忌み夜の花嫁は雨を待つ

 腹部に違和感を感じたのは、数か月たったころだった。
 体調が優れなくなった。
 眠い日が増え、強い香りに吐き気をもよおすことも増えた。

 「調子はどう?」

 目を開けるとそこには信玄が座っていて、優しく頬に触れてくれる。
 あれから義務の雨乞いの時以外は外へ出ることがなかったため、彼と顔を合わせることも減った。

「信玄、来ていたのか……」

 彼から白檀の香りがしなくなったのはいつからだろう。

「ああ、起きなくていいよ」

 信玄が来てくれても、起きていることができなくて、自然と接することが減った。

 「変わってあげられたらいいのに」

 濡らした布で額を拭ってくれた信玄がぽつりと漏らす。
 枕元に散らばった涙の結晶に視線を落としたからだろう。
 今日はかき集めることはしなかったのか、その水滴は枕に小さなシミを作っていた。

「わたしは不老不死だ。よっぽどのことがない限り、死ぬことはない。それよりも、相手ができないのに来てもらって申し訳ないな」

 できる限り明るく努めようと思ったのに、信玄はまた口元を引き結んでしまった。

「ごめん、信玄」

 怒らせたかったわけじゃない。
 でも、どうしたらいいのかわからないのだ。
 そしてまたそこで、吐き気がして、違和感がわいた。
 背中をさすってくれる信玄に気付いたことがある。

「信玄……怪我してるのか?」

「え?」

「……血の、においがする」

 もともと嗅覚には敏感だが、今は特にだ。

「見せて」

「へ、平気だよ。大したものじゃない」

「見せて!」

 ありったけの声を出すと、罰が悪そうに信玄は着物の帯を解く。

「なっ……」

「平気だよ。見た目ほど痛くない」
 
 彼の腹部に、獣の爪痕のようなものが引っ掻いた傷があった。
 赤々としてまだ血のこべりついたそれはまだ新しい。
 できたばかりの傷なのだろう。

「どうして言わない。待って、すぐに直すか……」

「いい。珠子は寝ていて」

 無理しないで、とそのまままた布団に押し倒されて、無理をしているのはどっちだと言いたくなる。

「し、信玄……」

 至近距離で目が合って、少し間が空いた。
 口づけられるのだと思って目を閉じるも待てども待てども何か起こるわけでもなく、額に彼の唇が当たったのがわかった。

「……あんまり煽らないで」

 心底嫌そうな表情を浮かべた信玄の表情が目に入った。
 それは、あまりにも雪花様といるときとは違う表情で。

「我慢してるのに」

「……が、我慢して来るくらいなら、もう来なくていい」

 珠子にはわからないと言われ、頬が熱くなった。

「どうせわたしは鬼だ。人間の気持ちなんてわからない」

「珠子!」

 背を向けようとするも、そうはさせてはもらえない。

「し、信玄の思う通りにもできない。怪我だって治せない。それなのに、信玄だけが心伴わないことを無理してする必要なんてない」

 捲し立てるようにそう口にすると、信玄はますます怒りの色を見せた。

「愛してると何度も伝えたはずだ」

 低く低く、聞いたことのない声だった。
 言葉だけのくせに、なんて口が裂けても言える状況ではなかった。
 殴られてしまうかもしれない。そんな圧さえあった。

「……もうっ!」

 言うなり、覆いかぶさるように抱きしめてきて、信玄はわたしの肩に頭を埋めた。

「珠子と喧嘩はしたくないから、もう今日は話さない。明日、冷静になって謝るから」

「謝罪などいらない」

 信玄は悪くないのだから謝る必要なんてない。
 力いっぱいぎゅっと抱き寄せられて、こうしていられるのもあとどのくらいなんだろうなとぼんやり思った。

『白珠様、ぼ、僕は怒ってるんですよ』

 よく信玄はそう言いながら小さな体で精一杯抱きついてきた。
 わたしが自身の身を傷つけ、何かを行った時は特にだ。

『今日は怒ってて、どうしたらいいかわからないけど、明日必ず謝るから』

 と、なんだかんだでいつも彼が折れるのだ。
 ごめんごめんと涙をいっぱいにためて、結局謝ってくるのだ。
 彼は変わらない。
 あの頃の優しいままで、そして、本当に損な性格だ。
  力強く抱き寄せられると目頭がぐっと熱くなって、こちらからも手を回す。
 鬼と呼ばれるようになってからずっとこんな感情は知らなかったのに、目を開いたら泣いてしまいそうだった。
 このまま心の赴くままに瞳を濡らせたら、きっと信玄の傷は和らぐはずだ。
 だけど、心配もかけたくない。
 必死に小さく鼻をすすると、ぐっと引き寄せられた。

「ごめん、珠子……」

 明日まで謝らないと言っていたくせに、呟くように囁かれた信玄の声が耳に届いた時、わたしは自身の意識が遠のくのを感じていた。

「信玄……眠い……」

「うん。大丈夫。そばにいるから」

 いなくていいのに。
 どうかもうほおっておいてくれればいいのに。
 言いたかったけど、わたしの意識は深く深く、白い世界の中へ落ちていった。




 どうしてこんなにも眠いのだろうか。
 今までになかったことばかりだ。
 とどめを刺すなら今だ。
 そんなことを伝えたらまた怒られてしまうかもしれないけど、やるなら一思いにやってくれと切に願った。
 久我の土地につれてこられてから。何を言われてもどんな目にあっても、そのたびに信玄が優しく抱きしめてくれたから、乗り越えてくることができた。
 でも、このぬくもりが離れていってしまうのなら、もうひとりでは生きていけないだろうと思ってしまった。

 雪花様が身ごもったと知ったのは、そのすぐ後のことだった。