障子の隙間から、暗い窓の外が見える。明かりのついた怜の部屋を見ているだけで、大輝は自分の顔がだらしなくにやつくのを感じていた。
(妊娠させたい、だって)
あの瞬間の切羽詰まったような怜の表情も、艶のある低い声も、2ヶ月が経とうとしている今でも忘れられない。思い出すたびに全身が――特に、怜と繋がった部分が熱くなってきてしまう。
「……ふへへ」
我ながら、相当気持ち悪いとは思う。けれど、怜にそこまで求められているという事実が嬉しくてならない。子供を産んであげられなくて申し訳ないと思う反面、もし自分が女性だったら際限なく怜の子を産んでしまいそうだから、男でよかったのかもしれないとも思う。
にやけた顔のまま、今日来たばかりの薄ピンクの封筒を部屋の明かりにかざす。
合格通知。私立の滑り止めだが、それでも来年通えるところがある、という安心感がある。
(一緒に……いたいな、やっぱ)
怜と一緒に暮らしたい。
ようやく、自分の欲しい将来が見えた気がした。
大輝を見て好きと言って、全身全霊で求めてくれる。大輝の一言一句でころころと表情を変え、時には手首まで切ってしまう。普通になりたくてなりきれなくて、本人に言ったら嫌がるだろうけれど、そこがまたかわいい。
怜を幸せにしたい。いや、一緒に幸せになりたい。一緒に家で焼きそばを作って、動画で花火を見て笑える生活がしたいのだ。
無理だなんて、もう言わせたくなかった。
外で働けないなら専業主夫になってもらって、自分が怜を養えるくらい稼げばいいだけの話だ。
そのためには——まず大学に行って、できるだけ条件のいいところに就職するのが一番だろう。
(だいぶ恥ずかしいこと考えてるよな、俺)
だが、庭のある大きな家で犬を飼いたいな、手料理を作る怜の姿はかわいいだろうな、という妄想は際限なく膨らんでいく。
だが、まだ受験そのものが終わったわけではない。来週には本命の国立の二次試験がある。気持ちを切り替えて勉強に戻らなくては。
一度顔でも洗おうと階下に降りると、「ちょっと大輝」と母に呼び止められた。
「何?」
「……えっと」
言いづらそうにしている母を見て、大輝はダイニングの机に座った。何やら込み入った話になりそうだ。
「入学金のことなんだけど」
「うん」
さっきの封筒を思い出しながら大輝は頷いた。確か、1週間以内に入学金の振り込みをしないと辞退扱いになる、と書いてあったはずだ。
なんだか嫌な予感がする。
「私立と国立、どっちか一校分しか払えないの」
「うん……?」
いくら受かろうが自分が行くのは一つだけだから、入学金は一校分でいいのではないか? 首を傾げた大輝は、脳内でもう一度スケジュールを考え直した。
本命の試験があるのは来週、2月の最終週だ。合格発表も入学金の支払いも3月に入ってからになる。それに対して、今来た合格通知の入学金納入期限も来週。これを払わないと、入学はできない。
もちろん、一度払った入学金は戻ってこない。
「……えっと、つまり……国立落ちてもこの私立に通える、っていう保険をかけることはできない、って意味でいい? というか、今私立に払ったらそっちに通うしかないっていうか」
「そう……なると思う」
神妙な顔で頷く母を、大輝はじっと見た。
「ごめんね、お父さんが進学費用は出してくれるって話だったんだけど、今度二人目が生まれるから無理って言われちゃって……うちの貯金だと、1校分しか出せないの」
「ああ……わかった」
ため息をついて大輝は立ち上がった。
「……ってことは、学費も奨学金とか考えた方がいいってことだよね。借りなくていいって話だったけど」
「や、それは……またお父さんと話してみるから分からないけれど……」
「いいよ、もう」
母の視線を感じながら、大輝は財布だけ掴んで玄関に向かった。
「ちょっとコンビニ行ってくるから」
気を付けてね、という声の途中で玄関を閉める。
ぶるりと寒さに体を震わせた大輝は、自分がうっかり室内着のままコートも着ないで出てきてしまったことに気が付いた。だが今更戻れない。
苛立ちをぶつけるように庭の玉砂利を蹴り上げ、道路に出る。
「……何だよ、今更。金なら心配ないって言ってたじゃないか」
なんで、このタイミングで約束を破られなきゃいけないんだ。
遠慮して受験する大学の数も絞って、学費の安い国立志望にしていた自分が本当に馬鹿らしい。
