◇◇◇
初めまして、とその男は穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
自分は君の婚約者なのだと。
そんな光景が目に入る。
いつもいつも花を持ってくる、そんな男だった。
お姉さま、おめでとうと笑う可愛い妹の姿もそばにいる。
場面が少しずつ飛んでいく。まるで走馬灯のように。
続いて、井戸の底に落とされ、退路を断たれたその場所で何度も何度も頭上から獣の血を浴びせられ、生きたまま鬼となった。
忌み嫌われ、街を追放される。
痛みも何も感じない。
ただぼんやりとその様子を眺めていた。
これが、わたしに与えられた生涯だったからだ。
『あなたの生贄にしてください』
人生が変わったきっかけだ。
幼き日の信玄の姿が見えた。
今とは全く違って見えるその姿に、思わず可愛いとつぶやいてしまった。
『白珠様』
彼はどこへ行く時もついてきた。
春も夏も秋も冬も。
季節が巡るたび、何度も何度も。
これをどうぞ、と野に咲いた花をきれいだと思う季節には必ず手を泥だらけにして渡しにやってきた。
礼をいうと嬉しそうに笑う。
小さなノイズが聞こえる世界の中で、日々が繰り返されていく。
『白珠様』
彼が泣き叫びながら横たわるわたしの手を握っているのは毒を盛った時か。
泣いているということは、誰かにそうするように告げられたからだろうか。
今より少し幼く見える彼のそばにいって抱き寄せたくなった。
『ざまぁみろ』
その声が不調和音の中で鮮明に聞こえたのは、顔を上げた先にかつて大切にしていた妹の姿が見えたからだ。
記憶が交差する。
『……ど、どうして』
大男達が井戸に蓋をする様子を後ろの方で眺め、満面の笑顔を浮かべた彼女の姿に目を疑った。
ああ、そうか……。
わたしはもとより誰からも愛されていなかったのだと都合よく脳裏から消していた記憶 の破片を手繰り寄せていく。
ああ、そうだ。誰からも好かれていなかったのだ。
◇◇◇
目が覚めた時、見慣れた室内にいてまた戻って来てしまったのだと悟る。
ふんわり白檀の香りがして視線を上げる。
朦朧とした景色の中に瞳に光を失った信玄が座っていて、凍りつくような瞳をこちらに向けていた。
本来、彼が向けたかった視線はこれだったのだろう。
へらへらとした優しいものではない。
「しん……っ」
「無理に起きなくていい。怪我をしているから」
起き上がろうとしたわたしに、淡々とした信玄の声が届く。
言葉の通り、楽な体制に戻り、小さく息をつく。
すべてがすべて、変わってしまったのだと嫌でも理解するしかなかった。
「信玄……」
「申し訳ないけど、本郷家には行かせないよ」
「……うん」
「敷地内に獣を放ったり、式神で使って呪の印を刻もうとしたり、近頃起っていた怪奇現象はすべて本郷家による犯行だったから」
一応言っておくと言わんばかりの単調な言葉が並べられる。
「わかっている」
もとより最も嫌われていた一族のもとへなんて行く気はさらさらないけど、あまりにも無機質な声色で言われてしまい、動揺のあまりうまく返せなくなった。でも、
「ここにずっといる」
譲れないものもある。
「もう逃げたりしない。久我家のために一生尽くすことを誓う」
表情を変えない信玄と目が合わせられない。
わたしの名を呼び、優しく笑いかけてくれた彼の姿はもうそこにはない。
「逃げるなど、恥ずかしい行いだった。最善の方法を考えた時、どうしたらいいのかわからなくなって、無我夢中で行動していた。おまえたちにも迷惑をかけてしまったし、二度とこんなことはないようにする」
「最善の、方法?」
感情を失った声だった。
まるで、別人と対峙しているようだ。
「ひとつだけ許してほしいことがある」
まるで、知らない人のようだ。 今までのことがすべて幻だったかのように。
だけど、ひるむわけにはいかなかった。
「この命だけは、守らせてほしい」
そっと腹部に両手を添え、訴えかける。
前を向いて生きていきたいと思う。
守るべきものがある限り。
「わたしには何をしてもかまわない。雨乞いだってするし、決められた儀式にもちゃんと参加する。血だって分けるし、身も切ろうが焼こうが好きにしてくれていい。でも、この命だけは守らせてほしい」
