「来るのが遅いじゃないか、真白」
僕は静かで冷静な口調を装いながら、そう呟いた。
だが胸の奥では、真白が僕を探し出し、こうして僕のもとへたどり着いてくれたことに、泣き出したいほどの安堵と猛烈な歓喜が渦巻いていた。
……本当は、心身ともに限界だったのだ。
僕のあずかり知らぬところで、真白が颯真や遊李と「特別な関係」を深めていたかもしれないという疑惑。それがどれほど僕の心を強く締め付け、苛んでいたか。
体育の授業が終わってからここに辿り着くまでの記憶なんて、ショックのあまりほとんど抜け落ちている。ただ頭の中に残っていたのは、真白を誰にも渡したくないという、自分でも制御できないほど激しく惨めで、狂おしい独占欲だけだった。
僕は一体いつから、こんなにも廣崎真白のことが好きになってしまっていたのだろう。
◇
出会いは入学式……だったと思うが、正直なところ当時の記憶は曖昧だ。
教育熱心な両親のもとで育てられた僕は、幼い頃から毎日日替わりでやってくる家庭教師に囲まれ、興味もない勉強だけを強いられる日々を送っていた。
スポーツは得意だったけれど、「受験に不要」という理由で禁止された。友達と放課後に遊ぶことすら制限される暮らしの中で、僕はいつしか生きていく喜びや熱量を失っていった。
誰かに興味を持つことも、誰かを好きになることも、すべて無駄なことのように思えて。ただ息を殺し、静かに両親の期待に応える人形として生きることこそが自分の人生なのだと諦めていたのだ。
そうして進学校であるこの男子校に入学し、煩わしい人間関係を極力避けながら、文字通り「凪」のように波風立てず静かに過ごしていた、一学期の終わりのことだ。
ふと、教室の後ろの端の席から、やたらと暑苦しい視線を送ってくる男の存在に気づいた。
生まれ持ったこの容姿のせいで、幼少期から男女問わず過剰な視線や好意を向けられることには慣れていた。目立つことが嫌いな僕は、相手に興味がないことを示す冷ややかな空気を作り、上手くかわしながら生きる処世術を身につけていた。
だが――その男は、僕の処世術なんて一切通用しない異次元の存在だった。
視線を送ってくるだけならまだいい。ある日、ふと目をやると、その男は真面目な顔で僕に向かって静かに両手を合わせ、拝んでいたのだ。
(……な、なにをしているんだ、あの人は……!?)
目を合わせてはいけない。関わってはいけない。僕の防衛本能がけたたましく警報を鳴らす。
けれど、なぜ彼は毎朝僕を拝んでいるのか? 友達になりたいならもっと別の方法があるはずだ。煽りでも悪意でもなく、ただひたすらに澄み切った瞳で僕を拝み続ける男。
その意味不明すぎる奇行に、僕は生まれて初めて、他者に対して異常なまでの好奇心を抱いてしまった。
そんな中、どこからともなくクラス内に伝波し始めた『ナギ様』という呼び名。
気づけば僕はクラスメイトたちから神聖視され、崇高な存在として扱われるようになっていた。思い当たる原因は、ただ一つしかない。
僕を『ナギ様』と呼び始めた元凶こそ、毎朝異常な熱量で僕を拝み倒し、クラスで独特の浮世離れした存在感を放ち始めた廣崎真白という男に違いないと、僕は直感的に悟った。
どういうわけか分からないが、僕は彼の中で勝手に教祖か神様に祀り上げられている……。
(え……僕、知らない間に宗教の開祖にされてる……!?)
