ヤバ澤くんに二言はない

 夏休みが開けた途端、あっという間に辺りは秋の装いに変化した。早々に日が暮れていく空に、無性に焦燥感が募る。
 いや、焦っているのは単にそれだけではないかもしれない。

「あー……」

 自室で入試の過去問に丸付けをした大輝は、バツの多さに小さく唸った。
 36点。もう10月も終わりかけているのに、最低合格ラインである60点にも全然達していない。

(どうしようかなー、これ……)

 正直、強い思い入れがあって大学を決めているわけではない。✕✕専攻は譲れない、とかがあるわけでもないし、受かるところに行ければいい、と思う。
 だが、元からそんな高望みをしていたつもりはない。今さら志望校を変えるのも、自分――というか、両親の離婚とか、転校や転塾とか、それでも毎日怜と散歩してはこうやって数時間一緒にいることとか――そういったものに負けた気がしてなんだか癪だった。

「どうしたの、大輝」
「んー」

 ちゃぶ台の向こうで、相変わらずテキストをやっているんだかやっていないんだか分からない怜が首を傾げている。

「いやー、なんか、うん。赤本むずいし、ぜんぜん勉強足りてないなあって」
「赤本?」

 畳の上に仰向けに転がると、座布団ごと怜がにじり寄ってくる。

「……って、何?」
「え、大学の過去問のことだけど……知らんの? 表紙赤いから赤本」
「知らない」

 首を振った怜が、大輝の赤本を手に取った。ぺらぺらとめくり、それから表紙を見て瞬きをした。

「え、大輝、東京の大学行くの?」
「まー、高2のときからそこ志望校にはしてたし。親離婚して引っ越したから志望変えますとか、なんかさあ、嫌じゃんそういうの」
「……でも、遠いよ」
「まあ、そうだけど」

 東京からこっちに引っ越してきたときのことを思い出して大輝は頷いた。飛行機と特急に乗り、移動だけでほぼ一日費やした記憶がある。多分下手な海外の方が近いに違いない。

「でもどうせ家から通える大学なんてないし、一人暮らしするならどこでもいっしょだろ。なら東京まで行った方が就活とかもやりやすいだろうし」
「就職……」
「向こうの方がやっぱ大企業多いからなあ」
「じゃあ、大輝、は」

 怜の息を詰まらせたような声に、天井を見上げていた大輝は振り向いた。
 ぐっと唇を噛みしめた怜が、顔を赤くして大輝を睨みつけていた。膝の上で握った手が白くなっている。

「……怜?」
「そうなったら、大輝とは……いつ会える?」
「え、いや」

 慌てて大輝は起き上がった。

「いや、夏休みとか……長期休みには帰って来るし。ってかそもそも、東京に行くからって別れるわけじゃねえだろ」
「そう、だけど、でも」

 嗚咽を堪えるように、怜の喉が鳴った。

「ていうか、怜だって……就職とか? するだろ。どっちにしろ、今みたいに毎日べったり会うのは難しいと思うぞ、来年になったら」
「できないし、就職なんて」

 吐き捨てるような怜の声に、大輝はぴしゃりと頬をはたかれたような気がした。

「夏祭りのとき、大輝だって分かっただろ」

 怜の声は、怒っているのか泣き出しそうなのか分からなかった。

「俺は人とろくに話せもしないし、山田とのことだってみんな知ってる。雇ってもらえない以前にまともに働くことも学校に行くこともできないし、特別なことができるわけでもないし、そもそも俺一人じゃ生活なんて到底できない。無理なんだよ全部」
「そんな……」

 何か手があるのではないか、と言いかけて、大輝は慌てて言葉を飲み込んだ。
 今大輝が思いつくようなことを並べたところで、怜の気持ちを更に逆なでするだけの気がした。
 ただ大輝が考えていた「普通あるだろうと思っていた未来」は怜にはない——少なくとも簡単に手に入るものではないらしいと突きつけられて、怜の顔を見つめることしかできない。

「……ごめん」

 大輝が謝ると、くしゃりと怜の眉が顰められた。
 首を振って深呼吸する。

「いや……俺も、ごめん」

 しん、と部屋の中に気まずい沈黙が下りた。怜は険しい顔のまま、部屋の何もない部分を見つめている。
 何を考えているんだろう、と思う。
 こういう時こそ怜の気持ちを知りたいのに、とてもではないが聞ける雰囲気ではない。
 やがて、ちらりと怜が赤本を見た。

「……で、えっと、大輝。受験っていつなの?」
「共テが1月、私大とか二次試験が2月……だけど」
 今は10月だよね、と言った怜が、11、12、1、2……とカレンダーを見て指を折る。
「じゃあ……それまで、会うの、やめようか」
「え? は?」

 突然の提案に頭が追いつかず、一度赤本を見下ろした大輝はまた怜の顔を見た。

「いや……え? なんで?」
「さっき、『勉強足りてない』って言ってたじゃん」

 無表情で言う怜は、本当に何を考えているか分からない。

「いや言ったけど」
「コタローの散歩して、俺とその後こうやってちょっとだべって……毎日3時間くらい使ってない?」
「いや、まあ、使って……るかもしんないけど、でも怜といる時間はこうやって勉強してるし」
「……キスしたり、ただ喋ったりしてるだけのこと多いじゃん」
「や……好きな相手が部屋にいたら仕方ないだろ、それは」

 反論に困り、大輝は目を逸らした。

「れ、怜は俺に会いたくないのかよ」

 思わずかなり恥ずかしいことを口走ってしまうと、怜がようやく少し眉を下げたのが見えた。

「そりゃ会いたい、けど」
「うん」
「……でも、大輝、東京行きたいんでしょ」
「行きたいっていうか、まあ……」
「俺のせいで、受験失敗してほしくない」

 はっきりした声で言われてしまうと、その横にある36点の採点結果も相まって強く言いかえせなくなってしまう。

「で、でも、週に1回くらい……」

 なんとか折衷案を引き出そうとするが、怜は冷たく首を振った。

「会うと、大輝とずっと一緒にいたくなっちゃう。今は明日また会えると思うから我慢できてるけど、そうじゃないなら多分無理」
「いや明日からずっと会わないとか……俺が無理だし」

 いきなりそんなことを言われても、こちらの気持ちが追いつかない。
 考え直してくれないか、という気持ちを込めて怜の手を握ると、小さく首を傾げて怜が思案顔になる。
 お願い、と祈りながら怜の顔を見ていると、小さく「クリスマス」と怜が呟いた。大輝に視線を合わせ、薄く笑う。

「わかった。じゃあ、クリスマスは会おうか」
「……クリスマス?」
「うん、だって……恋人同士、だし」

 嬉しい言葉のはずなのに、全然嬉しくない。
 だが、覚悟を決めたような怜の顔に、大輝は頷くしかなかった。