信玄が何も言わないのをいいことにこちらの言い分を最後まで言い切り、頭を下げる。
身ごもってから傷の治りも遅いため、もしかすると今度こそ命の危険があるかもしれないのだけど……それでも覚悟はできている。
「不本意だと思うけど、信玄が与えてくれた大切な……」
「そう言えば俺がなんでも許すと思ってる?」
「え……」
「俺が嫌で逃げたくせに」
そりゃ、俺が悪いけど、と口元を結ぶ信玄の様子が視界に入った。
「珠子が本郷の男を好いていて、本郷の男も珠子を取り返しに来ていたのも知ってる」
「なっ、何を……」
心底面白くないという様子の信玄を前に目を疑いたくなる。
「信玄、なにか……勘違いをしている。わたしは本郷の男を好いているわけではない」
「珠子の婚約者だった相手が本郷だって、俺が知らないとでも思った?」
「な、なんでそれを……いや、確かにそれはそうなんだが、でも、どちらにしても婚約者だった二男はあの男ではなかった」
半世紀も前のことである。
生きているかさえ定かではない。
「生きてたらここにつるし上げているところだ」
みるみるうちにまた一段と表情を曇らせた信玄に何も言い返せなくなる。
「珠子には悪いけど、俺は珠子をここから出すつもりはないから」
「だから、忌みの鬼として一生久我家に仕えると言っている」
「そういうことじゃない! ……珠子は俺の嫁だ」
なんでわからないんだと彼は言う。
「信玄、この際だから言っておく。もう同情は不要だ」
「は?」
「この家の繁栄に導く対価におまえを好き勝手するのももうやめる」
どちらかといえば、好き勝手されていたのはこちらの方だと思うのだけど。
「そんなことをしなくてもわたしはおまえの味方だし、命じられたことは確実にする」
「……俺が、いらないってこと?」
「そんなことは言っていない」
どうしてそうなるのか。
「好きに生きろといったはずだ。これからは大切な人に一心の愛を注いで、幸せに生きていってほしい」
胸がちくりと痛んだが、この正体はもうわかっている。
「珠……」
言いかけて信玄の表情がみるみる険しいものに変わったのは、赤々と燃え上がるような光がわたしにまとわりついていたからだ。
「な、なんだこれ……」
「どうやら妹に呪詛をかけられているようだ。半世紀も経った今、なぜこのタイミングで発動したのかはわからないが、彼女のものだと気付いたとたん、こうして堂々と正体を現し始めたみたいだ」
生きているか死んでいるのかもわからない。
そんな人間の呪が形となってこの身に残された。
触れようとした信玄が、熱っと顔を歪ませたのが見える。
「これが、忌みの鬼の正体だ。かけられた呪詛のおかげで負の感情が高まってしまった。何度も何度も心に闇を宿したのはこのせいだろう。本当に厄介なことだ。嫉妬をするたびこのありさまだ。完全に想像していた鬼の姿になってしまった」
大切に思っていた妹に、こんな思いをさせるほどわたしは彼女に何かしてしまっただろうか。
気付いていないことさえ罪に思え、炎のような色を纏う指先を眺め、自嘲気味に笑う。
「おまえにも触れられなくなってしまったな」
どうせ逃げる予定だったのだし、会えなくなる覚悟はしていたためちょうどよいかもしれないが、いざそばにいて近づくことが叶わなくなると実感してしまうと心に空洞ができたような気持ちになる。
「おまえたちを見るたびに、この色はわたしを覆い隠すだろうから」
自分では制御のできないこの熱は、わたしの嫉妬心なのだろう。
認めたくはなかったけど、こうして目に見えて反応されるのもある意味照れくさいなとふと思う。
「おまえたち?」
「信玄の幸せは願えても、おまえが他の誰かと笑い合っている姿は……とてもじゃないけど見ることができそうにない」
これから先、信玄はまたさらに成長を遂げていくだろう。
立派な大人になっていく。
十六歳の体を持つ、わたしをおいて先へ先へ。
大切な人たちと一緒に、未来へ進んでいく。
「信玄、ごめ……」
こらえきれなくて顔を覆うも間に合わず、切ない色をした結晶がぽろぽろと両手から溢れ出す。
同じように、記憶の向こうで泣いていた少女を思い出す。
気付いていなかった。
