怜の部屋は、長澤家の2階東側に位置していた。生垣を挟んだ向こうが、ちょうど大輝の部屋に当たる。
6畳ほどの室内には、ベッドに本棚、小学生の時から使っていそうな学習机が並ぶ。真ん中に、少し色あせた青いラグと白いローテーブルが置かれていた。
本棚にも本は少なく、これといった飾りや観葉植物もない。さっぱりとして物の少ない部屋は、大輝が怜に抱いていたイメージを裏切らないものだった。
「はい」
「あ、ありがと」
渡されたクッションを尻の下に敷き、ローテーブルの端に大輝は英語の教科書を置いた。
始業式の日、一回きりのつもりで大輝は怜の家に上がったのだが、どうも怜の方はそのつもりではなかったらしい。帰ろうとすると不満げな顔をする怜と、いそいそと歓迎してくれるその母親に負け、なんとなくコタローの散歩後に一緒に勉強するところまで習慣のようになってしまった。
もう一週間になるので、そろそろ大輝の部屋にも呼んだほうがいいのかもしれない。
麦茶を持ってきてくれた怜の母にも礼をいい、明日の予習をしていく。英語長文中の分からない単語を調べ終わったところで、なんとなく斜向いに座った怜を見る。
大輝を見ていた怜が、ぱっと視線を逸らした。手元にあるテキストに目を落としたが、最初に開けたところから進んでいる気配はない。
(……てか、怜、やっぱ全然勉強してねえよな?)
ここ数日、大輝の心のなかに芽生えてきた疑問が大きくなる。
最初は何とも思わなかった。だが、3日目辺りにふと怜からの視線を感じたのだ。そこから何となく怜のことを逆に観察するようになり、テキストが全然進んでいなさそうなことに気づいたのだ。
別に、怜が勉強していないこと自体は――まあ、大輝に関係があることではないので、どうでもいいといえばどうでもいいことではある。
だが、勉強する気もないのになぜ毎日大輝を引き止めるのか、そしてじっと観察されているのか……そこについては、一度気づくと気になってしまう。
とりあえず怜のことは置いておいて、全文和訳に取り掛かる。半分ほど進めたところでまた顔を上げると、また怜と視線が合った。
「……何?」
「いや……」
それはこっちの台詞である。
軽く首を傾げる怜からは、前のような敵意や警戒心は感じない。だが、コタローが散歩中などにじっと見上げてくるのに似ていて、いまいち何を訴えたいのかも分からない。
「……俺、怜になんかしたか?」
「別にしてないと思うけど」
「うん……」
ノートに視線を落とし、大輝はシャーペンを構えた。ちらりと視線だけ動かすと、やはり怜に見られている。
「あの、俺、なんかさあ……すげー怜に見られてる気がするんだけど」
恐る恐るその姿勢のまま聞くと、怜が「あー」と小さく目を見開いた。
「嫌だったなら、ごめん」
「嫌っていうか……なんか言いたいことあるなら言えよ。じっと見られててもわかんねえのよこっちは」
「んー……」
机の向こうで、怜は困ったように視線を左下に動かした。視線の先には、全く進んでいないように見えるテキストがある。
「そんなの聞いて、どうすんの」
「どうすんのって、いや……とりあえず気になるだろ。なんかできることあるならするし」
「……そう」
持っていたシャーペンの尻を顎に当て、怜は小さく首を傾げた。そして、そのまま固まってしまう。最近慣れてきたとはいえ、こういう時どう反応していいか少し困る。
じっと動かない怜を、息をひそめて大輝は眺めた。元々の色白さと冷たく整った顔も相まって、怜が人形のように見えて少し怖い。今まで言葉を交わしていたのは自分の妄想の中の話だったのではないかと思えてくる。
麦茶の入ったグラスの中で、溶けた氷がカラリと回った。
「それ、本当? 嘘ついてない?」
聞こえてきた怜の声には、どこか責めるような響きがあった。何もしていないのに後ろめたさを感じ、大輝の答えが歯切れの悪いものになる。
「え、ついてねえけど……」
そう、とまた答えた怜が、また大輝に視線を戻した。感情の見えない暗い三白眼に、自分は今とんでもないことを言ってしまったのではないかという気がした。
「じゃあ、キスして」
「……は?」
予想外の怜の言葉をすぐには処理しきれず、大輝は間抜けな声を上げた。
「き、キス?」
「うん」
「お……俺が? 今? 怜に?」
「そう」
冗談だろ、と笑い飛ばそうとして、じとっとした粘度の高い怜の視線に大輝の笑顔が引っ込んだ。
「いや、なんでそんな」
それでも半笑いで聞くと、怜はただ顔をしかめた。
「……いいよ、じゃあ」
「や……だ、誰もそんなこと言ってねえだろ」
慌てた大輝は、机の上にあったトレーをどかして身を乗り出した。
顔を近づけると、今日も怜からは少し甘いハッカの匂いがする。
(ええいもう!)
