拝啓、世界の創造主様。本日も隣の席のナギ様が神々しすぎて、俺の網膜が焼き切れそうです。
今朝のナギ様も、太陽光の角度すら味方につけていらっしゃる。
光を透かす繊細な色素の薄い髪、すっと通った高い鼻梁、影を落とす長いまつ毛。どこを切り取っても国宝級の美術品だ。
尊い。まぶしい。合掌。
ナギ様。本名は、渚 紀織。
けれど、この学校で彼を本名で呼べる奴なんてほとんどいない。
荒れ狂う男子校という名の掃き溜め。
彼がそこにいるだけで、周囲の汚いノイズがふっと消える。
まるで、風が止み、波一つなくなった鏡のような凪の海――。
その圧倒的な静謐さに敬意を込め、俺が『ナギ様』と呼び始めてから、いつしかその名は学園の総意となった。
すべてを浄化するような美しい佇まい。
隣の席にいさせていただいていること自体が恐れ多すぎて、背筋を伸ばして座ることさえできない。
俺、廣崎真白が身を低くしながら一限目の準備をしていると、後ろからガサツな足音が聞こえ、俺の神経が一瞬で殺気立った。
「よお、紀織。おまえ、また本読んでるのか?」
厚かましくも、神聖なナギ様の肩に手を添えて気安く話しかけているのは、スクールカースト頂点に君臨する男――相沢颯真だ。
ナギ様の崇高な朝の読書タイムを邪魔する権利を持つ者など、地球上に存在しない。それなのに、この男は天地創造の神にでもなったつもりだろうか。
崩した制服を完璧に着こなし、無駄に高い身長と爽やかなイケメン顔。
金持ち、成績優秀、スポーツ万能、無駄に眩しい顔面。だがそれが何だ。自分だけは特別だと思い込んでいるこの勘違い野郎を、今すぐ宇宙の果てまで蹴り飛ばしたい。
当のナギ様は顔色一つ変えず、そんな一軍オーラ全開の図々しい男に視線を向け、「ああ」とだけ静かに返す。どこまでも慈悲深いお方だ。
高2になり、この相沢がA組に入ってきてからというもの、俺の平和な朝の祈りはぶち壊され続けている。始業式の日からナギ様の聖なるバリアを土足で踏みにじり、あろうことか汚いため口で執拗に接近してくるのだ。新学期早々、俺の殺意はカンストしている。
「何の本読んでんの?」
「太宰治」
「へぇ。好きなのか?」
「先生に読んでおくといいって言われたから」
「……ああ、受験対策か」
会話、終了。ナギ様はそれ以上追う気もなく、淡々と本へ視線を戻した。
カースト頂点への容赦ない塩対応。おそらく素でやっている。これができるのは校内でこの御方くらいだ。
だが、瞬殺されたくせに諦めず居座る相沢。ナギ様の美しい眉が一瞬、ピクッと苛立ちに揺れたのを俺は見逃さなかった。
(……ナギ様をお救いせねば!)
俺はポケットから、対・ナギ様接近者撃退用『角度調整済み消しゴム』を取り出した。
絶妙な転がり具合を実現するため、夜な夜なカッターで削り出し、重心をミクロ単位で微調整した俺の最高傑作だ。日々の鍛錬で培った投球精度は完璧。俺はそれを、寸分の狂いもなく相沢の足元へ転がした。
「あ、ごめん! この辺に消しゴム落ちなかった……?」
強引に相沢の前に割り込み、床を這うフリをして距離を引き離す。
「おかしいな、この辺に……」
「あ? なんだよ。足元にあんだろ」
「あ、本当だ。ごめんね」
わざともたもた席に戻ると、相沢は「ちっ、なんだよ」と苦々しく呟き、すっかり水を注されて自分の席へ戻っていった。
作戦成功。ナギ様の表情に穏やかさが戻る。
ナギ様の平穏をお守りできた時点で、俺の今日という一日は大勝利で完結しているのだ。
ナギ様は、誰にも、何にも興味を示さない。
いつも、ただ、静かにそこにいて、教室の空気を浄化している。
「ナギ様、今日も尊いなあ……」
「隣のクラスの田中、ナギ様の机にあんぱん供えたら女子に告白されたらしいぞ」
「マジか、俺もお供えしてこよう」
どこからか流れる神格化された噂話。
誰もが惹かれながらも近付けない、孤高の神。
高1で同じクラスになってから丸1年、俺は一度もナギ様と言葉を交わしたことがない。恐れ多すぎて無理だし、俺のことなんて背景の風景くらいにしか思っていないはずだ。
だから俺は一生、近くて遠いこの場所から影ながらお支えする――そう心に誓っていた。
――その、瞬間だった。
「あの……」
ふっと、教室の騒音が途切れた。
……いや、違う。
途切れたのは周囲の音ではなく、俺の聴覚だ。
鈴を転がしたような、あまりにも透き通った声。
それがダイレクトに鼓膜を揺らした瞬間、体中の血が一気に逆流する感覚が襲った。
ドクン、と心臓が肋骨を裏側から激しく殴りつける。
一瞬で全身の毛穴が開き、息の吸い方すら分からなくなる。
「……へ?」
間抜けな声を上げてゆっくりと顔を上げると、視線の先には――
朝の光を透過させた、あの吸い込まれるようなナギ様の美しい瞳があった。
射抜かれた。
紛れもなく、まっすぐに。
信じられないことに、ナギ様の視線は俺の顔に固定されていた。
数ミリのズレもない。後ろの壁でも、窓の外の風景でもない。
神の全視界を、モブであるこの俺が独占している。
ドックン、ドックン、と耳奥で自分の脈打つ音がうるさいくらいに響く。
「……えっと、君、名前なんだっけ?」
「……はい?」
まさかの認知ゼロ!!?
