ヤバ澤くんに二言はない

 二日後、二人は少し早めにコタローの散歩を終わらせて長澤家に戻った。

「じゃあお祭り行こっか」
「えっと……ちょっと、待ってて」

 そう言って引っ込んだ怜は、甚平に着替えて戻ってきた。
 紺色のざらざらとした生地から、白い怜の首元が見える。

「おお、いいじゃん。似合ってる」
「……なんか、行くって言ったら……母さんが……」

 恥ずかしいのか、首元に手を当てた怜が言い訳のようにもそもそと何かを言っている。

「えーいいなー。うち、趣味合わなくて喧嘩になるから服は自分の小遣いで買うことになったもん」
「ん……」
「てか、それなら教えてくれよな。買いに行ったのに」

 引っ越しの時、整理が面倒で大部分の服を捨ててしまった。あの中に甚平もあったはずだ。
 暗い夜道を、話しながら河川敷へ向かう。

「知ってどうすんの」
「俺も着た」
「……服なんか、自分の好きなの着ればよくない?」

 怜は心底不思議そうな顔だ。彼の中にそういう感覚はなかったのだろう。

「せっかくデートするなら、二人で揃えたほうが特別感あんだろ」
「ふうん……そっか」

 左腕を上げた怜が、甚平の袖を見下ろす。その口元がふにゃりと蕩ける。

「そうなんだ」

 河川敷に近づくにつれ、畑ばかりの街のどこにいたのだと思うほどにあたりの人が多くなってくる。BGMもどこからか流れてきて、賑やかな雰囲気だ。
 土手の上から覗くと、数日前やぐらができかけていたところを中心に、キッチンカーやテントが並んでいるのが見えた。

「屋台何があるかな。焼きそばがあったら嬉しいんだけど。やっぱお祭りで食べると気分違うよな。怜は何か食べたいものとかある?」

 横にいる怜に話しかけたつもりが、振り向いたところには誰もいなかった。慌てて探すと、来た道の後ろの方で怜が立ち止まっている。

「ごめん、置いてってた」
 慌てて少し戻り、怜の横に立つ。怯えたような目がきょろきょろと左右を見回している。
 少し苦しそうな息遣いに、梅雨時の——手首を切っていた時のことを大輝は思い出した。

「……大丈夫?」
「う、ん……」

 大輝の言葉に小さく頷く怜だが、あまり大丈夫そうには見えない。暗くてよく見えないが、顔色も悪い気がする。
 このままではいけない気がしたが、どうしたらいいか分からない。

「はぐれないよう、手でもつないどくか?」

 冗談めかして怜の手に触れると、ぴしゃりとその手を振り払われた。

「そういうの、いいから」
「あ……そっか、ごめんな、そうだよな」

 怜の言葉に、思わず変な笑顔を浮かべてしまう。
(いいって……男同士だから恥ずかしいとか? でも、散歩のときは平気そうだったのに……)
 呆然と立ち尽くしていると、「だいじょぶ」ともう一度怜が呟いた。大輝を置いて、のろのろと歩き出す。

「いや……体調悪いとかなら、帰るけど」

 追いかけた大輝は、俯き加減の怜を覗き込んだ。小さく怜が首を振る。

「平気って、言ってんだろ」 
「う、うん」

 怒った声で低く言われ、気圧されて頷いてしまう。
 このまま行かない方がいいのではないか。漠然と思うものの、本人が平気と言っているのに無理矢理連れ帰るのには抵抗がある。
 迷っているうちに、お祭りの会場が近くなってきてしまった。ゆっくりとした歩みで進む怜と、河川敷に降りる。裸電球の灯りに照らされて、怜の表情が強張っているのが分かる。

「なんか……飲み物でも買って、一回休憩する?」

 こくりと怜が頷くが、その視線は下を向いたままだ。左右を見回した大輝は目ぼしい屋台を探した。

「あ、あそこかな、ラムネとコーラとジュースと……お茶とか水もあるな。何にする?」
「えっ、と……」

 重い足取りで怜が歩き始めたところで、「あ、三田くん!」と声がした。振り向くと、浴衣姿の村上とクラスの女子が立っていた。全員この日のために気合を入れたらしく、ばっちりメイクを決め、頭にかんざしまで刺している。

