(……別れようって、何?)
正直、もう受験どころではなかった。
何をしていても、怜に別れを告げられたという事実が頭の中にあって嫌な動悸が止まらない。言われた言葉を思い出すたびに吐きそうだった。
送ったメッセージに既読はつくが返信はない。コタローの散歩に行くタイミングに合わせて待ち伏せてみようか、さすがにそれはストーカーか、と悩んでいたら、どうも散歩に連れて行っているのは怜のお母さんのようだった。さりげなく聞いてみると、「怜の体調が悪くて……」とあいまいな笑顔を返された。
(なんだ、それ)
自分は、怜にとって大切な存在だと思っていた。出会って1年も経っていないが、それでも怜のことを一番分かっているのは自分だと思っていたし、両思いで――少なくともそんな一言で、しかも一方的に終わるような関係だとは思っていなかった。
怜だけは、違うと思っていたのに。
裏切られた気がした。
そりゃ、勝手に期待した自分が悪いのだけれど。そんな相手に対して、一緒に暮らしたい、なんて浮かれていた自分も許せなかった。
それでも当初予定していた国立大学を受験したのは、もうただの意地に近かった。
「はー……」
試験を終え、大学の教室を出た制服姿の大輝はため息をついた。午後の少し曇った空を見上げる。
「受かってる……といい、けど」
あれから過去問の点数は伸びていた。安定して合格点は取れているし、共通テストの点数も悪くなかったから、順調にいけば大丈夫だろう。
大丈夫だろうとは思う、けれど。
今の状況では全く自信がない。
「入試、終わったよ」
怜にメッセージを送る。大輝が受験した大学には後期入試はないし、これで全部終わりだ。
すぐに既読はつく、が、返信はない。それに無性に腹が立った。
「会いに行っていい?」
続けて送り、ポケットにスマホを突っ込む。
入試が終わるまで会うのを控える、という話だったはずだ。なら、最後に別れる理由くらい聞いたっていいだろう。
苛々したまま飛行機に乗り、帰途につく。すっかり暗くなった畦道を歩いていると、林の向こうに三田家と、その向こうに長澤家が見えてくる。
二階、怜の部屋には煌々と明かりがついていた。ポケットからスマホを取り出すが、相変わらず返信は来ていない。
「……いるじゃん」
スーツケースを引っ張り、大輝は自宅の前を通り過ぎた。そのまま長澤家の前に行き、インターホンを押す。
「はい……?」
「三田大輝です」
名前を告げると、インターホンの向こうで怜の母は少し困惑したようだった。少しして、玄関が開く。
「……どうしたの? もう遅いけど……」
「怜に会いに来ました。約束したので」
出てきた怜の母は、怜に似た仕草で眉を下げた。前に見た時よりも、若干細くなっている気がする。
「あの、大輝くん……気持ちは嬉しいけど……」
「いますよね、怜。会わせてください」
「でも、怜は今……その……実は、ずっと部屋から出てこなくて」
「それ、多分俺が原因です」
大輝の言葉に、怜の母親はしばし考えこんだ。それから、何かを決心したように「わかったわ」と頷いた。内鍵を開けてもらい、中に入る。
「ええっと、驚かないで欲しいんだけど、あの子……ちょっと、不安定なところあって」
「知ってます。手首切る癖ありますよね」
庭を横切りながら大輝が答えると、「そう」と怜の母はため息のような声を漏らした。
「……まあ、知ってるわよね。それくらいは」
「そうですね、彼氏なんで」
「……ありがとうね、あの子のことそう思ってくれて」
玄関で待っていたコタローを撫で、二階の怜の部屋に向かう。
「おい、怜、来たぞ」
ドアノブには鍵がかかっていた。ただ幸いコインで開けられるタイプだったので、ポケットにあった小銭で鍵を開ける。
部屋の中は、クリスマスに来た時と全く変わっていなかった。物の少ない本棚と、色褪せたラグ。奥にあるベッドの上で、布団にくるまった怜が膝を抱えていた。
ぼさぼさの髪の下、泣き腫らした目がじっと大輝を見る。大輝の想像していた通り、右手にカッターが握られていた。腕以外も切っているようで、布団からは少し綿が飛び出し、壁紙にもいくつもの筋ができている。
