忌み夜の花嫁は雨を待つ

◇◇◇


「ほら早く行け!」

 容赦なく腕を引かれ……るというよりも地面に叩きつけられ、ぬかるんだ地面に顔面から飛びこむこととなる。
 泥臭い。
 最初に感じたのは痛いと言うよりも鼻にヌメッとしたものが飛び込んできたことだ。
 動いてまた殴られでもしたら厄介なためしばらくじっとしていると、気味の悪い化け物め!と悪態をつき、思いっきり背中を蹴飛ばされた。
 けほっとむせると口内に土の味が広がった。

 痛みを感じないわけではないが、痛いとか悔しいとか、そんな風に思う前にこのあとどうしたものかとぼんやり考えていた。
 いつも以上に気が立っているであろう周りの様子に、きっと今日あの男はやってくるのだと悟る。
 彼らが纏う気が殺気に変わったときはほとんどがその日である。

 いつまでも倒れているわけにもいかず起き上がると男たちはひるんだ声を出す。 何をしたわけでもなく、ただ立ち上がっただけだ。
 顔面を引きつらせて見開いた瞳の中に、泥だらけになった赤い瞳の鬼のような娘の姿が映っていた。

「……っ、こ、この!  信玄(しんげん)様をそそのかしやがって!」

 怯えた様子で剣を抜くその瞳は、人ではない者を映していた。

「や、やめておけ! おまえも佐津(さつ)のように消されたいのか!」

「そうだそうだ! 恨みは買わない方がいい!」

 咄嗟に腰を抜かした者もいた。
 大丈夫か?などと言って手を差し伸ばしたら、どのくらい絶叫されるだろうか。

「ふ、ふざけるな! 佐津の仇だ!」

 振り上げられた刀を眺め、佐津とはなんだろうかとぼんやり思う。
 蹴飛ばされても踏みつけられたって、どうせ死ぬことはない。
 切られたら……さすがに痛いだろうけど、反論しても無駄なため、致し方ないとぐっと目とつむる。

「やめろ!」

 頭上から声がして、激痛を感じるよりも先に再び視界いっぱいに燃えるような赤色が広がる。

「や、八代(やしろ)様!」

 ひとりの男が音もなくそこに現れ、あたりの落ち葉が宙を舞う。
 先ほどとは別に、引きつった形相になった男たちは怯んだようにたじろぎ、跪く。

「おまえたちが命じられたのは、こんなことだったか?」

 八代と呼ばれるこの男は、ここの主の最も位の高い側近だ。
 必要最低限話すことはなくぶっきらぼうであるがいい男なのだとは思う。頼まれているのか、たまにこちらの様子を見にやってくる。

「命の水が尽きる前に、自らその可能性をつぶそうとした、と」

 切れ長の瞳は刃物のように鋭く、また氷のように美しい。
 しかしながらその瞳にとらえられようものなら大問題だ。

「あ、あ……あの、その……」

 命でも取られると言わんばかりに男たちはあわてて言い訳を考えている様子だった。

「そ、その鬼が俺たちを……こ、殺そうとしたんです」

 よくもまぁこの状態でそんなことを。
 思うも、いつもはこんなときに優先されない意見は誰よりも自分のものだった。

「信玄様にすべてをお伝えする。あとはあのお方の判断を待て」

 形のいい唇が彼らの名前を呟き、行け、と静かに言うものだから男たちをまた青くさせ
た。

「二度はない」

 顔面についた泥を拭っているうちに男たちは悲鳴とも取れる声を上げ、去って行くところだった。
 その様子を眺めることもなく、八代は胸元から呪符を取り出し、何かを唱えた。
 本来は彼らが行うはずだった結界を張ったのだと気付いたのはすぐあとのことだ。

「おまえも、肝に銘じろ。少しでも怪しい動きをしたら切る」

 ……ああ。
 先ほどよりも殺気に満ちた瞳を向けられ、自然とため息が出た。

 連れてきたのはおまえたちじゃないか。

 言えるものなら言ってやりたかったが、すっかり心が疲れ果てていてそんなことを言い返す気力もなくなっている。

「化け物が」

 男たちに向けられたよりももっと呪(しゅ)のこもった言葉だった。
 吐き捨てるように言い放たれ、思わず切れるものなら切ってくれればいいのに、と思ってしまったほどだ。
 背を向けても八代は追ってくる様子はない。
 主の命(めい)がない限り、彼が動くことはない。
 殺したくて殺したくて仕方ないという気配だけを消すこともせず、彼は化け物がこの場から去るのをただただ見守っているのだろう。
 ヒリヒリと痛みを感じていた部分はもうすでに元通りになっていて、何事もなかったようだ。
 人ではない生き物であることを主張しているようにも見える。
 息を吐き、泥まみれになった着物を軽くはたき、先ほど八代が張った結界の奥へと足を進める。

