◇◇◇
「……ああ、やられた」
幾度目だろうか。頭の上からつま先まで泥だらけになって、うんざりしたまま自室に戻ることとなった。
今度は何者かに背を押され、池に落とされたのだ。
懸命に這い上がるため、上着を何枚か脱ぎ捨ててようやく地に這いつくばることが叶った。本当に、毎日毎日嫌になる。
忌み嫌われた『忌みの鬼』と呼ばれる存在でも万能の恐ろしさを誇るわけではない。
わたしは不老不死と言うことを除いては、大地の恵みに力を借りることができるくらいで能力などほとんど人間と変わらなかった。
池に落とされたら死ぬことはないとしても苦しいし、必死にもがくしかなくなる。
見張りの男たちもそこまでは厳重に監視を続けていたくせに一瞬隙を見せたため、彼らも共犯者ではないだろうかと思っている。
日が昇る頃、唯一与えられた責務を全うするため雨乞いの儀式を行う敷地へ向かうが、しっかり監視に張りつかれてはいるし、滞在している離れの近くで強い結界を張られるため、動けるとしても限られた範囲だ。悪さなんてしないのだからそっとしておいてほしいのに、人々は勝手に不安を生み出し、忌みの鬼を恐れ、部外者である人間として危害を加えてくることが増えた。
鶏卵を自室に投げ込まれることはほとんど日常茶飯事で、用意されていた着物が切り刻まれていたり、池に落とされたり、突然髪の毛を引っ張られたり、食事に腹痛を催す毒を盛られたこともあった。
外傷としてはわかりにくい、姑息なやり方がほとんどだ。
『気味の悪い化け物め』
散々攻撃して来るくせに、被害者面をするのはどうかと思う。
こちらだって好きで人の世から離れたわけではない。
危害だって加えるつもりはない。
それなのに、なぜか人は誰か確実な的を見つけると面白おかしく攻撃をする。
最初に居場所を失った時、そのつらさのあまり、本当に『忌みの鬼』と呼ばれる力がほしかったのは事実だ。
だけど、憎しみからは何も生まれない。あるとしたら、負の連鎖だけだ。
そうして叶わぬ思いを抱えたまま幾年もの時が過ぎ、少しずつ心が無機質になっていったのを感じていた。信玄と出会うまで、ずっと。
赤々とした紅葉で世界が彩られる中、少し肌寒くなったなと肩掛けを羽織って庭を回る。
いつどこでまたどんな攻撃がしかけられているかわからないけど、季節の移ろいを自分の目で確かめたくなった。
秋は季節の中で、もっとも好きだった。
山の中の食べ物がおいしくて、信玄も満足そうだった。
それに、いろんなところへふたりで歩いてでかけたものだ。
信玄は様々なことに興味をもって困らされたっけ。
敏い子供でなんでもすぐに吸収したし、これはなんだあれはなんだと質問責めにしてきたため、こちらが頭を悩ますことも少なくはなかった。
思えばいつの間にか調達してきた食材で手料理を振舞ってくれるようになっていた信玄はもしかするとあのときからすでに久我の一族と再びつながりを持っていたのかもしれない。
純粋なまなざしでただあとを追ってくる少年ではなくなっていた。
言われたとおりのことはする。
血だって欲しけりゃいくらでもささげてやる。
肉が欲しけりゃ持っていけばいい。
でも、いつまでここに居続けなくてはいけないのだろうか。
そう考えるとしんどくなった。
「信玄!」
春の日差しのように明るく可愛らしい花模様の着物に身を包んだ雪花様が信玄に向かって太陽のような笑みを浮かべたのを見かけた。
信玄は信玄で嬉しそうに彼女に駆けより、甘い笑みを返していた。
わたしには見せたことがないとろけるような笑顔だ。
いつまで、この光景を見ていないといけないのだろうか。
顔までべっとり泥が付いた自分自身は、ずいぶん滑稽な姿なのだろう。
こんな姿を、見せたくない。そう思ってしまった。
雨が降ってくれればいい。
こんな汚い姿……流してくれればいいのに。
空を眺めても、雲ひとつない空は水滴ひとつ落としてくれそうになかった。
この空は、忌みの鬼の血を欲している。
それ以外は、雨を降らそうとはしてくれない。
「珠子!」
最も嫌だと思った状況になった。
「どうしたんだ!」
信玄はすぐに気付いてしまって、人目も気にせずこちらに走ってきてしまった。
「いや、これは……」
「じっとして」
まわりの人間が息をのんだのが見てわかった。