「怜」
近寄ろうとすると、怜はカッターを大輝に向けてきた。
「……何しに来たんだよ」
「会いに来たよ。受験終わったから」
「来んな」
威嚇するように刃先を振られ、怜のベッドから少し離れたところで立ち止まる。
「別れただろ、何だよ」
「でも、『会いに行っていい?』って聞いたけど、なんも返信しなかったじゃん、怜」
「無視してんだよわかれよ」
「わかるわけないだろ、そんなの」
大輝の言葉に、怜は息を吸って唇を噛んだ。カチカチと刃を出し入れする。
「つか、俺そもそも別れたつもりねえからな、つか別れねえっつったし。怜が勝手に言ってきただけだろ」
「はあ? 何だよそれ」
ぐっ、とカッターを握る怜の手に力がこもるのが見えた。
「大輝は東京に行って、俺はここから出られなくて。……別れる以外、何があんだよ」
「いや、遠距離でいいだろ。しんどかったけど、実際2ヶ月くらいは会わなくても何とかなったわけだし」
「無理に決まってんだろ!」
握ったカッターを、怜は布団の上に振り下ろした。力任せにいくつも穴をあける。
「東京……行って、そしたら大輝は俺のことなんか忘れるに決まってんじゃんか。向こうでかわいい女の子とか、もっといい人とか、そういうのと出会って、俺のことなんかどうでもよくなるじゃん。じゃあ先に別れといたほうがいいだろうが」
「なんだよそれ」
どうして自分の浮気が決定事項になっているんだ。勝手な怜の言い分にカチンときて、大輝の頬が引きつる。
「なんで勝手に決めつけんだよ」
「じゃあ! なんで違うって言えるんだよっ!」
叫んだ怜は、カッターで布団を大きく切り裂いた。大輝を睨みつけ、大きく肩で息をする。
「学校に行けない、会社に行けない、普通になれない、それを覆せるほどの能力が何かあるわけでもない、そんなやつと付き合って、何のいいことがあるんだよ!」
意味が分からなかった。怜はコタローの散歩のために大輝が交際を申し込んだとでも思っているのだろうか。
何かができるから怜と付き合っていたわけではない。怜と同じ時間を過ごしたかったから、怜のことをもっと知りたかったから、だから一緒にいただけだ。
夏祭りも、クリスマスも、毎日の散歩も、全部——ここまで過ごした時間を、否定された気がした。
「好きな奴と、好きだから付き合って悪いのかよ」
「……じゃあ、結局今だけってことじゃないか、それは」
膝の上に顔を乗せ、怜はカッターを持った手元に目を落とした。充血した目が潤んでいる。それをごまかすようにしきりに瞬きをし、怜は裂け目から覗く綿を指先でいじった。
「大輝は就職も向こうでするんだろ。メリットがないんだから、そのうち俺のことは好きじゃなくなって、それで終わりだ」
「いや……あのさ、だから何でそう、俺がすぐ心変わりするって決めつけるんだ?」
なんで、好きだって言ってるのにそれを信じてくれないんだ。
苛立った大輝が怜に近づくと、ぱっと怜が顔を上げた。
「来るな、っつってんだろ!」
立ちあがった怜がカッターを振り、とっさに大輝は体の前に腕をかざした。何かが触れた、と思った次の瞬間に、かすかな痛みが襲ってくる。見下ろすと、制服のブレザーとシャツがざっくりと切れていた。だが、その二枚が防いでくれたようで、大輝の腕の傷は浅い。
「っ……!」
予想外だったのか、怜の方も両手でカッターを構えたままの格好で固まり、息も忘れたように目を見開いている。たくし上げられた左腕に、新しい傷が増えているのが見えた。
大輝は自分の左腕の傷を見た。ぷくりと小さな血の粒ができている。不思議なことに、その傷にすっと大輝の怒りが消えていった。
怜は——何から、楽になりたかったんだろうか。
「……俺に、いつか捨てられるって思うのが、辛かった?」
左腕を下ろして聞く。しばらくして呼吸を思い出したのか、不規則に引きつったような息をした怜が小さく首を振った。
「わ、わかんない」
「……そっか」
「だって、大輝には……そっちの方がいいから。俺、俺……なんかじゃなくて、女の子と結婚して、家庭持って、そういう、そういう普通のほうが、幸せに、なれると思うから。俺と一緒にいても苦労しかかけないし、そもそも男だから結婚もできないし」