彼は僕に尋常じゃない熱視線を注ぐくせに、自分から話しかけてくることは一度もなかった。ただ遠くから、無垢で真っ直ぐな信仰心めいた圧をぶつけてくるだけ。
あまりに気になって、「なぜ僕をそんな風に拝むのか」と直接問い詰めたい衝動に何度も駆られた。
けれど、相手は何を考えているか分からない奇人だ。万が一にも自意識過剰だと笑われたら、僕は人生最大の羞恥で死んでしまうかもしれない。そう思うと、どうしても声をかける勇気が出なかったのだ。
「人に興味を持つのは無意味だ」
そう自分に言い聞かせ、彼の視線を気にしまいと必死に心を殺そうとした。
けれど、真白の信仰心を野放しにし続けた結果、2年に進級する頃には校内全体に僕の「神格化」が完了してしまっていた。僕が無意識に作っていた壁のせいで、周囲の誤解は尾ひれをつけて広がっていくばかり。
そして運命の2年。あろうことか、僕は真白と「隣の席」になってしまったのだ。
隣になれば、嫌でも彼の存在が視界に入る。
よく観察してみると、彼は僕を拝んでいる時、なぜか心底幸せそうな、奇跡でも目撃したかのような顔をしているのだ。
どうしてただ僕を見つめるだけで、そんな顔ができるのだろう。
間近で見る彼の表情はあまりに純真無垢で、何の私欲も感じられなかった。向けられる真っ直ぐな瞳に、僕は不思議と嫌な気がしなくなっている自分に気づいた。
彼は隣の席になっても相変わらず話しかけてこず、ただ静かに僕の隣で僕を見守っていた。
僕のパーソナルスペースを侵そうとせず、絶妙な距離感を保ってくれるその存在が、冷え切っていた僕の心にぽっと温かい安心感を灯してくれる。
いつしか僕は、読書をするフリをしながら、チラチラと真白の横顔を視線で追うようになっていた。
そんなある日のことだった。
2年から同じクラスになった相沢颯真が、やたらと馴々しく僕に話しかけてくるようになったのは。
その日の朝も、僕が静かに文庫本を開いていると、颯真が距離を詰めて話しかけてきた。読書に集中したかった僕は、どう会話を切り上げようかと冷や汗をかいていた。
するとその時――「消しゴムを落としちゃって」と、絶妙なタイミングで真白が僕と颯真の間に割り込んできたのだ。
それをきっかけに、颯真は苦笑いしながらどこかへ行ってくれた。
最初はただの偶然だと思った。けれどその瞬間、僕は思い出したのだ。
1年の頃から何度もあった。僕が嫌な相手に絡まれそうになったり、困ったりした時、いつも唐突に消しゴムが転がってきたり、小さなアクシデントが起きて相手が離れていっていたことを。
(……あ。あの時も、全部……)
真白は、ずっと僕を助けてくれていたのだ。
僕が気づかなければ、自分の手柄にするわけでもなく、見返りを求めるわけでもなく。ただ影から僕を守り続けてくれていた。
そう確信した瞬間、僕の胸は高鳴り、全身の血が熱く逆流するのを感じた。
抑えきれない愛おしさと衝動のまま、僕は思わず声を出していた。
「あの……っ」
『ずっと守ってくれてありがとう』そう言いたかった。
けれど、振り返った真白の顔は、見たこともないほどパニックになり、怯えたように強張っていた。
僕が保たれていた「聖域(距離感)」を壊してしまったのだと焦った僕は、胸の動揺を隠すあまり、開口一番に最悪の言葉を口にしてしまったのだ。
「……名前は?」
会ったばかりのような、あまりに冷たいその一言に、真白は心底ショックを受けたように目を見開いた。
(違う、そうじゃないんだ真白……!)と叫びたかったけれど、視線を彷徨わせた僕の目に、彼が握りしめている「奇妙な形に削られた消しゴム」が入ってきた。
いつも僕が嫌な相手に絡まれそうになった時、絶妙な軌道で足元に転がってきていた、あの消しゴムだ。
やっぱり、間違いない。彼はずっと僕を守ってくれていた。
