◇◇◇
柔らかな口調で雪花様が話しかけるお腹のお子は誰のお子なのか、確認することも怖くて、時折見かける様子がとっても幸せそうで、胸が張り裂けそうに痛んだ。
美しい施しの衣装を身に付け、満開の花が咲いたようだった。
目の前が赤く燃え上がって感じられる日が続くようになった。
願った通り、信玄はそれからここへは現れなくなり、代わりにけがらわしいものを見るような瞳で八代がわたしの護衛についた。
信玄は田畑を荒らす獣の対応をしていると八代は面白くなさそうに言っていたが、本当かどうかはわからない。
ただ、信玄の腹部についていた傷はその獣と闘った時にできたものかもしれないと思うと心配にもなった。
「信玄にまた傷が増えていたらこれを塗ってやってほしい」
涙の結晶をこっそりとっておき、煎じた塗り薬を八代に手渡すと、目に見えてものすごく嫌そうな顔をした。
「こんなもの、信玄様に触れさせられるわけがない」
汚らわしいものを見る目だ。
相変わらず隠すつもりはさらさらないらしい。
「信じられないかもしれないが、これは……」
さすがに涙の結晶のことは言えなかったが、よく効くものであるということは伝えたかった。が、調子に乗るなと振り払われ、それっきりだった。
「信玄様は今までの分、誰よりも幸せになられるお方だ。おまえなんかのために、一生を台無しにされては困る」
八代の言い分はいつも辛辣で、そこまでいうかと思ったこともあったけど、こればかりは彼の言って いることに同意だったし、心なしか八代が護衛になってからは暴言を吐かれることがあっても池に落とされたり、室内に鶏卵を投げ込まれることはなくなった。
体調は日によって変わってきてはいたが、すぐれないことが増えた。
ちゃんと儀式は参加し、そのあとは横になる。その繰り返しだった。
目覚めた時に、白檀の香りがして信玄が一瞬だけ立ち寄ったのだとわかることはあったが、彼とは触れ合うどころか、直接会うことさえなくなった。
息苦しい夜に心とは裏腹に涙を流し、枕を濡らすことはあっても涙の結晶を作ることができなくなった。
そして、壁にぶつけた腕のあざが消えなくなった。
明らかに異変が起こっていた。
そして、極めつけは八代のセリフだった。
「今日からは雨乞いの儀式は必要ない」
「え……」
突然そう告げられて、驚きのあまり言葉がでなくなった
「領主様より言付かっている。元気なやや子を産め、と」
「………」
その瞬間、違和感が確信に変わった。
すべての違和感が一致した。
どくん……とお腹から何か聞こえたような気がした。
汚らわしい……と罵る八代の声が遠くの方で聞こえた。
子を宿しているのは、雪花様だけではない。
そう思ったら、不思議な心境だった。
もちろん、このことは信玄も知っているのだろう。
彼がどんな心境であるかということは、なんとなく聞くに聞けなかった。
わたしは、信玄の子を身ごもっている。
そしてその子は、わたしの力を受け継いでいて、わたしはこのまま力を失っていくのだろう。子を成すということで、忌みの力も受け継がれていくのかもしれない。
前例がないため、どうしたものかわからなかったけど、久我の家が鬼の血を受け継ぐ者を欲していて、力がなくなったわたしを切り捨てようとしていることはなんとなくわかっていた。それでも、
「……ごめん」
出てくるのはそのセリフだった。
自身が欲望に溺れてしまったため、罪のない新しい命が犠牲になろうとしていた。
この体内に宿ったせいで、幸せになる未来を約束してあげられない。
どれだけ池に落ちたって、どれだけ泥水をすすったってかまわない。 でも、自分ではない誰かが汚らわしいと言われ続け、自分が受けたものと同じ体験をするのだと思うと耐えられなかった。
このままではまずい。
そう思った時、わたしは逃げ出していた。
歴代力を誇る一族の術師たちが張った結界だけにそう簡単には抜け出せないと思っていたが、空を見上げ、胸のもとで手を組み、雨を待つ。
力を失いつつある今、ダメかもしれないと思いながらも雨を待ったのは、水滴が落ちるときだけは、わたしの力で溢れるからだ。
確証はなかったが、試さずこのまま久我家の犠牲になっていくよりはいい。
『忌みの鬼』と言われるのであれば、もっとそれなりの力が欲しかった。
自分の身を守って、大切な者の命を守って、どんなときも恐れることのない強い心を与えてほしかった。こんなにも不安で押しつぶされそうな鬼なんているはずがない。
雨よ、降れ……。
祈る思いで空を見る。
思い返せば半世紀前、本郷というお屋敷の二男との婚姻が決まった矢先に何者かに呪詛のかかった獣の血をかけられ、人間ではなくなった。
発狂した家族に隔離され、もちろん婚約は破棄。
