◇◇◇
深い深い山の奥の閉ざされた空間で『忌みの鬼』と恐れられ、半世紀が過ぎたころ、人の世では繰り返し天災が人々を苦しめていたらしい。
ある日、お供え物のそばに小さな少年がしゃがんでいて、自分は人身御供だと言い張り、どれだけ拒んでもついて来たのはかれこれすでに十年前のことではないだろうか。
忌みの鬼は月のない夜に人の血を吸って生息していると言われており、新月を迎える少し前に赤色に染められた布に包まれたお供え物がいくつか山の麓のある一角に置かれることが増えた。
血の代わりに、ということなのだろう。どんなものも、もっとも血液と近しい色をしているものが準備されていた。
呪詛のかかった獣の血を浴びせられて以来、鬼と呼ばれる存在になった。
どれだけ身を裂かれようと死ぬことはない。
昼夜問わず血に飢えたような赤い瞳にはなってしまったが、造形も十六のまま変わることもない。
どれだけ高価なものを口にしても味がわからなくなってしまったため、少しずつ食事も必要なくなり、少しずつ自分が人間でなくなっていくことを悟った。
村や街を襲うことなんてないし、お供え物もやめてほしかったが、そのままにしておくとどんどんどんどんたまってしまうため、仕方なく定期的に回収しに行ってはこっそりそれらを欲している別の村へと届けることが日課となっていた。
御三家のひとつである久我の一族は代々術に長けた能力者の集まる一族だと聞いたことがある。
地をまとめ、人々を従わせる最も力を持つ者たちだ。
ご縁があったわけではないが、知らない者はいなかったはずだ。
あれは不運が重なり飢饉が起きた年のことだったか、当主の力が弱まり、邪気を含んだ生き物が人の世を脅かすようになった。
もちろんわたしのせいではないのだけど、人々は『忌みの鬼』のせいであることを信じて疑わず、攻撃をしてくることもあったが、それでもわたしが命を落とすことがないため怯え、ある日突然手のひらを返したように徐々にお供え物を並べ始めた。
そうすることで心の平穏を保とうとしていたのだろう。
彼らは彼らなりに世の平安を願っていたようだ。
人里離れて暮らす者として関係のない世界での話など、術師同士で何とかしてくれと傍観さえもしていなかったある日、人身御供だと自称し、小さな子供が姿を現したのだった。
『街を、救ってください!』
それが、幼き日の信玄なのだけど、彼は自身はいらない存在であるため、自分の血を吸ってくれと言って聞かなかった。血など必要ないと何度追い返してもしつこく着いてきて、知らぬ間に居座るようになった。
異国の血が混ざった彼はとても整った造形をしていたが、逆にその姿を恐れられるのだと言い、常に深く深く頭巾をかぶっていた。
人は自分たちと少しでも違う姿を持つ者は除外したがるところがあるのだと改めて思わされたほどだ。
『見た目はこんなのですけど、血はあなたも気に入ってくれると思います』
姿を見せるたび、血を吸えだの肉を食べろだの青い瞳を大きく見開いて近づいてきた。
物騒なものを置いておくと自らを傷つけかねなかったため一室に閉じ込め、対策を考えることとなった。唯一守り抜かれたの敷地内で自傷行為などされてはたまらない。
帰れと言ってもただでは帰らない。
血でも飲んだふりをして追い返したところでまた姿を現すであろうたくましさを持っていた。小さいくせに、侮ることはできない。
閉じ込めたって、彼の勢いは止まらない。 毎日毎日大きな声で喚き、しまいには青い瞳をくりぬいたっていいから、どうかお願いだから街を救ってほしいと言った。
言うとおりにするから……と、根負けをしたのはこちらの方だった。
そう思うと、今も昔も変わらない。
信玄の悲しそうな顔に弱いのだ。いや、笑顔もか。
彼の要求をのむと叫ぶようにそう宣言すると、いつの間にか頬がこけた信玄は小さく笑い、そして意識を失った。
軽い栄養失調だった。
自身が食事をとらない身体となり長かったため、人間という生き物がどのくらいの食事や水分を欲しているのかすっかり忘れてしまっていた。
慌てて食事を与え、昼夜問わず、看病をすることになった。
