拝むな、恋せよ!

「あの、真白くんが忘れていった荷物を届けにきたんですけど」

そうおっしゃったナギ様の手には、俺のバッグがしっかりと握られていた。

「あ……っ!」

そういえば俺はあの時、嫉妬と焦燥感に耐えかね、手ぶらでスタジオから飛び出していったのだ。今思い返すと、最高に恥ずかしくて死にたくなる。

「ありがとう……ございます」

消え入るような声でカバンを受け取った、その時だった。

「うちの子が迷惑かけてごめんなさいね! せっかくだから上がってゆっくりしていってね〜!」

母さんがすっぴんの顔を必死に手で隠しながら、嵐のようにそそくさと奥へ去っていってしまった。残された俺だって、あまりの気まずさに部屋に閉じこもりたいくらいだ。だが、神が直々に荷物を届けてくださったのだ。無下に帰すなど、信徒としてできるはずがない。

「お、俺の部屋でよかったら、ちょっと上がってく……?」

(断ってください!)と全身で念を送りながら尋ねる。

「ああ。じゃあ、少しだけ上がっていこうかな」

「……はい」

俺の淡い期待はあっけなく打ち砕かれた。あまりにも突然すぎて、ろくに片付いていない部屋にナギ様をお通しすること自体、不敬罪レベルの重罪だ。しかも今の俺は、ヨレヨレのTシャツと短パンという、神の視界に晒すにはあまりにも失礼極まりないラフすぎる格好である。

恐る恐る2階の自室のドアを開けたが、想像以上に生活感であふれ返っていた。この散らかり具合を蛍光灯の明るい光で晒したら最後、神に幻滅され、筆頭信徒を破門(追放)されてもおかしくない……!

幸い、夏の日は長い。窓からぼんやりと薄暗い夕光が差し込んでいるだけだ。決して明るいとは言えない暗闇だったが、俺はあえて電気をつけずにナギ様を部屋へと導いた。

「ええっと、とりあえず、ベッドに座って……!」

まさか神を汚い床に直接座らせるわけにもいかない。

俺は暗がりの中で必死に散らばった服を足で押しやり、気休め程度に部屋を片付けた。ついでに、この暗がりに乗じてヨレヨレのTシャツだけでも着替えようと、すっと服を脱いで上半身裸になった、まさにその時だった。

突然、腕を強く引っ張られた。
視界が大きく傾き、バランスを崩した俺は、そのままベッドの上に押し倒されていた。

「……っ!?」

一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
だが今、俺の上に覆いかぶさる格好で目の前にいるのは――薄暗がりの中でも恐ろしいほどの美しさと存在感を放つ神、ナギ様だった。

この状況がまったく飲み込めない俺を、ナギ様の鋭く真剣な視線が真っ直ぐに射貫く。ドクン、と心臓が破裂しそうなほど跳ね上がった。

「……最初から、僕を誘うつもりだったの?」

「……え?」

まったく何のことだかさっぱり理解できない。だが、その瞳からはさっきまでの冷静さが完全に消え去っていた。あの、夕暮れの空き教室で二人きりになった時に感じた、強烈で狂おしい『オスの本能』。その圧倒的な圧に呼吸が止まる。心拍数が異常なスピードで跳ね上がっていくのを止められない。

「それとも……もし来たのが颯真だったら、颯真を誘ってたの?」

ちょっと待て。これはもしや、俺がナギ様を部屋に引きずり込むために、わざとバッグを置いて帰ったと思われているのか……!?

「……っ、いや、誤解です! 俺は本当にうっかり忘れちゃって……っ!」

「でも、電気もつけずに目の前で裸になるなんて、完全に僕を誘ってるよね?」

「……は? いや、これは……その……っ!」

何なんだ、この地獄のような状況は……! 完全に濡れ衣だし、神を誘うだなんてそんな恐れ多いこと、考えるだけでも万死に値する! だが「部屋が汚くて電気をつけられなかった」なんて情けない言い訳は、恥ずかしくて口が裂けても言えない!