話しながら、怜は鼻をすすった。
「でもじゃあ俺は一生幸せになれないんだとか、そりゃ自分が悪いから当然なんだけど、こうやって一回、大輝に好きって言ってもらえただけで分不相応なんだけど、でも先なんてないんだなって思うと、俺って何なんだろうって……なって……」
「……全部、わーってなっちゃう感じ?」
こくりと怜が頷いた。左手で落ちてきた涙を拭う。
そっか、ともう一度大輝は繰り返した。
こんなに自分がぐちゃぐちゃになっても、それでも大輝の幸せを願ってくれるなんて、いじらしすぎるだろ。
そういう怜だからこそ、一緒にいたいと思うのに。
気づいた時には、自然と笑みがこぼれていた。
「俺はさあ、普通に幸せになりたいんじゃなくて、怜と幸せになりたいんだけど。そういうのはダメなの?」
「……どう、すんのさ。そんなの」
今度は右目を拭った怜が、それでもカッターを大輝に向けたまま言った。だがその口調は少し拗ねているだけのようで、表情も刺々しさが消えてきている。
「俺が外で働くから、怜は主夫してよ」
「な……にそれ」
大輝の言葉に、怜が怪訝そうな顔になった。
「クリスマスに『ずっと一緒にいよう』って言ったろ。そのまんまの意味だよ。一緒に暮らそうよ。一人で生きられなくても、二人なら生きられるだろ」
瞬きをする怜の手が、段々と下りていく。
「大学に行きたいのも、怜と離れるとかじゃなくて……二人で暮らすための選択肢を増やしたいと思ったからだし」
「……ふうん」
首を傾げた怜が、口の端を持ち上げた。分かってもらえただろうか、と大輝がほっとしたのもつかの間、怜の顔に浮かんだのは皮肉っぽい笑みだった。
「それ、さあ」
にやにやと笑っているが、目は悲しげだった。
「俺にカッター突き付けられてるから、逃げたくてそう言ってるだけだろ」
まだ右手に持っているカッターを弄びながら、やれやれ、とでもいうように怜は肩をすくめて溜め息をついた。洋画にでも出てきそうな大仰さだ。
「そうやって調子のいいこと言って、部屋出た瞬間通報するか……そうでなくても、東京行ったら音信不通になるんだろ。分かってんだよ」
山田もそうだったよ、とぼそりと付け加える。
「……前から思ってたよ」
自分はそうじゃないのに、と思いつつ大輝は反論したが、怜の視線は冷ややかだ。
「じゃあなんで今更言うんだよ」
「いや、主夫になってほしいとかさあ……ちょっとさあ、頭お花畑過ぎるじゃんか。大学にも合格してないのに。ちゃんと就職して、怜と二人暮らしできるくらい稼げるようになってから言いたかったんだよ」
「どうだか」
怜の視点から見れば、そうやって疑いたくなる気持ちも分からないではない。
結局大輝なんて他人なんだし、二度同じ手口で騙されるのを警戒するのは当然だ。
だが、自分は逃げたいがために嘘を言っているわけではない。本心から怜と二人で暮らしたいと言っているだけなのに。
もう信じない、という怜の表情は痛々しくて、大輝の胸を焦りと共に締め付けてくる。
「俺、まだ怜と一緒にいたいよ。怜とお酒飲んでみたいし、旅行とかも行きたい。郊外の庭付き一軒家で一緒に犬飼いたいし、手作り弁当とかすげえ憧れるし、スーツのままエプロン姿の怜に襲われたい」
「いや……なにそれ」
どうしたら信じてもらえるのだろう。
なぜか苦虫を噛み潰したような顔になる怜を見ながら、大輝は考えた。
どんなに言葉を尽くしても、今の怜には届かない気がする。
しばらく怜と無言で見つめ合った大輝に、ふと案が浮かんだ。
(……今、信じてもらえなくても良いのか)
最終的に、怜が信じざるを得ない状況になればいいのだ。
「東京、一緒に行こっか」
大輝がそう口にすると、怜はただわけが分からないという顔で大輝を見つめた。
「……は?」
「名案だろ」
言いながら、大輝は怜の右手からカッターを取った。代わりに指を絡める。
腫れぼったい怜の顔を見上げて、目を閉じた。
握り返してくる指の感触とともに、柔らかいものが唇に当たる。