のちに実の妹がその男と結婚したと風の噂で聞いた。
そのまま忌み嫌われて、街から追放された。
暗い夜を繰り返し、少しずつ感情を失っていって、そして信玄と出会うまで心を失っていった。
死ぬに死ねなかったとはいえ、いったい何のために存在し、何のために生きているのだろう。そんな風に思えてならなかった。
『白珠様は、好きな人と離ればなれになって、悲しく思った?』
『いや、どうだったかな』
純真な瞳で問われ、言葉を探した覚えがある。
本郷の二男は優しい人だった覚えはあるけど、好きかと言われたらよくわからなかったのが確かだ。
『大切な人が幸せならそれでいいよ』
そんな言葉でうまく乗りきった気がする。
あのころは、生きることに意味を感じていなかった。
考えることを放棄していた。
でも、今は違う。
身体に宿ったもうひとつの命のために、できるだけ遠くへ逃げて、平穏な暮らしを手に入れないといけない。
不思議なものだ。
今までの自分だったら絶望していそうな状況だけど、今のわたしは違った。
少しずつ体内で感じられるようになった存在を愛おしく感じ始めたのだ。
だからこそ前向きに、先の未来を考えるようになった。
前向きに……。
「……っ」
頬を伝う熱に、顔をあげる。
瞳からこぼれ落ちる涙と共に、空も泣き出した。
結界が流れるように解かれていくのを確認し、ありがとう、と小さくつぶやく。 これが、もしかしたら自分に使える最後の力かもしれない。
そう思った時、力の限り駆け出していた。
逃げるなら、今しかない。
自身で鳴らした合図に全力で走った。
すぐに体力が尽きて歩くことになってしまったが、遠く遠く、一歩先まで足を進めるよう努力した。
生まれ変わったら、ひとりでもいい。
ひとりでもわたしひとりを見てくれる人に出会いたい。
願わくば……と頭から消えない優しい笑顔に何度も何度も涙を拭う。
どう頑張っても無理なのに、あの日幼い彼に告げたように大切な人の幸せを願う余裕などなかった。
荒れ狂う空の下で自然と流れる涙に頬を濡らしながら、前へ前へと進んでいく。
いつか、いつかまたわたしにも優しい笑顔を向けてくれる人と出会いたい。
『雪花様』
絶対に向けられることのない笑顔が脳裏に浮かび、胸がしめつけられるように痛んだ。
汚らわしい汚らわしいと、来世では言われない人生を。
柔らかな口調で雪花様が話しかけるお腹のお子は誰のお子なのか、確認することも怖くて、時折見かける様子がとっても幸せそうで、胸が張り裂けそうに痛んだ。
美しい施しの衣装を身に付け、満開の花が咲いたようだった。
目の前が赤く燃え上がって感じられる日が続くようになった。
願った通り、信玄はそれからここへは現れなくなり、代わりにけがらわしいものを見るような瞳で八代がわたしの護衛についた。
信玄は田畑を荒らす獣の対応をしていると八代は面白くなさそうに言っていたが、本当かどうかはわからない。
ただ、信玄の腹部についていた傷はその獣と闘った時にできたものかもしれないと思うと心配にもなった。
「信玄にまた傷が増えていたらこれを塗ってやってほしい」
涙の結晶をこっそりとっておき、煎じた塗り薬を八代に手渡すと、目に見えてものすごく嫌そうな顔をした。
「こんなもの、信玄様に触れさせられるわけがない」
汚らわしいものを見る目だ。
相変わらず隠すつもりはさらさらないらしい。
「信じられないかもしれないが、これは……」
さすがに涙の結晶のことは言えなかったが、よく効くものであるということは伝えたかった。が、調子に乗るなと振り払われ、それっきりだった。
「信玄様は今までの分、誰よりも幸せになられるお方だ。おまえなんかのために、一生を台無しにされては困る」
八代の言い分はいつも辛辣で、そこまでいうかと思ったこともあったけど、こればかりは彼の言って いることに同意だったし、心なしか八代が護衛になってからは暴言を吐かれることがあっても池に落とされたり、室内に鶏卵を投げ込まれることはなくなった。
体調は日によって変わってきてはいたが、すぐれないことが増えた。
ちゃんと儀式は参加し、そのあとは横になる。その繰り返しだった。
目覚めた時に、白檀の香りがして信玄が一瞬だけ立ち寄ったのだとわかることはあったが、彼とは触れ合うどころか、直接会うことさえなくなった。
息苦しい夜に心とは裏腹に涙を流し、枕を濡らすことはあっても涙の結晶を作ることができなくなった。
そして、壁にぶつけた腕のあざが消えなくなった。
明らかに異変が起こっていた。
そして、極めつけは八代のセリフだった。
「今日からは雨乞いの儀式は必要ない」
「え……」
突然そう告げられて、驚きのあまり言葉がでなくなった