 季節は巡り、青々とした木々はその葉を赤く染め、心地よい風が肌に触れる。
 はらりと散りゆく紅葉の葉に何度目かの秋を迎えたことを感じる。
 見上げればかつては色をなくして見えた世界が今では一面艶やかに彩られている。
 そこまで考え、五十年の時を重ね、失われていたと思っていた感情や感覚もいつの間にやら自分が思っているよりも豊かなものになっていることに改めて驚かされる。
 不思議なものだ。
 たったひとりの人間にここまで変えられてしまうとは。
 そう思いながら、鼻が曲がりそうな悪臭と散々な光景に一瞬の間を置き、深いため息をついた。

「ああ、本当にこりないやつらだ」

 またやってくれた……と、自身よりもひどい状態になっていた室内に昨日よりも盛大に肩を落とし、玄関先に常備している樽を抱え、裏の井戸に向かう。

 張られた結界をいとも簡単に超えてこられるということは、この一族の力を持つ者の仕業だろう。
 次から次へと問題は山積みだ。
 自分が何をしたのかと言いたくなるが、これは忌み嫌われたものが辿る宿命だ。
 受け入れたつもりでも、むなしい気持ちは何度だって生まれる。
 結界に囲まれた久我の領地の離れを与えられ、二ヶ月が経とうとしている。
 領主の末息子様から贔屓にされていると勘違いされ、怖がりつつも子供じみた悪戯をされるようになったのはここへきてすぐのことだ。
 贔屓にされているのではない。あれは……

「……っ」

 思ったよりもひんやりとした井戸の水の感覚が指先から全身へと巡る。
 ゆっくりと水をくみ上げ、樽を抱えると、たぷんと水面が揺れ、腹部を濡らす。
 絶望しかけながらも一刻も早くあの状況を何とかせねばと一歩一歩地を踏みしめ、投げ込まれたであろう鶏卵の匂いが充満している自室に向かう。
 人は大地の恵みに助けられ、生かされている。
 無残にも散々な状態で砕け散ってしまった鶏卵の状態を思い出し、嫌がらせのためだけに作られた命ではないだろうのにと悲しくなる。
 扉の前で一度樽を置き、額ににじんだ汗をぬぐい、立てつけの悪い扉に手をかける。

「……えっ」

 急がねば、と焦る気持ちが一気に吹き飛んだのは、目に入った光景が全く別の者になっていたからだ。
 想像していた匂いはどこへやら、扉の向こうは先ほど見た光景ではなくなっている。

「外出か」

 代わりに奥の座敷で寛いだ様子の男に目を奪われる。

「し、信玄(しんげん)……どうして……」

 どうしてこんな時間に。
 来るかもしれないとは思っていたが、今宵は遠出で帰りが遅くなると聞いていた……いや、それよりも……

「思ったよりも早くことが片付いたから、できるだけ早く帰ってきた。……って、すごい有様だな」

 向けられた優しい瞳は、すぐに困惑の色を見せる。
 それもそのはず、泥だらけだった自身のことをすっかり忘れていた。

「誰かにやられたのか?」

「いや、道中で転んだんだ。道がぬかるんでいて」

 それは嘘ではない。
 何事も悟られることがないよう努めて淡々とした口調で答えると、そうか、とそれ以上は追及してこなかった。この男はそういうやつだ。まったくもって興味がないのだろう。

「拭いてやろう」

 おいで、とこちらに向き直り、改めて微笑むその男こそ、この久我家の末息子であり、忌みの鬼と呼ばれた女を手懐けて毒薬を持って殺そうとした男だ。

「珠子(たまこ)、会いたかった」

 頭のてっぺんから足の先まで丁寧に泥を拭いとり、温かなお湯をかけてくれるその男は相変わらず馬鹿なことをぬかす。
 決して惑わされてはいけない口術を軽く受け流し、目を閉じる。
 忌みの鬼は不老不死であり、その命を落とすことはなかったため、三年の年月をかけて その命を封印し、目覚めたと同時にしれっと甘い笑顔を見せては胡散臭い言葉を並べるようになった。