大切な主が鬼に近づいてきたからだ。
そんな様子をハラハラと見守るまわりのことを気にする様子もなく、信玄は自身の手拭いでわたしの頬を拭った。
「信玄、よ、汚れてしまう……」
人に聞こえないように小さな声で言うのが精一杯だった。
信玄には聞こえなかったのか、口元をへの字にした彼は怒っているように見えた。
こんな姿で目立つ真似をしたことは……反省している。
「邪魔をして悪かった。も、もう大丈夫だか……」
「珠子は黙って」
「……ごめ」
強い口調で言われ、言葉が続かなくなった。
親しくしているようになんて見せたくないはずだ。軽率だった。
「信玄、女の子にはもっと優しく触れるのよ」
ふふ、と鈴の音のような声が聞こえ、彼の後ろからふわっとした雰囲気を纏い、雪花様が顔を出したのが見えた。
姿を目にしただけで、花のように良い香りがした。
「可愛らしいお方」
大きな黒い瞳を輝かせ、彼女は笑った。
その瞳の中に、泥だらけでやせっぽっちで、瞳だけ不気味に赤々とさせた娘の姿が見えた。
「このお方が珠子さん?」
「せ、雪花様」
雪花様が現れた途端、頬を染めた信玄が今まで見たこともない表情を浮かべ、あまり見ないでくださいと言った。
信玄の言うとおり、下を向く。
周りの緊張感も伝わり、わかっていると心の中で何度も自分に言い聞かせる。
このお方は絶対に近づいてはいけない人だ。
「いつも信玄からお話は聞いているのよ」
それでも彼女は彼を制止し、近づいてくる。
思わず後退りしたくなったのはこちらの方だ。
このお方は、雪の結晶のように白くて美しい。
それでいて触れてしまえばとけてしまいそうな儚さだって持ち合わせている。
「雪花様」
怖がるどころか親切に話しかけようとしてくれる優しいお方に、はじめて心から消えてほしいと思った。
この方は何も悪くない。
悪いどころか、もっと悪い人であればいいのにと思えるくらい澄んだ瞳をしていて、中身まで美しい人だった。
信玄が身を挺して守ろうとしたのがよくわかる。 どこまでも悪い人だったらよかったのに、そう思える自分がひどく嫌だった。
「……ああ、やられた」
幾度目だろうか。頭の上からつま先まで泥だらけになって、うんざりしたまま自室に戻ることとなった。
今度は何者かに背を押され、池に落とされたのだ。
懸命に這い上がるため、上着を何枚か脱ぎ捨ててようやく地に這いつくばることが叶った。本当に、毎日毎日嫌になる。
忌み嫌われた『忌みの鬼』と呼ばれる存在でも万能の恐ろしさを誇るわけではない。
わたしは不老不死と言うことを除いては、大地の恵みに力を借りることができるくらいで能力などほとんど人間と変わらなかった。
池に落とされたら死ぬことはないとしても苦しいし、必死にもがくしかなくなる。
見張りの男たちもそこまでは厳重に監視を続けていたくせに一瞬隙を見せたため、彼らも共犯者ではないだろうかと思っている。
日が昇る頃、唯一与えられた責務を全うするため雨乞いの儀式を行う敷地へ向かうが、しっかり監視に張りつかれてはいるし、滞在している離れの近くで強い結界を張られるため、動けるとしても限られた範囲だ。悪さなんてしないのだからそっとしておいてほしいのに、人々は勝手に不安を生み出し、忌みの鬼を恐れ、部外者である人間として危害を加えてくることが増えた。
鶏卵を自室に投げ込まれることはほとんど日常茶飯事で、用意されていた着物が切り刻まれていたり、池に落とされたり、突然髪の毛を引っ張られたり、食事に腹痛を催す毒を盛られたこともあった。
外傷としてはわかりにくい、姑息なやり方がほとんどだ。
『気味の悪い化け物め』
散々攻撃して来るくせに、被害者面をするのはどうかと思う。
こちらだって好きで人の世から離れたわけではない。
危害だって加えるつもりはない。
それなのに、なぜか人は誰か確実な的を見つけると面白おかしく攻撃をする。
最初に居場所を失った時、そのつらさのあまり、本当に『忌みの鬼』と呼ばれる力がほしかったのは事実だ。
だけど、憎しみからは何も生まれない。あるとしたら、負の連鎖だけだ。
そうして叶わぬ思いを抱えたまま幾年もの時が過ぎ、少しずつ心が無機質になっていったのを感じていた。信玄と出会うまで、ずっと。
