花曇りの下、白い軽自動車から降りた三田大輝の目に入ったのは、隣家の生垣から飛び出した犬の頭だった。
芽吹き始めた黄緑の葉っぱに、小麦色の波打つ毛並みと、ぺたりと垂れた耳が囲まれている。舌を出してはっはっと息をしている様子は、どこか笑っているようでもあった。
ゴールデンレトリーバー……いや、ラブラドールだろうか。
覗きと呼称するのも憚られるような大胆さと、全く悪びれない表情が清々しい。人懐っこい性格のようで、好奇心に満ちた目がじっと大輝を見上げている。
かわいい。
思わず頬が緩むのが分かる。笑いかけると、母が運転席の扉を閉める音がした。
「大輝、荷物降ろしちゃって」
「あ、はーい」
隣家の犬から視線を外し、車の後ろに回る。中に積み込まれているのは、ここ数日分の着替えや日用雑貨と、引っ越しトラックの後から出てきた細々した荷物だ。
母から渡された段ボールを抱え、大きな庭を横切って家の玄関に向かう。
築……何年だろうか。「祖母の家」として来ていた時には何とも思わなかったのに、これから毎日を過ごす家になると考えると、ひびが入り、白いペンキのはげかけた壁にカエルが張り付いているのが妙に気になってしまう。向かって左、犬が顔を出している側以外は林に面しており、ざわざわと木が揺れていた。
「お邪魔しまーす」
開け放された横開きの扉から室内に入った大輝は、そこにいた男の姿にぎょっとした。
Tシャツにデニムという量産型の服に、黒いショートのツーブロック。顔だってどこにでもいそうなモブ顔だ。背丈だってちょうど平均ぐらい——と思ったところで、玄関奥の姿見に映った自分の姿だと気づく。
「……何だよ、脅かすなよ」
鏡像に向かって毒づき、視線を遮るように荷物を置く。薄暗い家の奥からスリッパを引きずる音がして、廊下の角からカーディガン姿の祖母が顔を出した。
「大ちゃん、よう来たねえ。東京から一日かけて、飛行機と特急乗り継いで……疲れたでしょう」
大輝と、その後から来た母の姿を見て、にこにこと祖母は顔中で笑った。一緒に連れてきた空気から、古い家特有の匂いがする。
「大ちゃんも大変ねえ、受験なのに塾も何もない田舎に引っ越しなんて」
「ううん、大丈夫」
高3にもなって「大ちゃん」と呼ばれるのは恥ずかしいものがある。だが口には出さずに大輝は微笑んで首を振った。
「塾ならオンラインでも授業受けられるから。俺、ばあちゃんと一緒の家で暮らせて嬉しいし」
「そうかい」
それに、自分がなにか言って変えられることでもないし。
少しホッとしたような顔を見せる祖母に、内心で付け加える。
父親が浮気していたのは前からだ。何なら向こうの子供に会ったこともある。大輝を浮気相手に引き合わせる気持ちなんか全く理解できなかったが、そのうちこうなるだろうとは思っていた。それがたまたまこのタイミングだったというだけだ。
「大輝ー、まだ荷物あるんだけど」
「ごめーん、今行く」
母に呼ばれてまた庭に出る。隣家の境から生えていた犬の顔は引っ込んでいて、代わりに穴の向こうにジャージとサンダルの足が見えた。
「コタロー、そんなにお隣が気になるの? もー、葉っぱだらけじゃん」
生垣の向こうから優しげな青年の声と、わふ、という犬の返答が聞こえた。
同い年ぐらいだろうか。声の調子から、何となくそんな気がする。
その後も数回に分け、後部座席にまで詰まった荷物を運ぶ。最後の紙袋には、ホームセンターで買った安タオルがたくさん入っていた。
「あ、これ引っ越しの挨拶用のタオルだっけ」
「そうだけど」
袋を一瞥し、母は車に鍵をかけた。よいしょ、と段ボールを持ち上げた後を、袋を持って追いかける。
「隣の家在宅っぽいし、今挨拶してこようか」
「あ……じゃあお願いするわ」
玄関に置いた袋の中から、大輝はタオルを1つ取り出した。門を出て、生け垣側に曲がる。
長澤。そう書かれた門の向こうには、広い芝生とウッドデッキが広がっていた。奥の方にガレージと、今どきの和風モダンな家が建っている。大輝が以前住んでいた都内では信じられないが、田舎では巨大な敷地に家が建っているのは珍しいことではない。
さっきまでいた犬も青年も、家の中に入ってしまったようだ。少し残念に思いながら、門柱のインターホンを押す。