小さな少年は夢にうなされ、夜になると『雪花様……』と繰り返すようになった。
のちに彼が元の元気な姿に戻った際、彼の口にしていた雪花様について尋ねてみると、兄の幼なじみの少女で、気味悪がられていた信玄にも親切にしてくれた恩人なのだという。
『雪花様は僕のすべてだったんだ』
と彼は懐かしむように笑った。
彼の知るところによると『忌みの鬼』は若い乙女の肉や血を好んでいると言われているらしく、もっとも久我家に近い雪花を鬼への生贄にしようという意見が出始めたこともあり、慌てて力のない信玄が人身御供となるようここまでやってきたのだそうだ。
雪花にだけは手を出さないで欲しいと再び頭を下げる信玄に何度も言っているが人身御供など必要ないことを告げ、ある決意をした。
約束をしたからには守らないわけにはいかない。
身に刃を突き付け、呪の儀式を行うこととなった。
みなに恐れられているものの、これくらいしかわたしにできることはない。
獣の血が混ざった我が血は、空気に触れると丸い結晶へと姿を変えるため、それを宙にまき散らす。どうしたらいいのかわからず、ただただそれが澄んだ空へ昇っていく様子を眺め、乾いた大地に雨が降るよう願いを込め、瞳を閉じた。
それから二日後。
信玄が目を覚ます頃、空から大きな水滴が落ちてきて、地面を濡らした。
数か月ぶりに雨が降ったのだ。
傷をつけた左手はズキズキと痛んだが、嬉しそうに空を見上げる信玄の横顔を見ていたら、こんな痛みなど苦ではなかった。
願いを叶えたのだからこのまま帰ってほしいと伝えたものの、恩返しをさせてほしいと信玄はますます居座る決意を固めてしまい、どうしたらわたしが喜ぶかをいつも試行錯誤するようにすり寄って来ては数年の月日を共にすることとなった。
信玄は怯えることなく、ひとりの鬼と呼ばれた娘の生活に入り込んできたのだった。
『見てください、白珠様』
彼の指差す景色には、言葉にはできないほど美しく艶やかな季節の移ろいを感じた。
春も夏も秋も、そしてもっとも孤独だった冬も。
信玄は『白珠様』と屈託のない笑顔を向けてくるただひとりの人間となった。
空が青いことを知った。
食事がおいしいと思えるようになった。
嬉しいと思うことが増えた。
新しく知ったことを誰かに伝えたいと思った。
誰かと過ごす時間が心地よいと思えるようになった。
信玄と過ごす日々の中で、わたしは少しずつ過去に感じていた気持ちを取り戻すようになっていた。
四季を肌で感じられるようになったとき、言葉にできない気持ちでいっぱいになった。
ダメだとわかっていても、信玄という存在は自分の中でどんどん大きくなっていき、小さくて可愛い弟のような、そんなかけがえのない存在となった。
いつかは彼を人の世へ戻さないといけない。
わかってはいたものの、動くことができなくなった。あと少し、あと少し。
自分自身に言い聞かせることが増えた。
あと少し、彼が成人を迎える年になったら、しっかり説明をしてこの地を去ってもらおう。自分は不老不死で年を取らなければ死ぬこともない。人々が恐れるほど怖い存在でもないが、人間でもない。そう伝えて理解をしてもらう。
そう思った矢先のことだった。
十四になったばかりの信玄に盛られた毒によって、わたしは正気を失うこととなる。
『白珠様……』
遠のきかけた意識の中で当時伝えていた名を何度も呟き、信玄が涙を流したのが見えた。
幾度となく繰り返す季節の中で、ごく自然に渡された飲み物の中に毒が仕込まれていた。
油断をするというよりも、そんなことあるはずがないと思っていた。
信玄、と彼の名を呟くと、彼は表情を歪ませ、わたしの手を握った。
おまえも、わたしを裏切るのだな。
わかっていた。
本当はわかっていたのだ。
彼は、何年も何年も時間をかけてこの時を待っていたのだと。
ついには、信玄にも裏切られてしまった。
そう悲しく思うのと同時に、それでいい、と心の中で頷く自分もいた。
彼にとって、最も良い場所で幸せになってほしい。
それが、わたしの最後の願いだったのだから。