ドックン、と胸が激しく鳴り響き、顔が熱くなるのを必死で耐えた。これ以上喋ったら、声の震えで僕のパニックがバレてしまう。
僕は逃げるように文庫本に視線を落とし、文字すら頭に入らないまま、必死に心臓の暴走を抑え込もうとしていた。
僕の知らないところで、僕はずっと、この人に愛され、守られていたのだ。
その事実を悟った瞬間――僕の中で廣崎真白という存在は、ただの「奇妙なクラスメイト」から、僕の孤独な世界を鮮やかに塗り替えていく「かけがえのない人」へと、完全に姿を変えていた。
僕は静かで冷静な口調を装いながら、そう呟いた。
だが胸の奥では、真白が僕を探し出し、こうして僕のもとへたどり着いてくれたことに、泣き出したいほどの安堵と猛烈な歓喜が渦巻いていた。
……本当は、心身ともに限界だったのだ。
僕のあずかり知らぬところで、真白が颯真や遊李と「特別な関係」を深めていたかもしれないという疑惑。それがどれほど僕の心を強く締め付け、苛んでいたか。
体育の授業が終わってからここに辿り着くまでの記憶なんて、ショックのあまりほとんど抜け落ちている。ただ頭の中に残っていたのは、真白を誰にも渡したくないという、自分でも制御できないほど激しく惨めで、狂おしい独占欲だけだった。
僕は一体いつから、こんなにも廣崎真白のことが好きになってしまっていたのだろう。
◇
出会いは入学式……だったと思うが、正直なところ当時の記憶は曖昧だ。
教育熱心な両親のもとで育てられた僕は、幼い頃から毎日日替わりでやってくる家庭教師に囲まれ、興味もない勉強だけを強いられる日々を送っていた。
スポーツは得意だったけれど、「受験に不要」という理由で禁止された。友達と放課後に遊ぶことすら制限される暮らしの中で、僕はいつしか生きていく喜びや熱量を失っていった。
誰かに興味を持つことも、誰かを好きになることも、すべて無駄なことのように思えて。ただ息を殺し、静かに両親の期待に応える人形として生きることこそが自分の人生なのだと諦めていたのだ。
そうして進学校であるこの男子校に入学し、煩わしい人間関係を極力避けながら、文字通り「凪」のように波風立てず静かに過ごしていた、一学期の終わりのことだ。
ふと、教室の後ろの端の席から、やたらと暑苦しい視線を送ってくる男の存在に気づいた。
生まれ持ったこの容姿のせいで、幼少期から男女問わず過剰な視線や好意を向けられることには慣れていた。目立つことが嫌いな僕は、相手に興味がないことを示す冷ややかな空気を作り、上手くかわしながら生きる処世術を身につけていた。
だが――その男は、僕の処世術なんて一切通用しない異次元の存在だった。
視線を送ってくるだけならまだいい。ある日、ふと目をやると、その男は真面目な顔で僕に向かって静かに両手を合わせ、拝んでいたのだ。
(……な、なにをしているんだ、あの人は……!?)
目を合わせてはいけない。関わってはいけない。僕の防衛本能がけたたましく警報を鳴らす。
けれど、なぜ彼は毎朝僕を拝んでいるのか? 友達になりたいならもっと別の方法があるはずだ。煽りでも悪意でもなく、ただひたすらに澄み切った瞳で僕を拝み続ける男。
その意味不明すぎる奇行に、僕は生まれて初めて、他者に対して異常なまでの好奇心を抱いてしまった。
そんな中、どこからともなくクラス内に伝波し始めた『ナギ様』という呼び名。
気づけば僕はクラスメイトたちから神聖視され、崇高な存在として扱われるようになっていた。思い当たる原因は、ただ一つしかない。
僕を『ナギ様』と呼び始めた元凶こそ、毎朝異常な熱量で僕を拝み倒し、クラスで独特の浮世離れした存在感を放ち始めた廣崎真白という男に違いないと、僕は直感的に悟った。
どういうわけか分からないが、僕は彼の中で勝手に教祖か神様に祀り上げられている……。
(え……僕、知らない間に宗教の開祖にされてる……!?)