ピンポーン。
軽い電子音が響き、犬の吠える声が聞こえた。
だがそこからしばらく沈黙が続く。
先ほど人がいたというのは気のせいだったのだろうか――大輝がそう思った頃にようやく、庭の向こうで玄関が開いた。
先ほど見えた、黒いジャージ姿の上下にサンダルを突っかけた姿と、小麦色の大きな犬が出てくる。
男の年齢は大輝と同じくらい、という見立ては間違っていなかったようだ。細身で、やや伸びた髪の毛の間から鋭い目つきで大輝を見ている。
精悍、と言えばいいだろうか。
(でも……なんか、思ってたのと違うな)
先程聞こえてきた声色からは、飼い犬によく似た、ふんわりしたタイプの人間を大輝は想像していた。
犬っぽい、というのは間違ってはいない。だが、警戒心が強く、飼い主以外の命令は受け付けないドーベルマン……そんな印象を受ける。
にこりともしないまま歩いてきた青年は、門越しに大輝のことを見下ろしてきた。向こうのほうが顔半分ほど背が高い。その横で、犬の方は尾を振りながら門の間に鼻先を突っ込んでいる。
「隣に越してきました、三田大輝と申します。これからよろしくお願いします」
言葉とともにタオルを差し出すものの門が開く気配がないので、大輝は鉄柵の間にタオルをねじ込んだ。向こう側にタオルが落ちそうになったところで、無言のまま長澤青年がタオルを摘んだ。すんすんとその袋を犬が嗅ぐ。
「犬、コタローっていうんですか?」
大輝が聞くと、長澤青年は怪訝そうに顎を引いた。眉が顰められる。
「あ、すいません、さっきそう話しかけてたのが聞こえて」
大輝の言葉に、ああ、とでも言いたげに眉間の皺が浅くなった。
「……うん」
「犬種なんですか? ゴールデンレトリバー? ラブラドール? かわいいですね!」
「ゴールデン」
低く呟く声は、先ほど生垣の向こうから聞こえてきたものより硬質だが、同一人物のもので間違いない。かわいい、という言葉に少しだけ口元が緩んだ気がするのは気のせいだろうか。
「あの、もしよかったら、コタローくん、触らせてもらってもいいですか?」
重ねて質問すると、長澤青年は無表情のままじっと大輝を見返してきた。そのまま固まったかのように動かなくなる。
嫌だった……のだろうか。それならそれで、断ってくれればいいだけの話なのだが。
色白の顔を見返していると、ふっと長澤青年が横に動いた。門の端にあるくぐり戸が開けられる。
「……いいよ」
「あ、ありがとう!」
「コタロー、出ちゃうといけないから。入って」
言われるまま門の中に入ると、背後でくぐり戸が閉められる。
(えっと、こういうときは……確か、最初に手を出すんだっけ)
以前ネット記事で読んだ内容を思い出しながら、屈みこんだ大輝はコタローの鼻先に手の甲を向けた。コタローが匂いを嗅ぐのを確認してから、そっと顎の下を撫でる。
つるつるのふわふわだ。ぬいぐるみとは違う、しっかりした毛質と温かさに命を感じる。
ニコニコと撫でられていたコタローの足が大輝の太腿を踏んだ、と思ったら、べろりと大きな舌で顔を舐められていた。
「わ」
「あっコタ」
「いや全然! 全然これ! かわいい! むしろ嬉しい! ありがとうございます!」
「そう……」
こっちから触れるだけじゃなくて、コタローからも来てくれるなんて。最高である。
ひとしきり舐められてから顔をあげると、少し引いた顔で長澤青年は大輝のことを見ていた。
「また……また触らせてもらってもいいですか!?」
「……いいけど」
「ありがとうございます! ぜひよろしくお願いします!」
ベタベタする顔も、手にまとわりつく毛も、コタローと触れ合った跡だと思うと嬉しい。
ホクホクしながら祖母宅に戻る。母親は、ちょうど洗面所に化粧品を並べているところだった。
「どうだった、お隣」
「ゴールデンレトリバー、コタローって名前だって」
「好きねえあんたも」
呆れ顔になった母は首を振り、洗顔料を棚に置いた。
「確か、あなたと同い年くらいの子がいたんじゃなかったっけ、お隣」
「あ、いたよ」
答えた大輝は蛇口をひねり、流れてきた水に手をかざした。
そう言えば、ドーベルマンめいた彼の名前も年齢も、何も聞いていない。