決められた許嫁は変わることのない未来で、受け入れることしかできないと思っていたから。
彼女もこうやって、心が焼けてしまいそうだったのだろうか。
わたしは、妹の気持ちに気付いてあげられなかった。
「わた……」
「なんで俺の言葉はひとつも伝わってないの?」
「えっ……」
ぐいっと引き寄せられて、気付けば信玄の胸の中にいた。
「し、信玄、何して……は、離せ!」
「……っ、無理。離したらまた信じてくれないだろ」
熱っ……と言いつつも、信玄が小さく笑ったのがわかった。
信じられない動作にまた困惑する。
「し、信玄……も、燃えてしまう……」
「初めて珠子の気持ちをこうして体感できて嬉しい」
「ば、バカなのか、何言って……」
燃えないよ、このくらいでは……そう小さく笑ってなおも力をこめてくる。
「珠子にばっかりつらい思いをさせてごめん。俺がもっと強くなるから」
ごめん、と繰り返されて頭を振る。
この一言だけで少しずつ憤るような熱さが軽減されていくなんて、単純なものだ。
そして、信玄もわかった上でのこの発言なのだろう。明らかに安堵したのが見て取れる。
「おまえには、おまえの選んだ人と幸せになってほしかったんだ」
そう言いながらも差し出された手を拒むことのできない自分がいる。
「わたしに優しくなどしなくても役目は果たすと約束するから」
涙を流しながら伝えても、一切説得力なんてないというのに。
「誰と何を勘違いしているか知らないけど、俺は珠子と前世から結ばれると決まってるからそう簡単には離してあげられないから安心して」
「ま、また都合のいい言葉を並べて……ど、どれだけわたしの心をもてあそべば……」
「へぇ、これはもてあそんでることになるの?」
どちらかというと怒ってるんだけど、と青い瞳をゆっくり細める信玄はわたしの頬に両手で触れる。
目と目があった瞬間、その表情は少しずつ余裕を取り戻して見えた。
この赤い目を見て口角を上げるのはこの男くらいだ。
「お、おまえこそ、覚悟しろ。あまり鬼をバカにすると鬼はもうおまえを手放してやれないだろうからな」
「どう手放せない?」
「……うっ」
「ねぇねぇ、珠子……ううん。白珠様」
「あ、甘えたってそうはいかない」
「白珠様は俺のお願いに弱いから」
「ううっ……」
でしょ?と言われて反論ができない。
わかってやっているならたちが悪い。
「ほら、俺をどうしたいの?」
「せ、雪花様に渡さない」
「……ほう」
「彼女に向けていた笑顔を必ずわたしに向けさせる! どんな手を使ってでも彼女にはもう見せない! か、覚悟しろ! し、知らないんだからな」
そんなことできやしないことは一番わかっていたけど、あまりにも悔しくなって必死にわめくと、ますます頬をほころばした信玄にまた泣けてくる。
「一生わたししか見えないようにしてやる」
「うん」
「お、脅しではないからな」
口を開けば必死に訴え続ける自分がいる。
言えば言うほど信玄が口もとを緩めるため、ますますムキになってしまう。
「本気で、本気だ! な、なぜ笑う!」
自分だけ、いつだって余裕がなくて嫌になる。
信玄が絡むと特にだ。
こんなこと言うつもりじゃなかったのだと顔を隠そうとしたところで望むところだと力いっぱい抱き締められた。
「やれるもんならやってみろ、バカ珠子!」
「ば、バカとはなんだ!」
「バカだよ、何もわかってない」
じっと見つめられるその瞳はいつもの澄んだ青空ではなく、夜の色を宿していた。
そこに自身が映され、星を数えるよりもこの瞳から目が離せそうになくなる。
「幸せを願っていたのに」
「幸せだよ。珠子と一緒なら」
「そうじゃないのに」
止まらない涙をまた拭っていると、おいでと抱き寄せられた。
好きだよ、と囁かれて、抵抗できなくなった。
覚悟を決めたのは、信玄の方だ。
生け贄という生き方を選ぶつもりなのだろう。
だったら、仕方がない。
忌みの鬼は、もう彼のことを手離せそうにないのだから。
決して許されるものではないと思いながらも、鬼の力をすべて使ってでもこの男のそばにいたいと心から願っていた。
こうして、自らを犠牲にし、まんまと久我家の末っ子は鬼に捕まり、一族は先の未来も安寧に過ごしていくこととなるのは、もう少し先のお話。
