拝むな、恋せよ!

「キモさか、あとはお前に任せた。絶対ミスるんじゃねーぞ」

教室に戻る廊下ですれ違いざま、相沢に低音ボイスで言い捨てられた。
朝から相沢は、ナギ様に俺たちの誤解を解こうとあの手この手でアプローチを試みたようだが、完全なる絶対零度の塩対応を食らったらしい。最終的に俺を脅して丸投げするという強硬手段に出たわけだ。
まったく、根性のない奴だ。スクールカーストの頂点が聞いて呆れる。

……とはいえ、無実を証明するというのは途方もなく難しい。何しろ「何もなかった」という証明(悪魔の証明)に使える客観的な証拠など存在しないのだ。ただ泥臭く説得し、信じていただくほかない。
しかも俺は相沢との関係だけでなく、あのクソバカ遊李との関係にまで不信感を抱かれている。ナギ様にすべてを捧げている信徒としては、本当に心外中の心外、万死に値する濡れ衣だった。

帰りのホームルームが終わり、ナギ様が帰り支度を済ませてお立ち上がりになるタイミングを見計らい、直訴しようと今か今かと待ち構える。
だが――いつもなら風のように即直帰されるはずのナギ様が、一向に帰られる気配を見せない。なぜか鞄から一冊の文庫本を取り出し、静かに読み始めてしまったのだ。よっぽど面白い本なのだろうか……ブックカバーがかけられていて題名はわからない。
俺はナギ様の美しすぎるご様子を伺いつつ、ポケットの中の『角度調整済み消しゴム』のメンテナンスを重ねながら時間を潰した。

やがて教室に茜色の西日が差し込み、下校時刻が刻一刻と近づいてくる。気づけば教室に残っているのは、ナギ様と俺の二人きりになっていた。
こんな時間までナギ様が用もなく残られているなんて、間違いなく初めてのことだ。毎日お隠れしながらナギ様をお見送りさせていただいている身としては、心配で胸が潰れそうになる。
けれど、ナギ様が読書に没頭なさっている聖なるお時間を、俺ごときが話しかけて中断させるなどという無礼が許されるはずもない。むしろ、ナギ様と同じ空気を吸わせていただけるだけでも恐れ多すぎるのだ。

夕日に染まる、ナギ様の完璧な横顔。
なんて神々しく、息をのむほど美しいのだろう……。

思わずうっとりと見入ってしまっていた、その時だった。
ナギ様が静かに文庫本を鞄にしまわれ、スッと立ち上がられたのだ。
不意の出来事に俺は大慌てで消しゴムをポケットに突っ込み、弾かれたように立ち上がった。

「あ、ナギ様! すみません、少しお話が……っ!」

呼び止めると、ナギ様が緩やかに俺の方へと視線を流された。

「その……あ、相沢と遊李の件について、決して変な誤解がないようにもう一度説明をさせていただきたくて……!」
「……ああ、颯真からも散々聞いたけど」

いつもクールなナギ様のお顔が、いつも以上に冷徹に見える。
単なる無表情ではない。何かこう、絶対的な絶対零度の冷気に満ちた、恐ろしいほどの圧が伝わってくるのだ。
俺がプレッシャーに気圧されて言葉を失い立ち尽くしていると、ナギ様がゆっくりと一歩、俺の方へと距離を詰められた。

「何もないなら、証明してよ。今すぐさ」

「……し、証明……!?」

それは朝から散々考え抜いたことだった。けれど、ないものを一体どうやって証明すればいいというのか。
いや待て、俺はナギ様の誇り高き信徒だ。まずは己の忠誠心を証明すればいいのでは!?
それなら懺悔か!? 何もやましい真似はしていないが、ナギ様のご心を痛めさせてしまったこと自体が万死に値する罪というなら、今すぐ命を懸けて懺悔すべきなのでは――!?

「わかりました! 今すぐ頭を丸めて――」
「そうじゃない」

……秒で却下された。思考が昭和すぎたか……っ!

ならばやっぱり、ここは誠意の土下座か!?
テレビドラマで見た極道の土下座シーンを脳裏に浮かべ、俺はゆっくりと床へ向けて膝を折り曲げた。ナギ様が「頭を下げろ」と仰るなら、膝だろうが額だろうが、喜んで床に擦り付ける覚悟だ!

「そうじゃない」

再び冷ややかなストップがかかり、俺は中途半端にしゃがみ込んだ姿勢のまま、目の前に神々しく立たれるナギ様を恐る恐る見上げた。
するとナギ様もふっと膝を折り、しゃがみ込んで俺と視線を合わせてくださったのだ。

俺の存在そのものを射貫くような、真っ直ぐで力強い瞳。そこからナギ様が何をお考えになっているのか、俺の貧相な頭脳では全く読み取ることができない。
ガラス細工のように透き通った美しすぎる瞳に見つめられ、俺は息をのんだままカチンコチンに固まるしかなかった。

夕闇が差し込む静寂の中、ナギ様がゆっくりとお口を開かれた。

「今日、一緒に、帰ってよ」

「……え?」

予想だにしなかったお言葉に脳の処理が追いつかず、ぽかんと口を開けたまま固まってしまう。

「……嫌なら、別にいいけど」
「そ、そそそんなこと絶対にないです!! お供させてください!! 俺でよければどこまででも!!」

立ち上がり、すっと背を向けかけたナギ様に、俺は縋りつくような悲痛な声を上げた。

ナギ様は振り返ると、どこか愛おしそうに目を細められた。

「じゃあ、帰ろうか。廣崎」

「……はいっ!!」

頭が真っ白になりながら返事をすると、一瞬、本当にほんの一瞬だけ、ナギ様の口角が満足そうに、美しく上がった気がした。

あまりの予想外すぎる奇跡の展開に、暴走する心臓が口から飛び出しそうで、上手く息が吸えない……。

夕暮れの廊下を、前を優雅に歩くナギ様の洗練された後ろ姿を必死に追いかけながら――
俺の頭の中では、「ひろあきくん」ではなく久々に俺を正しく呼んでくださった「廣崎」というナギ様の声が、永遠に幸せな無限ループを奏で続けていた。