目を閉じて、大輝は怜の頬に向かって顔を突き出した。唇に弾力のあるものが触れたので、すぐに体を引っ込める。
「ほ、ほらっ! これでいいだろっ!」
目を開けると、相変わらず怜はじとっとした目で大輝のことを見ていた。
眉間のシワが深くなり、はあー……と大きなため息をつく。
「だから、いいって言ったのに」
「は? いや……ええ?」
いや、キスしてって言ったのそっちだろ。なんでそんな顔されなきゃいけないんだよ。
釈然としないまま見返すと、怜も心外だという表情で大輝を睨みつけてきた。
しばらく睨み合ったあと、またため息をついた怜はテキストに視線を落とした。
「……もういい」
投げやりに呟いた怜は、イヤホンをして授業動画の再生を始めた。
もういいって、何が。
怜の不機嫌そうな雰囲気に、大輝は質問を飲み込んだ。
代わりにちらちらと怜に視線を向けるものの、もう向こうから大輝を見てくることはなかった。
6畳ほどの室内には、ベッドに本棚、小学生の時から使っていそうな学習机が並ぶ。真ん中に、少し色あせた青いラグと白いローテーブルが置かれていた。
本棚にも本は少なく、これといった飾りや観葉植物もない。さっぱりとして物の少ない部屋は、大輝が怜に抱いていたイメージを裏切らないものだった。
「はい」
「あ、ありがと」
渡されたクッションを尻の下に敷き、ローテーブルの端に大輝は英語の教科書を置いた。
始業式の日、一回きりのつもりで大輝は怜の家に上がったのだが、どうも怜の方はそのつもりではなかったらしい。帰ろうとすると不満げな顔をする怜と、いそいそと歓迎してくれるその母親に負け、なんとなくコタローの散歩後に一緒に勉強するところまで習慣のようになってしまった。
もう一週間になるので、そろそろ大輝の部屋にも呼んだほうがいいのかもしれない。
麦茶を持ってきてくれた怜の母にも礼をいい、明日の予習をしていく。英語長文中の分からない単語を調べ終わったところで、なんとなく斜向いに座った怜を見る。
大輝を見ていた怜が、ぱっと視線を逸らした。手元にあるテキストに目を落としたが、最初に開けたところから進んでいる気配はない。
(……てか、怜、やっぱ全然勉強してねえよな?)
