拝むな、恋せよ!

俺は相沢が後を追ってこないか冷や冷やしながら、大慌てで教室に戻った。捕まったら何をされるかわかったもんじゃない。急いで鞄を引っ掴み、教室を出ようと自分の机へ向かった――その時だった。

なぜか俺の机の上に、ポツンと一つ、アンパンらしきものが置いてある。

ナギ様の聖卓ではなく、俺のモブ卓の上に……。
なぜだ……? 誰かが間違えて置いたのか……!?

見れば、市販のパッケージではない、シンプルな透明ビニール袋に入った無骨な一品。

『そのあんパン……僕の手作りなんだ』

脳裏に、あの日夢で見たナギ様のお声が過り、ドクンと心臓が跳ね上がった。
いやいやいや、天地がひっくり返ってもそんな奇跡あるはずがない!
一瞬でもそんな不純な妄想を繰り広げた己の図々しさに、信徒として万死の罪悪感が込み上げる。誰かが間違えて置いたに決まっている!

震える手でそのパンを回収しようとした、まさにその時だった。背後にふっと静かな気配が降ってくる。

「それ、僕が置いたんだけど……」

美しい鈴の音が鼓膜を揺らした。

「な、ナギ様!?」

跳ね起きて振り返った先にナギ様の麗しいお顔があり、俺は本気で心臓麻痺を起こしかけた。
いつも放課後は風のように即帰宅されるナギ様が、なぜまだ教室に!?
いや、そんなことより、ナギ様が俺の机に直々にお供え物を……!?

「この間、アンパンが好きって言ってたから……」

えええっ!? ナギ様が俺のために……!? しかも、まさかの……手作り!?
二度目の心臓麻痺で意識が遠のきかけた、その瞬間だった。

廊下の奥から、聞き覚えのある足音が聞こえてきた。

(相沢だ……!!)

あの肉食獣が戻ってきた!
俺は咄嗟に鞄とパンを抱え込むと、あろうことかナギ様のしなやかで繊細な細い手首を掴み、一目散に教室を飛び出した。視界の端に相沢の影を捉え、狂いそうな動悸を押さえ込みながらナギ様を牽引する。昇降口まで一気に駆け抜け、追手が来ないことを確認してようやく足を止めた。

(しまった……! 俺はなんて恐れ多い暴挙を……!)

神の聖なるお手元を強引に引き回してしまった罪悪感で、弾かれたように手を放す。

「あのっ、これはその……大変失礼いたしました……っ!」

地面に頭が届く勢いで深々と頭を下げる。すると頭上から、どこか切迫したような、低く澄んだ声が降ってきた。

「……何が、あった?」

「……え?」

恐る恐る顔を上げた瞬間――ドンッ、と視界が揺れた。

ナギ様に一歩踏み込まれ、逃げ場のない壁際へと追い詰められる。いわゆる壁ドンだ。
いつもの凪の海のような瞳に、見たこともない暗い情熱が揺らしている。至近距離で見つめられるナギ様の顔面があまりに美しすぎて、息の吸い方すら忘れてしまいそうだった。

「……いや、その……っ」

ナギ様にあの男の不潔な秘密を教えて、無用なご心配や恐怖を与えてはならない。俺はその一心で、喉まで出かかった「相沢の本性」を必死に飲み込んだ。

すると次の瞬間。

「……そっか」

ポツリと呟いたナギ様の瞳から、すっと熱が引いていく。
いつもの凪の海のような静謐さが戻ってくる。まるで初めから何もなかったかのように、穏やかな空気が流れる。
踵を返したナギ様は、スッと俺に視線を流して言った。

「……じゃあ、またね、ひろあきくん……」

ひろあきくん……!?
名前が遠ざかってしまった……。

一瞬だけ、その瞳に影のような寂しさを宿したナギ様は、静かに、クールに去っていった。
今のは一体何だったんだ……!?
わけも分からぬまま、静かな昇降口に俺の暴走する心臓の音だけが虚しく鳴り響いていた。

◇

帰宅後。俺はナギ様からいただいたありがたいパンを正座で見つめていた。

見れば見るほど溢れ出る手作り感。パン屋のそれとも違う、どこか不揃い形。
どう考えても手作りだろ……。
まさか……この間お分けした、俺の母さん特製の甘い卵焼きと唐揚げのお礼なのか!?
どこまで義理堅く慈悲深いお方なんだ……!

そんな神聖な献上品を口に入れるなど万死に値する。だが食べなければ、ナギ様のご好意を踏みにじることになる。
散々葛藤した挙句、その日はあまりの恐れ多さに一口もつけられず、一晩中崇めて終わったのだった。

翌朝。
俺はナギ様を邪悪な相沢から死守すべく、そして今日こそ昼休みにナギ様の手作りパンを拝受する決意を固め、気合いを入れて登校した。

さすがの相沢も、他の生徒の目がある前でナギ様に手出しはできまい。怪しい動きを見せたら即座に乱入してやる!
昼休み、一軍グループに連れ出されていくナギ様を遠目から監視しつつ、俺は机で神聖なパンを取り出した。

見れば見るほど神々しい光を放っている……。
俺は静かに手を合わせ、心からの謝辞を唱えると、意を決して一口かじりついた。

……ん?

思ったより、水分をすべて奪い去るレベルでパサパサで硬い。まるで焼き固められた粘土だ。そして、肝心の餡子がどこにも入っていない……。
つーか、これ……。

……クソまずいじゃねーか!!(※神への不敬をお許しください!)

いや待て、文句を言うな俺! ナギ様が俺のために慣れない手つきで作ってくださったのだ。餡子はきっと入れ忘れただけに違いない。神のお恵みを無駄にするなどあってはならない!

自分に言い聞かせながら必死に噛み砕いていると、ひょっこり遊李がやってきた。

「あれ、それ……俺がナギ様の机に置いておいたやつ。なんでマシロンが食べてんの?」

「……は? いや、これはナギ様が俺の机に置いてくれたやつで……」

そこまで言って、脳内に雷が落ちた。

まさかナギ様は……自分の机に置いてあった不審なパンを、「大のあんパン好き(誤解)」な俺のために、俺の机へ横流ししてくれただけだったのかー!!?

そういえば昨日、ナギ様が何か言いかけた途端に相沢の足音が聞こえて、俺がパニックでナギ様を連れ去ってしまったんだった……!

「それ、俺の手作りなんだよね。マシロンが全然ナギ様の好みリサーチしてくれないからさー、甘くないアンパン作ってみたの。ほら、ジャンボ宝くじの販売明日までだからさ。マジ焦ってて〜」

「……っ!」

昨日の俺の血の滲むような葛藤と甘い妄想が走馬灯のように駆け巡り、俺は怒りで震える手でパンを握りつぶした。

「こんな不味いもん食えるか!!! つーかアンパンなのに餡が入ってねーのは詐欺だろ!!」

宝くじなんて一生当たらないどころか組番号すらかするな!!

「やー、アンパンだけに『un(アン=打ち消し)』で、餡がないパン、みたいな?」

「……ダジャレで誤魔化してご利益得ようとしてんじゃねーよ! 逆に神罰が下るわ!!」

神様、このお気楽すぎる強欲男にどうか天罰をお与えください。

怒りと殺意が渦巻く中、俺はこの不浄な物体がナギ様のお口に入るのを未然に阻止できたことだけに、かろうじて救いを見出すのだった。