「久しぶりー、夏休みどうしてた?」
「んー、別に。勉強してただけだけど」
「そっか、三田くん進学組だっけ」

 ところで、と言いかけた村上の表情が、大輝の後ろを見て固まった。

「え、長澤じゃん!」

 大きめの声に、村上と一緒にいた女子たちがみんな怜の方を向く。

「うわ、なんでいるの」
「あいつがヤバ澤なん?」
「あ、そうそう。山田殺そうとしたやつ」

 ひそひそと小さくやり取りする声が聞こえる。
 大輝も振り向くと、今度はこの明るさでも分かるほどに怜の顔は蒼白になっていた。アームカバーを付けた腕が震えていて、それを押さえるように右手で左腕を握っている。
 不規則な呼吸と共に、肩が大きく上下する。見開かれた眼はどこも見ていなかった。
 ちがう、とかすれた声が聞こえた。

「……怜?」

 小さく呼びかけたが反応がない。
(あ、ダメだこれ)

「なんで三田くん、そいつなんかと……」
「付き合ってっから、俺たち」
「は? どういう……」
「怜、行くぞ」

 呆然とする村上を横目で認識しながら、大輝は怜の左腕を掴んだ。さっきのように振り払われることもない。

「悪い村上、また学校でな」

 それだけ言い残し、大輝は怜の腕を強引に引っ張ってその場を離れた。人波に逆らってしばらく早足で歩き、人のいない場所まで移動する。
 祭りのBGMより隣を流れる川音のほうが大きくなったところで、ようやく大輝は立ち止まった。しっかりとつかんでいた怜の腕を離す。

「……ごめん。無理そうだと思ったから引っ張ってきちゃったけど……怜、息できてるか?」
「あ……」

 暗闇の中、はあはあと荒い怜の息遣いがだんだんと落ち着いてくる。

「ありがとう。だ、大丈夫、もう平気……」
「……そっか、ならよかった」

 返事をする声はさっきよりもしっかりとしている。今度こそ平気だろう、と大輝は土手の草むらの上に腰を下ろした。隣に怜も座る。

「にしても、いきなりどうしたんだ? 人混みで酔ったとか?」
「あ、いや……」

 んー、とまた黙り込んだ怜は、苛立ちをぶつけるように大輝との間に生えていた雑草を引きちぎった。青臭い匂いが強くなる。

「……怖いんだ、人が多いところ」
「怖い?」

 思い返してみれば、散歩をしているときの怜は、人が多いところを避けている雰囲気があった。それに、コタローの散歩以外で怜が外出するのもほとんど見たことがない。

「俺のこと、みんなおかしいって思ってるんじゃないか、怒られるんじゃないか、普通にするにはどうしたらいいんだろう、って思うと息苦しくなってきちゃって、どうしたらいいのかわかんなくなって……動けなくなる」
「それって、昔から?」

 去年までは高校に通っていたのではないだろうか。疑問に思った大輝が聞くと、「ううん」と怜は頭を振ったようだった。

「……山田のこと、あってから」

 はあ、と怜のため息が聞こえる。

「あのとき……いきなりすごく怒られて、俺が間違ってるって全員に言われて、みんな俺のこと見てて、その目が怖くて……なんか、それから無理になったんだよな」
「あー、そういうね」

 大輝は暗い川の水面を眺めて頷いた。
 ……トラウマじゃん、完全に。
 きっと、それだけ当時の怜は心細くて恐ろしい思いをしたのだろう。
 他人を傷つけたのは悪かっただろうし――自業自得と言われてしまえばそれまでかもしれないけど――でも。