初めまして、とその男は穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
自分は君の婚約者なのだと。
そんな光景が目に入る。
いつもいつも花を持ってくる、そんな男だった。
お姉さま、おめでとうと笑う可愛い妹の姿もそばにいる。
場面が少しずつ飛んでいく。まるで走馬灯のように。
続いて、井戸の底に落とされ、退路を断たれたその場所で何度も何度も頭上から獣の血を浴びせられ、生きたまま鬼となった。
忌み嫌われ、街を追放される。
痛みも何も感じない。
ただぼんやりとその様子を眺めていた。
これが、わたしに与えられた生涯だったからだ。
『あなたの生贄にしてください』
人生が変わったきっかけだ。
幼き日の信玄の姿が見えた。
今とは全く違って見えるその姿に、思わず可愛いとつぶやいてしまった。
『白珠様』
彼はどこへ行く時もついてきた。
春も夏も秋も冬も。
季節が巡るたび、何度も何度も。
これをどうぞ、と野に咲いた花をきれいだと思う季節には必ず手を泥だらけにして渡しにやってきた。
礼をいうと嬉しそうに笑う。
小さなノイズが聞こえる世界の中で、日々が繰り返されていく。
『白珠様』
彼が泣き叫びながら横たわるわたしの手を握っているのは毒を盛った時か。
泣いているということは、誰かにそうするように告げられたからだろうか。
今より少し幼く見える彼のそばにいって抱き寄せたくなった。
『ざまぁみろ』
その声が不調和音の中で鮮明に聞こえたのは、顔を上げた先にかつて大切にしていた妹の姿が見えたからだ。
記憶が交差する。
『……ど、どうして』
大男達が井戸に蓋をする様子を後ろの方で眺め、満面の笑顔を浮かべた彼女の姿に目を疑った。
ああ、そうか……。
わたしはもとより誰からも愛されていなかったのだと都合よく脳裏から消していた記憶 の破片を手繰り寄せていく。
ああ、そうだ。誰からも好かれていなかったのだ。
◇◇◇
目が覚めた時、見慣れた室内にいてまた戻って来てしまったのだと悟る。
ふんわり白檀の香りがして視線を上げる。
朦朧とした景色の中に瞳に光を失った信玄が座っていて、凍りつくような瞳をこちらに向けていた。
本来、彼が向けたかった視線はこれだったのだろう。
へらへらとした優しいものではない。
「しん……っ」
「無理に起きなくていい。怪我をしているから」
起き上がろうとしたわたしに、淡々とした信玄の声が届く。
言葉の通り、楽な体制に戻り、小さく息をつく。
すべてがすべて、変わってしまったのだと嫌でも理解するしかなかった。
「信玄……」
「申し訳ないけど、本郷家には行かせないよ」
「……うん」
「敷地内に獣を放ったり、式神で使って呪の印を刻もうとしたり、近頃起っていた怪奇現象はすべて本郷家による犯行だったから」
一応言っておくと言わんばかりの単調な言葉が並べられる。
「わかっている」
もとより最も嫌われていた一族のもとへなんて行く気はさらさらないけど、あまりにも無機質な声色で言われてしまい、動揺のあまりうまく返せなくなった。でも、
「ここにずっといる」
譲れないものもある。
「もう逃げたりしない。久我家のために一生尽くすことを誓う」
表情を変えない信玄と目が合わせられない。
わたしの名を呼び、優しく笑いかけてくれた彼の姿はもうそこにはない。
「逃げるなど、恥ずかしい行いだった。最善の方法を考えた時、どうしたらいいのかわからなくなって、無我夢中で行動していた。おまえたちにも迷惑をかけてしまったし、二度とこんなことはないようにする」
「最善の、方法?」
感情を失った声だった。
まるで、別人と対峙しているようだ。
「ひとつだけ許してほしいことがある」
まるで、知らない人のようだ。 今までのことがすべて幻だったかのように。
だけど、ひるむわけにはいかなかった。
「この命だけは、守らせてほしい」
そっと腹部に両手を添え、訴えかける。
前を向いて生きていきたいと思う。
守るべきものがある限り。
「わたしには何をしてもかまわない。雨乞いだってするし、決められた儀式にもちゃんと参加する。血だって分けるし、身も切ろうが焼こうが好きにしてくれていい。でも、この命だけは守らせてほしい」
