ヤバ澤くんに二言はない

 河川敷に鉄パイプの足場が設置されているのに大輝が気付いたのは、お盆の直前のことだった。
 例年この時期は父親の実家に行っていたが、今年は両親が離婚したために帰省はない。それどころか、母も祖母もパートがあるため家にもいないことが多く、お盆の存在を示すのは仏壇のキュウリとナスだけになっていた。
 親類の集まりも墓参りもない夏休みというのは個人的に落ち着かないものだったが、帰省がないのは受験生にとってはありがたい。オンラインでの夏期講習に朝から参加し、夕方遅くに息抜きとして怜とコタローとの散歩に出るのがルーティンとなっていた。

「あれ、なんだろ」
「ん?」

 Tシャツを着た大輝が、土手の上から暗闇に沈もうとしている足場を指差す。怜は首を伸ばして下を覗き込んだ。街灯の光に目を細め、アームカバーを付けた腕を目の上にかざす。

「あ、やぐらじゃない?」
「やぐら?」
「夏祭の」

 なつまつり、と繰り返す大輝に、「回覧板で来てたじゃん」と呆れたように怜が言った。

「見てねえし中身とか」

 確かに長澤家に回覧板を持っていったのは大輝だが、ただ持っていっただけで中身なんて開いてもいない。

「掲示板にも貼ってあるよ」
「……掲示板?」

 そんなもの、ゲームの中でしか見たことがない。クエストが貼ってあるやつだ。ぽかんとした顔の大輝に、怜は肩をすくめた。

「えー、そこら辺に立ってるじゃん。毎日何見て歩いてんのさ」
「怜とコタローかな……」
「あ、そ」

 ぷい、とそっぽを向いた怜だったが、満更ではなさそうな表情である。
 大輝が慣れてきて怜の表情が分かるようになったのか、それとも怜が変わったのか、最近の怜はよく笑う気がする。
 かわいい、と思う。
 ドーベルマンは飼い主には甘えん坊、と聞くが、こういう感じなのかもしれない。

「わ」

 怜を見ながら歩いていると、舗装のひび割れに足先が引っかかった。バランスを崩してぶつかったコタローが「きゃん!」と抗議の声をあげる。

「ごめんコタロー!」

 きゅうん、と悲しげな声を出すコタローの横に屈みこみ、わしゃわしゃと大輝はコタローを撫でた。

「ちゃんと前見てよ」

 そう言ってコタローと逆側に立った怜が、大輝の小指を軽く引っ張った。そうするわ、とその指を握りこむと、その先で怜の体がピクリと反応する。
 ちらりと見てくる怜の顔を見返す。無言のまま前を向かれるが、手は振り払われない。
 そのまま河川敷を歩いていくと「あ、ほらあそこ」と怜が道の先を指差した。木製の掲示板が唐突に土手に立っていた。

「うわ、本当だ」

 先週散歩に来た時は、こんなものなかったような気がする。だが、何を言っているんだとばかりに佇む掲示板の塗装はボロボロに剥げており、貼られたポスターもいくつかは端がめくれている。

「絶対これ昨日くらいに生えて来ただろ」
「んなわけないだろ、大輝が引っ越してくる前からずっとあったよ」

 言いながら前で立ち止まる。怜が言う通り、「弁天町夏祭り」のポスターが貼られているので、スマホの懐中電灯で照らして詳細を読む。

「へえ、明後日なんだ。楽しそうじゃん」

 河川敷での盆踊りだけでなく、キッチンカーや出店、ステージでの出し物などもあるらしい。少しだが花火も打ち上げると書いているから、結構大がかりなようだ。
 受験生だから当たり前と言えばそうなのだが、この夏休みは勉強ばかりで何も夏っぽいことをしていない。少しくらい楽しんだっていいだろう。

「なあ怜、一緒にお祭り行こうぜ」

 横を見ると、怜の顔が強張った。

「や、えっと」
「あ、なんか用事あった? じゃあ別にいいけど」
「んー……」

 怜の返事は曖昧だが、いつものことなのであまり気にせず大輝はまた歩き始めた。左側にコタローが、右側に怜がおとなしくついてくる。
 しばらく歩いてから河川敷に降り、そこで一回小休憩を取ってから来た道を引き返す。夏毛になったとはいえ全身暑そうなコタローを長澤家の玄関でブラッシングして、散歩はおしまいだ。

「怜、今日はどうする? うち来る?」

 夏の暑さを避けるため、コタローの散歩は春よりも遅い。だが、その後にお互いの部屋で少し勉強時間を取るのは変わっていなかった。

「行く」

 答えた怜が玄関に置いていたリュックを持ち、サンダルを突っ掛ける。
 長澤家の庭に出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。

「大輝、夏祭り……行こ」

 三田家の門を通ったところで、怜が唐突に口を開いた。
 何の話?
 考えながら歩いた大輝は、玄関まで来たところでようやく、散歩中に見たやぐらのことを思い出した。

「……あ、明後日のやつ?」
「う、うん」

 なぜかやや緊張した面持ちで、怜が頷く。

「やった、デートだ」
「や、まあ……」

 大輝の言葉に、怜が小さく俯く。
 その耳まで赤くなっているのを見ないふりをして、大輝は玄関の扉を引いた。