彼は僕に尋常じゃない熱視線を注ぐくせに、自分から話しかけてくることは一度もなかった。ただ遠くから、無垢で真っ直ぐな信仰心めいた圧をぶつけてくるだけ。
あまりに気になって、「なぜ僕をそんな風に拝むのか」と直接問い詰めたい衝動に何度も駆られた。
けれど、相手は何を考えているか分からない奇人だ。万が一にも自意識過剰だと笑われたら、僕は人生最大の羞恥で死んでしまうかもしれない。そう思うと、どうしても声をかける勇気が出なかったのだ。
「人に興味を持つのは無意味だ」
そう自分に言い聞かせ、彼の視線を気にしまいと必死に心を殺そうとした。
けれど、真白の信仰心を野放しにし続けた結果、2年に進級する頃には校内全体に僕の「神格化」が完了してしまっていた。僕が無意識に作っていた壁のせいで、周囲の誤解は尾ひれをつけて広がっていくばかり。
そして運命の2年。あろうことか、僕は真白と「隣の席」になってしまったのだ。
隣になれば、嫌でも彼の存在が視界に入る。
よく観察してみると、彼は僕を拝んでいる時、なぜか心底幸せそうな、奇跡でも目撃したかのような顔をしているのだ。
どうしてただ僕を見つめるだけで、そんな顔ができるのだろう。
間近で見る彼の表情はあまりに純真無垢で、何の私欲も感じられなかった。向けられる真っ直ぐな瞳に、僕は不思議と嫌な気がしなくなっている自分に気づいた。
彼は隣の席になっても相変わらず話しかけてこず、ただ静かに僕の隣で僕を見守っていた。
僕のパーソナルスペースを侵そうとせず、絶妙な距離感を保ってくれるその存在が、冷え切っていた僕の心にぽっと温かい安心感を灯してくれる。
いつしか僕は、読書をするフリをしながら、チラチラと真白の横顔を視線で追うようになっていた。
そんなある日のことだった。
2年から同じクラスになった相沢颯真が、やたらと馴々しく僕に話しかけてくるようになったのは。
その日の朝も、僕が静かに文庫本を開いていると、颯真が距離を詰めて話しかけてきた。読書に集中したかった僕は、どう会話を切り上げようかと冷や汗をかいていた。
するとその時――「消しゴムを落としちゃって」と、絶妙なタイミングで真白が僕と颯真の間に割り込んできたのだ。
それをきっかけに、颯真は苦笑いしながらどこかへ行ってくれた。
最初はただの偶然だと思った。けれどその瞬間、僕は思い出したのだ。
1年の頃から何度もあった。僕が嫌な相手に絡まれそうになったり、困ったりした時、いつも唐突に消しゴムが転がってきたり、小さなアクシデントが起きて相手が離れていっていたことを。
(……あ。あの時も、全部……)
真白は、ずっと僕を助けてくれていたのだ。
僕が気づかなければ、自分の手柄にするわけでもなく、見返りを求めるわけでもなく。ただ影から僕を守り続けてくれていた。
そう確信した瞬間、僕の胸は高鳴り、全身の血が熱く逆流するのを感じた。
抑えきれない愛おしさと衝動のまま、僕は思わず声を出していた。
「あの……っ」
『ずっと守ってくれてありがとう』そう言いたかった。
けれど、振り返った真白の顔は、見たこともないほどパニックになり、怯えたように強張っていた。
僕が保たれていた「聖域(距離感)」を壊してしまったのだと焦った僕は、胸の動揺を隠すあまり、開口一番に最悪の言葉を口にしてしまったのだ。
「……名前は?」
会ったばかりのような、あまりに冷たいその一言に、真白は心底ショックを受けたように目を見開いた。
(違う、そうじゃないんだ真白……!)と叫びたかったけれど、視線を彷徨わせた僕の目に、彼が握りしめている「奇妙な形に削られた消しゴム」が入ってきた。
いつも僕が嫌な相手に絡まれそうになった時、絶妙な軌道で足元に転がってきていた、あの消しゴムだ。
やっぱり、間違いない。彼はずっと僕を守ってくれていた。
ドックン、と胸が激しく鳴り響き、顔が熱くなるのを必死で耐えた。これ以上喋ったら、声の震えで僕のパニックがバレてしまう。
僕は逃げるように文庫本に視線を落とし、文字すら頭に入らないまま、必死に心臓の暴走を抑え込もうとしていた。
僕の知らないところで、僕はずっと、この人に愛され、守られていたのだ。
その事実を悟った瞬間――僕の中で廣崎真白という存在は、ただの「奇妙なクラスメイト」から、僕の孤独な世界を鮮やかに塗り替えていく「かけがえのない人」へと、完全に姿を変えていた。