「僕と颯真、どっちがいいの?」

「そ、そそそそれはもちろん紀織だよ! 紀織が俺の全てだから……っ!!」

俺は全身全霊を込めて、魂の叫びをぶつけた。だが、ナギ様はなおも疑うように美貌の眉を寄せた。

「それは……どういう意味の『全て』なの?」

「どういう……意味……?」

『全て』にどういう意味もこう意味もあるだろうか。筆頭信徒として一生ナギ様に捧げ、お仕えする。それ以外にあるはずがない。

……だが、答えは決まっているはずなのに、どうして言葉が詰まるんだ?
以前の俺なら、「筆頭信徒として、すべてを捧げます!」と胸を張って即答できたはずなのに……。

胸の奥に深く居座っている、このドロドロとした熱い感情は一体何なんだ? さっきだってそうだ。ナギ様をお守りしなければいけないのに、相沢への醜い嫉妬に耐えかねて、ナギ様を置いて逃げてしまった……。俺は、信徒として失格だ……。

「ごめん……。俺、最近どうかしてて……」

ポロリと漏らした俺の言葉に、ナギ様はハッとしたように目を見張り、それから満足そうに細く目を細められた。

「あぁ……そうか。一定の効果は、あったわけだ」

「……一定の、効果……?」

俺が首をかしげた瞬間、ナギ様の瞳が妖しく、怪しげな光を宿して俺を見つめた。

「わからないなら、教えてあげるよ」

ナギ様はそう言うと、唐突に俺の手首を引いた。強引に体を起こされたかと思うと、そのまま抵抗する隙もなく、ナギ様の広い胸の中へと力強く引き寄せられたのだ。

「……っ!?」

背中と腰に回されたナギ様の手の熱い体温が、上半身裸の俺の肌にダイレクトに伝わってくる。
耳元にかかる熱い呼吸、微かに香る汗と甘い匂い、抱きしめられた体から溢れ出す圧倒的な『男』の熱量が、俺の全身の血を激しく沸き立たせていく。

体の奥底から、経験したこともない熱がドバッと湧き上がってくる。この感覚は一体何なんだ……!? 俺の体は一体どうなっちゃったんだよ……!!

「紀織……っ」

「そうだよ。僕は、紀織だ……神じゃない……」

鼓膜を揺らす、低く甘い声。その言葉に導かれるように、俺は抗うこともできず、吸い寄せられるように紀織の背中に腕を回していた。

肌と肌が触れ合う心地よさに頭が痺れ、このままずっと、こうして抱きしめられていたいと思ってしまう。

(――ああ、紀織を誰にも渡したくない……)

今の俺はどうかしてる……。神は俺だけの所有物ではないと分かっているのに。どうしてこんなにも強欲で、恐ろしい矛盾を抱いてしまうのだろうか……。だめだ、俺は……まだまだ修行が足りなさすぎる……!!

◇

そうして、どれほどの時間が経っただろうか。
気づけば窓の外の日は完全に落ち、部屋は一寸先も見えない暗闇に包まれていた。

「……そろそろ、帰るよ」

名残惜しそうに腕をほどいたナギ様が、立ち上がってドアへ向かおうとした時だった。

「痛っ……」

「えっ!?」

ナギ様が暗闇の中で足先をぶつけ、小さく呻かれた。神聖なナギ様に怪我を負わせては大変だと、俺は慌てた拍子に――うっかり壁のスイッチを押してしまったのだ。

パッと、眩いばかりの蛍光灯の光が部屋中に広がった。

そして次の瞬間、目の前には隠しようもない『残酷な現実』があらわになった。

「……あ」

散らかり倒した衣服、脱ぎ散らかされたソックス、積み上げられた漫画本――圧倒的な生活感にあふれた真実の汚部屋に、氷点下100度の静寂が流れた。

しかも俺は、上半身裸のまま呆然と突っ立っている。

完全に詰んだ。

今すぐ電気を消して漆黒の闇に戻したいが、ナギ様が足元をすくわれずに部屋を出るまでは消せない。
地獄のように長くて短い、処刑台の時間が過ぎていく。

ナギ様は真っ赤になった顔を激しく伏せながら、逃げるような猛スピードで部屋を飛び出していかれた。そこに、いつもの神々しく冷静な面影は微塵もなかった。

俺は人生最速のスピードでTシャツを頭からかぶると、脱兎の如く階段を駆け下り、玄関までナギ様を追いかけた。

「なんか……突然来て、ごめん……」

玄関先で、耳まで真っ赤にして、気まずそうに視線を泳がせるナギ様。

「……ううん、カバン届けてくれて、ありがとう……」

お互いに限界突破した気まずい言葉を残し、ナギ様は夜の街へと消えていかれた。

静まり返った玄関で、呆然と佇む俺。
そんな俺の背後から、母さんがポツリと告げた。

「あんた……そのTシャツ、前後反対よ」

俺は今日の出来事を、死ぬまで一生忘れることはないだろう――。