家にお金がないのは仕方ない。母や祖母を責める気にはなれなかった。大学に行かせようとしてくれるのはありがたいし、なけなしの貯金を出させてしまって申し訳ないと思う。
ただただ、父にとってその程度でしかない自分が悔しかった。
「生まれるからなんだよ。生まれてんだよこっちは」
大股で日の暮れた畦道を歩く。刈り入れの終わった田んぼも、電照のついたビニールハウスも、道端に落ちている小石も、全てが腹立たしい。
「わん!」
「大輝」
背後から呼びかけられ、大輝は立ち止まった。振り向くと、懐中電灯を持った怜とコタローが立っていた。
突然の邂逅に、大輝の心が跳ねる。
「怜!」
直接会うのはクリスマス以来だ。
「久しぶり」と笑う怜にキスをしたくなるが、いくら暗くても外なので自重する。
1回立ち止まった怜が、リードを持ったコートの袖を引っ張った。それからだんだん近寄ってくる。
「散歩?」
「うん。一つ大学受かったんでしょ。おめでとう」
「待っててくれる怜のおかげだよ」
本当にその通りだった。怜との未来があると思うから頑張れるのだ。
……もちろん、恥ずかしくて怜本人にもそんなことを言ったことはないが。
横まで来た大輝に懐中電灯を向けた怜は、服装を上から下までじっくりと眺め回した。
「……寒くないの、大輝」
「寒い」
端的に答えると、「じゃあなんでそんな格好で家出てきたのさ」と怜は不思議そうな顔をした。
「なんか……むしゃくしゃして飛び出してきた」
「……嫌なことでもあったの?」
「んー……」
こんなことを話されても怜が困るだけではないか。少し迷った大輝だったが、我がことのようにしょんぼりとした顔をする怜に口を開いた。
「……大学の学費、父さんが払ってくれる予定だったんだよ。でもなんか突然『再婚相手に子ども生まれるから無理』って言われてさあ。なんなんだよそれ、みたいな」
「えっ、それって……」
怜は考え込むように上を見て、眉をひそめた。
「……大輝、大学行けないってこと?」
「いや、それは大丈夫」
大輝はきっぱりと首を振った。
「奨学金借りてバイトして……なんとかするから」
というか、なんとかしなくてはいけない、と思う。
怜と一緒に暮らすという目的もあるが、それだけではない。自分の実力不足で入試に落ちるならともかく、他人のせいで自分の望んでいた進路を変えさせられるというのが我慢ならなかった。
「あ、そ、そうなんだ」
しょんぼりした顔のまま、俯いた怜が黙り込んだ。
歩きながら大きく息を吸った大輝は、はあっ、と大きく白い息を吐いた。怜に少し話を聞いてもらっただけだったのに、さっきまでのぐちゃぐちゃした怒りが収まっている。
やっぱり、好きだ。
脈絡もなくそう思う。
隣を見ながら歩いていると、項垂れていた怜がちらりと大輝を見た。
「ねえ、大輝。大輝は、そんなに……大学行きたいの?」
「うん」
迷わず頷くと、「そっか」と怜は泣き笑いのような表情をした。
「えっと……確か、本命、来週だったよね」
「そう。水曜」
もう一度頷くと、怜も頷き返してくる。
「……頑張ってね、応援してる」
「ありがとう。あとちょっと頑張るから!」
うん、と頷く怜の表情が寂しそうなのは、やっぱり怜も会いたい気持ちを我慢してくれているからなのだろう。
苦しい思いをさせているのに、それだけ自分に会いたいと思ってくれていることが嬉しくてならない。
歩いているうちに、怜の家の前まで戻ってくる。名残惜しいが、寒すぎてそろそろ部屋の中に入りたい気持ちもある。
「それじゃ、受験終わったら会おうな」
「……うん」
「なあ怜」
いつか一緒に暮らそうな、と言いたくなり、いくらなんでも気が早すぎるだろうと思ってやめる。まだどこに入学が決まったわけでもないのに何をアホなことを言っているんだと思われそうだ。
「……大好きだよ」
かわりに出てきた言葉は陳腐な気がしたが、他にいい言葉が見つからない。
「うん……」
俺も大好きだよ、と返してくる怜の言葉は――だが、少しだけ覇気がない気がした。
「ねえ大輝、その……」
「ん?」
俯いて首元に手をやった怜の手首にガーゼが貼られているのが見え、大輝は息を呑んだ。
「れ、怜」
自分のせいなのだろうか。何と言っていいか分からずじっと見てしまう。
「あのさ」
しばらく沈黙があって、それからポツリと怜の声が聞こえた。
「……別れよ」
何を言われたか、分からなかった。
「……え?」