丸1年一緒のクラスだったのにこれだ。その瞳には一切の冗談も嫌味も宿っていない。純粋無垢な神の問いかけ……。
いや待て。今、一瞬でも『ナギ様に名前を覚えられているかも』なんておこがましい期待を抱いた自分が恐ろしい。万死に値する。
だが、なぜだ。なぜ今、神はモブたる俺の名をお聞きになられたのか。
「ひ、廣崎……真白……だけど……」
圧倒的な神々しさに気圧され、俺は蚊の鳴くような声でそう絞り出すのがやっとだった。
「……そっか」
ナギ様はそう呟くと、一瞬、俺が手に握りしめていた『角度調整済み消しゴム』へとチラリと視線を滑らせた。
(ひっ……!? バレた!? 細工がバレて神の逆鱗に触れたか……!?)
激しい焦りで心臓が爆発しそうになったが、ナギ様は特にそれ以上追う風もなく、ふんと小さく息を吐くと、何事もなかったかのように再び太宰治へと視線を落とした。
聞いておいて、そのあっさりしたリアクション!?
覚える気ゼロだ! 絶対に俺の名前、いま脳のゴミ箱フォルダに直行した!!
だが、それこそがナギ様。
テストの成績は学年首位を独走する超絶天才なのに、人間に対する脳のメモリ容量が小さすぎるのか、他人の顔も名前もまるで覚えない。
他人に一切の興味を持たない、絶対無比の孤高の神――。
その時の俺はまだ知らなかった。
この『認知ゼロ』の絶望から、俺の高校生活がとんでもない方向へ転がり始めていくことを。
今朝のナギ様も、太陽光の角度すら味方につけていらっしゃる。
光を透かす繊細な色素の薄い髪、すっと通った高い鼻梁、影を落とす長いまつ毛。どこを切り取っても国宝級の美術品だ。
尊い。まぶしい。合掌。
ナギ様。本名は、渚 紀織。
けれど、この学校で彼を本名で呼べる奴なんてほとんどいない。
荒れ狂う男子校という名の掃き溜め。
彼がそこにいるだけで、周囲の汚いノイズがふっと消える。
まるで、風が止み、波一つなくなった鏡のような凪の海――。
その圧倒的な静謐さに敬意を込め、俺が『ナギ様』と呼び始めてから、いつしかその名は学園の総意となった。
すべてを浄化するような美しい佇まい。
隣の席にいさせていただいていること自体が恐れ多すぎて、背筋を伸ばして座ることさえできない。
俺、廣崎真白が身を低くしながら一限目の準備をしていると、後ろからガサツな足音が聞こえ、俺の神経が一瞬で殺気立った。
「よお、紀織。おまえ、また本読んでるのか?」
厚かましくも、神聖なナギ様の肩に手を添えて気安く話しかけているのは、スクールカースト頂点に君臨する男――相沢颯真だ。
ナギ様の崇高な朝の読書タイムを邪魔する権利を持つ者など、地球上に存在しない。それなのに、この男は天地創造の神にでもなったつもりだろうか。
崩した制服を完璧に着こなし、無駄に高い身長と爽やかなイケメン顔。
金持ち、成績優秀、スポーツ万能、無駄に眩しい顔面。だがそれが何だ。自分だけは特別だと思い込んでいるこの勘違い野郎を、今すぐ宇宙の果てまで蹴り飛ばしたい。
当のナギ様は顔色一つ変えず、そんな一軍オーラ全開の図々しい男に視線を向け、「ああ」とだけ静かに返す。どこまでも慈悲深いお方だ。
高2になり、この相沢がA組に入ってきてからというもの、俺の平和な朝の祈りはぶち壊され続けている。始業式の日からナギ様の聖なるバリアを土足で踏みにじり、あろうことか汚いため口で執拗に接近してくるのだ。新学期早々、俺の殺意はカンストしている。
「何の本読んでんの?」
「太宰治」
「へぇ。好きなのか?」
「先生に読んでおくといいって言われたから」
「……ああ、受験対策か」
会話、終了。ナギ様はそれ以上追う気もなく、淡々と本へ視線を戻した。
カースト頂点への容赦ない塩対応。おそらく素でやっている。これができるのは校内でこの御方くらいだ。
だが、瞬殺されたくせに諦めず居座る相沢。ナギ様の美しい眉が一瞬、ピクッと苛立ちに揺れたのを俺は見逃さなかった。
(……ナギ様をお救いせねば!)
