ヤバ澤くんに二言はない

(ヤバ澤、かあ)

 夕方、いつものように来た怜とコタローの散歩に向かった大輝は、隣を歩く怜の顔を見た。
 相変わらず感情の読めない、涼しい顔で怜は進行方向を見ている。

 まあ、変といえば、変なやつではある。
 大輝の社交辞令を真に受けたのか、怜はあれから夕方になるたびに律儀に大輝を散歩に誘いに来る。その割に無口で、こちらから話しかけない限りあまり喋らないので何を考えているか分からない部分も確かにある。あるけれど。
 だが、人に切りかかったりするようには思えない。コタローにも優しいし、別に暴力的なわけでもおかしなことを言っているわけでもない。
 詳細は気になるが、面と向かって本人に聞くのにも勇気がいる内容だ。
 まあ、噂なんて、適当に尾ひれがついて大きくなっていくものだし、誰かが面白おかしく適当なことを言っているだけの気もする。
 そう思いつつリードを持つ怜の手元をつい見てしまうが、少し長めの袖の下がどうなっているかは見えない。
 車なんて来ない道で、それでも赤信号で怜は律儀に立ち止まる。その後ろで大輝も立ち止まった。

「……大輝」
「ん?」

 顔を上げると、振り向いた怜が持っていたリードを差し出してきた。

「リード、持ってみる?」
「え、い、いいの!?」

 そんなことまでしてもいいのだろうか。聞きつつも、大輝はわくわくと手を出していた。

「……ダメそうなら止めるけど」

 リードを渡してくる怜の指先に、大輝の指先が軽く触れた。ぱっと怜が手を離すのでリードを取り落としそうになり、慌てて綱を握りしめる。
 赤信号が終わり、横断歩道を渡る。おとなしくコタローがついてきた。

「んふふ、交代しましたよ」

 自分の横を歩くコタローを見下ろすと、口元が緩んでしまう。大輝を見上げたコタローも、笑顔で尻尾を振っているようだ。
 大輝だからと嫌がることもなく、リードを引っ張ることもなくついてくるコタローは本当にいい子だ。スキップでもしたい気持ちだが、さすがに恥ずかしいので自重する。

「本当にかしこちゃんだねえコタローは」
「まあね」

 褒めているのはコタローだが、横を歩く怜もどことなく自慢げだ。抑えきれない笑顔のまま怜を見ると、照れくさそうに怜も微笑む。
 今日の行き先は河川敷だ。広い川べりのグランドでは少年野球をやっていたので、逆方向に曲がる。何となくだが、怜は人の多いところを避けているような気がするからだ。

「そういや、怜ってどこの学校行ってんの?」

 学校は辞めた、と言われていたが、確か怜本人が高3だとも言っていたはずだ。横を歩く怜を見ると、細い眉毛がぎゅっと寄った。

「……通信制、だから」
「あー、なるほど。農業高校のほうかと思ってたわ」
「いや……」

 小さく怜が首を振る。

「通信制って、理系とか文系とかあんの?」
「……ない。少なくとも、俺のとこは」
「ふーん」

 身近に通信制高校に通う人間が今までいたことがないから、いまいちどんなところか想像がつかない。テレビでやっている授業動画程度のイメージだ。

「進路とかどうなってんの?」
「別に。っていうか……高校くらい出とけって言われて通ってるだけだし」
「そうなんだ……?」

 ぐるりと河川敷を歩き、長澤家に戻る。
 いつものように玄関で待っていると、コタローのおやつとバケツを持った怜が戻ってきた。

「あ、怜、これいる?」

 犬用ビスケットを貰った大輝は、パーカーのポケットに入れてきたハッカ飴の袋を取り出した。

「ん」

 不思議そうな表情で、怜が飴を見下ろした。

「この前、一生懸命ハッカ味探してたじゃん? 好きかなって思ったんだけど」
「……好き」

 そっと伸びてきた手が、恐る恐る個包装の飴をつまんだ。

「いいよ、もっといっぱい取って」

 大輝が袋を更に差し出すと、大輝の顔を見てから一つかみ飴を取っていく。嬉しそうに早速一つ口に入れた怜からは、少し甘くて涼しい匂いがした。
 それを見てから、大輝はいつものようにコタローにおやつをあげた。ブラシを借り、玄関でコタローをブラッシングしていく。
 コタローをとかすたびに、どこからそんなに出てくるんだ、というくらいごっそり毛が抜ける。最初は驚いたが、怜いわく「そんなもん」らしい。
 半分ほど終わったところで、からからと引き戸の開く音がした。奥から怜の母親が顔を出す。

「あ、大輝くん、来てたのね」
「お邪魔してます!」

 頭を下げると、相変わらず怜の母親は少し困ったような顔をした。

「えっと……その、いつもコタローの散歩してもらってて悪いわね。今日は上がってお茶くらい飲んでいったら?」 
「お気遣いありがとうございます。でも、これから帰って宿題とか、予習とかしたいんで。これ終わったら帰らせてもらいます」
「そう……」

 怜の母親は、ホッとしたような、残念がっているような表情になった。
 あ、と横に座った怜が小さく声を上げる。

「……俺も、レポートある」
「あ、そうなんだ。お互い頑張ろうな」

 コタローをとかす手を止めないで返すと、怜がムッとしたように小さく口を曲げた。

「大輝もうちで、お茶飲みながらやればいいだろ」
「え? まあできなくはないけど……」

 邪魔ではないだろうか。
 見返した怜の表情は、むすっとしていてよく分からない。だが、断るほうが機嫌を損ねそうではある。

「……じゃあ一回、家帰って教科書とか持ってくるわ」

 コタローの毛を梳かし終わった大輝は、そう言って立ち上がった。ついでに軽く自分の服も梳かし、コタローの毛を軽く取る。

「うん、待ってる」

 そう言った怜の表情はいつもより素直に笑っているようで、なんとなくそれが意外だった。