深い深い山の奥の閉ざされた空間で『忌みの鬼』と恐れられ、半世紀が過ぎたころ、人の世では繰り返し天災が人々を苦しめていたらしい。
ある日、お供え物のそばに小さな少年がしゃがんでいて、自分は人身御供だと言い張り、どれだけ拒んでもついて来たのはかれこれすでに十年前のことではないだろうか。
忌みの鬼は月のない夜に人の血を吸って生息していると言われており、新月を迎える少し前に赤色に染められた布に包まれたお供え物がいくつか山の麓のある一角に置かれることが増えた。
血の代わりに、ということなのだろう。どんなものも、もっとも血液と近しい色をしているものが準備されていた。
呪詛のかかった獣の血を浴びせられて以来、鬼と呼ばれる存在になった。
どれだけ身を裂かれようと死ぬことはない。
昼夜問わず血に飢えたような赤い瞳にはなってしまったが、造形も十六のまま変わることもない。
どれだけ高価なものを口にしても味がわからなくなってしまったため、少しずつ食事も必要なくなり、少しずつ自分が人間でなくなっていくことを悟った。
村や街を襲うことなんてないし、お供え物もやめてほしかったが、そのままにしておくとどんどんどんどんたまってしまうため、仕方なく定期的に回収しに行ってはこっそりそれらを欲している別の村へと届けることが日課となっていた。
御三家のひとつである久我の一族は代々術に長けた能力者の集まる一族だと聞いたことがある。
地をまとめ、人々を従わせる最も力を持つ者たちだ。
ご縁があったわけではないが、知らない者はいなかったはずだ。
あれは不運が重なり飢饉が起きた年のことだったか、当主の力が弱まり、邪気を含んだ生き物が人の世を脅かすようになった。
もちろんわたしのせいではないのだけど、人々は『忌みの鬼』のせいであることを信じて疑わず、攻撃をしてくることもあったが、それでもわたしが命を落とすことがないため怯え、ある日突然手のひらを返したように徐々にお供え物を並べ始めた。
そうすることで心の平穏を保とうとしていたのだろう。
彼らは彼らなりに世の平安を願っていたようだ。
人里離れて暮らす者として関係のない世界での話など、術師同士で何とかしてくれと傍観さえもしていなかったある日、人身御供だと自称し、小さな子供が姿を現したのだった。
『街を、救ってください!』
それが、幼き日の信玄なのだけど、彼は自身はいらない存在であるため、自分の血を吸ってくれと言って聞かなかった。血など必要ないと何度追い返してもしつこく着いてきて、知らぬ間に居座るようになった。
異国の血が混ざった彼はとても整った造形をしていたが、逆にその姿を恐れられるのだと言い、常に深く深く頭巾をかぶっていた。
人は自分たちと少しでも違う姿を持つ者は除外したがるところがあるのだと改めて思わされたほどだ。
『見た目はこんなのですけど、血はあなたも気に入ってくれると思います』
姿を見せるたび、血を吸えだの肉を食べろだの青い瞳を大きく見開いて近づいてきた。
物騒なものを置いておくと自らを傷つけかねなかったため一室に閉じ込め、対策を考えることとなった。唯一守り抜かれたの敷地内で自傷行為などされてはたまらない。
帰れと言ってもただでは帰らない。
血でも飲んだふりをして追い返したところでまた姿を現すであろうたくましさを持っていた。小さいくせに、侮ることはできない。
閉じ込めたって、彼の勢いは止まらない。 毎日毎日大きな声で喚き、しまいには青い瞳をくりぬいたっていいから、どうかお願いだから街を救ってほしいと言った。
言うとおりにするから……と、根負けをしたのはこちらの方だった。
そう思うと、今も昔も変わらない。
信玄の悲しそうな顔に弱いのだ。いや、笑顔もか。
彼の要求をのむと叫ぶようにそう宣言すると、いつの間にか頬がこけた信玄は小さく笑い、そして意識を失った。
軽い栄養失調だった。
自身が食事をとらない身体となり長かったため、人間という生き物がどのくらいの食事や水分を欲しているのかすっかり忘れてしまっていた。
慌てて食事を与え、昼夜問わず、看病をすることになった。