俺はポケットから、対・ナギ様接近者撃退用『角度調整済み消しゴム』を取り出した。
絶妙な転がり具合を実現するため、夜な夜なカッターで削り出し、重心をミクロ単位で微調整した俺の最高傑作だ。日々の鍛錬で培った投球精度は完璧。俺はそれを、寸分の狂いもなく相沢の足元へ転がした。
「あ、ごめん! この辺に消しゴム落ちなかった……?」
強引に相沢の前に割り込み、床を這うフリをして距離を引き離す。
「おかしいな、この辺に……」
「あ? なんだよ。足元にあんだろ」
「あ、本当だ。ごめんね」
わざともたもた席に戻ると、相沢は「ちっ、なんだよ」と苦々しく呟き、すっかり水を注されて自分の席へ戻っていった。
作戦成功。ナギ様の表情に穏やかさが戻る。
ナギ様の平穏をお守りできた時点で、俺の今日という一日は大勝利で完結しているのだ。
ナギ様は、誰にも、何にも興味を示さない。
いつも、ただ、静かにそこにいて、教室の空気を浄化している。
「ナギ様、今日も尊いなあ……」
「隣のクラスの田中、ナギ様の机にあんぱん供えたら女子に告白されたらしいぞ」
「マジか、俺もお供えしてこよう」
どこからか流れる神格化された噂話。
誰もが惹かれながらも近付けない、孤高の神。
高1で同じクラスになってから丸1年、俺は一度もナギ様と言葉を交わしたことがない。恐れ多すぎて無理だし、俺のことなんて背景の風景くらいにしか思っていないはずだ。
だから俺は一生、近くて遠いこの場所から影ながらお支えする――そう心に誓っていた。
――その、瞬間だった。
「あの……」
ふっと、教室の騒音が途切れた。
……いや、違う。
途切れたのは周囲の音ではなく、俺の聴覚だ。
鈴を転がしたような、あまりにも透き通った声。
それがダイレクトに鼓膜を揺らした瞬間、体中の血が一気に逆流する感覚が襲った。
ドクン、と心臓が肋骨を裏側から激しく殴りつける。
一瞬で全身の毛穴が開き、息の吸い方すら分からなくなる。
「……へ?」
間抜けな声を上げてゆっくりと顔を上げると、視線の先には――
朝の光を透過させた、あの吸い込まれるようなナギ様の美しい瞳があった。
射抜かれた。
紛れもなく、まっすぐに。
信じられないことに、ナギ様の視線は俺の顔に固定されていた。
数ミリのズレもない。後ろの壁でも、窓の外の風景でもない。
神の全視界を、モブであるこの俺が独占している。
ドックン、ドックン、と耳奥で自分の脈打つ音がうるさいくらいに響く。
「……えっと、君、名前なんだっけ?」
「……はい?」
まさかの認知ゼロ!!?
丸1年一緒のクラスだったのにこれだ。その瞳には一切の冗談も嫌味も宿っていない。純粋無垢な神の問いかけ……。
いや待て。今、一瞬でも『ナギ様に名前を覚えられているかも』なんておこがましい期待を抱いた自分が恐ろしい。万死に値する。
だが、なぜだ。なぜ今、神はモブたる俺の名をお聞きになられたのか。
「ひ、廣崎……真白……だけど……」
圧倒的な神々しさに気圧され、俺は蚊の鳴くような声でそう絞り出すのがやっとだった。
「……そっか」
ナギ様はそう呟くと、一瞬、俺が手に握りしめていた『角度調整済み消しゴム』へとチラリと視線を滑らせた。
(ひっ……!? バレた!? 細工がバレて神の逆鱗に触れたか……!?)
激しい焦りで心臓が爆発しそうになったが、ナギ様は特にそれ以上追う風もなく、ふんと小さく息を吐くと、何事もなかったかのように再び太宰治へと視線を落とした。
聞いておいて、そのあっさりしたリアクション!?
覚える気ゼロだ! 絶対に俺の名前、いま脳のゴミ箱フォルダに直行した!!
だが、それこそがナギ様。
テストの成績は学年首位を独走する超絶天才なのに、人間に対する脳のメモリ容量が小さすぎるのか、他人の顔も名前もまるで覚えない。
他人に一切の興味を持たない、絶対無比の孤高の神――。
その時の俺はまだ知らなかった。
この『認知ゼロ』の絶望から、俺の高校生活がとんでもない方向へ転がり始めていくことを。

