忌み夜の花嫁は雨を待つ

「……はぁっ、はぁ」

 広い広い久我の敷地をようやく抜け、公道に出たころ、呼吸が乱れるのを感じた。
 狭まる喉の奥から細い息を漏らし、必死に新しい空気を吸おうと試みる。
 圧迫される胸元に手を添えしゃがみこめば、嫌な汗が雨水と共に額ににじむ。

「はぁ、はぁ……」

 毒を盛られた時と同じくらいの苦しみが全身に襲ってきた。
 まさか自分がこんな状況になるなんて、と信じがたい気持ちを抱えたまま、揺れた視界の先で膝をつく。

「大丈夫ですか?」

 肌を濡らす冷たい雨が何かにさえぎられ、顔を上げる。
 ぼやけた瞳の先に、見たことのある男の姿が見えた。

「く、久我の鬼……」

 そう漏らしたのはその男の隣に立っていた人間で、声をかけてきた男は黒い切れ長の瞳を大きく見開いただけだった。

 「ほ、本郷様……」

 ぽつりと漏らしてしまったのは、彼が懐かしい記憶を呼び起こしたからである。

 「大丈夫ですよ。ああ、よかったら、馬車へ」

 ずぶぬれではないですか、と手を差し伸べてくれる彼の姿は、半世紀前と変わらなかった。
 いや、記憶の中の本郷のはずがない。
 あれからいくつ月日が廻ったと思っているのか。

 「おばあさまのお姉さま……ですよね?」

 おびえる様子もなく、男は笑みを浮かべた。 最後に見た本郷家の二男と同じ微笑みで。

 「だ、大丈夫です」

 動揺したのは、人間だった頃の気持ちが蘇ったからだろうか。
 久我の家からは一刻も早く逃げたかったが、だからと言って本郷の家に頼るわけにもいかない。
 なにより、誰もが恐れおののくこの容姿を見て怯えないのは嫌な予感しか感じない。
 作り笑いだって散々見てきているからよくわかる。

「この雨の中、どこに行かれるつもりですか」

 「………」

 鬼を得た一族が、どうなっていくのかは知っている。
 一度は衰えかけた久我家の繁栄を再度持ち直させたのは鬼の影響だと言われている。
 彼らが虐げてきた雨乞いが意味を持つものだとは思わなかったけど、信玄だけが鬼の力の使い道を知っていて、その力を彼なりに利用し続けてきた。
 それでも周りから見れば、鬼の力だと見えるはずだ。
 かつて忌み嫌われた存在でも、使用価値があるとわかれば人間は欲望のままに得ようとするのだと知った。
 鬼は、どこにも属するべきではないと薄々感じていた。
 そして、信玄の邪魔になる存在にはなりたくないと思った。

「も、問題ないと言っている」

「聞き分けのないお方だ」

「え……」

 いつの間にか黒い身なりで全身を覆った男たちに取り囲まれていて、盛大に後悔した。
 機会を伺うもその隙はなさそうだ。完全に油断した。
 わたしは忌みの鬼と呼ばれる存在だけど、抗うすべを何一つ持ち合わせていない。
 一気につかみかかられ、自身の人生を再び呪いたくなる。
 たったひとつ、信玄との間に宿った大切な命だけはどうにか救えないだろうかと抵抗することなくゆったり迫りくる状況を眺め、思考を巡らす。
 どう考えても万事休すだ。
 本当に、鬼と呼ばれるのなら、鬼らしい力を持ち合わせていたらよかったのに、と目を閉じた。……そんなとき、

「ぐはっ」

 まばゆい光が瞼の向こうに見え、目を開けると、目の前で黒い影がひとり、またひとりと倒れ込んだのが視界に入った。

「その汚い手を離せ」

 低く、唸るような声に体が震えた。
 暗闇の中で構え、殺気に満ちた瞳をこちらに向けていたのは誰でもない信玄だったからだ。 変わり果てた透き通った青い瞳は影を帯びていた。

「とらえよ」

 わずらわしそうな視線を一瞬だけこちらに向け、低い声がぽつりとそう告げた時、しまった……と騒ぐ本郷たちに容赦なくあちこちから結界の簾が空から降ってくる。
 二男に良く似た男が何かを唱え、その結界に向かって放つがすぐに打ち砕かれる。
 影たちも必死に抗おうとするが、力をつけた久我の一族にはかなわないのだろう。
 一気に動きを封じられていく。
 のろしが上がって、勢いよく集まった式神たちが人の形に変わり、結界に突進してくる。
 ふたつの家がぶつかりあい、夜だと言うのにすさまじい光があちこちに飛び交っていた。

「八代、つれて行け」

 大きな背中は怒涛のごとくそう告げた。

「……御意」

 くそっ、と同時聞こえた気もしたが、気付いたら隣に八代の姿があり、盛大なため息をはきつつ担ぎ上げられそうになったところだった。

「……し、信玄」

 何を言いたかったのかはわからない。
 だけど、思わずその名を呼んでいた。
 大きな音が響きあうその場所で、その背中は振り返らない。

「あの、わたし……」

 結局この人を危険に晒すのは自分だと思うと耐えられない。
 同じく戦いたくても力もなければ守るべきものを体に宿している身で……どうあがいても何もできないのだ。

「ごめ……」

 行くぞ、と八代に腕を引かれてもなお、その背に訴え続ける。
 謝ったってもう遅いのに。

「裏切り者には制裁を下す。おとなしくしていろ」

 八代の言葉と共に、信玄が刀を抜いたのが目に入った。
 彼はもうこちらを見ない。それが答えだ。
 少しずつ遠ざかっていくその背を見て、世界がまた少しずつ色を無くしていくのを感じた。