小さな少年は夢にうなされ、夜になると『雪花様……』と繰り返すようになった。
のちに彼が元の元気な姿に戻った際、彼の口にしていた雪花様について尋ねてみると、兄の幼なじみの少女で、気味悪がられていた信玄にも親切にしてくれた恩人なのだという。
『雪花様は僕のすべてだったんだ』
と彼は懐かしむように笑った。
彼の知るところによると『忌みの鬼』は若い乙女の肉や血を好んでいると言われているらしく、もっとも久我家に近い雪花を鬼への生贄にしようという意見が出始めたこともあり、慌てて力のない信玄が人身御供となるようここまでやってきたのだそうだ。
雪花にだけは手を出さないで欲しいと再び頭を下げる信玄に何度も言っているが人身御供など必要ないことを告げ、ある決意をした。
約束をしたからには守らないわけにはいかない。
身に刃を突き付け、呪の儀式を行うこととなった。
みなに恐れられているものの、これくらいしかわたしにできることはない。
獣の血が混ざった我が血は、空気に触れると丸い結晶へと姿を変えるため、それを宙にまき散らす。どうしたらいいのかわからず、ただただそれが澄んだ空へ昇っていく様子を眺め、乾いた大地に雨が降るよう願いを込め、瞳を閉じた。
それから二日後。
信玄が目を覚ます頃、空から大きな水滴が落ちてきて、地面を濡らした。
数か月ぶりに雨が降ったのだ。
傷をつけた左手はズキズキと痛んだが、嬉しそうに空を見上げる信玄の横顔を見ていたら、こんな痛みなど苦ではなかった。
願いを叶えたのだからこのまま帰ってほしいと伝えたものの、恩返しをさせてほしいと信玄はますます居座る決意を固めてしまい、どうしたらわたしが喜ぶかをいつも試行錯誤するようにすり寄って来ては数年の月日を共にすることとなった。
信玄は怯えることなく、ひとりの鬼と呼ばれた娘の生活に入り込んできたのだった。
『見てください、白珠様』
彼の指差す景色には、言葉にはできないほど美しく艶やかな季節の移ろいを感じた。
春も夏も秋も、そしてもっとも孤独だった冬も。
信玄は『白珠様』と屈託のない笑顔を向けてくるただひとりの人間となった。
空が青いことを知った。
食事がおいしいと思えるようになった。
嬉しいと思うことが増えた。
新しく知ったことを誰かに伝えたいと思った。
誰かと過ごす時間が心地よいと思えるようになった。
信玄と過ごす日々の中で、わたしは少しずつ過去に感じていた気持ちを取り戻すようになっていた。
四季を肌で感じられるようになったとき、言葉にできない気持ちでいっぱいになった。
ダメだとわかっていても、信玄という存在は自分の中でどんどん大きくなっていき、小さくて可愛い弟のような、そんなかけがえのない存在となった。
いつかは彼を人の世へ戻さないといけない。
わかってはいたものの、動くことができなくなった。あと少し、あと少し。
自分自身に言い聞かせることが増えた。
あと少し、彼が成人を迎える年になったら、しっかり説明をしてこの地を去ってもらおう。自分は不老不死で年を取らなければ死ぬこともない。人々が恐れるほど怖い存在でもないが、人間でもない。そう伝えて理解をしてもらう。
そう思った矢先のことだった。
十四になったばかりの信玄に盛られた毒によって、わたしは正気を失うこととなる。
『白珠様……』
遠のきかけた意識の中で当時伝えていた名を何度も呟き、信玄が涙を流したのが見えた。
幾度となく繰り返す季節の中で、ごく自然に渡された飲み物の中に毒が仕込まれていた。
油断をするというよりも、そんなことあるはずがないと思っていた。
信玄、と彼の名を呟くと、彼は表情を歪ませ、わたしの手を握った。
おまえも、わたしを裏切るのだな。
わかっていた。
本当はわかっていたのだ。
彼は、何年も何年も時間をかけてこの時を待っていたのだと。
ついには、信玄にも裏切られてしまった。
そう悲しく思うのと同時に、それでいい、と心の中で頷く自分もいた。
彼にとって、最も良い場所で幸せになってほしい。
それが、わたしの最後の願いだったのだから。