赤々とした紅葉で世界が彩られる中、少し肌寒くなったなと肩掛けを羽織って庭を回る。
いつどこでまたどんな攻撃がしかけられているかわからないけど、季節の移ろいを自分の目で確かめたくなった。
秋は季節の中で、もっとも好きだった。
山の中の食べ物がおいしくて、信玄も満足そうだった。
それに、いろんなところへふたりで歩いてでかけたものだ。
信玄は様々なことに興味をもって困らされたっけ。
敏い子供でなんでもすぐに吸収したし、これはなんだあれはなんだと質問責めにしてきたため、こちらが頭を悩ますことも少なくはなかった。
思えばいつの間にか調達してきた食材で手料理を振舞ってくれるようになっていた信玄はもしかするとあのときからすでに久我の一族と再びつながりを持っていたのかもしれない。
純粋なまなざしでただあとを追ってくる少年ではなくなっていた。
言われたとおりのことはする。
血だって欲しけりゃいくらでもささげてやる。
肉が欲しけりゃ持っていけばいい。
でも、いつまでここに居続けなくてはいけないのだろうか。
そう考えるとしんどくなった。
「信玄!」
春の日差しのように明るく可愛らしい花模様の着物に身を包んだ雪花様が信玄に向かって太陽のような笑みを浮かべたのを見かけた。
信玄は信玄で嬉しそうに彼女に駆けより、甘い笑みを返していた。
わたしには見せたことがないとろけるような笑顔だ。
いつまで、この光景を見ていないといけないのだろうか。
顔までべっとり泥が付いた自分自身は、ずいぶん滑稽な姿なのだろう。
こんな姿を、見せたくない。そう思ってしまった。
雨が降ってくれればいい。
こんな汚い姿……流してくれればいいのに。
空を眺めても、雲ひとつない空は水滴ひとつ落としてくれそうになかった。
この空は、忌みの鬼の血を欲している。
それ以外は、雨を降らそうとはしてくれない。
「珠子!」
最も嫌だと思った状況になった。
「どうしたんだ!」
信玄はすぐに気付いてしまって、人目も気にせずこちらに走ってきてしまった。
「いや、これは……」
「じっとして」
まわりの人間が息をのんだのが見てわかった。
大切な主が鬼に近づいてきたからだ。
そんな様子をハラハラと見守るまわりのことを気にする様子もなく、信玄は自身の手拭いでわたしの頬を拭った。
「信玄、よ、汚れてしまう……」
人に聞こえないように小さな声で言うのが精一杯だった。
信玄には聞こえなかったのか、口元をへの字にした彼は怒っているように見えた。
こんな姿で目立つ真似をしたことは……反省している。
「邪魔をして悪かった。も、もう大丈夫だか……」
「珠子は黙って」
「……ごめ」
強い口調で言われ、言葉が続かなくなった。
親しくしているようになんて見せたくないはずだ。軽率だった。
「信玄、女の子にはもっと優しく触れるのよ」
ふふ、と鈴の音のような声が聞こえ、彼の後ろからふわっとした雰囲気を纏い、雪花様が顔を出したのが見えた。
姿を目にしただけで、花のように良い香りがした。
「可愛らしいお方」
大きな黒い瞳を輝かせ、彼女は笑った。
その瞳の中に、泥だらけでやせっぽっちで、瞳だけ不気味に赤々とさせた娘の姿が見えた。
「このお方が珠子さん?」
「せ、雪花様」
雪花様が現れた途端、頬を染めた信玄が今まで見たこともない表情を浮かべ、あまり見ないでくださいと言った。
信玄の言うとおり、下を向く。
周りの緊張感も伝わり、わかっていると心の中で何度も自分に言い聞かせる。
このお方は絶対に近づいてはいけない人だ。
「いつも信玄からお話は聞いているのよ」
それでも彼女は彼を制止し、近づいてくる。
思わず後退りしたくなったのはこちらの方だ。
このお方は、雪の結晶のように白くて美しい。
それでいて触れてしまえばとけてしまいそうな儚さだって持ち合わせている。
「雪花様」
怖がるどころか親切に話しかけようとしてくれる優しいお方に、はじめて心から消えてほしいと思った。
この方は何も悪くない。
悪いどころか、もっと悪い人であればいいのにと思えるくらい澄んだ瞳をしていて、中身まで美しい人だった。
信玄が身を挺して守ろうとしたのがよくわかる。 どこまでも悪い人だったらよかったのに、そう思える自分がひどく嫌だった。



