忌み夜の花嫁は雨を待つ

◇◇◇



「珠子」

 雨を迎える儀式を終え、振り返るとそこに信玄が立っていて、まわりがこちらに向かって頭を下げる。

「来ていたのか」

「ああ、珠子の勇姿が見たくてね」

「……それはどうも」

 しっかりお役目を全うした姿を観察する。
 正直なところ、名目はそれなのだろう。
 本当はもっと早くからこちらに視線を向けていることは知っていたが、いつもとあまりに違って強い眼光だったため、視線を返すことはできなかった。

「できる限りのことはした。二・三日もすれば雨が……」

「珠子、泣いたの?」

「え?」

「誰が珠子を泣かせた?」

 突然信玄の表情から笑みが消え、動きを止める。

「泣いたのではない。涙を出しただけだ」

 力の使い方など限られているのだから、信玄だって知らないはずはない。
 わたしの体内から流れる液体が、不思議な力を生むということを。
 たくさん水分は取っていたし、戻れない過去を思い返していたら自然と瞳は濡れ、いくつもの真珠の結晶を生み出したのだ。

「……もう」

「え?」

「ごめん、珠子」

 泣かせてごめん、と信玄が長い両腕を広げ、わたしを包み込む。
 だから泣いたのではないた反論もできたが、彼の腕の中にいるのは嫌いではなく、黙って受け入れていた。そして、

「今日はまだ何かする必要がある?」

 次に続いた声に感情はなく、まるで尖った鋭い氷のようでドキッとする。

「いっ、いえ……」

 瞬時に耳に届いた返しがあまりにも震えていて、どうやらわたしに向けられたものではないことを悟り、心なしかほっとする。

「よかった! 今日は自由だ。共に過ごそうか」
 
 顔を上げた先で信玄は笑っていた。
 もういつもの様子に戻ったようだ。
 いや、瞬時に戻したというか。
 そう思えるほど完璧な演技を繰り返し、彼はわたしの手を取る。
 まわりの人間が引きつった表情を見せ、頭を垂れたことなんておかまいなしだ。

「ちょ、信玄、いい加減に……」

「甘味をもってきたんだ。疲れただろうし、きれいな景色でも眺めて食べよう」

 信玄が視線を向けた先には、ずらりと並ぶ赤や黄と豪華な色に染まった木々、そしてずっと遠くまで広がる田畑が見えた。

「珠子のおかげで本当に世界は美しいよ」

 いつもありがとう、と手に込められた力は強くなった。
 いつの間にか見上げなくてはならなくなった彼の横顔はあまりに整っていて自然と目が奪われた。
 珠子珠子と向けてくるいつもの無邪気な様子は、その横顔からは想像もつかなかった。

「おまえも大変だな」

「え?」

「いや」

 言いかけてやめた言葉は、心地のよい秋の風にのって消える。
 上の兄二人はそれぞれ自由に奥方を向かえ、好き放題暮らしているのだと聞く。
 すべての面倒ごとを末の信玄に任せていい気なものだ。
 わかってはいるのに、この手を離せない自分もやっぱり悪い。
 解放してやれたらいいのに、結局久我の人間と同じく彼を利用する形となっていた。

 とはいえお年頃なのか性格なのか、この男のしつこさと言ったら呆れるほどである。
 三日三晩と開けずに律儀にやって来ては、お役目を全うする領主の末息子はいつもけなげで、それを都合よく解釈して迎え入れたわたしもわたしだけど、あんなに可愛く大切で弟のように思っていた存在もいつの間にかその影すら失ってしまい、あれよあれよと流されるままに彼の幸せを願うというよりもある意味、人の道を外させてしまった気がして罪悪感さえ生まれてくる。
『珠子』
 どんなときも彼は笑ってくれた。
 誰も良い顔はしなかったが、彼ひとり、自身が口にした言葉を守ろうと努力してくれているように思えた。

