ある日の休み時間。俺は耳を疑うようなとんでもない単語をキャッチしてしまった。
隣の席で繰り広げられる、ナギ様と相沢の会話を聞いていたときのことだ。
「颯真の家って、チワワ飼ってるのか」
……ナギ様の美声が教室に響く。
って、ちょっと待て。チワワなんて可愛い生き物でギャップ萌えを演出し、ナギ様の気を引こうだなんてあざとい真似してんじゃねえぞ。
……と、激怒した矢先だった。俺の脳内で緊急アラートが鳴り響く。
今、ナギ様は何とおっしゃった……!?
颯真……? 颯真……!? 颯真!!?
一切人に興味を示さず、他人の名前は24時間以内に脳内ゴミ箱フォルダへ自動転送するあのナギ様が、相沢の名前を覚えただと……!?
しかも『相沢くん』でも『相沢』でもなく、ファーストネームで『颯真』……!?
なぜだ……これがスクールカースト頂点(一軍)の実力とでもいうのか……!
誰とでも秒で距離を詰めて懐に入る、一軍男子特有の恐ろしい洗脳魔力……!
「それはさあ、マシロンが消極的すぎるんだよ」
昼休み。俺の机の前の席に反対向きで座り、緩い感じでコンビニのサンドイッチを齧る俺の同志・中川遊李が呆れたように言った。
ひょろりと背が高く、女子と見紛うような無駄に整った顔立ちをしているくせに、いつもどこか眠たげで掴みどころがない奴だ。
「ああやってさ、ナギ様の超絶塩対応にも動じない不屈のメンタルで攻め込めば、名前くらい覚えてもらえるって」
「な、なな何言ってるんだ! モブの俺ごときがナギ様に名前を覚えてもらいたいなんて、そんな恐れ多い大不敬を考えるわけないだろ!!」
「じゃあなんでそんなに拳握りしめてイラついてんの?」
そう言って、遊李は細い指先でサンドイッチの袋をくしゃりと鳴らし、意地の悪いニヤニヤ顔を向けてくる。
「べ、別にイラついてなんか……」
「名前、忘れられて悲しかったんだろ?」
耳元で囁くような遊李の言葉に、俺の顔は瞬時にカッと熱を帯びた。
「そ、そんなわけないだろ! 記憶がリセットされる儚さこそがナギ様の神聖さなんだよ!」
俺はいつの間にか握りつぶしていたおにぎりを、やけくそで口の中にねじ込んだ。
「ふーん。まあ俺はナギ様のご利益に預かれれば何でもいいけどさ。お供え物って『粒あんパン』と『こしあんパン』どっちが効果あると思う? 宝くじ買おうと思ってて」
「知らねーよ! ってか、その好みは俺が一番知りてーわ!!」
……いや、違う。そういうことじゃない。
まったく、こいつはいつの間にこんな私欲にまみれた男になったんだ。神を拝む者として恥ずかしくないのか。俺は毎日、純粋な祈りのみを捧げているのだ。そこに見返りなど一切ない。名前を覚えてもらうことすら厚かましいのだから。
「じゃ、あとでナギ様に好み聞いといてよ。頼んだよ、恋するマシロン」
「こ……っ!!? 恋!? な、ナギ様に対してそんな恐れ多い、不純な感情を持つわけないだろ!! 俺のは純粋無垢な信仰心だ!!」
「はいはい、信仰心ねー」
必死に大声で否定する俺を、遊李は完全に生温かい目で見つめていた。
◇
昼休みが終わり、ナギ様が聖なる席へとご降臨された。
ナギ様は尊き神だ。神に対して「恋」などという不純な感情を抱くのは重罪に値する。
だが……お供え物の好みをリサーチする程度なら、信徒としての正当な義務ではないだろうか……?
俺は意を決し、ナギ様に向かって声を絞り出した。
「あ、あの……っ」
萎縮しすぎて蚊の鳴くような声になってしまったが、ナギ様はすっとこちらに美しい瞳を向けてくださった。そして――
「あ、君は……たしか……」
ドクン、と心臓が跳ね上がる。ナギ様の視線が、記憶の扉を探るようにうっすらと彷徨う。
もしかして……奇跡的に俺の名を……!?
「ひろ……」
そうだ! 廣崎……!
「ひろあきくん」
「……はい?」
違う!! どこから出てきた『ひろあき』!?
しかも苗字じゃなくて絶妙にありそうな下の名前になってる!!
だが、その純粋無垢で自信に満ちあふれた瞳で見つめられたら、訂正なんてできるわけがない……! 神の全知全能(勘違い)を否定するなど万死に値する……!
「……あ、あ、あんパンは、粒あん派デスカ? こしあん派デスカ!?」
支離滅裂な俺の質問に、ナギ様は一瞬「え……?」とでも言いたげに美しい眉をわずかに寄せた。
だがすぐに俺が本気で尋ねているのだと察したのか、視線を少しだけ彷徨わせ、申し訳なさそうに薄い唇をほころばせる。
「……ごめん。僕、甘いもの苦手だから」
チーン。
終了。
崩れ落ちそうになる膝を必死で堪えながら、俺は悟った。
明日から俺の学園生活での名前が「ひろあきくん」に固定されるのか、それとも明日にはこの「ひろあき」すら消去されて完全リセットされるのか。
どちらにせよ、俺が正しい名前で呼ばれる未来だけは未来永劫途絶えたのだと。
隣の席で繰り広げられる、ナギ様と相沢の会話を聞いていたときのことだ。
「颯真の家って、チワワ飼ってるのか」
……ナギ様の美声が教室に響く。
って、ちょっと待て。チワワなんて可愛い生き物でギャップ萌えを演出し、ナギ様の気を引こうだなんてあざとい真似してんじゃねえぞ。
……と、激怒した矢先だった。俺の脳内で緊急アラートが鳴り響く。
今、ナギ様は何とおっしゃった……!?