大輝が気づいたときには、ただ長澤家の門が目の前にあるだけだった。
(妊娠させたい、だって)
あの瞬間の切羽詰まったような怜の表情も、艶のある低い声も、2ヶ月が経とうとしている今でも忘れられない。思い出すたびに全身が――特に、怜と繋がった部分が熱くなってきてしまう。
「……ふへへ」
我ながら、相当気持ち悪いとは思う。けれど、怜にそこまで求められているという事実が嬉しくてならない。子供を産んであげられなくて申し訳ないと思う反面、もし自分が女性だったら際限なく怜の子を産んでしまいそうだから、男でよかったのかもしれないとも思う。
にやけた顔のまま、今日来たばかりの薄ピンクの封筒を部屋の明かりにかざす。
合格通知。私立の滑り止めだが、それでも来年通えるところがある、という安心感がある。
(一緒に……いたいな、やっぱ)
怜と一緒に暮らしたい。
ようやく、自分の欲しい将来が見えた気がした。
大輝を見て好きと言って、全身全霊で求めてくれる。大輝の一言一句でころころと表情を変え、時には手首まで切ってしまう。普通になりたくてなりきれなくて、本人に言ったら嫌がるだろうけれど、そこがまたかわいい。
怜を幸せにしたい。いや、一緒に幸せになりたい。一緒に家で焼きそばを作って、動画で花火を見て笑える生活がしたいのだ。
無理だなんて、もう言わせたくなかった。
外で働けないなら専業主夫になってもらって、自分が怜を養えるくらい稼げばいいだけの話だ。
そのためには——まず大学に行って、できるだけ条件のいいところに就職するのが一番だろう。
(だいぶ恥ずかしいこと考えてるよな、俺)
だが、庭のある大きな家で犬を飼いたいな、手料理を作る怜の姿はかわいいだろうな、という妄想は際限なく膨らんでいく。
だが、まだ受験そのものが終わったわけではない。来週には本命の国立の二次試験がある。気持ちを切り替えて勉強に戻らなくては。
一度顔でも洗おうと階下に降りると、「ちょっと大輝」と母に呼び止められた。
「何?」
「……えっと」
言いづらそうにしている母を見て、大輝はダイニングの机に座った。何やら込み入った話になりそうだ。
「入学金のことなんだけど」
「うん」
さっきの封筒を思い出しながら大輝は頷いた。確か、1週間以内に入学金の振り込みをしないと辞退扱いになる、と書いてあったはずだ。
なんだか嫌な予感がする。
「私立と国立、どっちか一校分しか払えないの」
「うん……?」
いくら受かろうが自分が行くのは一つだけだから、入学金は一校分でいいのではないか? 首を傾げた大輝は、脳内でもう一度スケジュールを考え直した。
本命の試験があるのは来週、2月の最終週だ。合格発表も入学金の支払いも3月に入ってからになる。それに対して、今来た合格通知の入学金納入期限も来週。これを払わないと、入学はできない。
もちろん、一度払った入学金は戻ってこない。
「……えっと、つまり……国立落ちてもこの私立に通える、っていう保険をかけることはできない、って意味でいい? というか、今私立に払ったらそっちに通うしかないっていうか」
「そう……なると思う」
神妙な顔で頷く母を、大輝はじっと見た。
「ごめんね、お父さんが進学費用は出してくれるって話だったんだけど、今度二人目が生まれるから無理って言われちゃって……うちの貯金だと、1校分しか出せないの」
「ああ……わかった」
ため息をついて大輝は立ち上がった。
「……ってことは、学費も奨学金とか考えた方がいいってことだよね。借りなくていいって話だったけど」
「や、それは……またお父さんと話してみるから分からないけれど……」
「いいよ、もう」
母の視線を感じながら、大輝は財布だけ掴んで玄関に向かった。
「ちょっとコンビニ行ってくるから」
気を付けてね、という声の途中で玄関を閉める。
ぶるりと寒さに体を震わせた大輝は、自分がうっかり室内着のままコートも着ないで出てきてしまったことに気が付いた。だが今更戻れない。
苛立ちをぶつけるように庭の玉砂利を蹴り上げ、道路に出る。
「……何だよ、今更。金なら心配ないって言ってたじゃないか」
なんで、このタイミングで約束を破られなきゃいけないんだ。
遠慮して受験する大学の数も絞って、学費の安い国立志望にしていた自分が本当に馬鹿らしい。
家にお金がないのは仕方ない。母や祖母を責める気にはなれなかった。大学に行かせようとしてくれるのはありがたいし、なけなしの貯金を出させてしまって申し訳ないと思う。