ま、次でいいか。
まだ冷たい水を、ざぶりと顔にかけた。
芽吹き始めた黄緑の葉っぱに、小麦色の波打つ毛並みと、ぺたりと垂れた耳が囲まれている。舌を出してはっはっと息をしている様子は、どこか笑っているようでもあった。
ゴールデンレトリーバー……いや、ラブラドールだろうか。
覗きと呼称するのも憚られるような大胆さと、全く悪びれない表情が清々しい。人懐っこい性格のようで、好奇心に満ちた目がじっと大輝を見上げている。
かわいい。
思わず頬が緩むのが分かる。笑いかけると、母が運転席の扉を閉める音がした。
「大輝、荷物降ろしちゃって」
「あ、はーい」
隣家の犬から視線を外し、車の後ろに回る。中に積み込まれているのは、ここ数日分の着替えや日用雑貨と、引っ越しトラックの後から出てきた細々した荷物だ。
母から渡された段ボールを抱え、大きな庭を横切って家の玄関に向かう。
築……何年だろうか。「祖母の家」として来ていた時には何とも思わなかったのに、これから毎日を過ごす家になると考えると、ひびが入り、白いペンキのはげかけた壁にカエルが張り付いているのが妙に気になってしまう。向かって左、犬が顔を出している側以外は林に面しており、ざわざわと木が揺れていた。
「お邪魔しまーす」
開け放された横開きの扉から室内に入った大輝は、そこにいた男の姿にぎょっとした。
Tシャツにデニムという量産型の服に、黒いショートのツーブロック。顔だってどこにでもいそうなモブ顔だ。背丈だってちょうど平均ぐらい——と思ったところで、玄関奥の姿見に映った自分の姿だと気づく。
「……何だよ、脅かすなよ」
鏡像に向かって毒づき、視線を遮るように荷物を置く。薄暗い家の奥からスリッパを引きずる音がして、廊下の角からカーディガン姿の祖母が顔を出した。
「大ちゃん、よう来たねえ。東京から一日かけて、飛行機と特急乗り継いで……疲れたでしょう」
大輝と、その後から来た母の姿を見て、にこにこと祖母は顔中で笑った。一緒に連れてきた空気から、古い家特有の匂いがする。
「大ちゃんも大変ねえ、受験なのに塾も何もない田舎に引っ越しなんて」
「ううん、大丈夫」
高3にもなって「大ちゃん」と呼ばれるのは恥ずかしいものがある。だが口には出さずに大輝は微笑んで首を振った。
「塾ならオンラインでも授業受けられるから。俺、ばあちゃんと一緒の家で暮らせて嬉しいし」
「そうかい」
それに、自分がなにか言って変えられることでもないし。
少しホッとしたような顔を見せる祖母に、内心で付け加える。
父親が浮気していたのは前からだ。何なら向こうの子供に会ったこともある。大輝を浮気相手に引き合わせる気持ちなんか全く理解できなかったが、そのうちこうなるだろうとは思っていた。それがたまたまこのタイミングだったというだけだ。
「大輝ー、まだ荷物あるんだけど」
「ごめーん、今行く」
母に呼ばれてまた庭に出る。隣家の境から生えていた犬の顔は引っ込んでいて、代わりに穴の向こうにジャージとサンダルの足が見えた。
「コタロー、そんなにお隣が気になるの? もー、葉っぱだらけじゃん」
生垣の向こうから優しげな青年の声と、わふ、という犬の返答が聞こえた。
同い年ぐらいだろうか。声の調子から、何となくそんな気がする。
その後も数回に分け、後部座席にまで詰まった荷物を運ぶ。最後の紙袋には、ホームセンターで買った安タオルがたくさん入っていた。
「あ、これ引っ越しの挨拶用のタオルだっけ」
「そうだけど」
袋を一瞥し、母は車に鍵をかけた。よいしょ、と段ボールを持ち上げた後を、袋を持って追いかける。
「隣の家在宅っぽいし、今挨拶してこようか」
「あ……じゃあお願いするわ」
玄関に置いた袋の中から、大輝はタオルを1つ取り出した。門を出て、生け垣側に曲がる。
長澤。そう書かれた門の向こうには、広い芝生とウッドデッキが広がっていた。奥の方にガレージと、今どきの和風モダンな家が建っている。大輝が以前住んでいた都内では信じられないが、田舎では巨大な敷地に家が建っているのは珍しいことではない。
さっきまでいた犬も青年も、家の中に入ってしまったようだ。少し残念に思いながら、門柱のインターホンを押す。
ピンポーン。