颯真……? 颯真……!? 颯真!!?
一切人に興味を示さず、他人の名前は24時間以内に脳内ゴミ箱フォルダへ自動転送するあのナギ様が、相沢の名前を覚えただと……!?
しかも『相沢くん』でも『相沢』でもなく、ファーストネームで『颯真』……!?
なぜだ……これがスクールカースト頂点(一軍)の実力とでもいうのか……!
誰とでも秒で距離を詰めて懐に入る、一軍男子特有の恐ろしい洗脳魔力……!
「それはさあ、マシロンが消極的すぎるんだよ」
昼休み。俺の机の前の席に反対向きで座り、緩い感じでコンビニのサンドイッチを齧る俺の同志・中川遊李が呆れたように言った。
ひょろりと背が高く、女子と見紛うような無駄に整った顔立ちをしているくせに、いつもどこか眠たげで掴みどころがない奴だ。
「ああやってさ、ナギ様の超絶塩対応にも動じない不屈のメンタルで攻め込めば、名前くらい覚えてもらえるって」
「な、なな何言ってるんだ! モブの俺ごときがナギ様に名前を覚えてもらいたいなんて、そんな恐れ多い大不敬を考えるわけないだろ!!」
「じゃあなんでそんなに拳握りしめてイラついてんの?」
そう言って、遊李は細い指先でサンドイッチの袋をくしゃりと鳴らし、意地の悪いニヤニヤ顔を向けてくる。
「べ、別にイラついてなんか……」
「名前、忘れられて悲しかったんだろ?」
耳元で囁くような遊李の言葉に、俺の顔は瞬時にカッと熱を帯びた。
「そ、そんなわけないだろ! 記憶がリセットされる儚さこそがナギ様の神聖さなんだよ!」
俺はいつの間にか握りつぶしていたおにぎりを、やけくそで口の中にねじ込んだ。
「ふーん。まあ俺はナギ様のご利益に預かれれば何でもいいけどさ。お供え物って『粒あんパン』と『こしあんパン』どっちが効果あると思う? 宝くじ買おうと思ってて」
「知らねーよ! ってか、その好みは俺が一番知りてーわ!!」
……いや、違う。そういうことじゃない。
まったく、こいつはいつの間にこんな私欲にまみれた男になったんだ。神を拝む者として恥ずかしくないのか。俺は毎日、純粋な祈りのみを捧げているのだ。そこに見返りなど一切ない。名前を覚えてもらうことすら厚かましいのだから。
「じゃ、あとでナギ様に好み聞いといてよ。頼んだよ、恋するマシロン」
「こ……っ!!? 恋!? な、ナギ様に対してそんな恐れ多い、不純な感情を持つわけないだろ!! 俺のは純粋無垢な信仰心だ!!」
「はいはい、信仰心ねー」
必死に大声で否定する俺を、遊李は完全に生温かい目で見つめていた。
◇
昼休みが終わり、ナギ様が聖なる席へとご降臨された。
ナギ様は尊き神だ。神に対して「恋」などという不純な感情を抱くのは重罪に値する。
だが……お供え物の好みをリサーチする程度なら、信徒としての正当な義務ではないだろうか……?
俺は意を決し、ナギ様に向かって声を絞り出した。
「あ、あの……っ」
萎縮しすぎて蚊の鳴くような声になってしまったが、ナギ様はすっとこちらに美しい瞳を向けてくださった。そして――
「あ、君は……たしか……」
ドクン、と心臓が跳ね上がる。ナギ様の視線が、記憶の扉を探るようにうっすらと彷徨う。
もしかして……奇跡的に俺の名を……!?
「ひろ……」
そうだ! 廣崎……!
「ひろあきくん」
「……はい?」
違う!! どこから出てきた『ひろあき』!?
しかも苗字じゃなくて絶妙にありそうな下の名前になってる!!
だが、その純粋無垢で自信に満ちあふれた瞳で見つめられたら、訂正なんてできるわけがない……! 神の全知全能(勘違い)を否定するなど万死に値する……!
「……あ、あ、あんパンは、粒あん派デスカ? こしあん派デスカ!?」
支離滅裂な俺の質問に、ナギ様は一瞬「え……?」とでも言いたげに美しい眉をわずかに寄せた。
だがすぐに俺が本気で尋ねているのだと察したのか、視線を少しだけ彷徨わせ、申し訳なさそうに薄い唇をほころばせる。
「……ごめん。僕、甘いもの苦手だから」
チーン。
終了。
崩れ落ちそうになる膝を必死で堪えながら、俺は悟った。
明日から俺の学園生活での名前が「ひろあきくん」に固定されるのか、それとも明日にはこの「ひろあき」すら消去されて完全リセットされるのか。
どちらにせよ、俺が正しい名前で呼ばれる未来だけは未来永劫途絶えたのだと。