ここ数日、大輝の心のなかに芽生えてきた疑問が大きくなる。
最初は何とも思わなかった。だが、3日目辺りにふと怜からの視線を感じたのだ。そこから何となく怜のことを逆に観察するようになり、テキストが全然進んでいなさそうなことに気づいたのだ。
別に、怜が勉強していないこと自体は――まあ、大輝に関係があることではないので、どうでもいいといえばどうでもいいことではある。
だが、勉強する気もないのになぜ毎日大輝を引き止めるのか、そしてじっと観察されているのか……そこについては、一度気づくと気になってしまう。
とりあえず怜のことは置いておいて、全文和訳に取り掛かる。半分ほど進めたところでまた顔を上げると、また怜と視線が合った。
「……何?」
「いや……」
それはこっちの台詞である。
軽く首を傾げる怜からは、前のような敵意や警戒心は感じない。だが、コタローが散歩中などにじっと見上げてくるのに似ていて、いまいち何を訴えたいのかも分からない。
「……俺、怜になんかしたか?」
「別にしてないと思うけど」
「うん……」
ノートに視線を落とし、大輝はシャーペンを構えた。ちらりと視線だけ動かすと、やはり怜に見られている。
「あの、俺、なんかさあ……すげー怜に見られてる気がするんだけど」
恐る恐るその姿勢のまま聞くと、怜が「あー」と小さく目を見開いた。
「嫌だったなら、ごめん」
「嫌っていうか……なんか言いたいことあるなら言えよ。じっと見られててもわかんねえのよこっちは」
「んー……」
机の向こうで、怜は困ったように視線を左下に動かした。視線の先には、全く進んでいないように見えるテキストがある。
「そんなの聞いて、どうすんの」
「どうすんのって、いや……とりあえず気になるだろ。なんかできることあるならするし」
「……そう」
持っていたシャーペンの尻を顎に当て、怜は小さく首を傾げた。そして、そのまま固まってしまう。最近慣れてきたとはいえ、こういう時どう反応していいか少し困る。
じっと動かない怜を、息をひそめて大輝は眺めた。元々の色白さと冷たく整った顔も相まって、怜が人形のように見えて少し怖い。今まで言葉を交わしていたのは自分の妄想の中の話だったのではないかと思えてくる。
麦茶の入ったグラスの中で、溶けた氷がカラリと回った。
「それ、本当? 嘘ついてない?」
聞こえてきた怜の声には、どこか責めるような響きがあった。何もしていないのに後ろめたさを感じ、大輝の答えが歯切れの悪いものになる。
「え、ついてねえけど……」
そう、とまた答えた怜が、また大輝に視線を戻した。感情の見えない暗い三白眼に、自分は今とんでもないことを言ってしまったのではないかという気がした。
「じゃあ、キスして」
「……は?」
予想外の怜の言葉をすぐには処理しきれず、大輝は間抜けな声を上げた。
「き、キス?」
「うん」
「お……俺が? 今? 怜に?」
「そう」
冗談だろ、と笑い飛ばそうとして、じとっとした粘度の高い怜の視線に大輝の笑顔が引っ込んだ。
「いや、なんでそんな」
それでも半笑いで聞くと、怜はただ顔をしかめた。
「……いいよ、じゃあ」
「や……だ、誰もそんなこと言ってねえだろ」
慌てた大輝は、机の上にあったトレーをどかして身を乗り出した。
顔を近づけると、今日も怜からは少し甘いハッカの匂いがする。
(ええいもう!)
目を閉じて、大輝は怜の頬に向かって顔を突き出した。唇に弾力のあるものが触れたので、すぐに体を引っ込める。
「ほ、ほらっ! これでいいだろっ!」
目を開けると、相変わらず怜はじとっとした目で大輝のことを見ていた。
眉間のシワが深くなり、はあー……と大きなため息をつく。
「だから、いいって言ったのに」
「は? いや……ええ?」
いや、キスしてって言ったのそっちだろ。なんでそんな顔されなきゃいけないんだよ。
釈然としないまま見返すと、怜も心外だという表情で大輝を睨みつけてきた。
しばらく睨み合ったあと、またため息をついた怜はテキストに視線を落とした。
「……もういい」
投げやりに呟いた怜は、イヤホンをして授業動画の再生を始めた。
もういいって、何が。
怜の不機嫌そうな雰囲気に、大輝は質問を飲み込んだ。
代わりにちらちらと怜に視線を向けるものの、もう向こうから大輝を見てくることはなかった。