正直、もう受験どころではなかった。
何をしていても、怜に別れを告げられたという事実が頭の中にあって嫌な動悸が止まらない。言われた言葉を思い出すたびに吐きそうだった。
送ったメッセージに既読はつくが返信はない。コタローの散歩に行くタイミングに合わせて待ち伏せてみようか、さすがにそれはストーカーか、と悩んでいたら、どうも散歩に連れて行っているのは怜のお母さんのようだった。さりげなく聞いてみると、「怜の体調が悪くて……」とあいまいな笑顔を返された。
(なんだ、それ)
自分は、怜にとって大切な存在だと思っていた。出会って1年も経っていないが、それでも怜のことを一番分かっているのは自分だと思っていたし、両思いで――少なくともそんな一言で、しかも一方的に終わるような関係だとは思っていなかった。
怜だけは、違うと思っていたのに。
裏切られた気がした。
そりゃ、勝手に期待した自分が悪いのだけれど。そんな相手に対して、一緒に暮らしたい、なんて浮かれていた自分も許せなかった。
それでも当初予定していた国立大学を受験したのは、もうただの意地に近かった。
「はー……」
試験を終え、大学の教室を出た制服姿の大輝はため息をついた。午後の少し曇った空を見上げる。
「受かってる……といい、けど」
あれから過去問の点数は伸びていた。安定して合格点は取れているし、共通テストの点数も悪くなかったから、順調にいけば大丈夫だろう。
大丈夫だろうとは思う、けれど。
今の状況では全く自信がない。
「入試、終わったよ」
怜にメッセージを送る。大輝が受験した大学には後期入試はないし、これで全部終わりだ。
すぐに既読はつく、が、返信はない。それに無性に腹が立った。
「会いに行っていい?」
続けて送り、ポケットにスマホを突っ込む。
入試が終わるまで会うのを控える、という話だったはずだ。なら、最後に別れる理由くらい聞いたっていいだろう。
苛々したまま飛行機に乗り、帰途につく。すっかり暗くなった畦道を歩いていると、林の向こうに三田家と、その向こうに長澤家が見えてくる。
二階、怜の部屋には煌々と明かりがついていた。ポケットからスマホを取り出すが、相変わらず返信は来ていない。
「……いるじゃん」
スーツケースを引っ張り、大輝は自宅の前を通り過ぎた。そのまま長澤家の前に行き、インターホンを押す。
「はい……?」
「三田大輝です」
名前を告げると、インターホンの向こうで怜の母は少し困惑したようだった。少しして、玄関が開く。
「……どうしたの? もう遅いけど……」
「怜に会いに来ました。約束したので」
出てきた怜の母は、怜に似た仕草で眉を下げた。前に見た時よりも、若干細くなっている気がする。
「あの、大輝くん……気持ちは嬉しいけど……」
「いますよね、怜。会わせてください」
「でも、怜は今……その……実は、ずっと部屋から出てこなくて」
「それ、多分俺が原因です」
大輝の言葉に、怜の母親はしばし考えこんだ。それから、何かを決心したように「わかったわ」と頷いた。内鍵を開けてもらい、中に入る。
「ええっと、驚かないで欲しいんだけど、あの子……ちょっと、不安定なところあって」
「知ってます。手首切る癖ありますよね」
庭を横切りながら大輝が答えると、「そう」と怜の母はため息のような声を漏らした。
「……まあ、知ってるわよね。それくらいは」
「そうですね、彼氏なんで」
「……ありがとうね、あの子のことそう思ってくれて」
玄関で待っていたコタローを撫で、二階の怜の部屋に向かう。
「おい、怜、来たぞ」
ドアノブには鍵がかかっていた。ただ幸いコインで開けられるタイプだったので、ポケットにあった小銭で鍵を開ける。
部屋の中は、クリスマスに来た時と全く変わっていなかった。物の少ない本棚と、色褪せたラグ。奥にあるベッドの上で、布団にくるまった怜が膝を抱えていた。
ぼさぼさの髪の下、泣き腫らした目がじっと大輝を見る。大輝の想像していた通り、右手にカッターが握られていた。腕以外も切っているようで、布団からは少し綿が飛び出し、壁紙にもいくつもの筋ができている。