「つか、なんで教えてくれなかったのさ」

 苦手だ、と言ってくれればそもそも来なかったか、様子がおかしくなった時にすぐに引き返すかしていた。

「……だってさー、大丈夫だと思ったんだもん」

 怜は拗ねた子供のように何本も雑草を千切っている。

「時間経ったし……大輝がいてくれるし、もういけるかなって思ったんだよ」

 引っ張っていた草のうちの一本が硬かったらしい。ぬ、む、と力を込めて引っ張った怜が、はあ、と諦めて手を離す。

「でも、ダメだった」

 暗闇に慣れてきた視界で、膝を抱えて丸くなる怜が見えた。

「……ごめん、大輝」
「や、別にいいけど」
「でも、焼きそば……」
「家でも作れんだろそんなの」

 答えないまま、怜がさらに小さく丸まる。
 大輝は大きく伸びをして、土手に転がった。

「つうか、俺はさー、怜と一緒に楽しみたかったんだよ」
「……できなくて、ごめん」
「そうじゃなくて」

 大輝とお祭りに行きたい、そのために頑張りたい。
 怜がそう考えてくれたことは嬉しい。だが、別に大輝自身は祭りそのものに思い入れがあるわけでも、そのために怜に頑張ってほしいわけでもなかった。
 二人で何か楽しい、思い出になるようなことがしたい。そう思っただけだったのに。

「頑張るな、とは言わないけど……人混みが苦手なんだったら、先に教えておいて欲しかったんだよ。そうじゃなくても、辛くなってきたら早めに俺に教えるとか……そうすれば、怜も無理しなくていいだろ」
「……うん」

 でも、と言いたげなまま怜が黙り込む。

「俺はさ、怜に『今日は大輝と出かけて楽しかった!』って思って欲しかったんだよ。それだけ。人混みが辛いなら、どっちかの家でお祭りの動画見ながら焼きそばとかかき氷作って食べるとか、そんなんでもよかったんだよ」
「そんなんでいいの? 全然お祭りじゃなくない?」
「まあ、怜がいいならだけど。俺は全然いい」
「そっか……」

 そっか、ともう一度呟いた怜の声はどこか嬉しそうで、きっと暗闇の中でふにゃりとした笑顔を浮かべているのだろうと大輝は思った。
 不意に、ひゅぅと空気を裂く笛の音がした。音の方を見た瞬間、赤と黄色の花火が夜空に大きく咲く。

「あ」

 ぽかんと空を見る怜の顔が一瞬明るく照らされる。

「ストロンチウムとナトリウムだ」

 こういう時、覚えた知識を披露したくなるのはなぜだろう。「それ覚えた」と目を細める怜の横顔を、次の花火がまた照らす。

「K村な」
「リアカーねえのやべえよな。買えよ」
「でも馬はいる……あれ、いないのかなあれは」
「いるけど貸してくれないって話じゃねえの? 知らんけど」

 笑い声をあげた怜が、ごろりと大輝の横に転がった。
 ひゅるる、と笛の音が響き、また花火が打ちあがる。弾けてばらばらと燃え落ちる音まではっきりと聞こえた。

「ねえ大輝」

 花火の切れ目、怜の手が大輝の指先に触れた。

「おう」
「これが……付き合う、ってことなの?」
「え?」
「いやさっき……村上に言ってたじゃん。俺たち付き合ってる、って」
「言ったけど」

 怜の何となく煮え切らない言葉にしばらく考え、それから大輝は気が付いた。

「……あれ、怜に俺、言ってなかったっけ」
「うん」
「それは……ごめん」

 好きかも、と言って、あれからも何度かキスはした。だが、だからといって特別に何かそれ以外のことをしたわけでもないし、そもそも言葉にして伝えてはいなかったかもしれない。

「好きな相手とこうやって二人で出かけるってのは、それはもう……付き合ってるってことでいい、と、俺は思ってるけど」
「じゃあ……俺は、大輝の彼氏、ってこと?」
「……俺的には」

 横を向くと、カラフルな光に照らされた怜が大輝を見ていた。
 花火を映した瞳がキラキラと輝いている。
 その表情が嬉しいのに、どうしようもなく泣きたいような気分になってしまう。

(……彼氏、か)

 怜の言葉を噛みしめていると、指先を怜に握られた。
 遠慮がちに絡みついてくる指先を、握り返す。