軽い電子音が響き、犬の吠える声が聞こえた。
だがそこからしばらく沈黙が続く。
先ほど人がいたというのは気のせいだったのだろうか――大輝がそう思った頃にようやく、庭の向こうで玄関が開いた。
先ほど見えた、黒いジャージ姿の上下にサンダルを突っかけた姿と、小麦色の大きな犬が出てくる。
男の年齢は大輝と同じくらい、という見立ては間違っていなかったようだ。細身で、やや伸びた髪の毛の間から鋭い目つきで大輝を見ている。
精悍、と言えばいいだろうか。
(でも……なんか、思ってたのと違うな)
先程聞こえてきた声色からは、飼い犬によく似た、ふんわりしたタイプの人間を大輝は想像していた。
犬っぽい、というのは間違ってはいない。だが、警戒心が強く、飼い主以外の命令は受け付けないドーベルマン……そんな印象を受ける。
にこりともしないまま歩いてきた青年は、門越しに大輝のことを見下ろしてきた。向こうのほうが顔半分ほど背が高い。その横で、犬の方は尾を振りながら門の間に鼻先を突っ込んでいる。
「隣に越してきました、三田大輝と申します。これからよろしくお願いします」
言葉とともにタオルを差し出すものの門が開く気配がないので、大輝は鉄柵の間にタオルをねじ込んだ。向こう側にタオルが落ちそうになったところで、無言のまま長澤青年がタオルを摘んだ。すんすんとその袋を犬が嗅ぐ。
「犬、コタローっていうんですか?」
大輝が聞くと、長澤青年は怪訝そうに顎を引いた。眉が顰められる。
「あ、すいません、さっきそう話しかけてたのが聞こえて」
大輝の言葉に、ああ、とでも言いたげに眉間の皺が浅くなった。
「……うん」
「犬種なんですか? ゴールデンレトリバー? ラブラドール? かわいいですね!」
「ゴールデン」
低く呟く声は、先ほど生垣の向こうから聞こえてきたものより硬質だが、同一人物のもので間違いない。かわいい、という言葉に少しだけ口元が緩んだ気がするのは気のせいだろうか。
「あの、もしよかったら、コタローくん、触らせてもらってもいいですか?」
重ねて質問すると、長澤青年は無表情のままじっと大輝を見返してきた。そのまま固まったかのように動かなくなる。
嫌だった……のだろうか。それならそれで、断ってくれればいいだけの話なのだが。
色白の顔を見返していると、ふっと長澤青年が横に動いた。門の端にあるくぐり戸が開けられる。
「……いいよ」
「あ、ありがとう!」
「コタロー、出ちゃうといけないから。入って」
言われるまま門の中に入ると、背後でくぐり戸が閉められる。
(えっと、こういうときは……確か、最初に手を出すんだっけ)
以前ネット記事で読んだ内容を思い出しながら、屈みこんだ大輝はコタローの鼻先に手の甲を向けた。コタローが匂いを嗅ぐのを確認してから、そっと顎の下を撫でる。
つるつるのふわふわだ。ぬいぐるみとは違う、しっかりした毛質と温かさに命を感じる。
ニコニコと撫でられていたコタローの足が大輝の太腿を踏んだ、と思ったら、べろりと大きな舌で顔を舐められていた。
「わ」
「あっコタ」
「いや全然! 全然これ! かわいい! むしろ嬉しい! ありがとうございます!」
「そう……」
こっちから触れるだけじゃなくて、コタローからも来てくれるなんて。最高である。
ひとしきり舐められてから顔をあげると、少し引いた顔で長澤青年は大輝のことを見ていた。
「また……また触らせてもらってもいいですか!?」
「……いいけど」
「ありがとうございます! ぜひよろしくお願いします!」
ベタベタする顔も、手にまとわりつく毛も、コタローと触れ合った跡だと思うと嬉しい。
ホクホクしながら祖母宅に戻る。母親は、ちょうど洗面所に化粧品を並べているところだった。
「どうだった、お隣」
「ゴールデンレトリバー、コタローって名前だって」
「好きねえあんたも」
呆れ顔になった母は首を振り、洗顔料を棚に置いた。
「確か、あなたと同い年くらいの子がいたんじゃなかったっけ、お隣」
「あ、いたよ」
答えた大輝は蛇口をひねり、流れてきた水に手をかざした。
そう言えば、ドーベルマンめいた彼の名前も年齢も、何も聞いていない。
ま、次でいいか。
まだ冷たい水を、ざぶりと顔にかけた。
