいのに、と思うものの、まったく集中なんてできない。

「あーもうっ!」

 叫んだ大輝はベッドに倒れ込んだ。

「なんなんだよー……もう……」

 キスしろって言うからキスしたのに、なんであんな嫌そうな顔をされなければいけないんだ。理不尽だろ。意味がわからない。

「っていうか、なんで俺もあれキスしたんだよ……クソ」

 無理だし、と流すこともできた、と今なら思える。
 だが雰囲気的にそんなことを言える状況ではなかったというか、そこまで考える余裕がなかった、というか。
 考え直しても、大輝自身、あの瞬間になぜそこまで迷わず実行に移したか理由が分からなかった。いや、今もう一度怜に同じように「キスして」と言われたら、たぶんまた自分は同じことをするだろう。

(好きじゃない相手とはやらない、とか、そういう話ではないけどさあ)

 頼まれたからやった、それだけのことなのにこんなにもやもやしているのも苛立たしい。何をしていても、さっきの怜とのやり取りが思い出されてしまう。
 今まで、女子とならキスをしたことは何回かある。だが、相手から頼まれてやったわけではなく、何となくその場のノリでしただけだった。名前すら思い出せない相手もいる。
 別に、キスして気持ちいいとか楽しいとか、そう思ったこともない。ただ何となくしてほしそうな相手にすると喜ぶので、それくらいなら、という気持ちだった。大して記憶に残っているわけでも感慨があるわけでもない。
 こんなの、単なるコミュニケーションの一環だと思っていたのに。

「うー……なんで」

 唸りつつ、怜に触れた唇に自分の手の甲を当てる。
 怜の頬は柔らかくて、もっと吸い付く様な感触だった。薄い皮の向こうに、柔らかい温かさがあって、甘くて涼しげな匂いがした。
 頭に浮かぶたびに、息が苦しくなるような、胸の奥が少し痛くなるような変な気分になる。
 唇だったらどんな感触だったのだろう。頭の中に浮かんだ考えに、大輝は恥ずかしくなって布団の中に潜り込んだ。だが視界が遮られると、今度は怜の失望したような表情が思い出されてきてしまう。

「なんなんだよ、もう!」

 なんだかよく分からないが、何かに負けたような気がしてならない。
 被ったばかりの布団を跳ね飛ばして起き上がると、窓の外に怜の部屋が見えた。煌々と灯りがついている窓のレースを眺めて、そこに動く影を見つけて――大輝は急いで自分の部屋の障子を閉めた。