 二か月前、体内に取り込まれた毒からようやく解放され、目を覚ましてすぐに視界に入ったのは、記憶の中よりもずっと大きく成長した十七の信玄の姿だった。
 最後に見た時も背は伸びつつあったけど、ここまで立派な身体だったわけではない。
 困惑と戸惑いでいっぱいになった。
 そんなわたしに対し、すっかり力を失いつつある久我家を救うため、力を貸してほしいと信玄は頭を下げた。

『そのかわり、俺のことは珠子の好きなようにしていい』

 三年前に呼んでいた、白珠様という愛称ではなく教えたことのない本名でわたしを呼び、口づけてきたのだった。

 そういえば、大きくなったら食べていいですからと常々言われていたことを思い出す。
 人の肉など食べることはないと何度言っても彼は信じることなく、疑うことを知らない純粋な瞳をこちらへ向けては、自分は異国の血が混ざっているからきっと大きくなって食べごろが来るだろうと常に言い張っていた。
 最初は冗談じゃないと拒絶し続けていた。
 それもそうだ。殺されかけたのだ。不老不死のおかげでそう苦しむことはなかったけど、あの飲物が毒であることはわずかに残されたわが身が悲鳴をあげていたため、気付いていた。体内で害はなくてもつらいものはつらい。
 誰が自分を殺そうとした相手の言うことなどきくものか。
 この男のしつこいことをすっかり忘れ、夜な夜な押しかけられることが増え、うんざりし始めたころ、彼がとろけるような笑顔を浮かべ、ある女人の隣で笑っているのを目にした。

 彼女が、信玄が言っていた雪花様なのだろう。
 聞かずともわかった。 白くふわっとした花模様の着物を身に纏った小さな女人の前で柔らかそうに細められた瞳は、幸せそのものを物語っていた。
 そのとき、悟ったのだ。
 彼は、大切な雪花様のためなら、なんだってできるのだと。
 たとえ鬼に身を売ることだって、彼にとっては造作もないことなのだ。
 大きく膨らんでいた胸のうちがしわしわとしぼんでいくようだった。
 もともと何も期待はしていない。
 でも、少しだけ錯覚を始めていた。
 ここで力を使って生きていけば、少しでも自分を欲してくれる人が現れるのではないかと。信玄が、その人なのだと思ってしまいそうになっていた。
 ひどいと思っていてと受け入れてしまう。
 偽善者ぶって、図に乗ったって構わない。
 欲しいものは欲しいと伝えるようになれと散々教えたのはわたしだ。
 すべてを諦めた瞳の少年に何度も告げてきたのだ。
 欲しいもののために、手段を選ばなくなっただけ、逞しくなったと喜んであげよう。
 結局、目覚めてから三日間は離してもらえなかったのだけど、それから少しずつ信玄がわたしの名を呼ぶたびに、心が真っ黒に濁っていく気がした。

 何も知らないわけではない。
 油断をした彼の瞳に色が宿っていないことを知っている。
 自らの感情に抗って、心を閉ざしているのだとすぐにわかった。
 彼は気付いていない。
 時おり呆然と無機質な瞳で窓の外を眺めている様子をわたしが知っていることも。
 すべてを諦めたつもりだったけど、しぼんだはずの胸がチクチクと痛むようになった。
 痛くて痛くて、とても苦しい。
 彼に好きだと言われて抱き締められるたび、雪花様……と明るい声を出す彼の声が脳裏をよぎった。
 あの笑顔のために、彼は自らの心を殺していた。
 それでも、彼にすべてを捧げられて以来、この街の人間たちは乾いた土地に悩まされることが減ったのは事実だった。

 わたしが何かをしているわけでもない。
 儀式のひとつとして虐げられている雨ごいなどしたって意味がない。たまにわたしがこっそり力を使っているだけで、そんなことは信玄だって知っているはずだ。
 それに、彼はわたしの力の使い方も知っている。
 だからこそ、彼はますます意に反する行為だけをただただ繰り返すのだ。
 莫大な鬼の力を得るために。
 あえて言及することはなかったけど、この街を悩ませていた天災被害が少しずつ解決していく今、もうわたしが何か彼らのためにできることはもうほとんど残されてはいなかった。