「珠子」

 透き通った青い瞳に映されると動きを封じられたような気持ちになる。
 空のように澄んでいてどこまでもどこまでも美しい色だ。
 どんな暗い闇の世界でもこの色だけは間違えることはない。
 異臭が漂っていた室内のことや散乱した鶏卵の残骸はどうなったのだろうかと思いつつも気付いたら彼のもとへ近づいていた。
 人よりも造形が整っていて体格が大きいのは、異国の血が混ざっているからだと言っていた。奇形児の自分は必要のない人間なんですと何かあればすぐに命を差し出そうとした気弱な少年の面影は今では微塵も感じられない。
 奇形児なものか。
 こんなにも美しいものを生まれてこの方見たことがない、などと思っているとぐっと引き寄せられる。

「……お、おい」

「なに?」

「距離感がおかしい」

「おかしくない。れっきとした夫婦の距離感だ」

「………」

 夫婦という言葉がこれほど違和感に感じられたことはない。
 没落寸前の一族に鋭気を与えた忌みの鬼とその鬼のもとへ人身御供となり犠牲になった人間……という関係性がもっとも近いと思っている。

「自分の嫁のもとで羽を休めて何が悪い」

「よ、よく言う」

 定期的にやってくるのはお役目のため。
 平気で嘘をつくから厄介で、わかっているのにいちいち動揺させられてしまうのが悔しいところだ。
 かつてはわたしの後ろを離れることなく歩き、少しでも姿が見えなくなれば泣きそうな表情を浮かべていたのはこの男だったのに。

「珠子、愛してる」

 心のこもらぬ言葉に愛はない。
 きっとまた機会を狙っているのだろう。
 途絶えることのない忌みの鬼の鼓動を止めるその瞬間を。
 油断をしたとたんに心臓を貫かれるはずだ。覚悟はできている。苦しいのはひどく嫌だけど。

「珠子……」

「信玄」

 見つめていると何を勘違いしたのか、頬に手を添え、唇を寄せられる。

「ち、近い!」

「近くない。むしろ離れすぎてるくらいだ」

 距離を縮められて動揺するのはこちらだけだ。
 一生懸命抵抗しても心にもない言葉を並べ、慣れた手つきで身体に触れようとしてくる。

「い、いい加減にしてくれ」

 振り払って睨み付けると、降参と言わんばかりに両手をあげる男はどこまでも余裕ある雰囲気をまとっている。
 いつの間にどこで覚えたのか、彼はまたわたしを甘美の世界に誘い込もうとしているのだろう。
 そして、また命を狙う。
 ちょっとした油断が命取りだ。

 どうせわたしは死なないのだけど。

「ふざけるなら離せ。自分でやる」

「ダメダメ。これは、俺にやらせて」

 かつては同じようにわたしが彼の髪を拭っていたというのに、今では完全に立場が逆転してしまった。

『珠子からはたくさんのものをもらったし、これから先も頼ることになってしまう』

 長い眠りから覚めてすぐに、見慣れない姿に成長した彼が言った。
 慣れ親しんだ山奥を離れ、つれてこられたこの久我の屋敷の中で鬼として扱うということを。

『だから、俺のことは好きにしていい』

 久我家は、全てを末の息子に押し付けた。
 軽薄そうな笑みを浮かべ、嘘ばかり並べる男に、だ。

『自由を奪ってしまう代わりに、俺のすべてを君にあげる』

 君を花嫁に迎え入れるつもりだから、と。
 ここまでくると好き勝手されているのはこちらのような気がしないでもないが、どれだけうとましがられようと彼だけは変わらずわたしのもとへやってきて、変わることなく義務を果たす。
 これがわたしの好きなことなのかはわからない。
 でも、信玄と過ごす時間は変わらず心地よく、抗うことなんてできなかった。

 かつて嫁入りが決まった際……そう、あれはまだ人間だったときの話だ。
 母からはいつも殿方に尽くす方法ばかり散々語られたことを思い出す。つらいと思っても空を眺め、星を数えて乗り越えるのだと。
 今思い出すとは、皮肉なものだ。
 故意に鬼に変えられ破綻した初めての婚姻の次は一家の復興のために忌みの鬼として監禁され、形だけで結ばれることのなった愛のない婚儀が待っていたのだから。
 婚姻を結ぶということは、新しい家族を迎えるめでたい祝い事だと聞いていたのに、今では呪われた儀式としか思えなくなった。

「たーまこ!!」

 それでもまた、名を呼ばれるとその手をとってしまう自分がいた。