「怜」
近寄ろうとすると、怜はカッターを大輝に向けてきた。
「……何しに来たんだよ」
「会いに来たよ。受験終わったから」
「来んな」
威嚇するように刃先を振られ、怜のベッドから少し離れたところで立ち止まる。
「別れただろ、何だよ」
「でも、『会いに行っていい?』って聞いたけど、なんも返信しなかったじゃん、怜」
「無視してんだよわかれよ」
「わかるわけないだろ、そんなの」
大輝の言葉に、怜は息を吸って唇を噛んだ。カチカチと刃を出し入れする。
「つか、俺そもそも別れたつもりねえからな、つか別れねえっつったし。怜が勝手に言ってきただけだろ」
「はあ? 何だよそれ」
ぐっ、とカッターを握る怜の手に力がこもるのが見えた。
「大輝は東京に行って、俺はここから出られなくて。……別れる以外、何があんだよ」
「いや、遠距離でいいだろ。しんどかったけど、実際2ヶ月くらいは会わなくても何とかなったわけだし」
「無理に決まってんだろ!」
握ったカッターを、怜は布団の上に振り下ろした。力任せにいくつも穴をあける。
「東京……行って、そしたら大輝は俺のことなんか忘れるに決まってんじゃんか。向こうでかわいい女の子とか、もっといい人とか、そういうのと出会って、俺のことなんかどうでもよくなるじゃん。じゃあ先に別れといたほうがいいだろうが」
「なんだよそれ」
どうして自分の浮気が決定事項になっているんだ。勝手な怜の言い分にカチンときて、大輝の頬が引きつる。
「なんで勝手に決めつけんだよ」
「じゃあ! なんで違うって言えるんだよっ!」
叫んだ怜は、カッターで布団を大きく切り裂いた。大輝を睨みつけ、大きく肩で息をする。
「学校に行けない、会社に行けない、普通になれない、それを覆せるほどの能力が何かあるわけでもない、そんなやつと付き合って、何のいいことがあるんだよ!」
意味が分からなかった。怜はコタローの散歩のために大輝が交際を申し込んだとでも思っているのだろうか。
何かができるから怜と付き合っていたわけではない。怜と同じ時間を過ごしたかったから、怜のことをもっと知りたかったから、だから一緒にいただけだ。
夏祭りも、クリスマスも、毎日の散歩も、全部——ここまで過ごした時間を、否定された気がした。
「好きな奴と、好きだから付き合って悪いのかよ」
「……じゃあ、結局今だけってことじゃないか、それは」
膝の上に顔を乗せ、怜はカッターを持った手元に目を落とした。充血した目が潤んでいる。それをごまかすようにしきりに瞬きをし、怜は裂け目から覗く綿を指先でいじった。
「大輝は就職も向こうでするんだろ。メリットがないんだから、そのうち俺のことは好きじゃなくなって、それで終わりだ」
「いや……あのさ、だから何でそう、俺がすぐ心変わりするって決めつけるんだ?」
なんで、好きだって言ってるのにそれを信じてくれないんだ。
苛立った大輝が怜に近づくと、ぱっと怜が顔を上げた。
「来るな、っつってんだろ!」
立ちあがった怜がカッターを振り、とっさに大輝は体の前に腕をかざした。何かが触れた、と思った次の瞬間に、かすかな痛みが襲ってくる。見下ろすと、制服のブレザーとシャツがざっくりと切れていた。だが、その二枚が防いでくれたようで、大輝の腕の傷は浅い。
「っ……!」
予想外だったのか、怜の方も両手でカッターを構えたままの格好で固まり、息も忘れたように目を見開いている。たくし上げられた左腕に、新しい傷が増えているのが見えた。
大輝は自分の左腕の傷を見た。ぷくりと小さな血の粒ができている。不思議なことに、その傷にすっと大輝の怒りが消えていった。
怜は——何から、楽になりたかったんだろうか。
「……俺に、いつか捨てられるって思うのが、辛かった?」
左腕を下ろして聞く。しばらくして呼吸を思い出したのか、不規則に引きつったような息をした怜が小さく首を振った。
「わ、わかんない」
「……そっか」
「だって、大輝には……そっちの方がいいから。俺、俺……なんかじゃなくて、女の子と結婚して、家庭持って、そういう、そういう普通のほうが、幸せに、なれると思うから。俺と一緒にいても苦労しかかけないし、そもそも男だから結婚もできないし」