「領主様より言付かっている。元気なやや子を産め、と」
「………」
その瞬間、違和感が確信に変わった。
すべての違和感が一致した。
どくん……とお腹から何か聞こえたような気がした。
汚らわしい……と罵る八代の声が遠くの方で聞こえた。
子を宿しているのは、雪花様だけではない。
そう思ったら、不思議な心境だった。
もちろん、このことは信玄も知っているのだろう。
彼がどんな心境であるかということは、なんとなく聞くに聞けなかった。
わたしは、信玄の子を身ごもっている。
そしてその子は、わたしの力を受け継いでいて、わたしはこのまま力を失っていくのだろう。子を成すということで、忌みの力も受け継がれていくのかもしれない。
前例がないため、どうしたものかわからなかったけど、久我の家が鬼の血を受け継ぐ者を欲していて、力がなくなったわたしを切り捨てようとしていることはなんとなくわかっていた。それでも、
「……ごめん」
出てくるのはそのセリフだった。
自身が欲望に溺れてしまったため、罪のない新しい命が犠牲になろうとしていた。
この体内に宿ったせいで、幸せになる未来を約束してあげられない。
どれだけ池に落ちたって、どれだけ泥水をすすったってかまわない。 でも、自分ではない誰かが汚らわしいと言われ続け、自分が受けたものと同じ体験をするのだと思うと耐えられなかった。
このままではまずい。
そう思った時、わたしは逃げ出していた。
歴代力を誇る一族の術師たちが張った結界だけにそう簡単には抜け出せないと思っていたが、空を見上げ、胸のもとで手を組み、雨を待つ。
力を失いつつある今、ダメかもしれないと思いながらも雨を待ったのは、水滴が落ちるときだけは、わたしの力で溢れるからだ。
確証はなかったが、試さずこのまま久我家の犠牲になっていくよりはいい。
『忌みの鬼』と言われるのであれば、もっとそれなりの力が欲しかった。
自分の身を守って、大切な者の命を守って、どんなときも恐れることのない強い心を与えてほしかった。こんなにも不安で押しつぶされそうな鬼なんているはずがない。
雨よ、降れ……。
祈る思いで空を見る。
思い返せば半世紀前、本郷というお屋敷の二男との婚姻が決まった矢先に何者かに呪詛のかかった獣の血をかけられ、人間ではなくなった。
発狂した家族に隔離され、もちろん婚約は破棄。
のちに実の妹がその男と結婚したと風の噂で聞いた。
そのまま忌み嫌われて、街から追放された。
暗い夜を繰り返し、少しずつ感情を失っていって、そして信玄と出会うまで心を失っていった。
死ぬに死ねなかったとはいえ、いったい何のために存在し、何のために生きているのだろう。そんな風に思えてならなかった。
『白珠様は、好きな人と離ればなれになって、悲しく思った?』
『いや、どうだったかな』
純真な瞳で問われ、言葉を探した覚えがある。
本郷の二男は優しい人だった覚えはあるけど、好きかと言われたらよくわからなかったのが確かだ。
『大切な人が幸せならそれでいいよ』
そんな言葉でうまく乗りきった気がする。
あのころは、生きることに意味を感じていなかった。
考えることを放棄していた。
でも、今は違う。
身体に宿ったもうひとつの命のために、できるだけ遠くへ逃げて、平穏な暮らしを手に入れないといけない。
不思議なものだ。
今までの自分だったら絶望していそうな状況だけど、今のわたしは違った。
少しずつ体内で感じられるようになった存在を愛おしく感じ始めたのだ。
だからこそ前向きに、先の未来を考えるようになった。
前向きに……。
「……っ」
頬を伝う熱に、顔をあげる。
瞳からこぼれ落ちる涙と共に、空も泣き出した。
結界が流れるように解かれていくのを確認し、ありがとう、と小さくつぶやく。 これが、もしかしたら自分に使える最後の力かもしれない。
そう思った時、力の限り駆け出していた。
逃げるなら、今しかない。
自身で鳴らした合図に全力で走った。
すぐに体力が尽きて歩くことになってしまったが、遠く遠く、一歩先まで足を進めるよう努力した。
生まれ変わったら、ひとりでもいい。
ひとりでもわたしひとりを見てくれる人に出会いたい。
願わくば……と頭から消えない優しい笑顔に何度も何度も涙を拭う。
どう頑張っても無理なのに、あの日幼い彼に告げたように大切な人の幸せを願う余裕などなかった。
荒れ狂う空の下で自然と流れる涙に頬を濡らしながら、前へ前へと進んでいく。
いつか、いつかまたわたしにも優しい笑顔を向けてくれる人と出会いたい。
『雪花様』
絶対に向けられることのない笑顔が脳裏に浮かび、胸がしめつけられるように痛んだ。
汚らわしい汚らわしいと、来世では言われない人生を。