信玄が何も言わないのをいいことにこちらの言い分を最後まで言い切り、頭を下げる。
身ごもってから傷の治りも遅いため、もしかすると今度こそ命の危険があるかもしれないのだけど……それでも覚悟はできている。
「不本意だと思うけど、信玄が与えてくれた大切な……」
「そう言えば俺がなんでも許すと思ってる?」
「え……」
「俺が嫌で逃げたくせに」
そりゃ、俺が悪いけど、と口元を結ぶ信玄の様子が視界に入った。
「珠子が本郷の男を好いていて、本郷の男も珠子を取り返しに来ていたのも知ってる」
「なっ、何を……」
心底面白くないという様子の信玄を前に目を疑いたくなる。
「信玄、なにか……勘違いをしている。わたしは本郷の男を好いているわけではない」
「珠子の婚約者だった相手が本郷だって、俺が知らないとでも思った?」
「な、なんでそれを……いや、確かにそれはそうなんだが、でも、どちらにしても婚約者だった二男はあの男ではなかった」
半世紀も前のことである。
生きているかさえ定かではない。
「生きてたらここにつるし上げているところだ」
みるみるうちにまた一段と表情を曇らせた信玄に何も言い返せなくなる。
「珠子には悪いけど、俺は珠子をここから出すつもりはないから」
「だから、忌みの鬼として一生久我家に仕えると言っている」
「そういうことじゃない! ……珠子は俺の嫁だ」
なんでわからないんだと彼は言う。
「信玄、この際だから言っておく。もう同情は不要だ」
「は?」
「この家の繁栄に導く対価におまえを好き勝手するのももうやめる」
どちらかといえば、好き勝手されていたのはこちらの方だと思うのだけど。
「そんなことをしなくてもわたしはおまえの味方だし、命じられたことは確実にする」
「……俺が、いらないってこと?」
「そんなことは言っていない」
どうしてそうなるのか。
「好きに生きろといったはずだ。これからは大切な人に一心の愛を注いで、幸せに生きていってほしい」
胸がちくりと痛んだが、この正体はもうわかっている。
「珠……」
言いかけて信玄の表情がみるみる険しいものに変わったのは、赤々と燃え上がるような光がわたしにまとわりついていたからだ。
「な、なんだこれ……」
「どうやら妹に呪詛をかけられているようだ。半世紀も経った今、なぜこのタイミングで発動したのかはわからないが、彼女のものだと気付いたとたん、こうして堂々と正体を現し始めたみたいだ」
生きているか死んでいるのかもわからない。
そんな人間の呪が形となってこの身に残された。
触れようとした信玄が、熱っと顔を歪ませたのが見える。
「これが、忌みの鬼の正体だ。かけられた呪詛のおかげで負の感情が高まってしまった。何度も何度も心に闇を宿したのはこのせいだろう。本当に厄介なことだ。嫉妬をするたびこのありさまだ。完全に想像していた鬼の姿になってしまった」
大切に思っていた妹に、こんな思いをさせるほどわたしは彼女に何かしてしまっただろうか。
気付いていないことさえ罪に思え、炎のような色を纏う指先を眺め、自嘲気味に笑う。
「おまえにも触れられなくなってしまったな」
どうせ逃げる予定だったのだし、会えなくなる覚悟はしていたためちょうどよいかもしれないが、いざそばにいて近づくことが叶わなくなると実感してしまうと心に空洞ができたような気持ちになる。
「おまえたちを見るたびに、この色はわたしを覆い隠すだろうから」
自分では制御のできないこの熱は、わたしの嫉妬心なのだろう。
認めたくはなかったけど、こうして目に見えて反応されるのもある意味照れくさいなとふと思う。
「おまえたち?」
「信玄の幸せは願えても、おまえが他の誰かと笑い合っている姿は……とてもじゃないけど見ることができそうにない」
これから先、信玄はまたさらに成長を遂げていくだろう。
立派な大人になっていく。
十六歳の体を持つ、わたしをおいて先へ先へ。
大切な人たちと一緒に、未来へ進んでいく。
「信玄、ごめ……」
こらえきれなくて顔を覆うも間に合わず、切ない色をした結晶がぽろぽろと両手から溢れ出す。
同じように、記憶の向こうで泣いていた少女を思い出す。
気付いていなかった。