ただただ、父にとってその程度でしかない自分が悔しかった。
「生まれるからなんだよ。生まれてんだよこっちは」
大股で日の暮れた畦道を歩く。刈り入れの終わった田んぼも、電照のついたビニールハウスも、道端に落ちている小石も、全てが腹立たしい。
「わん!」
「大輝」
背後から呼びかけられ、大輝は立ち止まった。振り向くと、懐中電灯を持った怜とコタローが立っていた。
突然の邂逅に、大輝の心が跳ねる。
「怜!」
直接会うのはクリスマス以来だ。
「久しぶり」と笑う怜にキスをしたくなるが、いくら暗くても外なので自重する。
1回立ち止まった怜が、リードを持ったコートの袖を引っ張った。それからだんだん近寄ってくる。
「散歩?」
「うん。一つ大学受かったんでしょ。おめでとう」
「待っててくれる怜のおかげだよ」
本当にその通りだった。怜との未来があると思うから頑張れるのだ。
……もちろん、恥ずかしくて怜本人にもそんなことを言ったことはないが。
横まで来た大輝に懐中電灯を向けた怜は、服装を上から下までじっくりと眺め回した。
「……寒くないの、大輝」
「寒い」
端的に答えると、「じゃあなんでそんな格好で家出てきたのさ」と怜は不思議そうな顔をした。
「なんか……むしゃくしゃして飛び出してきた」
「……嫌なことでもあったの?」
「んー……」
こんなことを話されても怜が困るだけではないか。少し迷った大輝だったが、我がことのようにしょんぼりとした顔をする怜に口を開いた。
「……大学の学費、父さんが払ってくれる予定だったんだよ。でもなんか突然『再婚相手に子ども生まれるから無理』って言われてさあ。なんなんだよそれ、みたいな」
「えっ、それって……」
怜は考え込むように上を見て、眉をひそめた。
「……大輝、大学行けないってこと?」
「いや、それは大丈夫」
大輝はきっぱりと首を振った。
「奨学金借りてバイトして……なんとかするから」
というか、なんとかしなくてはいけない、と思う。
怜と一緒に暮らすという目的もあるが、それだけではない。自分の実力不足で入試に落ちるならともかく、他人のせいで自分の望んでいた進路を変えさせられるというのが我慢ならなかった。
「あ、そ、そうなんだ」
しょんぼりした顔のまま、俯いた怜が黙り込んだ。
歩きながら大きく息を吸った大輝は、はあっ、と大きく白い息を吐いた。怜に少し話を聞いてもらっただけだったのに、さっきまでのぐちゃぐちゃした怒りが収まっている。
やっぱり、好きだ。
脈絡もなくそう思う。
隣を見ながら歩いていると、項垂れていた怜がちらりと大輝を見た。
「ねえ、大輝。大輝は、そんなに……大学行きたいの?」
「うん」
迷わず頷くと、「そっか」と怜は泣き笑いのような表情をした。
「えっと……確か、本命、来週だったよね」
「そう。水曜」
もう一度頷くと、怜も頷き返してくる。
「……頑張ってね、応援してる」
「ありがとう。あとちょっと頑張るから!」
うん、と頷く怜の表情が寂しそうなのは、やっぱり怜も会いたい気持ちを我慢してくれているからなのだろう。
苦しい思いをさせているのに、それだけ自分に会いたいと思ってくれていることが嬉しくてならない。
歩いているうちに、怜の家の前まで戻ってくる。名残惜しいが、寒すぎてそろそろ部屋の中に入りたい気持ちもある。
「それじゃ、受験終わったら会おうな」
「……うん」
「なあ怜」
いつか一緒に暮らそうな、と言いたくなり、いくらなんでも気が早すぎるだろうと思ってやめる。まだどこに入学が決まったわけでもないのに何をアホなことを言っているんだと思われそうだ。
「……大好きだよ」
かわりに出てきた言葉は陳腐な気がしたが、他にいい言葉が見つからない。
「うん……」
俺も大好きだよ、と返してくる怜の言葉は――だが、少しだけ覇気がない気がした。
「ねえ大輝、その……」
「ん?」
俯いて首元に手をやった怜の手首にガーゼが貼られているのが見え、大輝は息を呑んだ。
「れ、怜」
自分のせいなのだろうか。何と言っていいか分からずじっと見てしまう。
「あのさ」
しばらく沈黙があって、それからポツリと怜の声が聞こえた。
「……別れよ」
何を言われたか、分からなかった。
「……え?」
大輝が気づいたときには、ただ長澤家の門が目の前にあるだけだった。