話しながら、怜は鼻をすすった。
「でもじゃあ俺は一生幸せになれないんだとか、そりゃ自分が悪いから当然なんだけど、こうやって一回、大輝に好きって言ってもらえただけで分不相応なんだけど、でも先なんてないんだなって思うと、俺って何なんだろうって……なって……」
「……全部、わーってなっちゃう感じ?」
こくりと怜が頷いた。左手で落ちてきた涙を拭う。
そっか、ともう一度大輝は繰り返した。
こんなに自分がぐちゃぐちゃになっても、それでも大輝の幸せを願ってくれるなんて、いじらしすぎるだろ。
そういう怜だからこそ、一緒にいたいと思うのに。
気づいた時には、自然と笑みがこぼれていた。
「俺はさあ、普通に幸せになりたいんじゃなくて、怜と幸せになりたいんだけど。そういうのはダメなの?」
「……どう、すんのさ。そんなの」
今度は右目を拭った怜が、それでもカッターを大輝に向けたまま言った。だがその口調は少し拗ねているだけのようで、表情も刺々しさが消えてきている。
「俺が外で働くから、怜は主夫してよ」
「な……にそれ」
大輝の言葉に、怜が怪訝そうな顔になった。
「クリスマスに『ずっと一緒にいよう』って言ったろ。そのまんまの意味だよ。一緒に暮らそうよ。一人で生きられなくても、二人なら生きられるだろ」
瞬きをする怜の手が、段々と下りていく。
「大学に行きたいのも、怜と離れるとかじゃなくて……二人で暮らすための選択肢を増やしたいと思ったからだし」
「……ふうん」
首を傾げた怜が、口の端を持ち上げた。分かってもらえただろうか、と大輝がほっとしたのもつかの間、怜の顔に浮かんだのは皮肉っぽい笑みだった。
「それ、さあ」
にやにやと笑っているが、目は悲しげだった。
「俺にカッター突き付けられてるから、逃げたくてそう言ってるだけだろ」
まだ右手に持っているカッターを弄びながら、やれやれ、とでもいうように怜は肩をすくめて溜め息をついた。洋画にでも出てきそうな大仰さだ。
「そうやって調子のいいこと言って、部屋出た瞬間通報するか……そうでなくても、東京行ったら音信不通になるんだろ。分かってんだよ」
山田もそうだったよ、とぼそりと付け加える。
「……前から思ってたよ」
自分はそうじゃないのに、と思いつつ大輝は反論したが、怜の視線は冷ややかだ。
「じゃあなんで今更言うんだよ」
「いや、主夫になってほしいとかさあ……ちょっとさあ、頭お花畑過ぎるじゃんか。大学にも合格してないのに。ちゃんと就職して、怜と二人暮らしできるくらい稼げるようになってから言いたかったんだよ」
「どうだか」
怜の視点から見れば、そうやって疑いたくなる気持ちも分からないではない。
結局大輝なんて他人なんだし、二度同じ手口で騙されるのを警戒するのは当然だ。
だが、自分は逃げたいがために嘘を言っているわけではない。本心から怜と二人で暮らしたいと言っているだけなのに。
もう信じない、という怜の表情は痛々しくて、大輝の胸を焦りと共に締め付けてくる。
「俺、まだ怜と一緒にいたいよ。怜とお酒飲んでみたいし、旅行とかも行きたい。郊外の庭付き一軒家で一緒に犬飼いたいし、手作り弁当とかすげえ憧れるし、スーツのままエプロン姿の怜に襲われたい」
「いや……なにそれ」
どうしたら信じてもらえるのだろう。
なぜか苦虫を噛み潰したような顔になる怜を見ながら、大輝は考えた。
どんなに言葉を尽くしても、今の怜には届かない気がする。
しばらく怜と無言で見つめ合った大輝に、ふと案が浮かんだ。
(……今、信じてもらえなくても良いのか)
最終的に、怜が信じざるを得ない状況になればいいのだ。
「東京、一緒に行こっか」
大輝がそう口にすると、怜はただわけが分からないという顔で大輝を見つめた。
「……は?」
「名案だろ」
言いながら、大輝は怜の右手からカッターを取った。代わりに指を絡める。
腫れぼったい怜の顔を見上げて、目を閉じた。
握り返してくる指の感触とともに、柔らかいものが唇に当たる。