決められた許嫁は変わることのない未来で、受け入れることしかできないと思っていたから。
彼女もこうやって、心が焼けてしまいそうだったのだろうか。
わたしは、妹の気持ちに気付いてあげられなかった。
「わた……」
「なんで俺の言葉はひとつも伝わってないの?」
「えっ……」
ぐいっと引き寄せられて、気付けば信玄の胸の中にいた。
「し、信玄、何して……は、離せ!」
「……っ、無理。離したらまた信じてくれないだろ」
熱っ……と言いつつも、信玄が小さく笑ったのがわかった。
信じられない動作にまた困惑する。
「し、信玄……も、燃えてしまう……」
「初めて珠子の気持ちをこうして体感できて嬉しい」
「ば、バカなのか、何言って……」
燃えないよ、このくらいでは……そう小さく笑ってなおも力をこめてくる。
「珠子にばっかりつらい思いをさせてごめん。俺がもっと強くなるから」
ごめん、と繰り返されて頭を振る。
この一言だけで少しずつ憤るような熱さが軽減されていくなんて、単純なものだ。
そして、信玄もわかった上でのこの発言なのだろう。明らかに安堵したのが見て取れる。
「おまえには、おまえの選んだ人と幸せになってほしかったんだ」
そう言いながらも差し出された手を拒むことのできない自分がいる。
「わたしに優しくなどしなくても役目は果たすと約束するから」
涙を流しながら伝えても、一切説得力なんてないというのに。
「誰と何を勘違いしているか知らないけど、俺は珠子と前世から結ばれると決まってるからそう簡単には離してあげられないから安心して」
「ま、また都合のいい言葉を並べて……ど、どれだけわたしの心をもてあそべば……」
「へぇ、これはもてあそんでることになるの?」
どちらかというと怒ってるんだけど、と青い瞳をゆっくり細める信玄はわたしの頬に両手で触れる。
目と目があった瞬間、その表情は少しずつ余裕を取り戻して見えた。
この赤い目を見て口角を上げるのはこの男くらいだ。
「お、おまえこそ、覚悟しろ。あまり鬼をバカにすると鬼はもうおまえを手放してやれないだろうからな」
「どう手放せない?」
「……うっ」
「ねぇねぇ、珠子……ううん。白珠様」
「あ、甘えたってそうはいかない」
「白珠様は俺のお願いに弱いから」
「ううっ……」
でしょ?と言われて反論ができない。
わかってやっているならたちが悪い。
「ほら、俺をどうしたいの?」
「せ、雪花様に渡さない」
「……ほう」
「彼女に向けていた笑顔を必ずわたしに向けさせる! どんな手を使ってでも彼女にはもう見せない! か、覚悟しろ! し、知らないんだからな」
そんなことできやしないことは一番わかっていたけど、あまりにも悔しくなって必死にわめくと、ますます頬をほころばした信玄にまた泣けてくる。
「一生わたししか見えないようにしてやる」
「うん」
「お、脅しではないからな」
口を開けば必死に訴え続ける自分がいる。
言えば言うほど信玄が口もとを緩めるため、ますますムキになってしまう。
「本気で、本気だ! な、なぜ笑う!」
自分だけ、いつだって余裕がなくて嫌になる。
信玄が絡むと特にだ。
こんなこと言うつもりじゃなかったのだと顔を隠そうとしたところで望むところだと力いっぱい抱き締められた。
「やれるもんならやってみろ、バカ珠子!」
「ば、バカとはなんだ!」
「バカだよ、何もわかってない」
じっと見つめられるその瞳はいつもの澄んだ青空ではなく、夜の色を宿していた。
そこに自身が映され、星を数えるよりもこの瞳から目が離せそうになくなる。
「幸せを願っていたのに」
「幸せだよ。珠子と一緒なら」
「そうじゃないのに」
止まらない涙をまた拭っていると、おいでと抱き寄せられた。
好きだよ、と囁かれて、抵抗できなくなった。
覚悟を決めたのは、信玄の方だ。
生け贄という生き方を選ぶつもりなのだろう。
だったら、仕方がない。
忌みの鬼は、もう彼のことを手離せそうにないのだから。
決して許されるものではないと思いながらも、鬼の力をすべて使ってでもこの男のそばにいたいと心から願っていた。
こうして、自らを犠牲にし、まんまと久我家の末っ子は鬼に捕まり、一族は先の未来も安寧に過ごしていくこととなるのは、もう少し先のお話。



